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第3章
7.恋愛(9)
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夕焼けの空の下で美並にしがみついて泣き出した男の子、明と一緒に家を探して戻ったけれど、本当はその後が大変だった。
その頃、隣街に住んでいた渡来の父親は大学講師、母親は高校教諭。一人息子の晴は幼い頃から絵の才能を発揮、幼稚園や小学校の低学年でたびたびいろんな賞を受けていた。
担任が彼の絵に反発したのは、そういう渡来の経過を好ましく思っていなかった、ということがあったのだろう。
美並が関わった一件の後、両親は担任と揉めに揉めた。
子どもの本質を見抜けない教師に教わる不幸をまくしたてられ、貴重な才能を潰されていく子どもの悲劇を声高に責められ、追い詰められた担任は熟慮の上で踏み込むべき一線をあっさり越えてしまった。
渡来は家庭内で虐待を受け、無理矢理絵を描かされ、安定した学習環境を奪われている。
そう反撃した。
実は、渡来の学習態度に問題があったために転居を繰り返したという話は、半分本当で半分嘘だった。
両親は渡来の将来を考えるあまり、最高の教育と最高の環境を求めて、嫌がる渡来を無理矢理画塾に参加させ、友人を断ち切って転居を繰り返し、時に自分達の仕事さえ危うくしながら渡来に打ち込んでいたらしい。
だが、小学校の中学年になった渡来は、少しずつ自分の描きたいもの描きたい方法を見つけつつあった。両親と渡来はたびたび衝突するようになり、登校拒否を繰り返し、あげくの果てに両親は渡来を力でもって制御しようとした、幼い頃そのままに。
渡来が時々、見えない服の下の皮膚の色が変わるほど殴られて登校するのを、担任はひそかにチェックしていた。だが、それを知っても何もしなかった担任が、なぜ今さらだ、別の意図が見栄見栄だ、そう周囲は噂した。
暴かれた実情は入り乱れて混乱し、両親は離婚、担任は辞職し、渡来はやがて陶芸を生業とする祖父の元へ引き取られていった。
あのとき、担任は渡来を理解していなかったし、自分の気持ちを渡来に被せて正当化しただけの行動だったのだけど、それでも、動きは渡来を両親の檻から解放した。それが今の渡来に繋がっている。
その時点では明らかに間違っているとしか思えないことが、時間をくぐり抜けて、豊かな未来をもたらしている。
この、不思議。
どこで何がどう転んでくるのか、本当は誰もわかっていないんだ、とふいに思った。
不幸だと思ったことが、真実に辿りつくきっかけになったり、悲劇だと思ったことが、より大きな発展のためのチャンスだったりする。
はらり、と心のどこかで固く縛られていたものが解けるような気がした。
「マフラー?」
渡来が訝しそうに側にあるワインカラーのマフラーに視線を向ける。
街を離れる最後の日、渡来が美並を訪ねてきて、祖父にねだって買ってもらったというマフラーを差し出した。
たいせつな、みなみに。
それを、美並は胸が詰まるような思いで受け取った。
持ちきれない、そう思いつつも断れず、捨てられなかった。
「…ごめんなさい、だめにしたの」
美並はそっと謝った。
「でも、大切にしてたよ」
考えてみれば、あのマフラーのせいで真崎が酷い目に合ってしまったのだけれど、あのマフラーがきっかけで大輔を撃退し、『ニット・キャンパス』への道が繋がったと言えるかもしれない。
美並もそうだろうか。
たくさんのものを失った時をしのいで、今真崎の側に居られる、そう言えるのかも、しれない?
大輔に繋がれて、自分でも身動きできないと諦めつつあった真崎を、拒まず受け入れられたのかもしれない?
渡来が『みなみ』と呼び掛けたあたりで、一気に不安そうな顔になってしまった真崎を、視界の端に捉える。
全ては真崎と一緒に生きていくためにあった、そう思っていいのかもしれない?
大石との別れも、独りで生きるという覚悟さえも。
その気持ちさえ忘れないなら、まだもう少し真崎の側に居てもいいのかもしれない?
ひょっとして、もしかして、真崎と寄り添う未来を、美並も望んでもいいかもしれない?
でも。
また、大石のように、今度は美並が真崎を追い詰めてしまったら?
