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第四章 魚心あれば水心
第三話~疑似夫婦体験~
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柚希を囲うようにして扉の鍵を閉めた翔太郎を目前にすると、今すぐにでも彼の胸元へ飛び込みたい衝動に駆られた。
黒いパーカーの中に着ている、ボタンの付いたキーネックシャツから覗く男らしい喉元。ほのかに香る石鹸の香り。態勢を整える為に僅かに吐いた息遣いでさえも、男の色香を感じた。
ゴクリと息を飲み、両手で口許を押さえながら瞬きもせず、柚希はただ黙って翔太郎を見つめている。
「――? あー……、こっち」
そんな柚希の視線に気付いた彼の瞳が、僅かに揺れたのがわかった。
すぐに柚希と視線を切った翔太郎は、店の奥へと向かう。顔こそ赤くはならないが翔太郎の態度を見る限りでは、十分柚希を意識している様に思えた。
「あの? 私お風呂に入りに行きたいのでそろそろ」
口ではそう言いながらも、翔太郎の後を追い上階へと続く薄暗い階段を見上げる。そんな柚希に対し、翔太郎は後ろを振り返りもせず階段を上りながら言った。
「ここの風呂に入ればいい」
「はい?」
外観からして二階があるとは思ってはいたが、風呂の設備まであるとは考えもしなかった。
「別に、人に勧められる程のものではないけど、そんなわけのわからん所で入るよかマシだろ」
言いながらどんどん上って行く翔太郎を追うようにして、柚希も階段を駆け上がった。
「で、でも、それだとご迷惑に……」
今回の特集の事で迷惑をかけた上に、お風呂まで入らせてもらうなんて。そう思ってはいるものの、まるで自分だけが特別扱いされている様な気になった柚希の表情からは自然と笑みが零れ落ちていた。
「別に、迷惑とか」
急な階段を上りきると、そこには六畳程の広さの和室の部屋が二間あった。片方の部屋は物置部屋と化し、もう一方の部屋は休憩用にでも使っているのだろう、部屋の中央には正方形の小さな折り畳み式のテーブルが置いてあった。
翔太郎はパーカーを脱ぐと観音扉になったふすまを開け、そこからハンガーを二本取り出す。一本を柚希に渡し、もう一本に自身のパーカーを掛けると元の場所へと戻した。
「適当に座ってて」
「え、あ、ちょ――」
翔太郎はそう言うと、柚希をその場に残して部屋から出て行った。
昨日、篠田が倒れた時から翔太郎の柚希に対する扱いが明らかに変わってきている。本人に自覚は無いようだが陸に嫉妬した挙句、見せつける様にキスまでしてみせた。更には篠田と翔太郎だけしか立ち入る事が出来ないであろう、ある意味聖域にまで案内されたのだ。
「これって、つまり……」
翔太郎に言えば「自惚れるな」と一蹴されるかも知れないが、やっぱり翔太郎も自分の事を好きになってくれてるんじゃないかと柚希は思い始めていた。
「――って、それより。今のこの状況って……?」
翔太郎からは何もそれらしいことは聞かされていないものの、勝手に両想いフラグを立てた柚希はとある事に気が付いた。冷静に考えてみれば今この密室に翔太郎と柚希の二人しかいない。唯一出入り可能な篠田は現在入院中。そして部屋の中をよく見てみれば、壁際に布団らしきものがキチンと折りたたまれた状態で置いてある。
しかも、どうやら今から風呂に入るらしいのだ。
「……。――!」
そうこうしてる内に、水を流す音やプラスチックがぶつかりあう様な音が聞こえて来る。ほんわかとしていたのを打ち消すように、一気に緊張が走った。
まさに準備万端。両想いの若い男女が一つ屋根の下で時を過ごすとなれば、やる事はただ一つ。
(ええ!? って事は……。そ、そんな、まだ心の準備が!)
