最高の和食

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第四章 魚心あれば水心

第二話~近寄らないで~

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 翔太郎と柚希は恋人同士でもなければ互いの愛を確かめ合った深い仲でもない。欧米人じゃあるまいし、人様の前でキスをするなんて焼きもちを焼いた以外で何の理由があるのだろう。翔太郎の様子からして照れ隠しで否定したわけでもなさそうだ。

(もしかして、……無自覚??)

 だとしたら、これはかなり厄介だ。料理人、しかも和食とくれば扱い難い性格の人が多い。店主の篠田は温和な性格で親しみやすいタイプだが、翔太郎は今どきでは珍しく、まるで昭和初期の日本男子の様に頑固一徹で気難しい。それだけでもかなり手を焼いていたのが、追い打ちをかける様に無自覚とくればもうお手上げ。
 翔太郎の口から「好き」と言う言葉など一生聞くことが出来ないんじゃないかと、柚希は落胆した。

「――そんな事より、用があって来たんだろ?」

 柚希にとっては大事な局面なのだが、翔太郎からしてみれば所詮「そんな事」程度である。好きだと認める事は最後までしなかったものの、以前よりかは気持ちが随分傾いてきているのを実感した柚希は、余り焦らず徐々に進めようと一旦この話を終わらせる事にした。
 兎にも角にも、今日は大事な話をしに来たのであって、人を好きになるとはなんたるかを偉そうに語る為に来たのではないのだから。

「どうしてもお話しておきたい事があって。何度も携帯にかけてみたんですが」
「ああ」

 何かを思い出したかのような表情になり、翔太郎は立ち上がりカウンターの中へと入る。大きな身体を折り曲げカウンターの下をのぞき込むと、手を伸ばして掴んだ物を柚希に見せた。

「これ、昨日ここに忘れてったみたいで」

 翔太郎の手にしたそれは、チカチカと小さなランプが点っている彼のスマートフォンだった。

「あ、だから」

 繋がらなかったのかと、理由を知って少しほっとした。もしかしたら篠田に何かあったのかと思った柚希は、いつにも増して仕事が手につかず、ずっと気がかりであった。

「一、二、三……六件も着信残ってるけど」
「すみません、しつこく鳴らしちゃって」

 ついでだとばかりに、翔太郎は冷蔵庫からまたビールを二本持って戻って来た。
 昨日の夜に引き続いて二人でビールを酌み交わしながら、せっかく協力してもらった特集が潰れてしまったという事を説明した。「ああ、そう」と全く興味が無いと言った様子の翔太郎の横で、柚希は何度も頭を下げていた。




 次から次へと注がれる黄金色の液体が、空腹と寝不足で疲れ切った身体に程よく染み渡る。

「あっ、私そろそろ会社に戻らないと。って、ああああ、ついビール飲んじゃった……」

 やっとビール瓶が空になったのを見計い柚希は席を立ったが、まだ会社に戻ってやる仕事があるというのに飲んでしまったのを少し後悔した。
 このままでは今日も帰る事が出来ないかもしれない。これでも柚希は女性のはしくれ、流石に二日連続で家に帰らないというのは極力避けたいところだ。

(さっさと仕事終わらせて、終電までには帰んなきゃ!)

 そう思ったが早いか、柚希はバッグの中を探ると財布の中から千円札を二枚取り出し、カウンターでまだビールを煽っている翔太郎へと差し出すが、案の定「いらない」と言われてしまい今回もまた受け取って貰えなかった。

「でも、昨日もご馳走になって。今日はお手伝いも何もしていませんし」
「いらねって。それより、……あんた昨日家に帰ってねーの?」
「あっ、はい。中々仕事が終わらなくって」

 年頃の女が家に帰らず徹夜で仕事をしていただなんて、翔太郎はどう思うのだろう。俺様気質な彼の事だ、きっと、女は家の事をキチンとやり、亭主が帰ってきたら三つ指そろえてお出迎え。常に三歩後ろを歩き口答えなど問答無用。とか、そんな理想を持っているんじゃないかと勝手に想像した。

