人形学級

杏樹まじゅ

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【序-後】

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 灰島月子は、一歩、踏み出した。
 紙袋を抱いて。
 あの日の、緑川ひすいと同じように。
 細い、その足を支える場所を失った身体はふわりと空中で重力に従った。
 頭が下になる。
 窓が、凄まじい速度で足元に向かって流れていく。
 断片的な記憶が走馬灯として、万華鏡のように蘇る。
 とても、綺麗な色彩だった。
 二十一年耐えに耐えて生きてきた時は、灰色一色だったのに。

 ──十年前。

 緑川ひすいが死んだ後、クラスで話し合いが行われた。
「緑川さんがいじめられてたのを知っていた人、いますか」
 お母さんより少し年上くらいの歳の担任の黒木先生が聞いた。
 声が小さくて気弱で、学級崩壊したクラスで横行するいじめに、口をはさめない最低な先生だった。
 誰も、誰も手を挙げなかった。
 はじめは。
 一分くらいして、手を挙げた子がいた。
 白鳥萌。
 勝ち気な性格。
 髪型はいつもツインテールで、わざとらしい赤いリボンまで付けている。
 身長は月子よりうんと小さいくせに、月子をひたすらいじめ倒してきたリーダー格の女子だ。
 月子を男子の前で服を脱がせた、男子たちにひすいをレズおんなだと言いふらした、あの。

「いじめとかは、なかったと思います」

 生徒たちの中で、まともな発言は萌のそれだけだった。
 信じられないことに、黒木先生もその発言を信じた。
 結局、緑川ひすいは、家庭環境のストレスで飛び降りたと、半年後発表された。

 その日、家のベッドで。
 ひすいのお道具箱から持ってきた四人の人形を抱いて、悔しさの余り唸り声を上げて泣いた。
 憎かった。
 いじめて、死に追いやっておいて、平然といじめはないなどと発言した、萌のことが。
 いじめはあったのに、それを見て見ぬふりしたクラスメイトが。
 そんな有り得ない言葉を、鵜呑みにした先生が。

 そして何より。
 あの場で、何も言えなかった自分が。

 教師になりたい。
 いじめのない学校を作るんだ。
 そう思うようになったのは、その頃だった。
 その為に、勉強をたくさんした。
 塾に通って、苦手だった算数を克服した。

 中学生になった。
 相変わらず萌にいじめられたけど、月子には友達がいたから乗り切れた。
 家のベッドで月子の帰りを待つ、ぼたんとアキとサクラとつばきが。
 いじめられたこと。
 好きな女の子のこと。
 最近顔にできるニキビのこと。
 どんな相談でも乗ってくれた。
 あの日のひすいの声が、答えてくれた。

 先生になるなら、他の子に教えられるくらい頭が良くなきゃだめだと思った。
 だから、中間テストも期末テストも頑張った。
 結果、クラスでも──体育以外は──トップクラスの成績だった。

 高校は、家庭の経済状況で私立は行けなかったけど、都立でも一、二を争う偏差値の都立高校に進学した。
 いじめっ子から逃げるため、新宿にある遠い高校に西武線で通った。

 月子は、友達が一新された高校で、イメチェンをした。
 メガネは外してコンタクトにした。
 メイクもするようになった。
 目の下のクマを隠すため、ファンデーションを塗った。
 ふわふわなショートヘアはそのままに、前髪を切って明るい顔にした。
 運動は苦手だったけど、音楽は好きだった。
 だから密かに憧れていた軽音部に──昔、七歳の頃やっていた深夜アニメの影響で──入って、エレキギターを握った。
 手先は器用だった。
 あっという間に上達した。
 高身長なのも相まって、ギターを握る月子に、女子のファンクラブがいつの間にか出来ていた。
 そのうちの一人に、一年生の文化祭のライブ演奏の後、告白され、付き合った。
 清楚な黒髪ロングで、小柄だけど胸が大きい、一学年上の先輩だった。
 付き合って一ヶ月経ったころ、家に呼んだ。人形は机の奥に隠した。
 ベッドに押し倒した。
 何度もキスをした。
 相手も受け入れていた。
 でも。
 セーラー服を脱がせて。
 豊かな胸を収める白のレースのブラジャーを見た時。

