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第三章 蓋は、開けてみるまでわからない
第二話~異常事態発生!~
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篠田から聞いた話によると、室井は男に興味が無く同性愛者らしい。果たしてそれは事実なのだろうか。もし、それが本当だとすれば、翔太郎はなぜ同性愛者である室井を好きだと言ったのだろうか。
篠田が知っているのに翔太郎が知らなかったというのはまず考えられない。考えられるとすれば、室井の性癖を知っていてもなお不毛な恋をしているか、嘘を吐いてでも柚希を自分から遠ざけたかったかのどちらかであろう。
どちらであったとしてもそれを知ったからと言って、柚希にとっては何のプラスになるものでは無かった。
「……」
「……」
そして今、柚希は重苦しい雰囲気の中、翔太郎と共に志の田の調理場に立っている。音楽もなにもないこの場所は、コトコトとお湯が湯だつ音が聞こえるだけ。
勢い余って告白などしなければ、どれほどこの空間を楽しめただろうか。
仕事とはいえ失恋した相手と二人っきりというこの状況に、柚希だけではなく翔太郎の様子もどこかぎこちなく感じられた。
「あっ、ち、ちょっと一枚いいですか?」
「……」
いつも以上に無口な翔太郎。まるで柚希の緊張が感染ったかの様だった。
本来ならカメラマンを引き連れて取材をするのだが、予算の少ないグルメ編集部はカメラマンを雇う余裕もない。自分たちで写真を撮り、腕の足りないところはもっぱら画像編集ソフトに頼っていた。
しかし、第三者がいるだけでこの場の雰囲気もきっと違ったものになっていたのではないだろうか。今日ほどこの雑誌の人気の無さを恨んだ日はなかった。
いくら愚痴をこぼしてみても後の祭り。黙々と里芋の皮を剥く翔太郎の傍らに立ち、ファインダーを覗き込んだ。
「はい、じゃあ撮りま――、……あ」
「……!」
シャッターを押そうとした瞬間、翔太郎の手から里芋がつるんと滑り落ちると調理台の奥の方へと転がっていった。
尚も目を逸らし続けるその様子は、失敗したのが恥ずかしいのかそれともただ単純に柚希と目を合わせたくないだけなのか。
いつも堂々と立ち居振る舞う翔太郎が、今日はまるで別人の様に落ち着かない様子であった。
「……。――っ! さ、里芋ってヌルヌルしてるから滑りやすいですよね!」
「……まだ剥いていないやつがあるから、すぐに――、……あっ!」
急いで別の里芋に包丁を入れるも、それもまた床へと転がり落ちる。調理台を見てみると、そこにはもう皮のついた里芋は一つも残っていなかった。
「すまん」
翔太郎は調理台に片手を置くと頭を項垂れた。
「い、いえいえ! 良く考えてみたら里芋の皮の剥き方なんて、私は知らなくても世の中の人は皆知ってるでしょうし! 画像なんてなくてもきっと問題ないですよ」
「……」
「あ、えーっと。……じゃあ次は、人参の飾り切りとかどうですか?」
やはり翔太郎の様子が少しおかしい。その原因が自分にあるのかどうかもわからず、お互い腫れ物に触る様な接し方のまま撮影を続けていた。
「これで撮影は終わりです。――では試食していいですか?」
「ああ」
おせち料理の行程と全体の撮影を終え、次に試食へと移る。今回の案件ではこれが一番の難所であった。
このレシピで作ればいかに美味しいおせちが作れるかという事を読者へアピールしなければならないのだが、味音痴な上にボキャブラリーが貧困な柚希からしてみればこれが一番の難関であった。
「いただきます。……んー、おいしいです! 素材の味がいかされてますね」
