13 / 88
13 その声色
しおりを挟む天災は忘れた頃にやってくるとは、かの物理学者が残した災害警句だが、それが忘れたい記憶を呼び起こす人間だった場合は、どう表したら良いのだろうか。
雅紀の告白から数日経った中弛みの水曜日。やっとキレの良いところまで業務を片付けて会社を出た斗真を、後ろから呼び止める声があった。
「菱田さん。」
聞き覚えのあるような、そうでもないような。それでも人は、名を呼ばれたら反射的に反応してしまうもの。
呼び方からすると仕事関連の相手だろうかと、少しの微笑みを浮かべながら振り向いた斗真は、一瞬で凍りついた。
「金曜ぶり。」
忘れもしない。
行き交う人々の視線を惹き付けながら、此方に向かって来る背の高い男。唇の片方をつり上げて、目を細めながら笑顔で手を振っていたのは、あの夜斗真を抱き潰したアルファだった。
失恋して泥酔した斗真を介抱して、ついでのようにセックスまで。
翌日我に返った直後は、親切な男だと思ったけれど、素面になって思い返してみると、色々と引っかかる事があった。
斗真はそれほど酒に強くはない。だから外で飲む日は加減して飲むようにしている。あの日は…三村との事で辛かった。だから少しばかりそれを緩和できたらと、コンビニでライムのチューハイを買った。ほんの1本だけだ。
だが、空きっ腹にアルコールを入れたのが良くなかったのか、ちびちびと半分ほど飲んだ時には、体がぽかぽかとして、冷えた手で触った頬がとても温かく感じるくらい、暑くなっていた。
コンビニから少し離れた歩道沿いの所々錆びたガードレールに尻を凭せ掛けて、晩秋の夜空見上げていた時に声を掛けてきたのがこの男だった。
『今から知り合いの店に飲みに行くんだ。こんな所で1人でいないで、一緒に飲まない?』
かなりの美形で、独特のオーラがある。アルファの恋人を持った事がある斗真には、男がアルファである事がすぐにわかった。
(…悪いけど、あまり関わらないようにしよう。)
見知らぬ人間にこんなにフレンドリーに声をかけてくるなんて、何だかちょっと怪しい。それに、さっき誓ったばかりだ。アルファとオメガには関わらないと。仕事関係や友人関係は別にして、それ以外では新たな関係を増やしたくはない。
だから、斗真は男の誘いを断り、もう帰るからと言って立ち去る為にガードレールから腰を上げようとした。
立った途端にふらついて、男に支えられた。ふらついているのが危なっかしいからと、帰るのなら家まで送ると言われて困った。男は思いの外強引だ。何となくこういうタイプの人間には家を知られたくない。
だから、少しだけ男について飲みに行く事にしたのだ。
それが、良くなかった。
気づいた時にはあの店に居て、何だか良い気分になっていた。酔った自分が男にどんな話をしたのかは覚えていないが、楽しかったような気がする。だから勧められるままに、飲んだ事の無いカクテルなども飲んだ。今思えば、意図的に酔わされたのではと疑わしい。
酔いが酷くなって吐き気を催して、トイレで介抱された。吐くだけ吐くと酔いが覚めてきて、すすぎもしていない口にキスをされた時、何だかやけっぱちな気分になった。三村のマンションを出た時、自分は世界中の誰にも必要とされていない人間に思えていた。けれど目の前の男は、例え一時的な性欲の捌け口としてであろうと、欲してくれている。なら、くれてやっても良いか、なんて。
そして、あの寂れた連れ込み宿で抱かれた。
涙が出るほど気持ちよかった。情熱的だった過去の恋人達を思い出させるようでいて、それを遥かに凌駕する快楽だった。
認める。斗真は行きずりの男とのセックスを愉しめた。名も知らぬアルファの巨大なペニスに穿たれて、震えながら歓喜して、中に射精されて達した。
そして、愛がなくても快感を得られる自分を嘲笑った。
本能に逆らえなかった元恋人達も、こんな気分だったのだろうかと思った。
でも、男に優しくも激しく抱かれた事で、三村の事を吹っ切れそうだと思ったのは意外な効果だったから、少しの感謝もしたくらいだ。
それでも、結局は酒の上での一夜の過ち。
忘れようと決めたのに、何故この男がここに現れたのか。
「な、んで……アンタ、」
驚愕を隠せず後退った斗真に近づきながら、男は笑みを深める。
「やだな、菱田さん…。いや、とまくん。」
「何で、名前…。」
動揺を隠せない斗真の問いに、目の前に立った男はクスッと笑いながら答える。
「だって、あの夜名刺くれたじゃない、上機嫌でニコニコしながら。可愛かったなぁ。」
「…名刺…俺が?」
飲んでいた時の記憶は断片的で曖昧だ。その間何をしていたのか、喋ったのかも覚えていない。本当に自分が渡したのだろうか。
まさか男が勝手に荷物を漁って…と考えかけて、やめた。プライドが高いアルファが、たかがベータの身元を探る為にそんな事はするまい。きっと自分が話の流れか何かで渡したのだろう。
だからと言って、来るだろうか、普通。もしや宿に忘れ物でもしただろうか、と考えてみるが、思い当たらない。スマホも財布もキーケースも鞄の中に入っていた。
「…あの日は、お世話になりました。」
何か目的があるのかはわからないが、取り敢えずは礼を言ってみた。得体の知れなさに少しの恐怖で舌が縺れそうになる。こんなに人の行き交う場所で、何をされる筈も無いのに。
斗真の言葉に、男は笑顔のまま首を振る。
「そんな。俺は何も。」
それから、周囲を見渡して言った。
「少し、話があるんだ。ちょっとだけ時間くれないかな。」
それは、相手に選択の余地を与えているようでいて有無を言わさぬ、アルファ特有の圧を持った声色だった。
応援ありがとうございます!
13
お気に入りに追加
1,431
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる