B級彼女とS級彼氏

まる。

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最終章

第1話〜積み木〜

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「……」

 チラチラと白い粉のようなものが舞い散り、掌を広げてそれを受け止めるとそれはすぐに姿を消した。その正体が雪だということに気付くと同時に、自然とあいつの記憶が蘇る。あいつは今、一体どこで何をしているのだろうか。頭上から降ってくる雪を目で追いながら、どんよりとしたこの空に続く同じ空の下にいるあいつの事を思い出していた。
 芳野と会わなくなってから、数か月が過ぎようとしていた。季節はめぐり、今では冬を迎えている。あいつとの記憶は蒸し暑い夏の思い出しかなく、今、ここに芳野がいればどんな風に過ごすことが出来たのだろうかと、出来もしないことを思い浮かべ口元を緩めた。
 新しい季節、初めて目にするもの、あいつと一緒に自転車を押しながら歩いた大通り。何でもない日常でそれらを感じたり、触れるたびに芳野の事を思い出す。いつになれば忘れられるのかと辛くなる日もあれば、いつまでも忘れたくないと思える日もある。
 一体どうしてしまったのかと自問自答する日々を過ごす事に、いつの間にか慣れてしまっている自分がいた。



「ブランドン、そろそろ招待客リストをまとめておけよ」

 大事な話があるからすぐに来いと父親に呼び出され、来てみれば案の定、凝りもせずにまたそんな話を持ち出してきた。

「だからその話は――」
「杉内さんにもちゃんと出すんだぞ。やっと最近会ってくれるようにまでなったんだ。ここで一気に相手の懐に潜り込まないとな」

 父親は色よい返事しか聞く気がないのか、俺が話し出すとすぐに言葉が被せられた。

「……杉内さんなら、大丈夫ですよ。今日、先方から具体的に話を進めたいと連絡が入りました」
「そうか! よくやったぞ、ブランドン。それでこそ、トレス家の後継者だ」

 本人は全く自覚がないのだろうが、この人の耳にはきっと自分にとって都合のいい話しか聞き取れないフィルターらしきものが標準装備されているのだと思う。こんなやり取りを交わす度、父親に対する不信感は募るばかりで、今にも破裂しそうなほどにまでパンパンに膨れ上がっていた。

『どんなに憎んでても、親子だもの。生きてさえいれば、いつかは分かり合える日が来るよ』

 こんな時、決まって芳野が言った台詞を思いだす。すぐにでも縁を切ってしまいたいという気持ちを抱いてはいるものの、この人は紛れもなく自分と血の繋がった実の父親だというその事実が、暴走しそうになる俺をいつも思い留まらせた。

 ――なぁ、芳野。そんな日が本当に来るのか?

 問いかけても返事など返ってくるはずもなく、そのことが今ここに芳野が存在しないのだということを強調していた。

「じゃあ、俺はこれで」
「なんだ、ブランドン。このまま泊まっていかないのか。ここはお前の家でもあるんだぞ? しばらくはジャックもこっちに居ることだし。……まぁ今回は“あの女”ものこのこジャックにくっついて来てお前もここに居辛い気持ちもわかるがな。しかし何度も言っているが、あんな狭い家は早々に引き払って一緒にここに住めばいいじゃないか」
「父さん、ヴァネッサはジャックのれっきとした妻であって、今となっては彼女もトレス家の人間。それを、“あの女”呼ばわりは……」
「俺は“アレ”をトレス家の人間だと一度も思ったことなどない。ジャックがいい様に丸め込まれただけだ!」

 先ほどまで気をよくしていたのにヴァネッサを毛嫌いしている父親は彼女の事を思い出すだけで怒りが沸いてくるのか、一気に顔が赤く染まっていた。
 この人の差別主義は未だ変わることはなかった。そんな様子を目にする度、この先あと何年、何十年とこの人と付き合っていかなければならないのか、と、小さく溜息を吐いて肩を落とした。

「この家は広すぎて……寒い」

 そう言って踵を返すと、背中越しで喚く父親の声を遮断するように書斎の扉を後ろ手で閉めた。

 様々な形をした積み木を、俺は一つ一つ慎重に積み上げてきた。父親に言われるがまま、経営者になるために積み上げてきたこの積み木を一気にブチ壊せればどれほど気が楽になるだろうか。

「――」

 出来もしない事を考えるたび、どっと気が重くなる。
 ――それが出来ないのなら、せめてこの空間からさっさと抜け出したい。
 その思いが自然と俺の足を速めさせた。

「……?」

 出口へと続く長い廊下を行くと、ふと、扉の陰からこちらの様子を伺っている人影が見える。近づいてみて初めて、その人影はジャックの妻ヴァネッサであることがわかった。
 声を掛けてくるわけでもなくそれでいて目を逸らすこともせず、黙ったままでじっと俺を目で追っている。俺に用があるのであれば、向こうから声を掛けて来るだろう。そう思った俺は彼女と視線を切り、そのままヴァネッサの横を通り過ぎた。
 それでもまだ背中越しに彼女の視線を感じる。父親の事で何か言いたい事でもあるのかと気にかかり、足を止めて背を向けたまま尋ねた。

「……俺に何か用?」

 そう問いかけると、ヴァネッサは辺りをキョロキョロと気にしながらヒールの音が廊下に響かないようにそっと近づいて来た。

「実は……、あなたに折り入って相談したいことがあるの」

 そう言って、囁くように話すヴァネッサに俺は向き直った。


 ◇◆◇

「ジャックじゃダメなのか? ――、……っ」

 ここでは誰かに聞かれては困るからと、ヴァネッサは自分の部屋へと俺を招き入れた。導かれるようにして部屋に入ると俺は扉を閉め、振り返ろうとしたところを押し留めるように背中全体にヴァネッサの体温を感じた。

