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6 男、目覚める
しおりを挟む年季の入った安布団の中で男が目を覚ました時、腕の中はもぬけの殻だった。
ガバッと掛け布団を跳ね除けて起き上がり、室内をキョロキョロと見回すが、薄暗い部屋の中のどこにも人の姿は無い。
「しまった…逃げられたか。」
そんなボヤきが口から漏れた。何故目覚めなかったのだろうか。ここ何年も不眠症気味で、少しの衣擦れの音にすら目覚めてしまうような生活を送ってきた。万が一寝入ってしまったとしても、彼が動けば気づける自信があったのに。
しかも布団から少し離れた所にある座卓の上には、何故か万札が3枚。
こんな宿の宿泊費にしては高過ぎる。まさか、自分を男娼と思った訳ではなかろうが…。
(まあ良い。)
今日のところは仕方ない。
どうせ手はある、と男は畳の上に脱ぎ捨てていた自分の上着を掴み上げ、その内ポケットに左手の先を差し入れた。スッと抜き出した人差し指と中指に挟まれた1枚の名刺。そこには社名と、総務課 菱田 斗真の文字が印字されている。
昨夜、飲ませて上機嫌になった斗真からもらった名刺だった。
男はその文字を右手の人差し指の先でなぞりながら、少し微笑んだ。
「俺を眠らせてくれる人に、やっと会えたよ、羽純(はずみ)。」
男の名は庄田 匠(しょうだ たくみ)という。今年28歳、独身。そして斗真の見立て通り、アルファだ。
だが、オメガには興味が無い…というのは語弊があるか。正確には、オメガだからという理由だけでは、興味を持てなくなったというべきかもしれない。
庄田は一度結婚していた事がある。学生時代から付き合っていた、羽純という男性オメガとの番婚だ。惹かれ合って愛し合って、番を持ったアルファの殆どがそうであるように、溺愛した。彼以外の人間などは目に入らないほどに。
大学を卒業し、祖父の会社に入ったタイミングで番になり、一人っ子だった彼の実家近くに新居のマンションを購入しての新婚生活が始まった。うなじを許し番になってくれた彼は、オメガとしては平凡な顔立ちだったが、穏やかで優しく家庭的で、特に料理が上手だった。
『親が共働きだったから、自然にね。』
料理を褒められるとはにかむようにそう言って微笑む彼は、胸が詰まるほど愛おしく、彼が自分の番で良かったと何度感謝したかわからない。
だが。
人生というものは、最高潮の時にほど落とし穴があるものなのだろうか。
羽純は、ある日あっけなくこの世界から居なくなってしまった。結婚して半年。庄田が仕事に出ていた日中の事で、買い物中に暴走事故に巻き込まれたのだと搬送先の病院から連絡が来た。
病院の霊安室で冷たくなった羽純と対面した時、庄田の心は一度死んだ。
何故、こんな事が起きているのだろうか…。
自分達は番である筈なのに。一心同体だと思っていた。どちらかが死ぬ時には、もう片方も自然とそうなるものなのだろうと、疑う事も無く信じていた。
だって、自分達は番なのだから、と。
けれど現実はどうだろうか。
彼の心臓が止まり細胞が生命活動を終えても、庄田の心臓は相変わらず動いている。時を刻み続けている。
番なのに。何よりも強く、深い絆で結ばれている筈の番なのに。
こんな事があって良い筈がない…。
庄田は半狂乱になり、羽純の遺体に取り縋って泣き喚いた。事件を引き起こした運転手に怨嗟の言葉を喉が避けるほどに叫んだ。
けれど、その運転手も先程亡くなったと聞かされ、庄田はもう、自我を保つ事が出来なくなってしまった。現実を受け入れられず、倒れ込んだ。
庄田が意識を失って倒れ入院している間に、羽純の葬儀が執り行われた。喪主は羽純の父親が務め、荼毘に付し、四十九日の後の納骨まで済ませてくれたとは、回復してから聞かされた話だ。
番の夫婦の場合、伴侶を喪った片割れが喪主を務められる事はあまりない。そのあまりに大き過ぎる喪失感から、正気を保てなくなるからだ。中には伴侶の死を聞かされてその場で亡くなってしまう例もある。
そんな理由から、親族が喪主を代行する場合が多い。
そのくらい、番の結び付きというものは深い。
番契約が結ぶものは、体だけではないからだ。
庄田が白い病室のベッドの中で自意識を取り戻したのは、番の事故死から半年以上が経った頃だ。
茫洋と漂うように虚ろだった目の焦点が不意に合って、本当にスッと理解した。
『彼はもう、いないのだ。』
と。
そして、自分は後追いから追い返されてしまったのだと思った。彼は庄田を連れていってはくれなかったのだ。
そういう人だった。
誰よりも愛してくれたけれど、愛したからこそ連れてはいかないと考えるような、強さを持っていた。
羽純は庄田の後追いを望まない。庄田は生きるしかなくなってしまった。
片翼を失くしたアルファとして。
生きると決めたのは良かったが、半年以上の入院で衰えた体はすぐには思うように動かず、日常生活を取り戻すまでには更に半年のリハビリを要した。
やっと自宅マンションに帰った時、既に一年以上が経過しているというのに、そこはあの日、庄田が出掛けた朝に見たのと寸分違わぬものだった。
羽純の両親に管理を任せていたから、冷蔵庫を開けてみても生物や腐りものの類は残っていない。処分してくれたのだろう。
けれど、羽純が好きでよく飲んでいた缶チューハイや未開栓のミネラルウォーターのボトルはそのままで、それが庄田を一気にあの頃に引き戻した。
ベッドルームには羽純の使っていた枕。流石に義両親も息子の超プライベートである寝室に足を踏み入れるのは躊躇ったのだろうか。枕カバーはあの日のままで、少し埃を被っていた。それを手で払うと、…ふわりと、羽純の香りがした。
1年も経ったのに。羽純自身はもうこの世のどこにもいないのに。
羽純が醸し出した香りだけは、まだここに在る事が切なくて、庄田は枕を抱きしめて泣いた。じきにこの香りも跡形もなく消えてしまう事がやるせなかった。
羽純を失って、半年間の意識の彷徨いから覚めてからずっと、庄田の眠りは浅い。
誰かを慰みに抱いても、仕事に打ち込んでも、医者に通っても、その状況が変化する事はなかった。
ぐっすり眠れたのは、昨夜が数年ぶりの事だったのだ。
昨夜抱いた男、菱田斗真。
彼はガードレールに腰掛けて、羽純の好きなチューハイを飲んでいた。それに目を引かれ、ほろ酔いになっていた姿に羽純の面影を見て、気紛れに拾っただけだったのに。
本当にただ、それだけの筈だった、のに…。
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