曖昧サディスティック

亨珈

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優しさに、甘えてしまう

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 通常の有給休暇とは別に与えられる夏期休暇は、早い人は六月から、そして遅くとも九月までに取らなければならない。その辺りはきっちり申請させられる上、家庭のある人はやはりお盆の頃に集中して申請するから、その調整のように若い人ほど前倒しで取らされる。
 前年は新人であれよあれよという間に六月に入れられて、毎日雨だわ学生だって休みじゃない平日だわで実家に帰ってもすることがなくて腐っていた。

 今年は幸いやることがあるから、もしも誰も遊び相手が居なくても大丈夫。そう思って帰省したら、進学した友人らも帰省していたりで遊び相手には困らず、図らずも楽しい休暇を終えて、傷みそうな食べ物だけ手持ちにして残りは小包で送ってもらう段取りにして、夕方には官舎に帰って来た。

 鍵を開けると、靴脱ぎに小さな女性物のサンダルが揃えて置いてある。水上は背が高く足もそれなりだから、これは違う女性のものだと察し、まずったと顔を顰めた。
 半分開いていた襖がするすると閉まっていく。

 兎に角荷物だけは置かせてもらわないと。
 よく聞こえるように「ただいま」と言ってから、生ものを冷蔵庫に仕舞い、残りは自分の部屋にドサドサと放り投げた。

 クスクスと顰めた笑い声。その耳元に囁いているだろう、聞き取れない健吾の睦言。
 遣り切れなくて、ドンと壁を殴ってから「出てくる」と部屋を後にした。

 出掛ける前に教えた筈だ。金曜日には帰ってくると。
 確かに土日もあるんだからゆっくり実家に居れば良いんだろうけど、一緒に過ごせるかも知れない残りの週末をちょっとだけ期待してしまった自分が愚かだったのだ。
 大体水上さんはどうなったんだよ、と歯噛みする。
 電話では楽しそうにしてた。その前に不機嫌だったのは、孝也だけが直接話してそれに嫉妬したのだと思っていた。
 それなのに、人が不在の時に違う女を引っ張り込んで、セックスしてるだと。
 あそこは俺の家でもあるんだぞ。

 半ば追い出されるように出てきてしまったが、気にせずに部屋に戻っていたらどうしたのだろうと考える。
 恐らく、健吾が少し外してくれと頼みに来るだろう。ルームメイトより女を取るに決まっている。
 そうしたらどんどんどんどん腹が立ってきて、気付いたらいつもの市民公園の小道を歩いていた。

 日差しを避けて、昼寝用にデザインされた川縁のベンチで寛いでいると日が翳ってきた。
 くるると腹が鳴り、そういえば昼に実家で素麺を食べたきりだと思い出して、高架を渡り駅前に行って一人でうどんを食べた。
 麺類続きになってしまったが、腹は減っていても食べたいという意識が湧かないから、少しでも喉を通りやすいものを選んだのだ。

 それから街中をうろついている間にようやくとっぷりと日が暮れた。
 流石に帰っただろうか。いや、もしかしたら泊まって行くつもりかも。

 再び駅裏に戻り、公園の中をゆっくりと歩いていると、何処かで聞いたことのある声が微かに風に乗って耳に届いた。細く、緩やかに、しかししっとりと低く腹に沁みていくような、男性の良さをしみじみと感じさせる歌声と、それに合わせて爪弾かれるアコースティック・ギターの音色。

 何処だろうと顔を上げて見回し、風上に向かって行くと、川を背にしたベンチに腰掛けて目を伏せている片山が視界に飛び込んで来た。
 数メートル離れた場所で、静かに耳を傾けているカップルが居る。犬の散歩中の年配の女性も目を細めている。耳に馴染む優しい声と、何処か懐かしさを漂わせる歌詞と曲。

 止まってしまった足は、まるで地面に着いていないかのように感覚を失い、孝也は呆然とその風景の一部になっていた。


 ぽろんと、最後に零れた音と、掠れ気味の声が交わりながら空気に溶けて、不思議な余韻を残したまま霧散していく。それを待っていたかのように、犬と女性が歩き出し「素敵だったわ」と声を掛けて去って行った。カップルは二人だけの世界に戻り、更にその距離を縮めている。それでもまだここが現実だと忘れたかのように身じろぎ出来ずにいると、ギターを抱いたままの片山が孝也に気付いて微笑みかけた。

「あ……」

 金縛りが解けた直後のように、ぎくしゃくとぎこちなくベンチに近寄ると、片山はケースにしまってからギターを座面に立て掛けて腰をずらした。
 ここに座ったらと態度で示されて、おずおずと腰を下ろす。