「?」
そう言うと、味を忘れてしまわない様にと感想をメモに書き綴る。柚希のコメントを聞いた翔太郎は、目を僅かに開くと自分も柚希と同じものを口に含んだ。
「……っ」
笑顔で食べていた柚希とは違って、みるみる翔太郎の眉根が寄せられていく。他のものも確めるかの様に次々に口の中に運ぶが、どれを食べても顰められた眉は元通りにはならなかった。
翔太郎は我慢出来ないと言わんばかりにテーブルに箸を叩き付けると、柚希がまだ食べ終えていないお重を全部取り上げる。
「どうかしました?」
柚希の問いかけに返事はない。翔太郎はゴミ箱へと近づくと、一段目のお重を躊躇うことなく放り込んだ。
「ちょ――!」
「こんなクソまずいもの、無理して食べなくていい」
二段目に手を掛けた時、柚希の手がそれを阻む。
「離せ」
「嫌です」
頑として譲ろうとしないのが伝わったのか、翔太郎は溜息を吐きながらお重を調理台に置いた。
ほっとした顔で再び箸を伸ばす柚希を見て、翔太郎は怪訝な表情を浮かべながら腕を組んで見下ろしていた。
「あんたって、ほんっと味音痴なんだな。これのどこが美味いんだか。今食べてるやつも全然味がしないだろ?」
嬉しそうに頬張る柚希に向かって呆れる様に言った。
柚希は首を横に振りながら、慌てて口の中に入っているものをごくりと飲み込む。そして、自分を卑下する翔太郎のその言葉を否定した。
「料理人の発条さんからすれば美味しくないのかも知れませんけど、素人の私からすれば十分美味しいですよ。発条さんが作る料理って、見た目は豪華なんだけど味付けはどこか家庭的でなんか心が癒されるって言うか、気持ちがほっこりするんです。……って、私なんかに褒められても嬉しくないですよね」
偉そうな事を言ってしまったとでも思ったのか、柚希は首を竦めた。
「味付けが家庭的って……。それ、あんた的には褒めてんの?」
さらに訝しげに眉を顰める翔太郎に、柚希は大げさに何度も首を縦に振る。
「勿論です! 毎日でも通いたい位ですよ。――私は……家庭の味とかあまり知らないから」
「え?」
焦点が合わない目でぼんやりとお重を見つめる。翔太郎の視線を感じ、すぐにその場を取り繕うかのような明るい笑顔を見せた。
「――っ、な、なんでもないです! ……あ、これって全部食べちゃっても平気ですか? 私もうお腹ペコペコで」
「……別にいいけど。でも、これ四人前――」
「いっただきまーっす」
メモを取りながら次から次へと口の中に放り込む。一口食べる度に「おいしい」と何度も言う柚希に、翔太郎の顔つきが徐々に和らいでいった。
今日一日ずっと感じていた翔太郎との間にあった溝が、少しづつ埋まっていく気がする。腫れ物に触る様な妙な緊張感も、今ではほとんど感じられなくなっていた。
「ん? この白いのって何ですか?」
「ゆり根きんとん」
「へぇー。これ、美味しいですね」
こう何度も美味しいと連呼されれば、いくら自分では気に入らないものであってもそう悪い気はしない。自分が作った料理を満足げに頬張る柚希に、翔太郎の口元が緩んだ。
「発条さんも、ほらっ」
「ん? ……、――っ」
ゆり根きんとんを箸で取り分け、翔太郎の口元へと差し出す。その途端、翔太郎の顔が強張ったのがわかった。
そんな彼の表情を見た柚希は、ハッとしてすぐにその手を下ろすと、箸を小皿の上に置いた。
「す、すみません、つい調子に乗っちゃって」
「……いや」
やっといつもの翔太郎に戻ったのだとホッとしたせいか、つい大胆な行動に出てしまった。あの翔太郎に食べさせてあげるなんて、例え告白する前であってもそんな勇気などなかったと言うのに。
(は、恥ずかしい……!)
