人形学級

杏樹まじゅ

文字の大きさ
上 下
2 / 30

【序-後】

しおりを挟む
 灰島月子は、一歩、踏み出した。
 紙袋を抱いて。
 あの日の、緑川ひすいと同じように。
 細い、その足を支える場所を失った身体はふわりと空中で重力に従った。
 頭が下になる。
 窓が、凄まじい速度で足元に向かって流れていく。
 断片的な記憶が走馬灯として、万華鏡のように蘇る。
 とても、綺麗な色彩だった。
 二十一年耐えに耐えて生きてきた時は、灰色一色だったのに。

 ──十年前。

 緑川ひすいが死んだ後、クラスで話し合いが行われた。
「緑川さんがいじめられてたのを知っていた人、いますか」
 お母さんより少し年上くらいの歳の担任の黒木先生が聞いた。
 声が小さくて気弱で、学級崩壊したクラスで横行するいじめに、口をはさめない最低な先生だった。
 誰も、誰も手を挙げなかった。
 はじめは。
 一分くらいして、手を挙げた子がいた。
 白鳥萌。
 勝ち気な性格。
 髪型はいつもツインテールで、わざとらしい赤いリボンまで付けている。
 身長は月子よりうんと小さいくせに、月子をひたすらいじめ倒してきたリーダー格の女子だ。
 月子を男子の前で服を脱がせた、男子たちにひすいをレズおんなだと言いふらした、あの。

「いじめとかは、なかったと思います」

 生徒たちの中で、まともな発言は萌のそれだけだった。
 信じられないことに、黒木先生もその発言を信じた。
 結局、緑川ひすいは、家庭環境のストレスで飛び降りたと、半年後発表された。

 その日、家のベッドで。
 ひすいのお道具箱から持ってきた四人の人形を抱いて、悔しさの余り唸り声を上げて泣いた。
 憎かった。
 いじめて、死に追いやっておいて、平然といじめはないなどと発言した、萌のことが。
 いじめはあったのに、それを見て見ぬふりしたクラスメイトが。
 そんな有り得ない言葉を、鵜呑みにした先生が。

 そして何より。
 あの場で、何も言えなかった自分が。

 教師になりたい。
 いじめのない学校を作るんだ。
 そう思うようになったのは、その頃だった。
 その為に、勉強をたくさんした。
 塾に通って、苦手だった算数を克服した。

 中学生になった。
 相変わらず萌にいじめられたけど、月子には友達がいたから乗り切れた。
 家のベッドで月子の帰りを待つ、ぼたんとアキとサクラとつばきが。
 いじめられたこと。
 好きな女の子のこと。
 最近顔にできるニキビのこと。
 どんな相談でも乗ってくれた。
 あの日のひすいの声が、答えてくれた。

 先生になるなら、他の子に教えられるくらい頭が良くなきゃだめだと思った。
 だから、中間テストも期末テストも頑張った。
 結果、クラスでも──体育以外は──トップクラスの成績だった。

 高校は、家庭の経済状況で私立は行けなかったけど、都立でも一、二を争う偏差値の都立高校に進学した。
 いじめっ子から逃げるため、新宿にある遠い高校に西武線で通った。

 月子は、友達が一新された高校で、イメチェンをした。
 メガネは外してコンタクトにした。
 メイクもするようになった。
 目の下のクマを隠すため、ファンデーションを塗った。
 ふわふわなショートヘアはそのままに、前髪を切って明るい顔にした。
 運動は苦手だったけど、音楽は好きだった。
 だから密かに憧れていた軽音部に──昔、七歳の頃やっていた深夜アニメの影響で──入って、エレキギターを握った。
 手先は器用だった。
 あっという間に上達した。
 高身長なのも相まって、ギターを握る月子に、女子のファンクラブがいつの間にか出来ていた。
 そのうちの一人に、一年生の文化祭のライブ演奏の後、告白され、付き合った。
 清楚な黒髪ロングで、小柄だけど胸が大きい、一学年上の先輩だった。
 付き合って一ヶ月経ったころ、家に呼んだ。人形は机の奥に隠した。
 ベッドに押し倒した。
 何度もキスをした。
 相手も受け入れていた。
 でも。
 セーラー服を脱がせて。
 豊かな胸を収める白のレースのブラジャーを見た時。

