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第三章 蓋は、開けてみるまでわからない

第三話~ピンチを救うもの~

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 明かりの落とされた薄暗いロビー。午前中であれば沢山の人でひしめき合うこの場所も、外来診療時間が過ぎた今ではしんと静まり返っていた。
 受付カウンターに向かって並んでいる無数の椅子。その一番後ろの列で一つの大きな影を見つける。その塊に徐々に近づいていくと、白衣姿で頭を抱え込んだ翔太郎であることがわかった。

「発条さん」

 おそらく看護師とでも間違えたのだろう。翔太郎はハッとした面持ちでその場で立ち上がるが、声の主が柚希だとわかった途端、残念そうに肩を落として再び椅子に深く腰掛けた。

「まだ何も?」

 買って来た缶コーヒーを手渡すと、弱々しい声で「ああ」と言った。

 つい一時間ほど前。翔太郎を呼びに来た近所の洋食屋の店主と共に、翔太郎と柚希は志の田を飛び出した。案内された場所には既に何人かの人だかりが出来ていて、その中心には青ざめた顔で地面にうずくまっている篠田の姿があった。
 翔太郎は人ごみをかき分け、篠田の前に跪いて二、三度声を掛けた。しかし、篠田は腰の辺りを押さえたまま悲痛な唸り声を上げ、最終的には救急車を呼ぶ事態となった。
 当然のことながら翔太郎が篠田に付き添って救急車に同乗する事になる。仕方なく店の戸締りを柚希に頼んだ翔太郎は、何かあった時の為にと自分の携帯番号を柚希に伝えた。
 今まで何度聞いても教えてもらえる事が出来なかった貴重な翔太郎の携帯番号。それをあっさり手に入れられた事に、不謹慎ながらも軽くショックを受けた。
 そして、篠田と一緒に救急車に乗り込む翔太郎を見送った後、店の戸締りを終えた柚希は篠田の運ばれた病院へと駆けつけたのであった。



「そうですか……」

 翔太郎の隣に柚希が腰を落とす。お世辞にも座り心地がいいとは言い難い、硬くひんやりとした冷たい椅子。そして、人気もなく薄暗いロビーが、ここで待っている人の不安を更に煽る。こんな場所に居ては心配するなと言われても所詮無理な話ではないかと思う程、寂しく感じられた。
 ぺこんっと缶コーヒーの蓋を開ける音が二度響き渡る。翔太郎はほんの少しだけ口をつけると、すぐにそれを隣の椅子の上に置いた。
 白衣姿で飛び出した翔太郎は携帯電話しか持ってきていない。病院の場所を聞く為に翔太郎へ電話をした時、ついでに持ってくるように言われた荷物と黒のパーカー、そして店の鍵を彼に手渡した。

「参ったな、今日店どうするんだよ」

 パーカーの袖に手を通しながら翔太郎がポツリとごちる。その言い方から、こんな時に倒れやがってと皮肉を込めて言っているのがわかった。

「事が事ですし、こんな時くらい休んでもいいんじゃないですか?」
「俺もそう言ったんだが。今日はいつも親父が世話になってる人が来るから、なんとかして開けて欲しいんだと。担架の上でヒーヒー言いながら『お前が開けないんだったら俺が店開ける』って何度も起き上がろうとして。救急隊員に無理だって言われてんのに、しつこいのなんのって」

 ボスンッと背もたれにもたれると横に居る柚希に顔を向ける。「あの人らしいよな」と困った様子で目じりを下げた。

「どうするんですか?」
「さっきまでは、ずっと傍についとくつもりでいたけど」

 隣の椅子から再び缶コーヒーを手に取り、もう一度口に含む。ゴクリと喉が鳴ると、はぁっと小さく溜息を吐いた。

「ここに居ても俺は何の役にも立たないしな」

 その言葉で、翔太郎がどれだけ篠田を慕っているのかが良く分かる。それと同時に自分の不甲斐なさを責めているかのようだった。

「……確かに、ここではただ待つことしか出来ないのかも知れないですね」
「……」
「篠田さんが一番喜びそうなことをしてあげればいいんじゃないでしょうか?」

 柚希の言葉に勇気づけられたのだろう。心なしか不安そうにしていた翔太郎の表情が、僅かながらに落ち着いた表情へと変わる。
 足の間に両手で持った缶コーヒーを眺めながら、翔太郎は決心したかのように「そうだな」と呟いた。