熱を持ち始めた自身の頬に手の甲を押し当て、気持ちを落ち着かせようとしていた。
「――あんたさ」
「……?」
隣に立つ翔太郎を見上げると、人を見下すかのような冷たい眼差しを突き付けられる。柚希に対する態度はいつも冷めてはいたが、今の翔太郎から感じる冷たさは普段の比にならないものであった。
「……」
「あの、どうかしました……か?」
何かを言おうとしているのはわかるが、翔太郎は声に出そうとしない。その内「なんでもない」と言って背中を向けた。
「――!」
まただ。いつも翔太郎は何かを言いかけてはそれを止める。今もこの場から逃げ出そうとする彼の白衣に、柚希はたまらず手を伸ばした。
「……」
「そんな顔されて、はいそうですかで終われるわけないじゃないですか。言いたい事があるならちゃんと私の目を見て言ってください」
何を言われるのかはわからない。ただ、翔太郎の様子からしていい話ではないのだという事だけははっきりとわかる。また、室井の事を引き合いに出して自分を諦める様にと忠告されるのか、はたまた陸とのキスを目撃していた事を責められるのか。
いずれにしても、思い浮かぶものは何一つ彼女にとって有益となるものではなかった。
それでもちゃんと話して欲しかった。篠田の話が本当であれば、まだ柚希にもチャンスがあるのかも知れない。もし、陸との事を疑っているのであれば、あれはなんでもないのだとちゃんと誤解を解きたい。
――手札はまだ残されている。
全部使い果たしてもないのに、諦める事は出来ないのだと自分に言い聞かせた。
「ちゃんと言ってください。発条さんが今思ってる事、全部」
僅かに震える声音。翔太郎が振り向いた事で、白衣を掴む手が解かれた。
俯いた柚希を見下ろす翔太郎の、息を吸う音が微かに聞こえる。ギュッと目を瞑った柚希の耳に届いたのは、翔太郎の声ではなく誰かが店の扉を開ける音だった。
「おい! ぜん! ぜんは居るか!?」
開店するにはまだまだ時間があるし、親しげな口調からしてどうも客ではなさそうだ。きっと近くの店の人であろう。
柚希が調理場から店の方を覗くと、コックコートを着た男性が血相を変えて入って来るのが見えた。
「はい! 今行きます!」
翔太郎は柚希の横を通り過ぎると、慌てて店内へと向かった。
「――、……はぁーっ」
妙な緊張感から解き放たれた柚希は、知らぬ間に止めていた息を一気に吐き出す。しかし、安堵したのも束の間、店の奥から聞こえてきた訪問者の言葉に柚希の顔が再び曇り始めた。
「たっ、大変だ! いっ、今そこで篠田さんが……!」
不穏な空気を感じた柚希は、調理場から顔をのぞかせる。その男性はどうも気が動転しているのか言っている事が支離滅裂で、一体何を言いたいのかが良く分からない。
「? 親父がどうし――」
「俺んとこの店の前で話をしてたら、き、急に!」
「……。――っ!」
「……? あ、発条さん!」
篠田によからぬ事が起こっているのだと察したのか、その男性と翔太郎は勢いよく店を飛び出していった。
篠田が知っているのに翔太郎が知らなかったというのはまず考えられない。考えられるとすれば、室井の性癖を知っていてもなお不毛な恋をしているか、嘘を吐いてでも柚希を自分から遠ざけたかったかのどちらかであろう。
どちらであったとしてもそれを知ったからと言って、柚希にとっては何のプラスになるものでは無かった。
「……」
「……」
そして今、柚希は重苦しい雰囲気の中、翔太郎と共に志の田の調理場に立っている。音楽もなにもないこの場所は、コトコトとお湯が湯だつ音が聞こえるだけ。
勢い余って告白などしなければ、どれほどこの空間を楽しめただろうか。
仕事とはいえ失恋した相手と二人っきりというこの状況に、柚希だけではなく翔太郎の様子もどこかぎこちなく感じられた。
「あっ、ち、ちょっと一枚いいですか?」
「……」
いつも以上に無口な翔太郎。まるで柚希の緊張が感染ったかの様だった。
本来ならカメラマンを引き連れて取材をするのだが、予算の少ないグルメ編集部はカメラマンを雇う余裕もない。自分たちで写真を撮り、腕の足りないところはもっぱら画像編集ソフトに頼っていた。
しかし、第三者がいるだけでこの場の雰囲気もきっと違ったものになっていたのではないだろうか。今日ほどこの雑誌の人気の無さを恨んだ日はなかった。
いくら愚痴をこぼしてみても後の祭り。黙々と里芋の皮を剥く翔太郎の傍らに立ち、ファインダーを覗き込んだ。
「はい、じゃあ撮りま――、……あ」
「……!」
シャッターを押そうとした瞬間、翔太郎の手から里芋がつるんと滑り落ちると調理台の奥の方へと転がっていった。
尚も目を逸らし続けるその様子は、失敗したのが恥ずかしいのかそれともただ単純に柚希と目を合わせたくないだけなのか。
いつも堂々と立ち居振る舞う翔太郎が、今日はまるで別人の様に落ち着かない様子であった。
「……。――っ! さ、里芋ってヌルヌルしてるから滑りやすいですよね!」
