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最愛の人は

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「ごめんなさい、お風呂借りてしまって」
「まさか風呂の入れ方を忘れてるとはな」
「だ、だってこういうの使ってたの二十年も前だもの」
「そうだな……二十年だ……」

 二十年という年月は二人にとって笑いながら話せるようになる時間ではなかった。
 愛し合っていながら別れ、それ以来一度も会っていなかった。自分の実家を訪ねた際、彼の両親は顔を出しても彼はそうしなかった。
 二十年目にして今更会うことになるとは、少なくともユーフェミアは想像さえしていなかった。
 イアン・リンドバーグという男を愛していた過去は変えられない。それでも、それはもう過去の話。今、ユーフェミアが愛しているのはトリスタン王だけだ。

「座ったら? 安宿だから清潔じゃないかもだけど」
「平気よ。清潔な場所で育ったわけじゃないんだから」
「王妃様をこんな場所に座らせたって知られたらギロチンかな」
「このアステリアでそんなことありえない」

 実際、普通の家で暮らしていたのは十四年。残りの二十年は埃一つ落ちていない城で過ごしてきたせいで座るのに少し躊躇したが、古びた木の椅子に腰かけた。ギイッと音を立てて今にも壊れそうな状態に目を見開くとイアンが笑う。

「お前の服は乾かしてもらってるから」
「ありがとう」

 離れていた二十年分の話があるはずなのに、二人は昔話に花を咲かせようとしない。互いにチラッと横目で見てはまた壁を見る。

「老けたな」
「お、お互い様じゃない」
「でも変わらずキレイだ」

 驚きに目を見開いたユーフェミアの視界にはあの頃と変わらない優しい笑顔を浮かべるイアンがいた。

「……あなたはあれからすぐに旅に出たと聞いたわ」
「ああ。失恋旅ってやつだな」
「ごめんなさい」

 謝るユーフェミアに静かに首を振るイアンは苦笑を滲ませ頭を掻く。

「お前はこの二十年間、幸せだったか?」

 顔を向けると真っ直ぐ見つめるイアンの瞳と視線が絡んだ。

「ええ、とても幸せだったわ」

 笑顔で頷くユーフェミアにイアンが安堵したように息を吐いて笑う。

「ずっと、それだけが心配だった。お前は自分の利益のためじゃなく、親のために自分の人生を決めた。辛くてもお前はきっと自分で選んだ道だからって我慢するんじゃないかって心配で夜も眠れない日々が続いたんだ。城に行っても会わせてもらえないし、門番にはお前のような貧乏人に王妃様がお会いするわけないとか言われてな」
「そんな失礼を……ごめんなさい」
「いや、そのとおりなんだ。俺にとってお前はいつまでも隣の花屋のユーフェミアだけど、実際はこの国の母であり王妃なんだって一周年のパレードで皆に祝われてるお前を見て思った。だから旅に出たんだ。お前のことばかり考えてるわけにはいかないと思ってさ」

 自分の決断が自分の人生だけではなく人の人生までもを変えてしまった自覚はあった。実家の花屋が潰れずに済んだのはトリスタンが約束どおりイベントで使う花も城に飾る花も全てユーフェミアの実家の花屋に注文を出してくれたから。それが当然集客にも繋がった。ミーハーな貴族達は手のひらを返したようにリンドバーグの花屋から移ってきた。【王室御用達】というブランドに惹かれて。
 喜んでいたのは母親だけで、父親は申し訳なく思っていた。母親が客足が減ったリンドバーグの店を見ながら『ざまあみろ』と高笑いをしていたのは最悪の記憶として残っている。

「結婚は?」
「まだしてない」
「そう」

 口をついて出そうになった『あなたなら良い人が見つかるわ』の言葉を飲み込んだのは無責任はことは言いたくなかったからで、二十年ずっと旅に出ていたのに現地で嫁を見つけずに故郷に帰ってきたのは何か理由があるのだろうとなんとなくだが、そう思った。

「お前は? 王妃としての暮らしはどんな感じなんだ?」
「どんな……んー……浮世離れした世界よ。自分のことは自分ではしない世界にいる。髪を梳くのもお風呂に入るのも自分ではしないの。私は二十年間、自分のことを自分でしたことがない。だからお風呂を入れるのも水が先かお湯が先かを忘れちゃった」
「まあ、トリスタン王がお前を苦労させるわけないか」
「ええ」

 二十年間、国を離れていた相手でさえトリスタンがどれほど妻を深く愛しているか知っている。それほどトリスタンという男は信頼されているのだ。信頼のため、愛されるためにしてきた努力が認められたようで嬉しくなったユーフェミアは笑顔で頷く。

