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3.昭和63年

(3)一瞬の再会

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夏雲の下に碧く広がる有明海に沿いながら、1両きりのディーゼルカーはガタゴトと北へ向けて走った。
水田の中にはシラサギだろうか、白い鳥がその姿を見せていた。

線路は単線で、口之津を過ぎて終点の加津佐まで行く南行きの列車と途中の駅で行き違う。
どこの駅だっただろうか、行き違い待ちで長めの停車をした。

目を窓の外にやると対向列車はまだホームに到着しておらず、向かいのホームには列車を待つ乗客が何人か立って待っていた。
その中の一人に、友彦の目が止まった。

若い女性が乳児を負ぶっていた。
ベビー服の柄からすると、女の児なのだろうか。

母親らしきその人は雰囲気も若奥様という感じだったが、紛れもなく「お姉さん」だった。
彼は慌てて席を立ち、開いたままの扉からホームに飛び降りた。

午後の太陽はじりじりとホームを照りつけ、線路に染み込んだ油の匂いが熱気とともに立ち上ってくる。
彼は胸がドキドキし、それまでの思いが急にあふれ、我を忘れてお姉さんを見詰めていた。

友彦の視線にお姉さんは気付いたように、体ごと彼の方を向いた。
初めは不審そうに彼の方を見ていたが、「あっ」という感じに口を開けて目を見開いて、懐かしそうな笑顔を見せてくれた。

やはり、お姉さんだった。

しかしお姉さんはすぐに目を伏せて、彼を向いてくれなくなった。
それは意識して目を合わせないようにしている事は明らかだった。

それからすぐに南行きの列車がやってきて、ブレーキを軋ませながら彼とお姉さんの間をゆっくりと通り過ぎた。
そして悲しげな、そして寂しげな笑顔を彼に向け、軽く手を振って列車の方へ向かった。

「降りるの? どうするの? 発車するよ!」

友彦は車掌の声に促されて列車に乗り、ほぼ同時に北行き、南行きの列車は動き始めた。
後部運転席の窓越しにお姉さんを乗せた列車が南に去るのを見送ってから、彼は席に戻った。

「お姉さん」と一瞬でも再会できた喜びと、すれ違った悲しみと、そして赤ん坊がいるということは夫である人物がいるという事実とが、心の中でまぜこぜになった友彦。
あのお姉さんの熱くて柔らかい体を愛撫している、見知らぬ男性の手がある・・・あのとき彼が顔を埋めた豊かな胸に吸いついて、命を受け取っている赤ん坊がいる。

いつまでも会えないよりももっと辛い事実を付きつけられた彼は、ただぼう然と列車の振動に身を任せた。
車窓に広がる夏の空はどこまでも青くて夏雲が湧いているのに、彼の心の中には効きすぎた冷房のような冷たい風が吹き抜けていた。

あの時お姉さんが彼に手を振って見せたのは、きっと「さよなら」を伝えようとしたのだと後になってから思う友彦だった。
しかし彼は「さよなら」を言えないままで、その事は彼の心の中にいつまでもわだかまることとなった。

その後、彼は大学を卒業して九州を地盤にしている会社に就職。
当時はバブル景気がまさにはじけ散ろうとする時期だったが、まだ新卒学生の売り手市場が続いていた。

景気の波に乗って業績が急上昇を続けるその会社へも、難なく入れたというのが彼の印象。
入社後の数年間は、福岡の空港近くの営業所に勤務。

その頃、福岡市内の学生街の古本屋で古い英語の本を見付けた。
普段はそんな書棚には見向きもしないのだが、運命が引き合わせてくれたのかもしれない。

それはお姉さんが彼に英語を教えるためにテキストに使っていた本、「ジュニア・クラシックス」。
値段は安かったが、まるで稀少本を見つけたように興奮して迷わず購入。
その夜は、かつて「お姉さん」と顔を近づけて英語のレッスンをした日々の事をとめどなく思い出しながら童話や詩を読みふけった。

その頃には友彦も悲しみには心の中で決着をつけていた。
なにより彼が社会人になるのと時期を同じくして先に福岡に就職していたゆうこと正式に付き合いはじめ、関係が深まっていきつつあった。

「お姉さん」のことは、記憶の世界のひとつのエピソードとなりつつあった。
ただ、「さよなら」を言えないままのほろ苦さとが時としてあふれてくるのをどうしようもできなかったが。
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