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第1部 大韓の建国

【楚の龐越②】

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 由子は、死罪になるどころか褒賞を賜った。それは韓の水姫らにも伝わり、ほっと安堵した。劉信も愚かでは無い。天下を統一するには、由子の力が必要である事は理解していた。しかし、水姫にのみ忠誠を誓うと言ってみたり、どんなに恩賞を与えても興味無さそうにし、文官達とも一触即発で揉め、正直手には負えないとも思っていた事だろう。義兄弟ごっこを演じている間は、由子が自分に危害を加える事も無いだろうとも踏んでいた。その由子に名馬を贈ると、想像を超えて喜んだ。初めて劉信は恩を売る事が出来たのだ。性格的に、これで絶対に裏切る事は無いだろう。
「征北大元帥として北方を回復せよ」と命じた。
「その前に楚を陥すべきです」と逆に進言された。「何故だ?」と問われると、「楚国にはまだ世に知られていない恐るべき才人がいる。その者は下級官吏であり、その才を知る者は少なく、今はまだ率いる事が出来る兵が少ない為に勝ち目はあるが、同数を率いる事が出来る身分になれば、とても勝てる気がしない」と言った。
「お前にそこまで言わせるとは、余程の人物に違いない。何とか仲間に出来ないものか?」
「やってみますが、まずは戦わなければ、それも叶わぬでしょう」
晋王・劉信は由子に、南方大都督を兼任させた。
 由子は、すぐに楚へ10万の兵を率いて南下した。その頃、再び楚と呉は揉めて小競り合いをしており、楚の半数以上の兵は呉に遠征していた。楚は慌てて斉国に援軍を求めた。しかし、間に合わないかも知れない。晋軍が攻めてくると聞いて楚は、籠城の為に準備を進めた。楚王・陳喃はかつて斉の無常鬼・馬光を退けた者の事を覚えており、名前も知らなかった龐越を守将に昇格させて城を守らせた。
「これはこれは城門校尉殿!」
俸禄が100石にも満たない下級官吏から、突如2000石の校尉に抜擢されたのだ、同僚達から嫉妬や嫉、好奇の目で見られるのは仕方がない事だった。誰もがこの成り上がり者がミスを犯し、恥をかいて失脚すれば良いと思い、出世を喜んでやる者などいなかった。
 龐越が最初に行った事は、市中に1本の柱を立てて張り紙をし、南門に移動した者には10金の褒賞を与えるとしたが、誰も相手にしなかった。5日後、1人のならず者が「本当に10金くれるんだろうな?」と言い、柱を担いで南門へ移動させて柱を立てた。龐越は約束通り、そのならず者に10金を与えた。実はこの話には裏があり、数日経っても誰も相手にしない事に剛を煮やして、酒を飲んで暴れ誰も近寄らないならず者に酒を奢り、話を持ち掛けたのだ。酒を奢り、褒賞の10金とは別に前金を払った。これによって龐越の命令に民は従う様になった。民を指揮して調練を行い晋軍に備えた。自分の足を引っ張る事しか考えていない文官や武官を使う事を躊躇ったのだ。
「大都督、城内は静まり返っております」
晋軍が楚の首都・郢城が見える位置まで接近した。
「ふむ。まずは正攻法で攻めてみるか」
衝車を組み立てる間に城門へ攻め寄せた。楚軍は城壁から頭が出ない様に引っ込めて様子を伺っていた。
「今だ!撃て!」
龐越が号令すると、城門に迫る晋軍へ一斉に矢を放った。
「弓兵!」
晋軍も陣形を組み、盾で防ぎながら城壁の楚軍に矢を放って撃ち合った。衝車が完成し、城門を目指して進ませた。衝車は、木で作った戦車の様な形で、先端の尖った丸太で城門を破るのだが、上からの矢を防ぐ為に屋根だけでなく、全体的に板で防御されている。
「それ、今だ!」
衝車が城門に迫った時、上から油壺を落として油をかけると、火矢を射て燃やした。
続いて井闌車で城壁の楚兵と同じ高さになって矢を射ながら、雲梯車を城壁に近づけて城に乗り込もうとした。
「引き付けろ!」
油壺に縄を掛け、振り回すと遠心力を利用して投げた後、火矢を放って燃やした。雲梯車に対しては、投石によって破壊した。
「おお、一旦兵を退かせろ!」
由子は、態勢を整える為に兵を退かせた。
 彼女は兵を傷付け、失うのを嫌っていた節がある。戦争なのだから犠牲は付き物だ。由子は率いる兵を減らして前衛に出る囮役を自ら行うのも、兵を失う事を恐れているからだ。口も態度も悪いが全ては優しさからだ。彼女は女性である為、男性の様に割り切って非情になりきれず、1人でも多くの兵を生還させる事にこだわった。
「なるほど、あの馬光が攻めあぐねる訳だ」
龐越を墨翟(墨子)の再来だと評した。