「食事も食べさせてもらうのか?」
「まさか。それだけは自分でするわ。歩くのも自分の足よ。でも、本当にそれだけ。他は自分ではしないの。ふふっ、変な世界よね」

 貴族でも自分で風呂に入るのにと笑えば王族というのがどれほど特別なのか改めて思い知る。

「トリスタン王はどういう人なんだ?」

 どう答えるべきか少し迷った。イアンは口の軽い人間ではない。きっとトリスタンが子供のような人だと、愛人を四人も抱えていると言っても誰にも話はしないだろうが、彼が必死に築き上げてきた努力とイメージを壊したくはなかった。彼が必死に築き上げてきたものは守るべきものだ。

「素敵な人よ。いつも国のこと、民のことを考えてくれているし、なんにでも全力で一生懸命な人」
「妻から見ると?」
「愛がいつも溢れている人。いつだって惜しみなく愛を注いでくれるの。ううん、そんな小さなものじゃなくて、いつだって愛を両手いっぱいに抱えて届けてくれる人」

 どれも嘘ではない。彼はいつでも愛してくれていた。それは誰が見ても間違いないようがないほどほど確かなもので、彼を愛するようになったのも彼がいつだって惜しみなく愛をくれたから。

「その顔見ればわかる」
「え? わ、わたくしそんな顔してた?」
「今はわたくしって言うんだな」
「あ…ええ、そうなの。そう言いなさいって結婚してすぐわたくしって変えさせられたの」

 相手と話していると昔の自分が出ているように思っていたが、自分は既に王室の人間なのだとこんな小さなことで自覚する。

「あなたはどんな旅をしていたの?」
「特別なことは何も。歩いたり、馬車に乗ったり、走ったり。ああ、船にも乗った」
「世界を見て回るってどんな感じ?」
「世界会議で世界回ってないのか?」
「世界会議はアステリアで行われるようになったから外の国へは行かないの」
「事故のせいか?」

 イアンの言葉に頷く。
 トリスタンの両親は世界会議に向かう道中で事故に遭った。それが彼のトラウマになっていると他国の王達は理解してくれているためアステリアでの開催を許してくれているが、実際の理由は『自分が途中で事故に遭ってユーフェミアを一人したくないから』であり『数年後に僕以外の男と結ばれるのは許せない』という嫉妬からであることはアストルム王国が唯一他国に言えない秘密。

「苦労しただろ」
「最初はね。歩き方や食べ方まで指示されるんだもの。驚いたわ」
「逃げだしたくならなかったか?」
「なった。何百回もね。でも、両親を亡くして一番辛い彼が必死に頑張ってるのに逃げだすなんてできなかったし、考えられなかった」

 苦労は苦労だった。
 小股で歩かなければ誰かに迷惑をかけるのか? 少量ずつ食べなければ品がないのか? スプーンが食器に当たったら音がするのは当然じゃないのか?
 毎日そう反論したいのを堪えて〝王族のマナー〟というものを身につけていった。
 アステリアで開催された国同士の交流会に出席したときに『食べ方の美しさ、見習いたいですわ』と言われて初めて努力が報われたと感じ、それから自分でも頑張ろうと思えたのだ。

「……もし、俺たちが夫婦になってたら……どんな家庭を持ってただろうな……」

 なかった可能性ではない。トリスタンが求婚しなければきっとイアンと結ばれていたはず。
 考えなかったわけじゃない。トリスタンと結婚してから一年はイアンと結婚していたらと考えていたのだから。
 でもユーフェミアからは言えない。自分は立場ある人間となった。他の男と笑い話としてもそんなことは自ら言うべきではないと答えなかった。

「どっかで花屋を開いてたかもな」
「おじさんのお店継がないの?」
「譲る気なさそうだからな。八十ぐらいまではやるんだと思う。今も現役だし」

 二人で大好きな花に囲まれながら来てくれるお客に花束を作る。花束にはその人の人生が詰まっていると感じていたユーフェミアは想像するだけで素敵だと笑みが溢れる。
 恋人や両親、好きな相手、大切な人。贈る相手は様々で、どれも贈る側の想いが詰まっている。それがどれほど素晴らしいものか、ユーフェミアは長い間忘れていた。

