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岸田真治という狂人のとった極めて不可解な行動
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夜の八時過ぎ、大塚啓一はふたりのボディガードと共に繁華街にいた。
今にもドンパチ始まるかもしれない時期である。当然ながら、街にはキナ臭い匂いが漂っていた。にもかかわらず、大塚は道の真ん中を肩で風切り歩いている。わざとらしく大声で語り、ゲラゲラと笑っていた。
一見、バカの見本のような行動であるが、そこには理由があった。俺は半グレの鉄砲玉など恐れていないぞ、抗争中でも飲み歩くぞ、という姿を縄張りの堅気の者たちに見せているのだ。ヤクザは見栄を張り、男気を売る稼業である。少なくとも、大塚は今もそう思っていた。こんな状況でも、営業している店に顔を出し、派手に散財する。それが大塚の見栄だ。
もっとも、彼とて見栄のために命を危険にさらすほど愚かではない。ここは、自宅から歩いて数分の位置なのだ。さらに、このあたりの店には、士想会の若い構成員や準構成員の者たちが多く目を光らせている。こんな中で鉄砲玉が来ようものなら、一瞬にして取り押さえられる。いや、その場で蜂の巣にされてもおかしくはない。こんな場所で騒ぎを起こすのは、自殺志願者か、よほどのバカ以外にいないだろう。
残念ながら、大塚は何もわかっていなかった。彼を標的にしているのは、よほどのバカという言葉で片付けることの出来ない桁外れの男であった。
「おい! なんだあれ!」
突然、後方から声が聞こえてきた。大塚が振り返ると、通行人が焦った表情で道を空けていた。
その向こうから、車が突っ込んで来た──
「叔父貴! 逃げてください!」
叫ぶと同時に、ボディガードたちが動いた。ひとりが大塚を突き飛ばし、もうひとりが受け止めて脇道へと導く。
一瞬の後、彼らの目の前を車が猛スピードで走っていく。かと思うと、塀にぶつかり停止した。
その瞬間、猛り狂った数人の若者が走ってきた。車を取り囲み、口々に吠える。
「出てこいやチンピラ!」
「てめえゴラァ! いい度胸してんじゃねえか!」
「半グレがなんぼのもんじゃ!」
だが、車は動く気配がない。すると、ひとりがとんでもないことをしでかす。衆人環視の中、拳銃を抜いたのだ。
次の瞬間、車めがけ発砲する──
発砲した男は、さっきまで覚醒剤をやっていた。薬物の影響により、感情のストッパーが壊れている状態だ。そのため、躊躇なく発砲したのだ。
その狂った行動が、他の若者たちの狂気にも火をつけた。拳銃を持つ者は抜き、車に向け発砲する。車は蜂の巣状態だ。中に何者がいようが、確実に死んでいるだろう。集まってきた野次馬たちも、想像以上に危険な状況に怯えて立ち止まる。それでも、何人かはスマホをかざし撮影しようとしていた。
その時、ひとりのヤクザが気配に気づき振り向く。その途端、怒りに満ちた表情で歩き出す。拳銃を持っていなかったため、この「祭」に参加できず苛立っていた彼は、苛立ちをぶつける新たな獲物を見つけたのだ。
「誰に断って撮ってんだよ!!」
殺気立った様子で言うが早いか、有無を言わさずスマホを取り上げた。地面に叩きつけ、鋭い目で睨む。
睨まれた若者は、恐らく堅気の人間だろう。しかし、あまりに理不尽な仕打ちを受け思わず睨み返していた。それを見た周囲の者たちにも、ある感情が伝染していく。
悲しいことに、スマホを叩きつけたヤクザには、目の前の若者しか目に入っていなかった。相手が睨み返してきたことにより、完全にキレてしまった。
「何だ、その目は? ヤクザなめんな!」