 ……月子ちゃん、大好き……

 ひすいの顔が浮かんだ。
 人形を持ってはにかむ、あの日の緑川ひすいが。
 なあに? しないの?
 服を脱がせたまま固まる月子に、恋人が戸惑う。
「帰って」
 背を向けたまま短くそう言うと、恋人は出ていった。
 その人とは、それっきりだった。
 色が付きかけた人生が、また灰色に染まっていった。

 それ以来、記憶があやふやだ。
 小学生の登下校の列を見ると、女子の顔をいつも追うようになった。
 ひすいと似た顔の子の女の子を見つけると、無性に愛しく、愛くるしくて手を伸ばしそうになった。
 こんにちは。
 声をかけてみた。
 女の子たちは、戸惑って何も言わずに通り過ぎた。
 実際に手を伸ばしたのかもしれない。
 正直──覚えていないのだ。

 それから高校卒業までに三人と付き合った。
 けれど、ベッドの上に来ると、いつもひすいの顔が浮かんだ。
 高校三年生の五月。
 三人目を振った時。
 自分が小児性愛者であると理解した。

 あの愛くるしい人形達とまたおしゃべりするようになったのは、この頃からだった。

 月子は、大学に進学した。
 東京都八王子市の、教育学部のある大学だ。
 敷地も大きければ講義棟も大きい、マンモス校だった。

 大学に入ってからは、ギターは置いた。
 サークルには目もくれず、講義に必死について行き、単位は一つも落とさなかった。

 大学でも、なぜか女子にばかりモテた。
 三回告白された。
 でも、全て断った。
 その頭の中には、緑川ひすいの顔がいつだってあったから。

 自分のノートパソコンで、ジュニアアイドルのグラビアをネットで漁った。
 可愛い子を見つけると、プリントアウトしてファイルに綴じた。
 いちばんお気に入りの子の──ひすいに目元がそっくりな子の──写真を印刷しては、ベッドの中に持ち込んだ。
 そして、裸になってびしょ濡れになった自分に指を突っ込んだ。
 ひすい、ひすい。
 そう叫びながら、何度も果てた。

 四年生の五月になって、教育実習が始まった。
 小学校教師を希望していた月子は、東京都の多摩の中央、立川市にある小学校に実習生として赴任した。
 小平市にあったあの荒れた小学校より、クラスも生徒も多い、大きな小学校だった。
 月子は五年二組の担当になった。
 奇しくも、あの頃と同じクラスだった。
 大好きな女の子達がいっぱいいたけれど、実習内容が忙しくて始めは「それ」どころじゃなかった。

 四週間の教育実習も後半、三週間が経ったころ。
 クラスの女の子に呼び出された。
 ポニーテールの可愛い、ちせという子だった。
 口元が、ひすいに似ていた。
 ちせが言うには、クラスの子にいじめられていてつらいという。
 先生には内緒にしてね、そう言われたから、誰にも打ち明けないでいた。
「うん、わかった、先生がなんとかしてあげる」
 助けてあげたかった。
 ひすいに似ていたから、だけではない、心の底からの言葉だった。
 それからも、ちせは毎日、それも一日に何度も月子を呼んだ。
 涙を浮かべながら相談され、月子もそれを信じるようになった。

 ある時。
「先生は、ちせのこと好き?」
 いつものように目に涙を浮かべ、聞かれた。
 社会の時間の後。
 社会科準備室に呼び出され、二人っきりの時だった。

 ひすいに、見えた。
 あの日の、人形遊びをしていた時の、ひすいに。

 ──魔が、差した。

「先生、ちせのこと、見て?」
 そう言ってTシャツをたくし上げ、未熟な胸を魅せるちせ。
 思わず手を伸ばした。
 ずっとずっと、あの日から求めていた「ひすい」の、その身体に触った、その時。