「……まだ剥いていないやつがあるから、すぐに――、……あっ!」
急いで別の里芋に包丁を入れるも、それもまた床へと転がり落ちる。調理台を見てみると、そこにはもう皮のついた里芋は一つも残っていなかった。
「すまん」
翔太郎は調理台に片手を置くと頭を項垂れた。
「い、いえいえ! 良く考えてみたら里芋の皮の剥き方なんて、私は知らなくても世の中の人は皆知ってるでしょうし! 画像なんてなくてもきっと問題ないですよ」
「……」
「あ、えーっと。……じゃあ次は、人参の飾り切りとかどうですか?」
やはり翔太郎の様子が少しおかしい。その原因が自分にあるのかどうかもわからず、お互い腫れ物に触る様な接し方のまま撮影を続けていた。
「これで撮影は終わりです。――では試食していいですか?」
「ああ」
おせち料理の行程と全体の撮影を終え、次に試食へと移る。今回の案件ではこれが一番の難所であった。
このレシピで作ればいかに美味しいおせちが作れるかという事を読者へアピールしなければならないのだが、味音痴な上にボキャブラリーが貧困な柚希からしてみればこれが一番の難関であった。
「いただきます。……んー、おいしいです! 素材の味がいかされてますね」
「?」
そう言うと、味を忘れてしまわない様にと感想をメモに書き綴る。柚希のコメントを聞いた翔太郎は、目を僅かに開くと自分も柚希と同じものを口に含んだ。
「……っ」
笑顔で食べていた柚希とは違って、みるみる翔太郎の眉根が寄せられていく。他のものも確めるかの様に次々に口の中に運ぶが、どれを食べても顰められた眉は元通りにはならなかった。
翔太郎は我慢出来ないと言わんばかりにテーブルに箸を叩き付けると、柚希がまだ食べ終えていないお重を全部取り上げる。
「どうかしました?」
柚希の問いかけに返事はない。翔太郎はゴミ箱へと近づくと、一段目のお重を躊躇うことなく放り込んだ。
「ちょ――!」
「こんなクソまずいもの、無理して食べなくていい」
二段目に手を掛けた時、柚希の手がそれを阻む。
「離せ」
「嫌です」
頑として譲ろうとしないのが伝わったのか、翔太郎は溜息を吐きながらお重を調理台に置いた。
ほっとした顔で再び箸を伸ばす柚希を見て、翔太郎は怪訝な表情を浮かべながら腕を組んで見下ろしていた。
「あんたって、ほんっと味音痴なんだな。これのどこが美味いんだか。今食べてるやつも全然味がしないだろ?」
嬉しそうに頬張る柚希に向かって呆れる様に言った。
柚希は首を横に振りながら、慌てて口の中に入っているものをごくりと飲み込む。そして、自分を卑下する翔太郎のその言葉を否定した。
「料理人の発条さんからすれば美味しくないのかも知れませんけど、素人の私からすれば十分美味しいですよ。発条さんが作る料理って、見た目は豪華なんだけど味付けはどこか家庭的でなんか心が癒されるって言うか、気持ちがほっこりするんです。……って、私なんかに褒められても嬉しくないですよね」
偉そうな事を言ってしまったとでも思ったのか、柚希は首を竦めた。
「味付けが家庭的って……。それ、あんた的には褒めてんの?」
さらに訝しげに眉を顰める翔太郎に、柚希は大げさに何度も首を縦に振る。
「勿論です! 毎日でも通いたい位ですよ。――私は……家庭の味とかあまり知らないから」
「え?」
焦点が合わない目でぼんやりとお重を見つめる。翔太郎の視線を感じ、すぐにその場を取り繕うかのような明るい笑顔を見せた。
「――っ、な、なんでもないです! ……あ、これって全部食べちゃっても平気ですか? 私もうお腹ペコペコで」
「……別にいいけど。でも、これ四人前――」
「いっただきまーっす」
メモを取りながら次から次へと口の中に放り込む。一口食べる度に「おいしい」と何度も言う柚希に、翔太郎の顔つきが徐々に和らいでいった。
今日一日ずっと感じていた翔太郎との間にあった溝が、少しづつ埋まっていく気がする。腫れ物に触る様な妙な緊張感も、今ではほとんど感じられなくなっていた。
「ん? この白いのって何ですか?」
「ゆり根きんとん」
「へぇー。これ、美味しいですね」
こう何度も美味しいと連呼されれば、いくら自分では気に入らないものであってもそう悪い気はしない。自分が作った料理を満足げに頬張る柚希に、翔太郎の口元が緩んだ。
「発条さんも、ほらっ」
「ん? ……、――っ」
ゆり根きんとんを箸で取り分け、翔太郎の口元へと差し出す。その途端、翔太郎の顔が強張ったのがわかった。
そんな彼の表情を見た柚希は、ハッとしてすぐにその手を下ろすと、箸を小皿の上に置いた。
「す、すみません、つい調子に乗っちゃって」
「……いや」
やっといつもの翔太郎に戻ったのだとホッとしたせいか、つい大胆な行動に出てしまった。あの翔太郎に食べさせてあげるなんて、例え告白する前であってもそんな勇気などなかったと言うのに。
(は、恥ずかしい……!)