「だから自分の店を開いて俺とお前で一緒に国中の人に花を届ける」
「素敵ね」
「そうしたかった」

 静かな声にユーフェミアは苦笑を滲ませ少し俯いた。
 その素敵な夢を壊したのは自分だ。あの時、イアンを心に残したまま家の利益を優先して結婚してしまった自分のせい。

「贅沢はさせてやれなかっただろうけどな」
「儲かってないのね?」
「花屋はそんなに儲からないだろ」

 裕福な家庭に生まれたわけではないのだから贅沢は望んでいなかった。愛する人と結婚して家庭を持つ。そんな小さな幸せがあればいいと思っていたのに、今はそれと正反対の状況に立っている。

「子供は二人か三人は欲しかった」

 その言葉にユーフェミアの肩がビクッと跳ねた。

「どうした?」
「え、いっいえ、なんでもないわ……」

 イアンと結婚していても子供は望めなかった。二十年間ずっと頑張ってきたのに一瞬でもその兆しが見えたことはない。毎月、遅れることなく流れ出てくる血を見ては溜息を吐き、愛する夫に報告する。
 疑わずにいられたのは自分が報告するたびに必ずトリスタンが『すまない』と謝ってくれたから。辛い顔をして心から謝ってくれていたからユーフェミアは自分が不妊だと疑わずに過ごせた。謝らなければならないのは自分なのに。
 こみあげる涙を堪えきれず溢れさせるユーフェミアに驚いたイアンはどうすればいいかわからず無意味に左右を見回してからまだ使っていないタオルを差し出した。

「ごめんなさい……」
「いいんだよ」

 誰に謝っているのかユーフェミア自身わかっていなかった。結婚の約束を破ったイアンになのか、それとも守り続けてくれたこの場にいないトリスタンになのか。
 優しく頭を撫でてくれるイアンに首を振るも言葉は出てこない。

「トリスタン王と何かあったのか?」
「……」
「話ぐらい聞くぞ? 他言するつもりもないし」

 内情を話してもイアンは絶対に言わない。きっと親にさえも。わかっている。でもユーフェミアはまた首を振るだけ。本当のことは言えない。

「彼の優しさに気付けてなかった自分が情けなくて……」
「それで?」
「ずっと…長い間、彼は私を守ってくれてた。ううん、今もずっと守り続けてくれてるの。私はそんなことも知らずに彼を責めてた。バカよね」

 隠していた相手が悪いとは思わない。それが彼の優しさだとわかっているから。

「言わなくてもわかるっていうのは傲慢だ。血の繋がった親子でさえ言い合わなきゃわからないのに、他人が夫婦って形になったからって言わなくてもわかるなんて絶対にありえないんだよ。一方的に言うだけじゃダメだ。一方的に聞くだけでもダメだ。分かり合うためにちゃんと目を見て、ちゃんと想いを伝え合わないと」

 不思議なほど胸に入ってくる言葉にユーフェミアの涙が止まる。
 ユーフェミアは今までずっと自分が独りよがりだったことに気付いた。愛人を切れと言うのも、切らなければ離婚だというのも全て一方的で、ちゃんと話し合おうとしたことは一度もなかった。互いに嫌だと思うことを向かい合って話したことはなく、なぜわかってくれないんだと不満ばかり抱えていたことにようやく気がついた。

「家庭も持ってない俺が偉そうに言えた話じゃないけど」
「ううん、ありがとう。……わたくし、帰ります」
「もう遅いぞ。明日の朝送るから泊まってったらどうだ? 俺は床でも寝られるし」
「朝になったらきっと捜索隊が出るだろうから」

 王妃がいなくなって朝まで待つようなのんきな性格ではない夫はきっと今ごろ人を集めて捜索に出る準備をしているはず。
 立ち上がるユーフェミアを無理に引き止めはせず、イアンは黙って一緒に宿を出た。

「家には戻らないの?」
「またすぐ旅に出るからな。ちゃんと目的を持つまで帰ってくるなって言われてるんだ」
「目的はまだ見つからず?」
「目的はあるけど、それを実現する物をまだ手に入れられてないからもう少し世界を回るつもり。北の方に珍しい種があるらしくて、それを見に行こうかなって思ってる」

 いつだって花のことで頭がいっぱいなのだと微笑ましくなる相手の変わらぬ姿に静かに頷けば立ち止まって空を見上げる。
 雨を降らせていた曇天だったの空は雲が晴れていつの間にか満天の星空へと変わっていた。

「キレイね。私がつけてたダイヤモンドのネックレスみたい」
「あれはすごかったな」
「あれに相応しい王妃にならないといけないのにまだまだだなぁっていつも思うの」

 豪華なドレスに煌びやかな装飾品がいつだって自分を豪華な王妃に仕上げてくれる。でもだからといって本来の自分が豪華かと言うとそうじゃない。
 今回のことも何も知らない未熟な自分が引き起こしたことなのだと自覚した。

