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再会
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花壇の奥にある今は使われていない出口から出たユーフェミアは少し歩いてすぐに立ち止まった。街に出た所で行く場所がない。実家があるといえど帰ることなど許されないだろう。
(お父様は受け入れてくださるだろうけど、お母様はきっと怒って追い返す……)
公式訪問であれば大喜びで受け入れてくれるだろうが、今は公式に動いているのではなくユーフェミアが逃げ出した形。事情を話しても憤慨して戻されるだけなのは想像に難くない。
(王妃が何やってるの……)
今までどんなに辛くても無断で抜け出したことはなかった。まだ十代だった頃はよくトリスタンに手を引かれて抜け穴から外に出て自由を味わっていた。厳しい教育の中で二人にとってその時間だけが唯一の自由時間だった。誰かに時間を、行き先を決められるでもなく自分たちの足で思うままに歩いて、走って──
(いつから変わってしまったのかしら……)
愛人を作るようになってからだ。
彼が初めて愛人を作った日のことをユーフェミアは一生忘れない。あの驚きとあの悲しみ。自分だけの人だと思っていた最愛の人は別の女性がその顔に、身体に触れることを許した。
諦めがつくようになったのは二人目の愛人ができたとき。
(でも、やっぱり嫌なのよね……)
愛しているから自分だけを見てほしい。嫌々結婚したあの日から経った二十年という年月はユーフェミアにとって間違いなく愛を育む時間となった。
愛は伝わってくるのに、その愛を囁く裏にはいつも他の女の影があって、彼の想いをいつしか素直に喜べなくなっていった。いっそ、愛など囁いてくれるなとさえ思う。
出会ったときから横柄で、幼稚で、イアンと比べることは何度もあった。それでもいつも全力で気持ちをぶつけてくる相手にいつの間にか惹かれて、いつの間にか愛していた。
何にでも全力。泣くのも怒るのも笑うのも愛を伝えるのも──
(彼は子供を作れる……彼は……彼は作れるのね……)
安堵か悲しみかわからない涙が溢れて止まらない。
『幼い頃に高熱で生死をさ迷ったときがあった。たぶん、その熱が原因で作りにくくなってしまったのかもしれないな』
その嘘は彼の優しさだった。君は子供が出来ない身体だと妻にだけ知らせればよかったのに、夫はそうせず自分に責任があることにして守り続けてくれた。
『出来にくいだけだ。僕たちが諦めずに愛を育んでいれば神もきっと子を授けてくださるさ! 僕たちの努力を神はきっと見ていてくださるはずだから!』
子供のような笑顔で抱きしめてくれた夫はあのとき、どんな顔をしていたのだろう。きっと泣きたかったのは彼のほうだ。今更になって事実を知ったことより子供好きな彼が生涯我が子を抱けないと知ったことのほうがずっと辛かっただろうと思うと嗚咽が漏れる。
思えば、彼が言った〝努力〟という言葉は“子種の数を増やす”という意気込みではなく“受け入れない妻の子宮にちゃんと届ける”という意味だったのだろう。
彼には精力的な料理は必要ない。だって彼は健康だから。それでも自分の責任にしたから、トリスタンは毎日精がつく料理を食べ続けた。
全ては愛するユーフェミアのため。
(なんてひどい妻なの……)
十年も守られていながら自分は愛人の存在を疎んで離婚まで切りだした。彼がどれほど大きな愛で包んでいてくれたかも知らず──
降りだした雨がぽつぽつと顔に当たり、髪を濡らし、身体を震えさせる。それでもユーフェミアは城に帰ろうとはしなかった。どんな顔で帰ればいいのかわからない。
夫への感謝、不妊の申し訳なさ、愛人の妊娠。どれもがバラバラの感情で何もまとまっていない状態。
何を言おうとティーナが妊娠した事実は変わらない。彼女のお腹の中にいるのはトリスタンとユーフェミア、そして国民が二十年間待ち望んでいた王家の子供。この国の安泰を守り続ける世継ぎだ。