「どうされますか?」
「攻城より守城の方が本来、有利な上に長引けば斉の援軍が到着するだろうし、呉に侵攻していた楚兵も戻って来る。そうなれば勝ち目は薄いな」
由子は天を見上げて溜息をついた。
「性に合わないんだが…仕方がない…」
 数日経つと城内で噂が広まった。龐越が将兵ではなく民を調練して晋軍と戦ったのには、二心があるからだと。正規兵では無く民を調練したのはある意味、私兵である。私兵を持つ事は、どの国でも禁じられている。何故なら私兵を使って謀叛を企む者もいるからだ。私兵を持つ者は死罪となる。
「何か申し開きはあるか?」
龐越は有無を言わさず捕縛され、楚王の前に引き出された。
「私は楚の為に戦ったのです。現に晋軍を撤退させて見せました。私にニ心など有りましょうや?これは晋の謀略で、私を陥れる見え透いた策です!」
「黙れ、龐越!由子はその名を天下に知られた豪傑ぞ!それが何でお前如き、下級官吏なんぞに離間の策など用いるのだ?それに何故、将兵を使わず民を徴収し調練など行った?これは私兵ではないか!」
ここで龐越は気付いた。この機に自分を失脚させようと企む者がいる。
「嗚呼、敵だけでなく味方までもが俺を殺そうとしているからには逃れられぬ。これも運命か…」
龐越は目を閉じて自分の運命を受け入れた。
「此奴を牢に入れよ!晋軍を撃退した後、処刑してくれるわ!」
龐越は解雇され、牢に入れられて拷問を受けた。
由子が謀略を用いて人を陥れたのは、後にも先にもこの時だけである。それほどまでに龐越が手強く、戦いたくない相手だったと言う事だ。実はこの2人のスタイルは少し似ている。龐越は墨家思想であった為、平和主義、非攻主義を貫き、守城を得意としていた。それに対して由子は、まず絶対に負けない状況を作り出し、それから攻めに転じると言うスタイルだった。その為、由子には相性の悪い相手であった。
龐越に代わって新たに守将になった者は、龐越が脂と火矢を用いて晋軍を撃退したのを真似たが、指揮の歯切れが悪く、由子の虚々実々の用兵に翻弄され、遂に城壁に取り付かれ城内に侵入された。城門が開けられると晋軍は雪崩れ込み、楚王らは逃げた後だった。
「大都督!楚王を追いますか?」
「放っておけ!それよりも龐越を探せ!」
「はっ、そう言われると思い、調べております。龐越は、地下牢に入れられております」
「まだ生きているのか?」
「申し訳ございません。それは確認しておりません」
「良い。この目で確かめる」
龐越は拷問を受けて、両手足の爪は剥がされ、全身は鞭打ちによって激しいミミズ腫れになって、磔にされていた。
「酷い有様だな」
「ふっ、誰のせいでこうなっていると思う?」
「すまないな。私とて不本意だった。お前があまりにも強過ぎて、戦うのが嫌になったんだよ」
そう言うと自ら龐越の拘束を解いて、磔から解放した。
「俺が強いだと?ははは、何の冗談だ?」
ふらついて倒れる所を由子は、身体で受け止め、手巾で龐越の顔の血を拭った。手巾で拭う手首を掴んで、言った。
「こんな事をして一体何が望みだ?お前の知りたい情報など、俺の身分では何も知らんぞ」
「そうではない。俺はお前が欲しい」
真っ直ぐ目を見つめられると気付いてしまった。由子は女だと。
「ははは。女の身では軍中では厳しかろうな?」
「何故、俺が女だと?」
「月のモノ(生理)だろう?俺は鼻が効くんだよ」
「そんなはずはない。香袋の匂いで分からないはずだ」
「あははは、冗談だ。自分からバラしてどうする?」
「別に隠してはいない」
「そうか?では皆に股を開いているのか?」
由子は龐越の襟首を掴んで凄んだ。
「俺を怒らせて殺させたいのだろうが、そうはいかん。最初に言っただろう?俺はお前が欲しいんだ。お前が望むなら私を抱いても構わんぞ?」
「…1つだけ聞かせてくれ。何故、俺なんかを欲しがる?」
「俺は今までお前ほど強い相手に出会った事は無い。馬光は倒したい相手だ。だがお前は、この世で最も戦いたく無い相手だ」
「そうか…頼む、少しだけ考えさせてくれ」
「傷が治ったら、もう一度聞く。それまで考えていてくれ」
由子は配下に龐越の看病を命じて、侍医を呼ばせた。
「士は己を知る者の為に死すと言う。俺は今日まで死んでいたのだ。ようやく俺は、己を知る者に出会えた。彼女の為ならこの命を捨てる事も惜しくはない」
そう言って男泣きした。
こうして龐越は晋に降った。由子の推薦によって龐越は、中軍の鎮軍大将軍となり、由子と同じ三品官となった。
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