最高の和食

まる。

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第四章 魚心あれば水心

第一話~突然のキス~

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 黒い影が覆いかぶさり、翔太郎の端正な顔立ちが目と鼻の先まで近づく。彼の身体から石鹸の香りがすることに気を取られていると、二人の距離はあっという間に縮まった。
 柔らかく薄い唇が柚希の唇にトンと軽く重ねられる。

(……)

 あまりに突然の出来事に柚希は何が起こったのか上手く理解できないのか、翔太郎が離れた後もしばらく同じ姿勢のままで固まっていた。
  
「ちょっ! ……一体どういうつもりだよ」
「別に?」
  
 先に反応したのは陸だった。まるで挑発するかのような翔太郎のその態度に、陸の顔つきがどんどん険しさを増す。だが、陸がそれ以上何も言ってこないとわかったのか翔太郎はふんと鼻で笑うと、鍵が挿さったままになっていた扉に手を掛けた。
 ガラガラガラと開かれる扉。一歩足を踏み入れようとした時、まだボーっと突っ立ったままでピクリとも動こうとしない柚希に、翔太郎は背を向けたまま声を掛けた。

「入るのか、入らないのか。さっさと決めろ」
「……。――っ、あっと、その」

 それはまるで翔太郎と陸、どっちを選ぶのか決めろと言っているかの様だった。
 今日は元々翔太郎に会いに来ていたのだから、柚希の中では既に答えは出ている。だが、奥歯をぐっと噛みしめながら顔を歪ませている陸を見ると、このまま翔太郎についていってもいいのだろうかとすぐに答えは出せず、考えあぐねいた。

「あの、陸――」
「行けよ。俺、別にどってことねーし」

 志の田の前にいたということからして、どう考えても陸を選ぶつもりがないのははっきりとしている。それに、自分の目の前でキスをしてみせたという事実が、翔太郎なりの答えなのだという事も陸は理解しているつもりだった。

(なんだよ。いつの間にか両想いになってんじゃねーか)

 まだ柚希の片想いであれば陸にもチャンスはあったのかもしれない。だが、二人が両想いだと知った以上、自分の出る幕はもうないのも同然。
 これ以上とやかく言うのは格好悪い。そう思った陸は、潔く身を引く為に精一杯の虚勢を張った。

「あ、後でちゃんと連絡するから」

 翔太郎が店の中に入り、柚希がその後を追う。もしかしたら戻って来るかも知れないと僅かな期待を抱くもそれは叶うことなく、その扉はゆっくりと閉められた。


 ■□

 今回は寸止めではなく確かに触れた翔太郎の唇。軽く触れただけではあったが、あれは紛れもなくキスそのものであった。
 念願の初キスが何の準備もしていない状態で行われた事が少し悔しい。キスをされると事前にわかっていればちゃんと準備をして来たのにと、ここへ来る前に歯を磨いてこなかったことを軽く後悔していた。
 しかし、「あんたとは付き合えない」とはっきりと言われたはずなのに、何故突然あんなことをしたのだろうか。
 今度こそ翔太郎の本心を聞き出せるのではないかと、柚希は期待に胸を膨らませていた。

「あの、さっきのあれはどういうつもりであんな事したんですか?」
「どうだっていいだろ」

 だが、そんな期待とは裏腹に翔太郎はいたって平常運転。理由を問い質せば、面倒臭そうな返事しか返ってこない。この手の話をすると、必ずと言っていいほど彼はあからさまに逃げようとした。

「ビール飲むだろ」

 柚希の相手をするのは面倒だとばかりにカウンターの中へとかう。冷蔵庫から瓶ビール二本とグラスを二つ取り出しカウンター席に座ると、自分の隣の椅子を引いた。

「まぁ、座れば」
「は、い」

 ちょこんと腰を落とすと同時にグラスにビールが注がれていく。まだ到底納得していない様子の柚希に、翔太郎は小さく溜息を吐いた。

「あの時ああしたかったからしただけで、特に理由などない。嫌だったのなら謝る」
「べっ! ……別に、嫌ってわけじゃ」
「じゃあ、何の問題もないだろ」

 翔太郎のその表情を見る限り、先ほどのキスは自然と湧き出た愛情からなるものだったなどとはお世辞にも言えなかった。だが、根が真面目な彼が何の考えもなくあんな大それたことをする人だとは思えない。
 のらりくらりと言いくるめ、肝心な事を隠そうとする翔太郎に柚希の我慢は限界に達した。

「ずるいです。いつもそうやってすぐにはぐらかして」
「はぐらかす? 俺はちゃんと答えただろ」
「そんなの結果論であって、私の欲しい答えじゃない。発条さんの言う『そうしたかった』と思うまでの過程を知りたいんです」