 ……月子ちゃん、大好き……

 ひすいの顔が浮かんだ。
 人形を持ってはにかむ、あの日の緑川ひすいが。
 なあに? しないの?
 服を脱がせたまま固まる月子に、恋人が戸惑う。
「帰って」
 背を向けたまま短くそう言うと、恋人は出ていった。
 その人とは、それっきりだった。
 色が付きかけた人生が、また灰色に染まっていった。

 それ以来、記憶があやふやだ。
 小学生の登下校の列を見ると、女子の顔をいつも追うようになった。
 ひすいと似た顔の子の女の子を見つけると、無性に愛しく、愛くるしくて手を伸ばしそうになった。
 こんにちは。
 声をかけてみた。
 女の子たちは、戸惑って何も言わずに通り過ぎた。
 実際に手を伸ばしたのかもしれない。
 正直──覚えていないのだ。

 それから高校卒業までに三人と付き合った。
 けれど、ベッドの上に来ると、いつもひすいの顔が浮かんだ。
 高校三年生の五月。
 三人目を振った時。
 自分が小児性愛者であると理解した。

 あの愛くるしい人形達とまたおしゃべりするようになったのは、この頃からだった。

 月子は、大学に進学した。
 東京都八王子市の、教育学部のある大学だ。
 敷地も大きければ講義棟も大きい、マンモス校だった。

 大学に入ってからは、ギターは置いた。
 サークルには目もくれず、講義に必死について行き、単位は一つも落とさなかった。

 大学でも、なぜか女子にばかりモテた。
 三回告白された。
 でも、全て断った。
 その頭の中には、緑川ひすいの顔がいつだってあったから。

 自分のノートパソコンで、ジュニアアイドルのグラビアをネットで漁った。
 可愛い子を見つけると、プリントアウトしてファイルに綴じた。
 いちばんお気に入りの子の──ひすいに目元がそっくりな子の──写真を印刷しては、ベッドの中に持ち込んだ。
 そして、裸になってびしょ濡れになった自分に指を突っ込んだ。
 ひすい、ひすい。
 そう叫びながら、何度も果てた。

 四年生の五月になって、教育実習が始まった。
 小学校教師を希望していた月子は、東京都の多摩の中央、立川市にある小学校に実習生として赴任した。
 小平市にあったあの荒れた小学校より、クラスも生徒も多い、大きな小学校だった。
 月子は五年二組の担当になった。
 奇しくも、あの頃と同じクラスだった。
 大好きな女の子達がいっぱいいたけれど、実習内容が忙しくて始めは「それ」どころじゃなかった。

 四週間の教育実習も後半、三週間が経ったころ。
 クラスの女の子に呼び出された。
 ポニーテールの可愛い、ちせという子だった。
 口元が、ひすいに似ていた。
 ちせが言うには、クラスの子にいじめられていてつらいという。
 先生には内緒にしてね、そう言われたから、誰にも打ち明けないでいた。
「うん、わかった、先生がなんとかしてあげる」
 助けてあげたかった。
 ひすいに似ていたから、だけではない、心の底からの言葉だった。
 それからも、ちせは毎日、それも一日に何度も月子を呼んだ。
 涙を浮かべながら相談され、月子もそれを信じるようになった。

 ある時。
「先生は、ちせのこと好き?」
 いつものように目に涙を浮かべ、聞かれた。
 社会の時間の後。
 社会科準備室に呼び出され、二人っきりの時だった。

 ひすいに、見えた。
 あの日の、人形遊びをしていた時の、ひすいに。

 ──魔が、差した。

「先生、ちせのこと、見て?」
 そう言ってTシャツをたくし上げ、未熟な胸を魅せるちせ。
 思わず手を伸ばした。
 ずっとずっと、あの日から求めていた「ひすい」の、その身体に触った、その時。