吠えると同時に、パンチが飛ぶ。一撃で殴り倒した。すると、野次馬のひとりがつかつかと前に出る。実はこの男、白土連盟の一員である。現場にたまたま出くわしてしまい、素知らぬ顔で様子を見ていた。無論かかわるつもりはなかったか、血が騒いでしまったのだ。
「おい! 今のはやり過ぎだろう!」
言うと同時に掴みかかる。すると。周囲にいた者たちも一斉に動いた。殺気立った表情で、ヤクザに襲いかかっていく。彼らは、完全に暴徒と化していた──
堅気の人間にも、抗争の影響は出ている。ここ数日の間、ヤクザたちは抗争に対する恐怖と緊張感に押し潰されそうな日々を過ごしており、ストレスが溜まっていた。そのストレスは、一般市民への罵詈雑言となる。この周辺は、特にひどかった。
そんな一般市民の、士想会に対し抱いていた鬱憤が、目の前で起きた一連の出来事により爆発してしまったのだ。彼らはヤクザを引き倒し、集団で蹴りまくる──
だが、士想会側も黙っていない。騒ぎを聞き付けた若い構成員たちが、次々と集まり乱闘に参戦する。その上、警官も集まってきた。パトカーのサイレンが鳴り、増援の警官が次々と到着していく。
そんな騒ぎを見ていた大塚は、ようやく理解した。この襲撃、狙いは自分ではない。
今の状況を作り出すこと、狙いはそれだ──
気づいた瞬間、大塚は動いた。自宅に帰り、あちこちに連絡し、余計な物を始末させる。ここで自分が逮捕されたら、確実に終わりだ。
一分も経たぬうちに、繁華街は戦場のごとき有様となっていた。
けたたましいサイレンの音に混じり、ヤクザと暴徒と警官とが怒鳴り合う声が響き渡る。警察もバカではない。抗争の匂いを察知し、すぐに動けるような配置がされていたのだ。近くには護送車が停まっており、盾を持った機動隊が降りて来る。さらに周辺には、スマホを構えた大勢の野次馬が集まっていた。
騒ぎの発端となった車は、今や蜂の巣のようなスクラップ状態であった。もちろん人は乗っていない。無人の状態で突っ込んできたのだ。
しかし、車を蜂の巣状態にしたヤクザたちは、ただでは済まない。なにせ、公衆の面前で拳銃を抜き発砲してしまったのだ。銃刀法違反と暴行傷害罪と公務執行妨害により、この日だけで十人以上が逮捕された。明日には、各事務所にガサ入れが入るだろう。一般市民の方も、大勢が逮捕された。営業を停止する店が続出するだろう。
これは大塚にとって、かなりの痛手だ。
そんな様子を、マンションの屋上から双眼鏡越しに見ている者がいる。高村獅道だ。いつもと違いスーツ姿で笑みを浮かべ、未だ続いているヤクザと暴徒と警官の怒鳴り合いを眺めていた。
「今回は、このくらいにしといてやるよ。お前らには、もう用はないしな」
ボソッと呟いた。その顔には、勝利を確信した表情が浮かんでいる。事実、彼はあと一日か二日で終わるだろうと考えていた。明日、学園に乗り込み唯子を助け出す。これで終わりだ。意外と楽に終わりそうである。
この時、獅道の計算に微かな狂いが生じていた。
彼が動きを封じるべきだったのは、士想会だけではない。もうひとり、警戒すべき者がいた。白土の狂犬なる異名を持つ岸田真治である。
無論、そちらの方も念頭になかったわけではない。一応、情報収集はしていた。ところが、岸田はこのところ姿を消しており、情報が入らない。隠れ家にこもり、わけのわからない作品製作に励んでいるのではないか……という噂も聞く。
真相は不明だが、あの狂犬がこの件に絡んで来ることはなさそうだ。ならば、わざわざ刺激することもない。まずは士想会と白土連盟を争わせ、その隙に竹川唯子を救出する。あとは、さっさと白土市を離れるだけだ。万一、岸田が出て来たとしても、その時には全てが終わっている。それが、獅道の計算であった。
しかし、世の中というのは想定外の事態に満ちている。この時、岸田は誰もが予想もしなかった行動を取った。
・・・