「そうしたかったからした」と言う翔太郎に「そうしたいと思ったのは何故か」を問う。そこが重要なのだと言う柚希とそっぽを向いて大きなため息を吐く翔太郎に、大きな温度差を感じた。

「教えてください」
「何を」
「……っ」

 たった三文字の言葉でも、怒りの感情を必死で抑えようとしているのがわかる。首の後ろを撫でたり、舌打ちをしたり。翔太郎の一挙一動に柚希は声を震わせた。

「しっ、篠田さんから聞きました。……室井さんは男性には興味ないって。それは発条さんも知ってるはずだってことも」

 そっぽを向いていた翔太郎の顔がハッとした表情になり、その視線は柚希へと向けられる。怯えた様子を見せてはいるものの、誰にも触れられたくない部分へズカズカと土足で足を踏み入れる様な柚希のその発言に、翔太郎の口調が強くなった。

「だったら何。自分が対象外だとわかってるなら諦めて当然とでも?」

 柚希自身、対象外だとわかっていても翔太郎への想いを諦める事が出来なかったのだから、その事に対し論破するつもりはこれっぽっちもない。

「違っ、そんな事」

 慌てて首を左右に振ると、翔太郎の片方の眉がクッと上がった。

「じゃあもっと頑張れって?」
「う……、それも違います」

 翔太郎の機嫌を窺うようにチラチラと上目づかいになり、柚希は何処か言い難そうにしている。そんな彼女を翔太郎は何も言わず黙って見つめていた。

「あの、怒らないで聞いて貰えますか?」

 恐る恐る尋ねると、「善処する」と翔太郎はぶっきらぼうに答えた。多分、今何を言っても怒られるのだろう。そう思うと、言いたい事は全部ぶちまけなきゃ損だとばかりに開き直った。

「えーっと、さっきのキスは“焼きもち”……ですよね?」
「はぁ? なんでそうなる」

 即答で返って来た返事に、自分の考えは間違っていたのかと狼狽する。だとしたらとんだ自惚れになるのだが、口に出してしまった以上もはや後戻りなど出来ない。
 翔太郎の冷ややかな視線に必死で耐えながらも、ずっと思い悩んでいた事を吐き出した。

「発条さんにフラれた日、……ですけど。店の近くの路地裏で陸と……、その」

 その先の言葉が言えず、柚希は言い淀む。翔太郎はあくまでもシラを切りとおすつもりなのか、表情の変化は見受けられなかった。

「……見ちゃったんですよね?」
「何が?」
「キ、キスしてるところを」
「誰が?」
「私が」
「誰と?」
「――ッ!」

 何が言いたいのかわかっている筈なのに、翔太郎はわざととぼけて見せる。カッとなった柚希は堰を切った様にまくし立てた。

「私が陸とキスしてるところを発条さんは見てたんですよね! お店に携帯忘れた時も会社に電話してくれれば取りに行ったのに、わざわざ警察に私の会社と名前を言って届けたり、取材中だってどことなく様子がおかしかったのはその事が原因じゃないんですか!?」
「あれは名刺を失くしたからだ。取材の時は風邪気味で体調崩してたんだよ。だから味付けもミスった」

 まるで答えを準備していたかのように、即答で答えて見せる翔太郎。しかも、ご丁寧に咳払い付きである。
 幾ら名刺を失くしたと言えど、今の世の中ちょっと調べれば柚希の会社の電話番号などすぐにわかると言うのに、自信ありげに答えたところからしてこの事に関しては深く追求してもちゃんと答えを準備しているのだろう。そう思った柚希は、これ以上詮索するのを止め、思い切って核心に触れた。

「陸に私を取られそうになったからって、あんな見せつける様な真似したんじゃないんですか!?」
「……あんたってつくづく目出度い女だな」

 どこをどう解釈したらそんなに自分に自信が持てるのかと、蔑む様にふんと鼻で笑う。これにはさすがの柚希もたじろいでしまった。
 しかし、もう乗りかかった船。目出度い女上等だと言わんばかりに、“翔太郎は私の事が好き”という体で柚希は話を続けた。

「室井さんの事だってあれですよ。お客さんとは個人的な付き合いはしないってルールがあるからこそ、私を遠ざける為に吐いた嘘ですよね?」
「もうあんた静かにした方がいいよ。聞いてるこっちが恥ずかしくなる」
「……! んーっもう!」

 翔太郎はきっとまだ本心を言うつもりはないのだろう。何度聞いてもうやむやにされ続け、キスをした本当の理由を教えらえることは無かった。





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