「……何のつもりだ」
「ジャックじゃダメなの」

 一歩前へ出ることでヴァネッサとの距離を開け、彼女と向かい合った。バツが悪そうな表情を浮かべ、斜め下に視線を置いているヴァネッサは、組んだ手を忙しなく動かしながらこの場を取り繕うための言い訳を探している。まさにそんな様子だった。

「用がないなら帰――」
「ま、待って!」

 再びドアノブに手を伸ばせば、ヴァネッサに慌てて止められてしまう。一体どうしたいのかと大きく肩で息を吐き、再度振り返った。

「いい加減……に、――っ」

 恥ずかしそうな面持ちとは裏腹に、ヴァネッサの白い指先は自身のブラウスのボタンをプツリプツリと外していく。声にならずその様子を黙って見ていると、最後のボタンもあっけなく外され、脱いだブラウスは彼女の細い足首の周りに小さな波を作った。
 ヴァネッサは自身で作り上げたその波を跨いで、躊躇いもせず距離を狭めて来る。エキゾチックな香りがクンと鼻についたのと同時に、頬を紅潮させた彼女の顔が目前にまで迫っていた。

「何を……?」
「ジャックと一緒に日本に来てみたけど、彼ったらずっと仕事仕事で私の事なんて全然構ってくれないの。セックスだって週に一回あればいいとこよ? まだ新婚なのに……。ねぇ、酷いと思わない? 私の身体ってそんなに魅力ないのかしら?」
「んなの、俺の知ったこっちゃ……。そもそも、あいつの仕事好きは今に始まったことじゃないだろ?」

 いくら兄弟だからとはいえ、答えられる内容もあればそうでないものもある。実の弟とのセックス事情について相談されても答えられるわけもなく、適当に返事を濁した。

「わかったらもう――」
「寂しいのよ、私。本当にジャックに愛されているのかすらもわからなくて、不安で不安でならないの」
「ヴァネッサ……」

 ポツリポツリとその頬に幾粒もの涙が零れ落ちる。“自分は本当に相手に愛されているのか不安でたまらない”と思う気持ちが過去の自分とダブり、急に息苦しくなった。
 今のヴァネッサもあの頃の俺と同じ気持ちを抱いている。そう考えると、少しでも気持ちを軽くしてやれればという思いで、そっと彼女の両肩に手を置き顔を覗き込んだ。
 濡れた睫毛がピクリと揺れる。大きな瞳に俺の顔が映っているのがわかると彼女を諭すように言った。

「大丈夫。お前は十分過ぎるほど魅力的だ」
「……」

 曇った顔にほんの少しではあるが笑みが戻ってきた。落ち着きを取り戻した彼女の様子に小さく息を吐き、親指で頬を伝う涙を拭っていると次の瞬間、ヴァネッサは驚くような台詞を吐いた。

「お願い、……抱いて欲しいの」
「……は?」
「私は魅力的なんでしょ!? じゃあ抱くこともできるわよね!?」

 呆気に取られている俺にものおじすることなく、俺の両腕を掴みながら一気に畳み掛けてきた。

「ちょ、……っと待て。――お前、俺の話をちゃんと理解していないのか?」
「わかってる! あなたが私を慰めてくれようとしてそんな風に言ってくれたのはわかってる。……でも、ダメなの。女でいられない事が寂しくて堪らないのよ。だから、……ねぇ、お願い」
「……」

 さかりのついた雌猫の様に猫撫で声を上げ、豊満な肉体を惜しげもなく押し付けてくる。トロンとした瞼の奥にあるその瞳には、情欲に満ちたものが既に宿っていた。

 ――なんだ、こいつ。ただヤりたいだけだったのか。

 俺に抱いて欲しいのだと懇願するヴァネッサを見て、つくづくジャックが不憫に思えてしかたなかった。そして、彼女の事を悪く言う父親に対し、肩を持った自分が結局馬鹿を見ていたのだと我ながらあきれた。

 所詮、男と女なんてこんなもの。精神的な繋がりが大事だとか、相手の事を思いやる気持ちだとか。そんなの表面的な体のいい常套句に過ぎない。雄が雌に惹かれる様に雌も雄を求め、そして求める相手が傍にいないとわかれば別の雄をあてがえばいいだけの話。
 この世の中、綺麗事だけでは生きていけないのだという現実を叩き突きつけれられた様で、何故だか俺は無性に腹が立った。

 もう何も、誰も信じられない。――全部、ぐちゃぐちゃにしてしまいたい。

「……。――っ!」
「……あっ……」

 ヴァネッサの腕を取るとグッと引き寄せ、くるりと互いの立ち位置を入れ替える。彼女を扉に張り付けながら頭の上に前腕を置き、互いの鼻が触れ合いそうになるほどの距離まで顔を寄せた。
 彼女の甘い吐息が口元にかかる。きっと、何も言わなくてもこんな状況になれば、この雌は何の躊躇いもなく俺に口づけを強請ねだるであろう。そうなることはこの時既にわかっていた。

「……お前には俺が誰に見えるんだ?」
「え?」

 だが、それでも俺は問う。相手に『あれは過ちだったのだ』と言い訳をさせないように。

「いいか、俺はジャックじゃない。あいつの代わりになんかなるつもりはない。……そんなに俺が欲しいのなら、ちゃんと俺の名前を呼べ。……そして、自分から欲しがるんだな」

 その言葉の裏には、“この行為は俺の意思によるものではない、お前が決めた事なんだ”といった類の自己弁護の意味が込められていた。





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