 がらっ。

「ドッキリせいこー!」
 そう言って五年二組の女子達が社会科準備室のドアを開けた。
 え。
 月子は、自分の置かれた状況が分からなかった。
 声のする方を見る。
 嬉しそうな顔の女子達が笑っている。
 いたずら好きなその子たちは、担任の女性教師も呼んでいた。
 先生の目に、服をまくり裸を見せる自分の大事な生徒と、その子に手を伸ばす不埒な教育実習生の姿が映った。
「せんせえ、この人が無理やり──」
 ちせが担任の先生に泣きついた。
 そしてこちらを見た。
 白鳥萌と、同じ顔で。

 月子の教育実習は修了目前で取りやめになった。
 大学に速やかに連絡が入った。
 停学処分になった。
 親の耳に入った。
 お母さんは、育てかたを間違えたと泣いた。
 お父さんは、月子の異常さを嘆いた。
 大学が謝罪の記者会見を開いているのが、全国区のニュースに映った。
 初めは月子の名前を出さなかった。
 でもなぜか、ある日を境にマスコミが実名報道をし始めた。
「X」のトレンドの四位から八位まで。
 立川第〇〇小学校、教育実習生、レズビアン、ペドフィリア……月子関係のタグが並んだ。
 どうやって知ったのか、新聞記者が自宅前に集まった。
 レズビアンでペドフィリアの女学生の写真を撮ろうと、自宅前は騒然とした。
 お母さんはみるみる憔悴していった。
 ひっきりなしにインターホンが鳴らされるからだ。
 大学の教授から、月子の携帯に電話が入った。
 理事長が直々に聞き取りを行いたいとのことだった。

 潮時だな。

 そう思った。
 吉祥寺のパルコの紙袋から、この前買って一回も着ていないグレーのワンピースを取り出して、代わりにひすいの人形達を詰めた。
 いつもの通学ルート、小平市の実家から西武バスと中央線快速で八王子の大学へ行った。
 教育実習の時のダークグレーのリクルートスーツを着て。
 こんこん。
 理事長室をノックして入った。

 理事長は極めて冷静に、月子を性犯罪者に仕立てあげた。
 でも、月子はもうそれで良かった。
 それより、早くひすいの所に行きたかった。
 長い尋問の果てに、退学届にサインした。
 これで、月子を長年苦しめていた「学校」から開放された。
 あとは、「終わらす」だけ。
 慣れ親しんだ教育学部の棟の階段を九階まで登って、清掃業者が開けっ放しにしたドアをくぐって、錆びたフェンスを乗り越えて、そして、「誰かに押されたように」「一歩前に進んだ」。

 ふわりと浮いた身体は、頭を下にして真っ直ぐ落下した。
 あ。
 紙袋から人形達が出てしまった。
 とても残念に思った。
 この子達を抱いて死にたかった。

 すると。

「月子先生、月子先生」
 ぼたんが話しかけてきた。
 見ると、月子は空中で静止している。
 上を見ると、人形たちが、手を繋いで月子の上で輪を作っている。
「待ってたよ! 私たちの先生がお待ちです」
 先生?
「そうよ!」
 アキが話しかけてきた。
「月子先生を、ずっとずっと待ってたのよ?」
 それは、だれ?
「せんせいノ、とってもすきなヒト」
 頭のネジが外れたサクラが嬉しそうに笑う。
「……わたしたちの学校……人形学級へ」
 無口なつばきが呟いた。
「さあさあ、ご案内!」
 ぼたんちゃんが笑顔で叫んだ。

 時間が元に戻った。
 月子は下を見て、ハッとする。

 ひすいが、あの日の姿のひすいが、両手を広げて待っている。

 ああ。
 やっと。
 やっと会えた。
 会いたかった。
 会いたかったんだよ。
 ひすい──

 次の瞬間、月子は下にいた「人物」に頭から直撃し、額と頚椎を砕いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

AIアイドル活動日誌

ジャン・幸田
キャラ文芸
 AIアイドル「めかぎゃるず」はレトロフューチャーなデザインの女の子型ロボットで構成されたアイドルグループである。だからメンバーは全てカスタマーされた機械人形である!  そういう設定であったが、実際は「中の人」が存在した。その「中の人」にされたある少女の体験談である。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

処理中です...