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最終章
第2話〜ノスタルジア〜
しおりを挟む「「「キャーッ!!」」」
「――っ!」
使用人達の悲鳴が部屋中に響き渡るとともに、冷たい床へと倒れこんだ。口内に広がる鉄の味が、口の端を伝っているのは血液なのだということを俺に知らしめる。親指の先でその液体を拭いやはり血が出ているのだと再認識すると、今度は手の甲を使ってグイッと拭った。
「……。――?」
うつむき加減になっていると床に黒い影が近づいてくるのがわかる。顎を上げて見れば俺に血を流させた張本人が、握りこぶしをプルプルと震わせながら顔を歪ませ俺を見下ろしていた。
「な、……んで……。――っ! なんで!!」
溢れんばかりに目に涙をためているジャックは、何故こんなことをしでかしたのか理由を言えと問い詰めた。ジャックの肩越しには口元に手を当て、困惑した表情で俺たちの様子を伺っているヴァネッサが見える。普段は虫をも殺さぬような温厚なジャックが自分の所為で豹変したことに恐怖を感じているのか、暴徒と化したジャックを止めようとする素振りは全く見せなかった。
「――」
ヴァネッサが何も言わないのなら俺も何も言えない。彼女の方から誘いをかけて来たと言ったところで妻を溺愛しているジャックが俺の話を信じるわけがない。見苦しい言い訳だと思われるのがオチだと察した俺は、ならば、とだんまりを決め込んだ。
「っ!」
問いかけに応じようとしないのが気に入らないのか、床に座り込んだままの俺を跨ぐと胸ぐらをつかんだ。何度も何度も前後に揺らしながら、「なんでこんなことしたんだ! ブランドンのこと、……兄さんのこと信じてたのに!」と悲壮な目で責めたてられ、顔に感じる痛みとはまた別の痛みが心臓を貫いた。
いくら向こうから誘ってきたとは言え、その誘いに乗ってしまったのは紛れもない事実。俺と視線を合わせ悲しみに暮れるジャックの目を、俺は直視することが出来なかった。
◇◆◇
弟の妻と寝たことは瞬く間に父親の耳に入ることとなった。父親としては田舎の出のヴァネッサを排除出来た事に関しては大喜びであったが、どこで漏れたのかカレンの父親の耳にも入ってしまったのがまずかった。『実の弟の妻を寝取る様な男に大事な娘はやれん』と、俺の父親によって修復していた婚約話も、今回の事がきっかけとなり本格的にご破算となった。
一度ならず二度までも婚約解消の原因を作った俺に対し、酷く腹を立てた父親は『もうお前など当てにならん! 顔も見たくない!』と蔑んだ。その言葉の通り、ジャックと入れ替わるように俺はアメリカ本社に異動となり、代わりにジャックが日本にやって来ることとなった。
まるで俺への当てつけかの如くジャックは日本でどんどん業績を上げ、それに伴い職位も上昇を続ける。その一方で俺はと言うと、社長である父親の目の前で仕事の成果をアピール出来ないのが要因かどうかはわからないが、日本で働くジャックと同等な成績を残していても何一つ俺の状況が変わることなどなかった。
幼い頃から経営者になるため、父親に認められる人間になるために殆どの人生を費やし、あまつさえ生まれて初めて心の底から傍に居て欲しいと願った相手も、やむを得ず手放したというのに。
たった一度の過ちにより俺の人生は転落の一途を辿り始め、それら全てが無のものとなってしまった。
◇◆◇
~二十数年後~
その後、しばらくしてジャックは二度目の結婚をした。三人の子供を授かったもののまた俺が原因となり、二人目の妻とも別れを告げることとなった。この会社の後継者の座などとっくの昔に諦めてはいたが、後継ぎがいるジャックといつまでも特定の相手を作らずふらふらとしている俺とでは、競り合う対象にすらならない。父親からの信頼を得たジャックはアメリカに戻った父親のもとで働くこととなり、ジャックの代わりに俺が日本の会社で社長を務めることになった。
再びこの地に足を踏み入れることになるとは思ってもみなかった。二十年前に見た街並みはすっかり様変わりしており、余りの人の多さにまるで全く別の場所に来たのかと錯覚した。
それでも、少なからず変わらないものもあった。駅まで続く並木道、俺が以前住んでいたマンション。芳野が働いていたコンビニも未だ存在している。それらを目にする度、引き出しの一番奥にしまい込んでいた過去がみるみる蘇って来て、必死でそこに蓋をしようとすればするほどその圧力が勢いを増す様だった。
今は、二十年前に父親が建てた日本の家に居を置いている。あれほど広すぎて居心地が悪いと思っていたこの家でも、人の気配があるというだけで安心した。
◇◆◇
今日は、ジャックと恋人である叶子との結婚式がこの家の庭で執り行われる。それに参加するため鏡の前に立ち、カフスリンクスを留めていると部屋をノックする音が響いた。
「どうぞ」
扉の向こう側に立っているであろう人物に聞こえる様に少し大きめの声でそう言うと、面識のない男が扉の向こうから現れた。
「お久しぶりです、聖夜さん」
「……誰?」