熱を持ち始めた自身の頬に手の甲を押し当て、気持ちを落ち着かせようとしていた。
「――あんたさ」
「……?」
隣に立つ翔太郎を見上げると、人を見下すかのような冷たい眼差しを突き付けられる。柚希に対する態度はいつも冷めてはいたが、今の翔太郎から感じる冷たさは普段の比にならないものであった。
「……」
「あの、どうかしました……か?」
何かを言おうとしているのはわかるが、翔太郎は声に出そうとしない。その内「なんでもない」と言って背中を向けた。
「――!」
まただ。いつも翔太郎は何かを言いかけてはそれを止める。今もこの場から逃げ出そうとする彼の白衣に、柚希はたまらず手を伸ばした。
「……」
「そんな顔されて、はいそうですかで終われるわけないじゃないですか。言いたい事があるならちゃんと私の目を見て言ってください」
何を言われるのかはわからない。ただ、翔太郎の様子からしていい話ではないのだという事だけははっきりとわかる。また、室井の事を引き合いに出して自分を諦める様にと忠告されるのか、はたまた陸とのキスを目撃していた事を責められるのか。
いずれにしても、思い浮かぶものは何一つ彼女にとって有益となるものではなかった。
それでもちゃんと話して欲しかった。篠田の話が本当であれば、まだ柚希にもチャンスがあるのかも知れない。もし、陸との事を疑っているのであれば、あれはなんでもないのだとちゃんと誤解を解きたい。
――手札はまだ残されている。
全部使い果たしてもないのに、諦める事は出来ないのだと自分に言い聞かせた。
「ちゃんと言ってください。発条さんが今思ってる事、全部」
僅かに震える声音。翔太郎が振り向いた事で、白衣を掴む手が解かれた。
俯いた柚希を見下ろす翔太郎の、息を吸う音が微かに聞こえる。ギュッと目を瞑った柚希の耳に届いたのは、翔太郎の声ではなく誰かが店の扉を開ける音だった。
「おい! ぜん! ぜんは居るか!?」
開店するにはまだまだ時間があるし、親しげな口調からしてどうも客ではなさそうだ。きっと近くの店の人であろう。
柚希が調理場から店の方を覗くと、コックコートを着た男性が血相を変えて入って来るのが見えた。
「はい! 今行きます!」
翔太郎は柚希の横を通り過ぎると、慌てて店内へと向かった。
「――、……はぁーっ」
妙な緊張感から解き放たれた柚希は、知らぬ間に止めていた息を一気に吐き出す。しかし、安堵したのも束の間、店の奥から聞こえてきた訪問者の言葉に柚希の顔が再び曇り始めた。
「たっ、大変だ! いっ、今そこで篠田さんが……!」
不穏な空気を感じた柚希は、調理場から顔をのぞかせる。その男性はどうも気が動転しているのか言っている事が支離滅裂で、一体何を言いたいのかが良く分からない。
「? 親父がどうし――」
「俺んとこの店の前で話をしてたら、き、急に!」
「……。――っ!」
「……? あ、発条さん!」
篠田によからぬ事が起こっているのだと察したのか、その男性と翔太郎は勢いよく店を飛び出していった。
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