「……?」

 ロビーの奥の廊下にある、処置室の扉が開く音が聞こえる。ペタペタペタとナースシューズを鳴らしながら看護師がやって来るのがわかると、翔太郎はすぐに立ち上がりその看護師に向かってぺこりと頭を下げた。
 薄暗いロビーで頭を下げた背の高い翔太郎を見つけたその看護師は、「ああ」と言いながら少し背を反らす。そしてそのまま翔太郎めがけて歩いて来ると、柚希も席を立った。

「えーっと、篠田さんの?」
「はい、そうです。その後どんな状態ですか?」

 ハキハキとした口調で翔太郎が答える。

「念のため検査入院してもらいますので、その手続きを」
「入院? あの……、やはりどこか悪いんでしょうか」

 受付カウンターへ誘導する為に、狭い歩幅で早足で歩く看護師の後を二人で追う。検査入院と聞いた翔太郎の横顔は険しく、缶コーヒーを持つ手にグッと力が入っているのが良く分かった。
 看護師は足を止めることなく、歩きながら後ろを振り返る。

「まぁ、篠田さんはほら、もう結構なお年だし。念のため、ね?」

 と言って愛想笑いを浮かべる。いらぬ心配をかけさせまいと思って言ったのだろうが、翔太郎の顔は曇ったままだった。





「じゃあちょっとここでお待ちください。すぐに控え持ってきますから」

 看護師は書類を受け取ると忙しそうにして、また廊下の奥の処置室へと戻って行った。
 翔太郎は踵を返し、先ほどの冷たい椅子に再び腰を掛ける。膝の上に肘をつき大きな掌で額を覆った。

「とは言ったものの、一人でやれるのか俺」

 もう一方の手で指折り数えながら、何やらタイムスケジュールを確認している様だ。

「四時にうお屋の納品、四時半に越谷酒店の納品。先付オッケー、強肴もオッケー。凌ぎ……がまだだな、あとは――」

 ぶつぶつと声に出しながら、今日無事に店を開けられるのか確認する。しばらくすると、どうやら問題なかったのか翔太郎から安堵の溜息が零れ落ちた。

「大丈夫そうですか?」
「ああ、料理はなんとか。……ただ、裏にこもる事になるから、飲み物を用意するのが難しくなるな」

 やっと店を開ける覚悟が出来たものの、すぐに新たな問題に直面する。たった十席だけの店であっても、一人でやるには難しいのだと知った。

「仕方ない、あいつにでも頼むか」

 翔太郎がスマホのロックを解除し電話を掛け始めた。一体誰にかけているのだろうかと様子を窺う柚希をチラリと横目で見た翔太郎は、電話に出た相手の名前を躊躇いがちに呼んだ。

「ああ、桜? 俺だけど」
「――っ!」

 柚希の顔を一瞬見たのはそう言う事だったのかと納得する。篠田の事があった所為で、室井と翔太郎の関係をまだ確認し切れていない。その事も気になるが、今もっとも気になるのは翔太郎が自分ではなく室井を頼ろうとしている事だった。

「突然だけど、今晩時間あるか?」
「発条さん!」

 まるで、二人の会話を遮る様に翔太郎を呼ぶ。会話の邪魔をされたことに少しムッとしながら横に立つ柚希を見上げ、電話口を指で押さえた。

「なに」
「私にお手伝いさせて下さい。飲み物作ったりオーダー聞く位だったら、私でも出来ると思うんで」
「は? あんたこれから会社に戻ってそれ仕上げないとダメなんじゃないの?」

 肩にかけているカメラケースを指差して言った。

「……そうですけど、まだ時間はたっぷりありますんで」
(うっ、明日の朝一の会議迄に仕上げないといけないんだった……!)

 心の中で思っている事と口から吐き出される言葉が全く違う。本当はかなり時間が押しているのだが、これ以上室井と翔太郎を近づけまいと柚希は必至だった。

「……できんの?」
「はい! 学生時代に居酒屋でのバイト経験が約八か月程あります! その時は主にホールを担当していました!」

 まるで面接でもしているかのようなその口振りに、翔太郎はたまらずプッと噴き出した。あまり笑う事の無い彼の笑顔を見ることが出来た柚希は、大変な時だと言うのに眼福だと幸せな気分に浸っていた。

「ちょっと翔太郎ー? 私今すっごく忙しいんだけど」

 電話の向こうで待たされている室井の声が漏れ聞こえる。クックと笑いをこらえながら翔太郎が電話に出ると、「悪い、もう解決したから」と言ってその電話を切った。

「じゃあ、――よろしく頼むわ」
「……はい!」

 優しく微笑む翔太郎に柚希の胸の音が大きくなる。こんな一面を見せられては諦める事などやはり出来そうもないと、柚希は心の底から感じていた。



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