俺より少し若く、細身で背の高い中性的な雰囲気のある男だった。ここに居るということは、少なからずジャックとも知り合いであるということだろう。相手の男をじっと見つめながら頭の中のすべての記憶をひっくり返した。
「……。――あ! お前、まさか!?」
「やっと思い出してもらえました?」
何もかもお見通しだと言わんばかりの特徴的なその微笑み方で、咄嗟に梨乃が思い浮かんできた。しかし、俺の知っている梨乃は元々は男ではあったが、外見はどうみても女のなりをしていた。一体どうしたのかと問えば、梨乃は妖艶な目つきで笑って見せた。
「手術を受けようかどうしようか迷っていた時期に、どんな外見であっても私の事を想う気持ちは変わらないって彼が言ってくれて。だから自然の摂理に任せることにしたんです」
「そうか――。幸せそうだな、梨乃」
「はい。あと、もう梨乃じゃないんですよ。今は宮川 紀男と本名で名乗っています」
そう言いながら左手を顔の横に並べ、右手で左手にはまっている指輪を指し示しながら照れくさそうに微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ行きますね」
「ああ、また後で」
その後も、梨乃……もとい、紀男と他愛もない話をして過ごした。紀男が部屋から出ていくとき、扉の外に誰かいたのかペコリと頭を下げている。そこにいる誰かを部屋に入れるために扉を手で押さえた紀男は、俺に向かってニッコリとほほ笑むとすぐにその姿を消した。
紀男の代わりに登場した、いつもより派手目な化粧をしたその人物は今日この日の主役であり、そしてその主役がここに居るということが俺に違和感を覚えさせた。
「カナコ、お前まだそんな恰好なのか」
「ちょっと緊張しちゃってトイレに……」
重厚な扉を開けてするりと部屋の中に足を踏み入れたその人物は、ジャックの三人目の妻になる叶子だった。結婚式用の派手な化粧とは相反し、着ている衣服はジャージという何ともアンバランスな出で立ちで現れた。
「ったく、こんな時に一体何の用だ。まさか……ジャックとの結婚に恐れをなしたとか言うんじゃないだろうな?」
「そ、そんなんじゃ! ……ちょっとありますけど」
上着の裾を指で引っ張ったりともぞもぞしている叶子を見て、一抹の不安が頭を過った。
何年か前に恋人であるジャックとカレンの婚約報道が流れ、憔悴しきっていた叶子を見た俺は放っておくことが出来なかった。周りの話には耳を貸さず、ずっとジャックの言葉を信じてじっと耐えて待っていた叶子の様子が芳野と重なり、あいつもあの時こんな風に落ちていたのかと思うとぎゅっと胸が締め付けられた。
そんな叶子に芳野を重ね合わせ、危うく叶子と一線を越えそうになった事があった。
ジャックの過去の恋人や妻達は、双子である俺にジャックの代わりになることを求めて来る。もしかすると、結婚することに怖気づいてしまった叶子もそうなのかと、思わずゴクリと息を呑んだ。
「あの、式の前にどうしても言っておきたいことがあって」
――おいおい嘘だろ? 変なこと言わないでくれよ? 俺はお前を今までの女共とは違うと思っているんだ。幻滅させないでくれ。
「な、んだ?」
「その……こうしてジャックと一緒に居られるのもブランドンさんのお陰だと思ってます。本当にありがとうございます」
そう言うと、叶子は深々と頭を下げた。
「……なんだ、そんな事か」
「え?」
「あ、いや、何でもない」
抱いていた悪い予感は的中せず、ばれないようにほっと胸を撫で下ろした。
「実は、ジャックとはもうダメなのかなって思った時期もあったんです。そんな時、ブランドンさんに何度も励ましてもらって」
「俺は別にお前を励ましたつもりはない」
そう言うと、叶子の眉がぎゅっと中央に寄り、口先をツンと尖らせた。
「もう! ブランドンさんってほんっとーに可愛くないですね! こういう時は素直に受け止めればいいんですよ!」
「良くわからんな。――もういいからさっさと行け。それともなにか? 俺の生着替えを見たいのか?」
「!?」
とっくに俺の着替えは済んでいるというのに、ベルトに両手をかけてカチャカチャと音を立てると、叶子は慌てて部屋を飛び出していった。
「くっくっくっ……。――」
ヴァネッサとの事があってからというもの、必然的にジャックとは疎遠となっていた。そうなった原因も叶子は既に知っている。軽蔑されて当然の事をしたというのに、よもや感謝される日が来るなどとは思いもよらず肩を竦めた。
しばらくして又扉が鳴った。次に訪れた相手は俺の返事を待たずしてその扉を思いっきり開け放つと、慌てふためいた様子で声を張り上げた。
「た、大変だよっ!!」
「……なんだ、ジャック。ったく、お前ら夫婦は二人そろって騒々しいな」
ジャックは一瞬、ポカンと口を開けると何の事かわからないといった表情をしたが、すぐに真顔に戻った。
「じ、実は歩が!!」
「……っ」
その名前を耳にした途端、顔が強張り身体が硬直した。――俺の中の何かが、ざわざわと動き始めた。
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