ああ、そうか。
すとんと胸に落ちた思い。
美並は、怖いのだ、自分が真崎を傷つけることが。
自分の中にあるものの鋭さ、自分の中にある世界を美並は十分に知っているから。
ようやく回復し開き始めた真崎の柔らかな内側、それは日常世界へ続いている。空は青いと思えば済む普通の世界。紅に染まった空など考えなくてもいい世界。
その世界に戻ってしまえば、真崎もきっとあっという間に美並の世界が理解できなくなるだろう。傷ついた記憶をずっと抱えていられるほど、人は強くないし必要もない。回復して忘れてしまえば、その方がずっと生きやすいこともある。
けれど美並と一緒に生きるということは、その世界をずっと抱えるということだ。傷ついた記憶を忘れないでいるということだ。同じ傷を受ける人間のことを忘れないということだ。
それは、再び傷つく可能性を含んでいる。
そうだ。
美並はもう真崎を髪の毛一筋も傷つけたくない。
ましてや、自分が真崎を傷つける世界への接点になりたくない。
けれど。
『見ないで』
いつかの夜に真崎が美並を拒んだように、美並の能力を拒んだら。
美並はどこまでいっても美並でしかない。
それ込みでしか存在することができない美並は真崎の側に居られない。
真崎を傷つけたくない、ただそれだけの理由で。
たぶんそれほど大事で、それほどただただ、
「あいしてる」
「っ」
甘く聞こえるほどの声で渡来が言い放ってぎょっとした。
その頃、隣街に住んでいた渡来の父親は大学講師、母親は高校教諭。一人息子の晴は幼い頃から絵の才能を発揮、幼稚園や小学校の低学年でたびたびいろんな賞を受けていた。
担任が彼の絵に反発したのは、そういう渡来の経過を好ましく思っていなかった、ということがあったのだろう。
美並が関わった一件の後、両親は担任と揉めに揉めた。
子どもの本質を見抜けない教師に教わる不幸をまくしたてられ、貴重な才能を潰されていく子どもの悲劇を声高に責められ、追い詰められた担任は熟慮の上で踏み込むべき一線をあっさり越えてしまった。
渡来は家庭内で虐待を受け、無理矢理絵を描かされ、安定した学習環境を奪われている。
そう反撃した。
実は、渡来の学習態度に問題があったために転居を繰り返したという話は、半分本当で半分嘘だった。
両親は渡来の将来を考えるあまり、最高の教育と最高の環境を求めて、嫌がる渡来を無理矢理画塾に参加させ、友人を断ち切って転居を繰り返し、時に自分達の仕事さえ危うくしながら渡来に打ち込んでいたらしい。
だが、小学校の中学年になった渡来は、少しずつ自分の描きたいもの描きたい方法を見つけつつあった。両親と渡来はたびたび衝突するようになり、登校拒否を繰り返し、あげくの果てに両親は渡来を力でもって制御しようとした、幼い頃そのままに。
渡来が時々、見えない服の下の皮膚の色が変わるほど殴られて登校するのを、担任はひそかにチェックしていた。だが、それを知っても何もしなかった担任が、なぜ今さらだ、別の意図が見栄見栄だ、そう周囲は噂した。
暴かれた実情は入り乱れて混乱し、両親は離婚、担任は辞職し、渡来はやがて陶芸を生業とする祖父の元へ引き取られていった。
あのとき、担任は渡来を理解していなかったし、自分の気持ちを渡来に被せて正当化しただけの行動だったのだけど、それでも、動きは渡来を両親の檻から解放した。それが今の渡来に繋がっている。
その時点では明らかに間違っているとしか思えないことが、時間をくぐり抜けて、豊かな未来をもたらしている。
この、不思議。
どこで何がどう転んでくるのか、本当は誰もわかっていないんだ、とふいに思った。
不幸だと思ったことが、真実に辿りつくきっかけになったり、悲劇だと思ったことが、より大きな発展のためのチャンスだったりする。
はらり、と心のどこかで固く縛られていたものが解けるような気がした。
「マフラー?」
渡来が訝しそうに側にあるワインカラーのマフラーに視線を向ける。
街を離れる最後の日、渡来が美並を訪ねてきて、祖父にねだって買ってもらったというマフラーを差し出した。
たいせつな、みなみに。
それを、美並は胸が詰まるような思いで受け取った。
持ちきれない、そう思いつつも断れず、捨てられなかった。
「…ごめんなさい、だめにしたの」
美並はそっと謝った。
「でも、大切にしてたよ」
考えてみれば、あのマフラーのせいで真崎が酷い目に合ってしまったのだけれど、あのマフラーがきっかけで大輔を撃退し、『ニット・キャンパス』への道が繋がったと言えるかもしれない。
美並もそうだろうか。
たくさんのものを失った時をしのいで、今真崎の側に居られる、そう言えるのかも、しれない?
大輔に繋がれて、自分でも身動きできないと諦めつつあった真崎を、拒まず受け入れられたのかもしれない?
渡来が『みなみ』と呼び掛けたあたりで、一気に不安そうな顔になってしまった真崎を、視界の端に捉える。
全ては真崎と一緒に生きていくためにあった、そう思っていいのかもしれない?
大石との別れも、独りで生きるという覚悟さえも。
その気持ちさえ忘れないなら、まだもう少し真崎の側に居てもいいのかもしれない?
ひょっとして、もしかして、真崎と寄り添う未来を、美並も望んでもいいかもしれない?
でも。
また、大石のように、今度は美並が真崎を追い詰めてしまったら?
ああ、そうか。
すとんと胸に落ちた思い。
美並は、怖いのだ、自分が真崎を傷つけることが。
自分の中にあるものの鋭さ、自分の中にある世界を美並は十分に知っているから。
ようやく回復し開き始めた真崎の柔らかな内側、それは日常世界へ続いている。空は青いと思えば済む普通の世界。紅に染まった空など考えなくてもいい世界。
その世界に戻ってしまえば、真崎もきっとあっという間に美並の世界が理解できなくなるだろう。傷ついた記憶をずっと抱えていられるほど、人は強くないし必要もない。回復して忘れてしまえば、その方がずっと生きやすいこともある。
けれど美並と一緒に生きるということは、その世界をずっと抱えるということだ。傷ついた記憶を忘れないでいるということだ。同じ傷を受ける人間のことを忘れないということだ。
それは、再び傷つく可能性を含んでいる。
そうだ。
美並はもう真崎を髪の毛一筋も傷つけたくない。
ましてや、自分が真崎を傷つける世界への接点になりたくない。
けれど。
『見ないで』
いつかの夜に真崎が美並を拒んだように、美並の能力を拒んだら。
美並はどこまでいっても美並でしかない。
それ込みでしか存在することができない美並は真崎の側に居られない。
真崎を傷つけたくない、ただそれだけの理由で。
たぶんそれほど大事で、それほどただただ、
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「っ」
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