自分との子供ではなくともトリスタンの子であることには違いない。自分の子ではないから受け入れられないなどあってはならない。かといってティーナが子供を素直に渡すとも思えなかった。
『不妊のくせにいつまでも王妃の座に腰かけてんじゃないわよ』
ティーナは確かにそう言った。自分が王妃になるつもりがないならユーフェミアが王妃の座に就いていても問題はないはず。それなのにティーナはユーフェミアが王妃であることが気に入らないとでも言いたげだった。
ユーフェミアは今までずっと勘違いをしていた。王妃になれば大きな責任が付きまとうから何の責任もない愛人で満足しているのだと思っていたがそうじゃない。実際はチャンスがなかっただけだ。チャンスがあれば掴みに行く。ティーナはずっとそのチャンスを狙っていた。そして今、そのチャンスを掴み取ったのだ。打って出ないはずがない。
問題はトリスタンがユーフェミアとの子ではないとしても自分の子供ができたという現実をどう受け止めるか。ユーフェミアには喜びと絶望、どちらのトリスタンも浮かんでしまう。
どちらを見せても自分はちゃんと対応しなければならない。彼が取り乱すのなら落ち着けなければならないし、喜ぶのなら受け入れなければならない。
(ちゃんと話し合わなきゃいけないけど……まだ、戻りたくない……)
雨で冷えた身体が震え、思考力が低下していく。どこかで雨宿りをしなければと歩きだそうとしたユーフェミアの前に足音が一つ。
「ユー……フェミア……?」
聞き覚えのある声。
きっと、今聞くべきではなかった声。
「……イアン……?」
会ってはならない相手が目の前に立っている。
あの日、あのパレードで見た男は間違いなくこの男だった。優しい声をした、優しい顔をした、優しい人。
「どうしてお前がこんな所に……いや、今はそんなことを聞いている場合じゃないな。こっちに宿を取ってる。おいで」
雨が降っているのに掴まれた手が熱い。
あの頃よりずっと大きな手がユーフェミアの細い手を掴んでいる。
妻が夫以外の男に手を引かれるなどあってはならないことなのにユーフェミアはそれを振りほどくことができず、どうすればいいのかわからないまま雨の中、彼のあとをついていった。
(お父様は受け入れてくださるだろうけど、お母様はきっと怒って追い返す……)
公式訪問であれば大喜びで受け入れてくれるだろうが、今は公式に動いているのではなくユーフェミアが逃げ出した形。事情を話しても憤慨して戻されるだけなのは想像に難くない。
(王妃が何やってるの……)
今までどんなに辛くても無断で抜け出したことはなかった。まだ十代だった頃はよくトリスタンに手を引かれて抜け穴から外に出て自由を味わっていた。厳しい教育の中で二人にとってその時間だけが唯一の自由時間だった。誰かに時間を、行き先を決められるでもなく自分たちの足で思うままに歩いて、走って──
(いつから変わってしまったのかしら……)
愛人を作るようになってからだ。
彼が初めて愛人を作った日のことをユーフェミアは一生忘れない。あの驚きとあの悲しみ。自分だけの人だと思っていた最愛の人は別の女性がその顔に、身体に触れることを許した。
諦めがつくようになったのは二人目の愛人ができたとき。
(でも、やっぱり嫌なのよね……)
愛しているから自分だけを見てほしい。嫌々結婚したあの日から経った二十年という年月はユーフェミアにとって間違いなく愛を育む時間となった。
愛は伝わってくるのに、その愛を囁く裏にはいつも他の女の影があって、彼の想いをいつしか素直に喜べなくなっていった。いっそ、愛など囁いてくれるなとさえ思う。
出会ったときから横柄で、幼稚で、イアンと比べることは何度もあった。それでもいつも全力で気持ちをぶつけてくる相手にいつの間にか惹かれて、いつの間にか愛していた。
何にでも全力。泣くのも怒るのも笑うのも愛を伝えるのも──
(彼は子供を作れる……彼は……彼は作れるのね……)
安堵か悲しみかわからない涙が溢れて止まらない。
『幼い頃に高熱で生死をさ迷ったときがあった。たぶん、その熱が原因で作りにくくなってしまったのかもしれないな』