その頃、白志館学園の理事長室は異様な緊張感に包まれていた。とは言っても、大塚の身に降りかかっていた事件が原因ではない。樫本直也にとって、もっとも恐ろしい男と理事長室で向かい合っているからだ。
「岸田さん、今日はいったい何の御用で?」
樫本は、引き攣った笑顔で尋ねる。一方、彼の前にいる岸田真治は冷酷な表情で彼を見下ろしていた。
ややあって、その口から恐れていた言葉が飛び出す。
「竹川希望くんは、さらわれたそうだね」
「えっ!? あっ、いや、その──」
「ごまかさなくていい。もう、わかっているのだよ」
しどろもどろになりながら言い訳しようとした樫だったが、岸田の一声に黙り込む。
だが、岸田の表情は穏やかだった。
「君にひとつ聞きたい。竹川唯子さんは、君がさらったのだろう。今どこにいる?」
その途端、樫本の顔が歪む。
「竹川唯子? 希望の母親のことですか?」
「そうだ。どこにいる?」
「さ、さあ……」
反射的に、ごまかしの言葉が出ていた。ピンチになったら、とりあえずごまかす。そして、口先三寸で相手を丸め込む。これが樫本の戦法だ。
しかし、岸田には通用しなかった。不意に手が伸び、樫本の襟首を掴む。その腕力は、細身の体からは想像もつかないほどの強さだ。
「とぼけないでくれ。君がさらったことはわかっているんだ。正直、今までは存在すら知らなかった。興味もなかったよ。だがね、高村獅道氏が絡んでいるとなれば話は別だ」
「た、高村? 誰ですか?」
「最近、このあたりで派手に暴れてくれているナイスガイさ。その高村氏の目当ては、唯子さんかもしれないという情報を得た」
言うまでもなく、樫本は獅道の存在すら知らなかった。何を言われているのか、さっぱり理解できない。派手に暴れてくれているとは、どういうことだ? ただただ戸惑うばかりであった。しかし、岸田はお構いなしに語り続ける。
「さっきも言った通り、僕は唯子さんには欠片ほどの興味もない。ヤクザと半グレの抗争にも興味はない。やりたければ、好きなだけ殺し合うといいと思っている。でもね、高村氏の目的は唯子さんらしい。僕はね、彼と話がしてみたいのだよ」
「は、話?」
「そうだ。高村氏はね、幼くして地獄を見た。緑に塗り込められた地獄を乗り越えて、日本にやってきた。そんな男が、僕の前で何を語り、どんな闘いぶりを見せるのだろうか。想像しただけで、僕の心臓は興奮のあまり爆発しそうになるのだよ。彼の語る言葉を聞く、それは金には換えられない価値がある」
語る岸田の目には、異様な光が宿っていた。樫本の前では見せたことのない恍惚とした表情である。
樫本は、心底からの恐怖を感じていた。この岸田という男は、樫本には一生かかっても理解できない。思考が、完全に凡人の枠をはみ出している。
しかも、神はこの男に卓越した能力と神居家の後ろ盾を与えてしまった。結果、恐ろしい怪物が誕生してしまったのだ。
自分はこれまで、意識して悪を成してきた。全ては、金と力を得るためである。だが、岸田真治という怪物は、既に金と力を持っている。しかも、善悪という概念など考えたこともないだろう。ただ、気まぐれな欲求があるだけだ。欲求という名の羅針盤が指し示す先に、全速力で進む船なのである。その航路が、善だろうが悪だろうが気にも留めない。
「そんな訳でだ、唯子さんを僕に渡して欲しい。嫌とは言うまいね?」
言いながら、顔を近づけてくる岸田。
樫本の表情が歪んだ。実のところ、今の唯子を岸田に見せたくない。
「いや、あの、それは──」
「今、いやと言ったね? いやと言うのは、否《いな》ということかな? 僕の言うことに逆らう気だと、解釈していいのかな?」
その声は、静かなものだった。しかし、大塚に凄まれた時よりも遥かに恐ろしい。さすがの樫本も、観念せざるを得なかった。