 がらっ。

「ドッキリせいこー!」
 そう言って五年二組の女子達が社会科準備室のドアを開けた。
 え。
 月子は、自分の置かれた状況が分からなかった。
 声のする方を見る。
 嬉しそうな顔の女子達が笑っている。
 いたずら好きなその子たちは、担任の女性教師も呼んでいた。
 先生の目に、服をまくり裸を見せる自分の大事な生徒と、その子に手を伸ばす不埒な教育実習生の姿が映った。
「せんせえ、この人が無理やり──」
 ちせが担任の先生に泣きついた。
 そしてこちらを見た。
 白鳥萌と、同じ顔で。

 月子の教育実習は修了目前で取りやめになった。
 大学に速やかに連絡が入った。
 停学処分になった。
 親の耳に入った。
 お母さんは、育てかたを間違えたと泣いた。
 お父さんは、月子の異常さを嘆いた。
 大学が謝罪の記者会見を開いているのが、全国区のニュースに映った。
 初めは月子の名前を出さなかった。
 でもなぜか、ある日を境にマスコミが実名報道をし始めた。
「X」のトレンドの四位から八位まで。
 立川第〇〇小学校、教育実習生、レズビアン、ペドフィリア……月子関係のタグが並んだ。
 どうやって知ったのか、新聞記者が自宅前に集まった。
 レズビアンでペドフィリアの女学生の写真を撮ろうと、自宅前は騒然とした。
 お母さんはみるみる憔悴していった。
 ひっきりなしにインターホンが鳴らされるからだ。
 大学の教授から、月子の携帯に電話が入った。
 理事長が直々に聞き取りを行いたいとのことだった。

 潮時だな。

 そう思った。
 吉祥寺のパルコの紙袋から、この前買って一回も着ていないグレーのワンピースを取り出して、代わりにひすいの人形達を詰めた。
 いつもの通学ルート、小平市の実家から西武バスと中央線快速で八王子の大学へ行った。
 教育実習の時のダークグレーのリクルートスーツを着て。
 こんこん。
 理事長室をノックして入った。

 理事長は極めて冷静に、月子を性犯罪者に仕立てあげた。
 でも、月子はもうそれで良かった。
 それより、早くひすいの所に行きたかった。
 長い尋問の果てに、退学届にサインした。
 これで、月子を長年苦しめていた「学校」から開放された。
 あとは、「終わらす」だけ。
 慣れ親しんだ教育学部の棟の階段を九階まで登って、清掃業者が開けっ放しにしたドアをくぐって、錆びたフェンスを乗り越えて、そして、「誰かに押されたように」「一歩前に進んだ」。

 ふわりと浮いた身体は、頭を下にして真っ直ぐ落下した。
 あ。
 紙袋から人形達が出てしまった。
 とても残念に思った。
 この子達を抱いて死にたかった。

 すると。

「月子先生、月子先生」
 ぼたんが話しかけてきた。
 見ると、月子は空中で静止している。
 上を見ると、人形たちが、手を繋いで月子の上で輪を作っている。
「待ってたよ! 私たちの先生がお待ちです」
 先生?
「そうよ!」
 アキが話しかけてきた。
「月子先生を、ずっとずっと待ってたのよ?」
 それは、だれ?
「せんせいノ、とってもすきなヒト」
 頭のネジが外れたサクラが嬉しそうに笑う。
「……わたしたちの学校……人形学級へ」
 無口なつばきが呟いた。
「さあさあ、ご案内!」
 ぼたんちゃんが笑顔で叫んだ。

 時間が元に戻った。
 月子は下を見て、ハッとする。

 ひすいが、あの日の姿のひすいが、両手を広げて待っている。

 ああ。
 やっと。
 やっと会えた。
 会いたかった。
 会いたかったんだよ。
 ひすい──

 次の瞬間、月子は下にいた「人物」に頭から直撃し、額と頚椎を砕いた。
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