その嘘は彼の優しさだった。君は子供が出来ない身体だと妻にだけ知らせればよかったのに、夫はそうせず自分に責任があることにして守り続けてくれた。
『出来にくいだけだ。僕たちが諦めずに愛を育んでいれば神もきっと子を授けてくださるさ! 僕たちの努力を神はきっと見ていてくださるはずだから!』
子供のような笑顔で抱きしめてくれた夫はあのとき、どんな顔をしていたのだろう。きっと泣きたかったのは彼のほうだ。今更になって事実を知ったことより子供好きな彼が生涯我が子を抱けないと知ったことのほうがずっと辛かっただろうと思うと嗚咽が漏れる。
思えば、彼が言った〝努力〟という言葉は“子種の数を増やす”という意気込みではなく“受け入れない妻の子宮にちゃんと届ける”という意味だったのだろう。
彼には精力的な料理は必要ない。だって彼は健康だから。それでも自分の責任にしたから、トリスタンは毎日精がつく料理を食べ続けた。
全ては愛するユーフェミアのため。
(なんてひどい妻なの……)
十年も守られていながら自分は愛人の存在を疎んで離婚まで切りだした。彼がどれほど大きな愛で包んでいてくれたかも知らず──
降りだした雨がぽつぽつと顔に当たり、髪を濡らし、身体を震えさせる。それでもユーフェミアは城に帰ろうとはしなかった。どんな顔で帰ればいいのかわからない。
夫への感謝、不妊の申し訳なさ、愛人の妊娠。どれもがバラバラの感情で何もまとまっていない状態。
何を言おうとティーナが妊娠した事実は変わらない。彼女のお腹の中にいるのはトリスタンとユーフェミア、そして国民が二十年間待ち望んでいた王家の子供。この国の安泰を守り続ける世継ぎだ。
自分との子供ではなくともトリスタンの子であることには違いない。自分の子ではないから受け入れられないなどあってはならない。かといってティーナが子供を素直に渡すとも思えなかった。
『不妊のくせにいつまでも王妃の座に腰かけてんじゃないわよ』
ティーナは確かにそう言った。自分が王妃になるつもりがないならユーフェミアが王妃の座に就いていても問題はないはず。それなのにティーナはユーフェミアが王妃であることが気に入らないとでも言いたげだった。
ユーフェミアは今までずっと勘違いをしていた。王妃になれば大きな責任が付きまとうから何の責任もない愛人で満足しているのだと思っていたがそうじゃない。実際はチャンスがなかっただけだ。チャンスがあれば掴みに行く。ティーナはずっとそのチャンスを狙っていた。そして今、そのチャンスを掴み取ったのだ。打って出ないはずがない。
問題はトリスタンがユーフェミアとの子ではないとしても自分の子供ができたという現実をどう受け止めるか。ユーフェミアには喜びと絶望、どちらのトリスタンも浮かんでしまう。
どちらを見せても自分はちゃんと対応しなければならない。彼が取り乱すのなら落ち着けなければならないし、喜ぶのなら受け入れなければならない。
(ちゃんと話し合わなきゃいけないけど……まだ、戻りたくない……)
雨で冷えた身体が震え、思考力が低下していく。どこかで雨宿りをしなければと歩きだそうとしたユーフェミアの前に足音が一つ。
「ユー……フェミア……?」
聞き覚えのある声。
きっと、今聞くべきではなかった声。
「……イアン……?」
会ってはならない相手が目の前に立っている。
あの日、あのパレードで見た男は間違いなくこの男だった。優しい声をした、優しい顔をした、優しい人。
「どうしてお前がこんな所に……いや、今はそんなことを聞いている場合じゃないな。こっちに宿を取ってる。おいで」
雨が降っているのに掴まれた手が熱い。
あの頃よりずっと大きな手がユーフェミアの細い手を掴んでいる。
妻が夫以外の男に手を引かれるなどあってはならないことなのにユーフェミアはそれを振りほどくことができず、どうすればいいのかわからないまま雨の中、彼のあとをついていった。
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