「ち、違います! も、もちろん構いませんが……ただ……」
「なんだい? 何か文句でもあるのかい?」
「いえ、ありません」
「では、案内してくれたまえ。もちろん、礼はするよ」
今にもドンパチ始まるかもしれない時期である。当然ながら、街にはキナ臭い匂いが漂っていた。にもかかわらず、大塚は道の真ん中を肩で風切り歩いている。わざとらしく大声で語り、ゲラゲラと笑っていた。
一見、バカの見本のような行動であるが、そこには理由があった。俺は半グレの鉄砲玉など恐れていないぞ、抗争中でも飲み歩くぞ、という姿を縄張りの堅気の者たちに見せているのだ。ヤクザは見栄を張り、男気を売る稼業である。少なくとも、大塚は今もそう思っていた。こんな状況でも、営業している店に顔を出し、派手に散財する。それが大塚の見栄だ。
もっとも、彼とて見栄のために命を危険にさらすほど愚かではない。ここは、自宅から歩いて数分の位置なのだ。さらに、このあたりの店には、士想会の若い構成員や準構成員の者たちが多く目を光らせている。こんな中で鉄砲玉が来ようものなら、一瞬にして取り押さえられる。いや、その場で蜂の巣にされてもおかしくはない。こんな場所で騒ぎを起こすのは、自殺志願者か、よほどのバカ以外にいないだろう。
残念ながら、大塚は何もわかっていなかった。彼を標的にしているのは、よほどのバカという言葉で片付けることの出来ない桁外れの男であった。
「おい! なんだあれ!」
突然、後方から声が聞こえてきた。大塚が振り返ると、通行人が焦った表情で道を空けていた。
その向こうから、車が突っ込んで来た──
「叔父貴! 逃げてください!」
叫ぶと同時に、ボディガードたちが動いた。ひとりが大塚を突き飛ばし、もうひとりが受け止めて脇道へと導く。
一瞬の後、彼らの目の前を車が猛スピードで走っていく。かと思うと、塀にぶつかり停止した。
その瞬間、猛り狂った数人の若者が走ってきた。車を取り囲み、口々に吠える。
「出てこいやチンピラ!」
「てめえゴラァ! いい度胸してんじゃねえか!」
「半グレがなんぼのもんじゃ!」
だが、車は動く気配がない。すると、ひとりがとんでもないことをしでかす。衆人環視の中、拳銃を抜いたのだ。
次の瞬間、車めがけ発砲する──
発砲した男は、さっきまで覚醒剤をやっていた。薬物の影響により、感情のストッパーが壊れている状態だ。そのため、躊躇なく発砲したのだ。
その狂った行動が、他の若者たちの狂気にも火をつけた。拳銃を持つ者は抜き、車に向け発砲する。車は蜂の巣状態だ。中に何者がいようが、確実に死んでいるだろう。集まってきた野次馬たちも、想像以上に危険な状況に怯えて立ち止まる。それでも、何人かはスマホをかざし撮影しようとしていた。
その時、ひとりのヤクザが気配に気づき振り向く。その途端、怒りに満ちた表情で歩き出す。拳銃を持っていなかったため、この「祭」に参加できず苛立っていた彼は、苛立ちをぶつける新たな獲物を見つけたのだ。
「誰に断って撮ってんだよ!!」
殺気立った様子で言うが早いか、有無を言わさずスマホを取り上げた。地面に叩きつけ、鋭い目で睨む。
睨まれた若者は、恐らく堅気の人間だろう。しかし、あまりに理不尽な仕打ちを受け思わず睨み返していた。それを見た周囲の者たちにも、ある感情が伝染していく。
悲しいことに、スマホを叩きつけたヤクザには、目の前の若者しか目に入っていなかった。相手が睨み返してきたことにより、完全にキレてしまった。
「何だ、その目は? ヤクザなめんな!」
吠えると同時に、パンチが飛ぶ。一撃で殴り倒した。すると、野次馬のひとりがつかつかと前に出る。実はこの男、白土連盟の一員である。現場にたまたま出くわしてしまい、素知らぬ顔で様子を見ていた。無論かかわるつもりはなかったか、血が騒いでしまったのだ。