「国のため、国民のためにお前が生きようとするように、国民もまた同じなんだってことを忘れるな」
「どういうこと?」

 わからないと首を傾げる。

「お前が一人で努力して努力して立派な王妃になるんじゃない。国民たちがお前を立派な王妃にしてくれるんだよ。国民たちがお前を偉大な母だと、愛する王妃だと讃え、お前はその期待に応えられる王妃になろうとする。そうやって皆が誇るこの国の王妃が出来上がってくんじゃないか?」

 国民のために立派な王妃にならなければと思っていたユーフェミアにとってイアンの言葉は驚きを与え、返事の代わりに表情で答えた。

「国民たちも両陛下に誇ってもらえるようにって努力して生きてるんだぜ」

 国民一人一人に向き合う機会はほとんどなく、国民の声が王室まで届いたことはきっとない。「こう思っているだろう」という推測で勝手に動いているだけ。それでも国民の数は減らず、年々増えている。アステリアを誇れるのは自分たちの努力ではなく民の努力あってだと気付かされた。

「もちろん俺もその一人だからな」

 笑顔を見せるイアンに目を瞬かせるが、すぐに笑って頷いた。

「いつか、あなたのお花を見せてくれる?」
「ああ、もちろんだ。一番にお前に贈るよ」
「ふふっ、楽しみにしてる」

 二人で並んで歩く時間は昔と違ってドキドキするものではなかったが、ユーフェミアには新鮮だった。護衛もいない、まるで十代の頃に戻ったように自由に歩ける自由な時間。
 戻りたくないと子供のように駄々をこねていた足取りは軽かった。

「いいか、ユーフェミアを探し出すまで帰ってくるな! もしユーフェミアの肌に傷一つでもあったら許さない! 傷をつけた奴を見つけ出して広場で拷問の末ギロチンにかけてやる!」

 城の前で足を止めた時に聞こえた物騒な言葉。アステリアでそんなことあるわけがないとイアンに言ったばかりなのに。
 ぞろぞろと出てくる騎士達に間に合ってよかったと安堵とは裏腹に苦笑を滲ませる。
 この国の平和の象徴であるトリスタンの暴挙を国民には見せたくなかったが、全て自分がさせてしまったことだと足を踏み出した。

「陛下」
「ああッ……ユ、ユユユユユ……ユーフェミアッ!」

 食堂で別れて一日も経っていないというのに何週間ぶりかに会ったような反応を見せるトリスタンに眉を下げながら手を伸ばすもその手は掴まれず強く抱きしめられた。

「ど、ど、ど、どこに行っていたんだ! 城中ずっと探してたんだぞ! 夕食に姿を見せないし、エリオットやラモーナに聞いても見ていないと言うし! ぼ、僕が話しかけるなと酷いことを言ったから愛想を尽かせて出ていったのかと思って……」
「外を歩きたくなったのです。勝手なことをして申し訳ございません」

 声を震わせながら泣いた子供を慰めるように何度も手を動かすトリスタンの温もり。久しぶりに感じる純粋な温もりが恋しかったのだと実感するユーフェミアは何度か首を横に振るもトリスタンはその倍も首を横に振った。

「僕を……僕を一人にしないでくれ……」

 愛人は四人いて、トリスタンが望めば飽きて捨てられるまで傍にいるだろう。それでもトリスタンはユーフェミアがいなくなるだけで一人になってしまうかのような言い方をする。それが嬉しい。でもだからこそわからない。こんなにも想ってくれているのに愛人を切ってほしいという簡単な願いをなぜ受け入れてくれないのか。
 それもちゃんと話し合わなければならない。

「陛下、ご心配をおかけして申し訳ございません。事情は中でお話させてください」
「もう、出ていったりしないか? 僕の傍にいてくれるのか?」
「子供のようですよ、陛下」

 涙だけではなく鼻水まで垂らしている様子に微笑みながら頬を撫でると猫のように手に擦り寄ってくる愛する夫と話をしよう。嘘偽りなく全てを話そうと手を繋いで中に入ろうとしたとき、騎士たちが一歩動いた。

「待て!」

 一人が大きな声を出して誰かを呼び止めた。

「何者だ、貴様」

 振り向いたユーフェミアは慌ててイアンを紹介しようとするが、トリスタンが手を引っ張ったことでその場からは動けなかった。

「その方はイアン・リンドバーグさんです。わたくしの幼馴染。無礼は許しません」

 ユーフェミアの言葉に騎士たちが一斉に振り返り、驚いた顔を見せる。なぜ幼馴染と一緒にいたのか。こんな時間まで男と二人きりだったのかと邪推しているのが表情に出ていた。
 それはトリスタンも同じで、絶望したような表情でユーフェミアを見ている。