 そういえば、官舎を出る理由の一つが、ギターを弾けないことだった。別に規則で決まっているわけでもないが、舎監の夫婦には雑音にしか聞こえないらしく、かなり嫌味を言われ続けたようだ。
 こんなに聴き応えがあるのに、勿体無い。周囲の人の反応を見ただけでもそうと知れるのに、酷い人たちだなあと少し腹が立った。

「あの、よくここに来るの」

 割と色んな時間帯に散歩する孝也だったけれど、片山が官舎にいた頃にもここで出会ったことはない。だから余計に驚いてしまった。

「いや、なんとなく来たくなって……息抜き、かなあ。部屋で勉強してると、たまには外で弾きたくなってさ。この辺りなら、駅で歌っている連中も多いし、苦情は出ないかと思って」

 マイクを使ったりして、かなりの大音量で演奏する人たちがいて、駅周辺はそんな連中で騒々しい。公園はそこからは少し離れているし、アピールしてCDや顔を売りたい連中はここには来ないから、片山のように静かに演奏したい場合には丁度良いのだろうと納得した。

「おれ、片さんの声好き。なんか、泣きたくなった」

 少し浮かせた膝下をぷらぷらさせながら思わず零れた言葉に、片山が瞠目した。
 唇が何かを紡ごうとして、それから瞬きしてぐっと口を結ぶ。その様子を見て、ああ恥ずかしいことを言ってしまったと、孝也は狼狽した。

「ご、ごめん。変な意味じゃないよ、なんていうか、こう上手く言えないけど……自分でもわかんないような、胸の奥の方にあるものにじんわり沁みていくっつーか」

 ベンチの縁をギュッと握り締めて、慌てて口を突いてくる言葉の意味も内容も、言っている本人は解っていない。だけど、それを見守る片山は、ありがとうと嬉しそうに笑みを向けた。

「なんか、嬉しい」
「そ、そっか。支離滅裂な感想でごめんな」

 しばらく視線が絡んで、その時ふと孝也は思い出した。
 ちょっと来て、と立ち上がると、不思議そうにしながらも、片山も腰を上げてギターのケースを提げて続く。ベンチの後ろに流れている小川を遡り、細い遊歩道をちょっと速足で進むうち、歩を緩めた孝也の隣に片山が並んだ。

「見て、あれ」

 孝也がそうっと指差す先に、青白い光が明滅している。ふわりふわりと踊るように、けれど静かに当てもなく彷徨う儚い灯火。
 すっかり日が落ちてしまって、黒々と横たわる下草の隙間から、点々と漏れるささやかな明かり。

「すご……」

 息を呑み、遊歩道から草むらに足を踏み出した片山の体が触れて、我に返ってまた煉瓦敷きの歩道に足を戻すと、ぽんと孝也の背中を叩いた。

「綺麗だ。ありがとうな、全然気付かずに帰ってしまうとこだったよ」

 うん、と頷いて見上げる孝也も満足そうな笑みを浮かべている。

「勿体無いなって、思ってたんだ。一人で観ても十分綺麗だけど……誰かと一緒なら、もっといいんじゃないかって」

 誰か、が誰でもいいわけじゃない。でも、今不思議と、隣に居るのが片山で良かったと思えた。伝えようとして、勝手に拒否されたと判断して伝えそこなった情報。でも言っていたとして、果たして健吾と二人でこうやって観に来たかどうかは不明だ。

 用事がなく二人で出掛けたりしない。健吾にとって、散歩や蛍を観る事が用事に入るとも思えない。そうやって一人で判断するから余計に壁が出来てしまうのだろうが、誘って断られることの方が怖かった。自然な流れで、こんなことがあったんだと報告する切っ掛けを失った今となっては、殊更話題になど出来ない。
 同じように、今自分がここにいるということの理由を口にするのは躊躇われた。

「実は官舎の敷地に車置いてるんだ。吉木は自転車?」

 随分長いこと黙って眺めていて、その雰囲気を壊さぬようにと少しだけ体を寄せてから片山が尋ねた。
 あ、このタイミングか。孝也は、ううんと首を振り、実はさあと健吾とのことを話す。重くならないように、軽く聞こえるように口調には気を配ったつもりだ。

「以上、吉木孝也の現状報告でした」

 そう締め括ると、首を傾げて聴いていた片山は、ようやくクスクスと声に出して笑った。
 そっかそっかとまた背中をポンポンと叩かれて、でもそれが嬉しく感じるのはなんでだろうと思う。

「良かったら、俺んち来る? 一緒に試験勉強してもいいし」
「あー、手ぶらなんだけど、俺」
「サイズそんなに違わねえと思うけど……あー、ウエストは違うか」

 流石に下着は新しいのが要るなと言いながら、片山の手の平がシャツの上から孝也の腰周りを撫でる。男同士ならおかしくない行為なのに、びくりと震えた自分の反応を誤魔化したくて、孝也は「買い物寄らせて」と言いながら歩き始めた。
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