「おい! 今のはやり過ぎだろう!」
言うと同時に掴みかかる。すると。周囲にいた者たちも一斉に動いた。殺気立った表情で、ヤクザに襲いかかっていく。彼らは、完全に暴徒と化していた──
堅気の人間にも、抗争の影響は出ている。ここ数日の間、ヤクザたちは抗争に対する恐怖と緊張感に押し潰されそうな日々を過ごしており、ストレスが溜まっていた。そのストレスは、一般市民への罵詈雑言となる。この周辺は、特にひどかった。
そんな一般市民の、士想会に対し抱いていた鬱憤が、目の前で起きた一連の出来事により爆発してしまったのだ。彼らはヤクザを引き倒し、集団で蹴りまくる──
だが、士想会側も黙っていない。騒ぎを聞き付けた若い構成員たちが、次々と集まり乱闘に参戦する。その上、警官も集まってきた。パトカーのサイレンが鳴り、増援の警官が次々と到着していく。
そんな騒ぎを見ていた大塚は、ようやく理解した。この襲撃、狙いは自分ではない。
今の状況を作り出すこと、狙いはそれだ──
気づいた瞬間、大塚は動いた。自宅に帰り、あちこちに連絡し、余計な物を始末させる。ここで自分が逮捕されたら、確実に終わりだ。
一分も経たぬうちに、繁華街は戦場のごとき有様となっていた。
けたたましいサイレンの音に混じり、ヤクザと暴徒と警官とが怒鳴り合う声が響き渡る。警察もバカではない。抗争の匂いを察知し、すぐに動けるような配置がされていたのだ。近くには護送車が停まっており、盾を持った機動隊が降りて来る。さらに周辺には、スマホを構えた大勢の野次馬が集まっていた。
騒ぎの発端となった車は、今や蜂の巣のようなスクラップ状態であった。もちろん人は乗っていない。無人の状態で突っ込んできたのだ。
しかし、車を蜂の巣状態にしたヤクザたちは、ただでは済まない。なにせ、公衆の面前で拳銃を抜き発砲してしまったのだ。銃刀法違反と暴行傷害罪と公務執行妨害により、この日だけで十人以上が逮捕された。明日には、各事務所にガサ入れが入るだろう。一般市民の方も、大勢が逮捕された。営業を停止する店が続出するだろう。
これは大塚にとって、かなりの痛手だ。
そんな様子を、マンションの屋上から双眼鏡越しに見ている者がいる。高村獅道だ。いつもと違いスーツ姿で笑みを浮かべ、未だ続いているヤクザと暴徒と警官の怒鳴り合いを眺めていた。
「今回は、このくらいにしといてやるよ。お前らには、もう用はないしな」
ボソッと呟いた。その顔には、勝利を確信した表情が浮かんでいる。事実、彼はあと一日か二日で終わるだろうと考えていた。明日、学園に乗り込み唯子を助け出す。これで終わりだ。意外と楽に終わりそうである。
この時、獅道の計算に微かな狂いが生じていた。
彼が動きを封じるべきだったのは、士想会だけではない。もうひとり、警戒すべき者がいた。白土の狂犬なる異名を持つ岸田真治である。
無論、そちらの方も念頭になかったわけではない。一応、情報収集はしていた。ところが、岸田はこのところ姿を消しており、情報が入らない。隠れ家にこもり、わけのわからない作品製作に励んでいるのではないか……という噂も聞く。
真相は不明だが、あの狂犬がこの件に絡んで来ることはなさそうだ。ならば、わざわざ刺激することもない。まずは士想会と白土連盟を争わせ、その隙に竹川唯子を救出する。あとは、さっさと白土市を離れるだけだ。万一、岸田が出て来たとしても、その時には全てが終わっている。それが、獅道の計算であった。
しかし、世の中というのは想定外の事態に満ちている。この時、岸田は誰もが予想もしなかった行動を取った。
・・・
その頃、白志館学園の理事長室は異様な緊張感に包まれていた。とは言っても、大塚の身に降りかかっていた事件が原因ではない。樫本直也にとって、もっとも恐ろしい男と理事長室で向かい合っているからだ。