「でも、何でわかったんですか? ……って、流石に昨日と同じ服じゃわかっちゃいますよね」
「いや、それは気付かなかったけど」
「へ?」

 じゃあ翔太郎は何故柚希が家に帰っていないと気付いたのだろう。そんな話はしていないはずだと考えを巡らせていると、翔太郎はどこか言い難そうに言った。

「まぁ、あれだ。……俺は鼻が利くから」
「えっ!?」

 慌てた柚希は自身の袖や捲りあげたジャケットに顔を近づけ、くんくんと鼻を鳴らす。自分では良くわからなかったが今朝白泉にも指摘されたように、やはり強烈なにおいを放っていたのだろう。白泉以外に誰にも言われなかったから、彼女が敏感なだけかと思っていたのだが……。

「……っ」

 やはり臭っていたのだと思うと、恥ずかしさでそのまま顔を上げられなくなってしまった。
 今日は何としてでも家に帰ってお風呂に入ろう。でないと、この恋が終わるだけでなく人間としても破綻するような気がする。だが、それは単なる願望であり、まだ残っている仕事の量を考えると家に帰れる保証など何一つなかった。

「すっ、すみません。今からネカフェにでも行ってシャワーでも浴びて来ます」

 そうすればアルコールも少し抜けるだろうし、女としてせめてこの臭いだけでも取り除かなければ。
 受け取って貰えなかったお金は、きっとこれで風呂に入って来いと遠回しに言っているのではないかと勘ぐり始める。ぎゅっとお札を握りしめ、深く頭を下げると、とぼとぼと出口へと向かった。

「……っと」

 疲れている所にアルコールを摂取したせいか、足元がおぼついている。ふらふらとした足取りで志の田の扉に手を掛けると、大理石の床を椅子の足が引きずる音が聞こえた。

「おい」
「……はい?」

 振り返るとパーカーのポケットに両手を突っ込んだ翔太郎が、面倒臭そうな顔つきで立ち上がっていた。

「そんな状態でわけわからんとこ行くなよ」
「え? でも」

 その原因となるアルコールを出したのも、柚希が異臭を放っているのを指摘したのも翔太郎なのだが。
 その言葉の意図するところがどうにもわからず、柚希は首を傾げた。

「まだ事務所に誰か残ってると思うので、これ以上迷惑掛けるのも……?」

 キュッキュッとスニーカーが床を踏みしめる音が近づく。柚希の前まで来た翔太郎は、扉の前で立っている柚希を覆う様にして身体を傾けた。

「だーかーら」
「……っ」

 再び二人の距離が縮まり、今度は流石の柚希も身構えた。
 アルコールの混じった翔太郎の吐息を感じる。という事は、自身から放たれている異臭も気付かれてしまうだろう。そう思うと、慌てて両手で口許を覆った。

「あのっ、わ、私……に、臭うと思うのであまり近づかない方が」

 翔太郎とキスはしたい。そしてできればこのままこのぶ厚い胸に飛び込みたい。だが、今の自分では幻滅されるのが目に見えている。
 口を押えながら見上げると、あろうことか翔太郎はゆっくりと同じ視線の高さまで下りて来た。

(ああ、ダメ! そんなに近づいたら)

 柚希は咄嗟に目を瞑った。あまりの恥ずかしさに顔だけでなく身体中が熱を帯び始める。少しでも臭わない様にと息を殺し、不本意ながら翔太郎が離れる事を願った。毛穴という毛穴から異臭が漏れ出てるのではないかと言う思いが、更なる羞恥を煽った。

「……ッ、――?」

 不意にカチャンという軽い音が聞こえ、柚希は恐る恐る目を開ける。

「――っ!」

 すると、いつの間にか翔太郎の左手は柚希の顔の横に置かれ、先ほどの音はどうやら右手で扉の鍵を閉めたらしく下の方へと伸びていた。自分がそんなところに立っていた所為だとはいえ、完全に翔太郎の長い腕に囲まれている状態ともなれば冷静でいられるわけもなく、柚希は緊張で胸が押しつぶされそうだった。





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