「彼は私をここまで送ってくださっただけです。怪しい者ではありません」
「で、ですが……」
「何か問題でも?」
「い、いえ! 問題ありません!」

 反射的に足を揃えて姿勢を正す騎士の前をユーフェミアが通り過ぎる。手を離さないトリスタンを連れてイアンの前に行けばユーフェミアはそのままほんの少しだけ頭を前に傾けた。

「送っていただいたこと、感謝します。気をつけてお帰りなさい」
「もったいなきお言葉です、王妃陛下」

 幼馴染といえど身分違い。ユーフェミアの態度に合わせてイアンも深く頭を下げたあと、目も合わせず帰っていく。その背中を目で追うユーフェミアを不安げにトリスタンが見つめているとユーフェミアがまたトリスタンを見て微笑んだ。

「さ、入りましょう。お身体が冷めてしまいます」
「湯の用意をしてあるんだ。君が帰ってきたらすぐに入れるようにと」

 上着をかけられ急いで中に入るトリスタンとユーフェミア。
 どこにいた。何をしていた。聞きたいことと話したいことが同じで、二人は湯に浸かるまで口を開かず黙っていた。




「湯加減はどうだ?」
「ちょうどいいです」
「そうか。ぬるくなったら湯を足させよう」

 二人での入浴は久しぶりで、後ろにトリスタンの肌を感じながらユーフェミアは湯に浮かぶバラの花を数えていた。
 話すことが多すぎて何から話せばいいのかわからず迷っている。

「陛下、あの──」

 振り向いて真実を告げようとしたユーフェミアにトリスタンは黙って首を振った。

「僕も今は冷静じゃない。明日、改めて話をしよう。今日は久しぶりに君と湯に浸かっているのだから余計な話は必要ない」

 子供のように泣きじゃくっていたのが嘘のように静かな声を出すトリスタンの目は少し赤くなっていて、手を伸ばして人差し指でそっと触れると柔らかな笑みが向けられる。
 明日、真実を告げたときに互いにこうして笑顔でいられるのか、そんな不安がユーフェミアの頭を過るが信じるしかない。彼がちゃんと真実を話してくれることを。
 そして話し合わなければならない、ティーナのお腹の子をどうするのかを。

「やはりバラの花はいいな。君の赤らんだ肌によく似合う。張り付けてもいいか?」
「いいですけど、すぐに剥がしますよ?」
「うぅ……なぜそのままでいてくれると言ってくれないのだ」
「花びらが身体についたままは気持ち悪いです」
「そうか。真っ白なシーツの上でその陶器のように滑らかな肌の上にバラの花びらを飾れば素晴らしい芸術作品になると思ったのだがな」

 いつだって大袈裟な表現をするトリスタンにユーフェミアが笑えばトリスタンもつられて笑う。
 今日はトリスタンの言うとおり余計な感情は持たないことにした。今日の感情は今日のうちに消化して、明日は新しい気持ちで向かい合うのだと湯から上がって先にベッドに入るとトリスタンもすぐに入ってくる。

「陛下とこうして一緒に入るのは久しぶりですね」
「いつも君は先に寝てしまうからな」
「愛人の所へ行く夫を起きて迎えるほど健気な妻ではありませんから」
「離婚すると言いだすしな」
「そうですね」
「でも僕はしないと言い続ける。君を手放すなんて考えられないんだ。僕の人生から君を取り上げないでくれ」

 抱きしめる腕の強さが、その言葉が、想いが本物であると告げているのにもう一歩を踏み出してくれないからいつも正しい言葉を返せなくなる。
 取り上げるという子供のような言い方を聞きながらユーフェミアはトリスタンの背中に腕を回して抱き返した。
 いつもは天井を見上げながら並んで眠るのが、今日だけは違う。二十代の頃のように向かい合って抱き合った。

「ユーフェミア、僕は世界で一番君を愛している。君がいれば他に何もいらない」

 子供も?と嫌な部分が顔を覗かせそうになる自分に吐き気がする。

「わたくしもです、陛下」

 同じ想いなのに互いに喜んだ表情はない。

「おやすみ、ユーフェミア」
「おやすみなさい、陛下」

 優しい声で交わす夜の挨拶。
 今日はいつもと違って互いの温もりを感じている夜なのにどちらも目は閉じず、眠れぬまま朝を迎えた。

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