「岸田さん、今日はいったい何の御用で?」
樫本は、引き攣った笑顔で尋ねる。一方、彼の前にいる岸田真治は冷酷な表情で彼を見下ろしていた。
ややあって、その口から恐れていた言葉が飛び出す。
「竹川希望くんは、さらわれたそうだね」
「えっ!? あっ、いや、その──」
「ごまかさなくていい。もう、わかっているのだよ」
しどろもどろになりながら言い訳しようとした樫だったが、岸田の一声に黙り込む。
だが、岸田の表情は穏やかだった。
「君にひとつ聞きたい。竹川唯子さんは、君がさらったのだろう。今どこにいる?」
その途端、樫本の顔が歪む。
「竹川唯子? 希望の母親のことですか?」
「そうだ。どこにいる?」
「さ、さあ……」
反射的に、ごまかしの言葉が出ていた。ピンチになったら、とりあえずごまかす。そして、口先三寸で相手を丸め込む。これが樫本の戦法だ。
しかし、岸田には通用しなかった。不意に手が伸び、樫本の襟首を掴む。その腕力は、細身の体からは想像もつかないほどの強さだ。
「とぼけないでくれ。君がさらったことはわかっているんだ。正直、今までは存在すら知らなかった。興味もなかったよ。だがね、高村獅道氏が絡んでいるとなれば話は別だ」
「た、高村? 誰ですか?」
「最近、このあたりで派手に暴れてくれているナイスガイさ。その高村氏の目当ては、唯子さんかもしれないという情報を得た」
言うまでもなく、樫本は獅道の存在すら知らなかった。何を言われているのか、さっぱり理解できない。派手に暴れてくれているとは、どういうことだ? ただただ戸惑うばかりであった。しかし、岸田はお構いなしに語り続ける。
「さっきも言った通り、僕は唯子さんには欠片ほどの興味もない。ヤクザと半グレの抗争にも興味はない。やりたければ、好きなだけ殺し合うといいと思っている。でもね、高村氏の目的は唯子さんらしい。僕はね、彼と話がしてみたいのだよ」
「は、話?」
「そうだ。高村氏はね、幼くして地獄を見た。緑に塗り込められた地獄を乗り越えて、日本にやってきた。そんな男が、僕の前で何を語り、どんな闘いぶりを見せるのだろうか。想像しただけで、僕の心臓は興奮のあまり爆発しそうになるのだよ。彼の語る言葉を聞く、それは金には換えられない価値がある」
語る岸田の目には、異様な光が宿っていた。樫本の前では見せたことのない恍惚とした表情である。
樫本は、心底からの恐怖を感じていた。この岸田という男は、樫本には一生かかっても理解できない。思考が、完全に凡人の枠をはみ出している。
しかも、神はこの男に卓越した能力と神居家の後ろ盾を与えてしまった。結果、恐ろしい怪物が誕生してしまったのだ。
自分はこれまで、意識して悪を成してきた。全ては、金と力を得るためである。だが、岸田真治という怪物は、既に金と力を持っている。しかも、善悪という概念など考えたこともないだろう。ただ、気まぐれな欲求があるだけだ。欲求という名の羅針盤が指し示す先に、全速力で進む船なのである。その航路が、善だろうが悪だろうが気にも留めない。
「そんな訳でだ、唯子さんを僕に渡して欲しい。嫌とは言うまいね?」
言いながら、顔を近づけてくる岸田。
樫本の表情が歪んだ。実のところ、今の唯子を岸田に見せたくない。
「いや、あの、それは──」
「今、いやと言ったね? いやと言うのは、否《いな》ということかな? 僕の言うことに逆らう気だと、解釈していいのかな?」
その声は、静かなものだった。しかし、大塚に凄まれた時よりも遥かに恐ろしい。さすがの樫本も、観念せざるを得なかった。
「ち、違います! も、もちろん構いませんが……ただ……」
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