両頬を手で押さえながらしばしたじろいだものの、すぐに覚悟を決めたのか「よし!」と気合を入れ直し、翔太郎のいる風呂場に向かった。
袖を捲り上げ、スポンジ片手に浴槽の掃除に励む翔太郎。ガタイのいい広い背中に肩甲骨が上下しているその姿を見た柚希は自分が何をしに来たのかも忘れ、ついうっとりとその姿に見入っていた。
「……。――! あの! ち、ちょっとコンビニ行ってきていいですか?」
「は? 何しに?」
「き、着替えとか何も持ってきてないんで」
躊躇いがちにそう言った柚希を見て、翔太郎はバツが悪そうにまたプイと視線を切り浴槽を擦りだした。
「ああ、気を付けて」
「すぐ戻ります!」
またとないチャンスを目前に控え、先ほどまでふらついていた足取りが嘘の様に階段を軽やかに降りて行った。
急を要す人の為に売ってあるのだから仕方ないが、コンビニに売っている下着はデザイン的にも質感的にもランジェリーショップで買うそれに比べると格段落ちる。それでも、昨日からずっと着用している下着をつけているよりかはましだろう。――と、何度も何度も自分自身にフォローを入れ、下着と歯ブラシセットを手に翔太郎の待つ志の田へと急いだ。
店の扉をそーっと開ければ、そこにはカウンターに立つ翔太郎の姿があった。
「……ただいまです」
柚希が戻った事に気付いた翔太郎は、カウンターの中に忍ばせてある時計に目を向けた。
「ああ、お帰り。あと……五分程で風呂沸くから。上にあがって待ってて」
「有難うございます」
レジ袋を両手で抱きかかえ、ペコリと頭を下げながら階段を上った。
「……」
(なんだか……ふっ、夫婦みたい!? ……立場が逆ではあるけど)
そう思っただけで、みるみる顔が紅潮してくる。かわるがわる両頬に手の甲をあてがっては、頬に集まる熱を冷まそうとしていた。
■□
もうもうと立ち上る湯気。深いばかりで十分に足を伸ばす事の出来ないステンレスの浴槽。適温になれば昔のガスコンロの黒いスイッチの様なものを“止”の位置まで回せと教わり、柚希はその通りにスイッチを捻った。
そこはかとなく昭和レトロな古臭さは感じるものの、メンテナンスが行き届いている所為か嫌な感じは全くしなかった。カビ一つないタイル張りの壁を見ると、常日頃からキチンと手入れがされているのだろうという事がわかる。
時折、天井からポタリと落ちて来る水滴が予想外に冷たく、柚希は思わず肩を竦めた。
特集が流れてしまった事に対するお詫びに来たはずが、何がどうしてこうなったのか。今、柚希は志の田の二階にあるお風呂場で湯船に浸かりながらごしごしと歯を磨いている。あれ程足元がふらついていたのが嘘の様に、今では頭も目もすっきりと冴えてしまっていた。
「ま、マジですか……」
なんとも信じ難いこの展開につい本音が零れた。
ついこの間までは単なる店員と常連客だった翔太郎と柚希。失恋したはずが何の前触れもなくキスをされ、しかも隣の部屋には彼が居るというのに柚希は生まれたままの姿で呑気に風呂に入っているのだから、そう言ってしまうのも無理はない。
さしあたり、柚希の今の悩みは風呂からあがったらどうすればいいのだろうか、という事だった。
(御礼を言ってすぐに帰った方がいいのかな)
さっきせっかくコンビニに行って来たと言うのに、志の田でお風呂に入るという現実に動揺し過ぎた柚希は、風呂上りにそのまま居座る為の口実に酒やつまみを買うという事まで気が回らなかった。
(いやでも、会社に戻らないといけないしなぁ)
いずれにせよ、ここで一生ぐるぐるしているわけにもいかない。浴槽の縁に両手を置くと、身体を洗う為に勢いよく浴槽から出た。
「……? ――ッ!?」
「悪い、ちょっといいか」
脱衣所の扉をノックする音と同時に翔太郎の声が聞こえ、柚希は慌ててもう一度湯船に飛び込んだ。
「はっ、ははははい!?」
「タオル渡すの忘れて。ここ置いとくから」
「あっ、あーぁ……有り難う御座います」
別に中に入ってこようとしているわけでもないのに、湯船の中で胸元を隠しながらホッと安堵の溜息を吐く。翔太郎は女性と一緒にお風呂に入る様なタイプではないとは思っているものの、彼も男なのだしもしかしたら――と思ってしまった事を恥じた。
(もう行ったかな)
扉の向こうの様子を窺いながら、柚希は湯船の中で立ち上がる。
「あと」
(まだいたっ!)
「はっ、はいぃ?」
少し間があった事もあり、てっきりもう部屋へ戻ったと思っていた柚希は、裏返った声で返事をしながら慌てて再び湯船の中に浸かった。
「Tシャツ、俺ので悪いけど風呂上りに良かったら」
「あ、有難うございます!」
「じゃ、ごゆっくり」
今度はちゃんと扉が閉まる音を確認してから、柚希は湯船から出た。
プラスチック製の風呂椅子に腰かけ、片手で鏡の湯気を拭い取る。そこに映っている自分の表情を見て、大きく溜息を吐いた。
「はぁー、私何で断らなかったんだろう。ドキドキし過ぎて心臓がもたないよ」
新たな進展を遂げ喜んだのも束の間、やはりまだまだ時期尚早であったかと柚希は嘆いていた。
黒いパーカーの中に着ている、ボタンの付いたキーネックシャツから覗く男らしい喉元。ほのかに香る石鹸の香り。態勢を整える為に僅かに吐いた息遣いでさえも、男の色香を感じた。
ゴクリと息を飲み、両手で口許を押さえながら瞬きもせず、柚希はただ黙って翔太郎を見つめている。
「――? あー……、こっち」
そんな柚希の視線に気付いた彼の瞳が、僅かに揺れたのがわかった。
すぐに柚希と視線を切った翔太郎は、店の奥へと向かう。顔こそ赤くはならないが翔太郎の態度を見る限りでは、十分柚希を意識している様に思えた。
「あの? 私お風呂に入りに行きたいのでそろそろ」
口ではそう言いながらも、翔太郎の後を追い上階へと続く薄暗い階段を見上げる。そんな柚希に対し、翔太郎は後ろを振り返りもせず階段を上りながら言った。
「ここの風呂に入ればいい」
「はい?」
外観からして二階があるとは思ってはいたが、風呂の設備まであるとは考えもしなかった。
「別に、人に勧められる程のものではないけど、そんなわけのわからん所で入るよかマシだろ」
言いながらどんどん上って行く翔太郎を追うようにして、柚希も階段を駆け上がった。
「で、でも、それだとご迷惑に……」
今回の特集の事で迷惑をかけた上に、お風呂まで入らせてもらうなんて。そう思ってはいるものの、まるで自分だけが特別扱いされている様な気になった柚希の表情からは自然と笑みが零れ落ちていた。
「別に、迷惑とか」
急な階段を上りきると、そこには六畳程の広さの和室の部屋が二間あった。片方の部屋は物置部屋と化し、もう一方の部屋は休憩用にでも使っているのだろう、部屋の中央には正方形の小さな折り畳み式のテーブルが置いてあった。
翔太郎はパーカーを脱ぐと観音扉になったふすまを開け、そこからハンガーを二本取り出す。一本を柚希に渡し、もう一本に自身のパーカーを掛けると元の場所へと戻した。
「適当に座ってて」
「え、あ、ちょ――」
翔太郎はそう言うと、柚希をその場に残して部屋から出て行った。
昨日、篠田が倒れた時から翔太郎の柚希に対する扱いが明らかに変わってきている。本人に自覚は無いようだが陸に嫉妬した挙句、見せつける様にキスまでしてみせた。更には篠田と翔太郎だけしか立ち入る事が出来ないであろう、ある意味聖域にまで案内されたのだ。
「これって、つまり……」
翔太郎に言えば「自惚れるな」と一蹴されるかも知れないが、やっぱり翔太郎も自分の事を好きになってくれてるんじゃないかと柚希は思い始めていた。
「――って、それより。今のこの状況って……?」
翔太郎からは何もそれらしいことは聞かされていないものの、勝手に両想いフラグを立てた柚希はとある事に気が付いた。冷静に考えてみれば今この密室に翔太郎と柚希の二人しかいない。唯一出入り可能な篠田は現在入院中。そして部屋の中をよく見てみれば、壁際に布団らしきものがキチンと折りたたまれた状態で置いてある。
しかも、どうやら今から風呂に入るらしいのだ。
「……。――!」
そうこうしてる内に、水を流す音やプラスチックがぶつかりあう様な音が聞こえて来る。ほんわかとしていたのを打ち消すように、一気に緊張が走った。
まさに準備万端。両想いの若い男女が一つ屋根の下で時を過ごすとなれば、やる事はただ一つ。
(ええ!? って事は……。そ、そんな、まだ心の準備が!)
両頬を手で押さえながらしばしたじろいだものの、すぐに覚悟を決めたのか「よし!」と気合を入れ直し、翔太郎のいる風呂場に向かった。
袖を捲り上げ、スポンジ片手に浴槽の掃除に励む翔太郎。ガタイのいい広い背中に肩甲骨が上下しているその姿を見た柚希は自分が何をしに来たのかも忘れ、ついうっとりとその姿に見入っていた。
「……。――! あの! ち、ちょっとコンビニ行ってきていいですか?」
「は? 何しに?」
「き、着替えとか何も持ってきてないんで」
躊躇いがちにそう言った柚希を見て、翔太郎はバツが悪そうにまたプイと視線を切り浴槽を擦りだした。
「ああ、気を付けて」
「すぐ戻ります!」
またとないチャンスを目前に控え、先ほどまでふらついていた足取りが嘘の様に階段を軽やかに降りて行った。
急を要す人の為に売ってあるのだから仕方ないが、コンビニに売っている下着はデザイン的にも質感的にもランジェリーショップで買うそれに比べると格段落ちる。それでも、昨日からずっと着用している下着をつけているよりかはましだろう。――と、何度も何度も自分自身にフォローを入れ、下着と歯ブラシセットを手に翔太郎の待つ志の田へと急いだ。
店の扉をそーっと開ければ、そこにはカウンターに立つ翔太郎の姿があった。
「……ただいまです」
柚希が戻った事に気付いた翔太郎は、カウンターの中に忍ばせてある時計に目を向けた。
「ああ、お帰り。あと……五分程で風呂沸くから。上にあがって待ってて」
「有難うございます」
レジ袋を両手で抱きかかえ、ペコリと頭を下げながら階段を上った。
「……」
(なんだか……ふっ、夫婦みたい!? ……立場が逆ではあるけど)
そう思っただけで、みるみる顔が紅潮してくる。かわるがわる両頬に手の甲をあてがっては、頬に集まる熱を冷まそうとしていた。
■□
もうもうと立ち上る湯気。深いばかりで十分に足を伸ばす事の出来ないステンレスの浴槽。適温になれば昔のガスコンロの黒いスイッチの様なものを“止”の位置まで回せと教わり、柚希はその通りにスイッチを捻った。
そこはかとなく昭和レトロな古臭さは感じるものの、メンテナンスが行き届いている所為か嫌な感じは全くしなかった。カビ一つないタイル張りの壁を見ると、常日頃からキチンと手入れがされているのだろうという事がわかる。
時折、天井からポタリと落ちて来る水滴が予想外に冷たく、柚希は思わず肩を竦めた。
特集が流れてしまった事に対するお詫びに来たはずが、何がどうしてこうなったのか。今、柚希は志の田の二階にあるお風呂場で湯船に浸かりながらごしごしと歯を磨いている。あれ程足元がふらついていたのが嘘の様に、今では頭も目もすっきりと冴えてしまっていた。
「ま、マジですか……」
なんとも信じ難いこの展開につい本音が零れた。
ついこの間までは単なる店員と常連客だった翔太郎と柚希。失恋したはずが何の前触れもなくキスをされ、しかも隣の部屋には彼が居るというのに柚希は生まれたままの姿で呑気に風呂に入っているのだから、そう言ってしまうのも無理はない。
さしあたり、柚希の今の悩みは風呂からあがったらどうすればいいのだろうか、という事だった。
(御礼を言ってすぐに帰った方がいいのかな)
さっきせっかくコンビニに行って来たと言うのに、志の田でお風呂に入るという現実に動揺し過ぎた柚希は、風呂上りにそのまま居座る為の口実に酒やつまみを買うという事まで気が回らなかった。
(いやでも、会社に戻らないといけないしなぁ)
いずれにせよ、ここで一生ぐるぐるしているわけにもいかない。浴槽の縁に両手を置くと、身体を洗う為に勢いよく浴槽から出た。
「……? ――ッ!?」
「悪い、ちょっといいか」
脱衣所の扉をノックする音と同時に翔太郎の声が聞こえ、柚希は慌ててもう一度湯船に飛び込んだ。
「はっ、ははははい!?」
「タオル渡すの忘れて。ここ置いとくから」
「あっ、あーぁ……有り難う御座います」
別に中に入ってこようとしているわけでもないのに、湯船の中で胸元を隠しながらホッと安堵の溜息を吐く。翔太郎は女性と一緒にお風呂に入る様なタイプではないとは思っているものの、彼も男なのだしもしかしたら――と思ってしまった事を恥じた。
(もう行ったかな)
扉の向こうの様子を窺いながら、柚希は湯船の中で立ち上がる。
「あと」
(まだいたっ!)
「はっ、はいぃ?」
少し間があった事もあり、てっきりもう部屋へ戻ったと思っていた柚希は、裏返った声で返事をしながら慌てて再び湯船の中に浸かった。
「Tシャツ、俺ので悪いけど風呂上りに良かったら」
「あ、有難うございます!」
「じゃ、ごゆっくり」
今度はちゃんと扉が閉まる音を確認してから、柚希は湯船から出た。
プラスチック製の風呂椅子に腰かけ、片手で鏡の湯気を拭い取る。そこに映っている自分の表情を見て、大きく溜息を吐いた。
「はぁー、私何で断らなかったんだろう。ドキドキし過ぎて心臓がもたないよ」
新たな進展を遂げ喜んだのも束の間、やはりまだまだ時期尚早であったかと柚希は嘆いていた。
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