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第3章
7.恋愛(8)
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「あ、やっぱりここですか」
ふいにその場にそぐわないのんびりした声が響いて、美並は顔を上げた。
「あちこち探しましたよ、真崎さん……って、あれ? 弟さんも? 大石さんも?」
上から下まで白づくめの高校生ぐらいの少年と、上から下まで黒づくめの男が美並達に近付いてくる。
あれは確か『きたがわ』で会ったことがある源内と言う男、少年の方はハル、と呼ばれていたはずだ。
何ということなくハルの濡れたような真っ黒な目を見返すと、相手がにこりと嬉しそうに笑った。
「?」
何だろう、妙に親しげだけど。あれより前に会ったことがあっただろうか。
潤んだ視界を慌てて瞬きして、覚えがない、と美並が一所懸命記憶を探っていると、
「なんでこんなところに皆さん一緒におられるんですか。真崎さんは重要な打ち合わせのためにこちらに来られてると協議会事務所でお聞きしましたが」
源内が訝しそうに眉を上げた。
今どき珍しい黒髪はオールバック、さりげなく着ているシャツもスラックスもよく見ればあまり見かけないデザイン、皮靴に至っては細かな切り替えがいっぱいある特殊なもので、オーダーメイドなのかと思うぐらいだ。
気まずい雰囲気が広がるが、誰も応じない。源内は戸惑った顔で誰に話しかけたものかと迷ったようだが、
「すみません、真崎さん」
「はい?」
「いや、お兄さんの方」
「なんだ」
「『ニット・キャンパス』、最終締め切り駆け込みのニ企業、参加させてもらうことになりそうです」
不愉快そうな大輔も、真崎も大石もそれぞれが一気に固まった。
「えーと、つまり、桜木通販と『Brechen』、ですね」
「どういうことだ…っ」
大輔が苛立った声を上げて立ち上がる。
と、そちらは源内の仕事と言わんばかりに、ハルが細い手足を泳がせるように美並に近寄ってきた。
「?」
「マフラー」
「え?」
マフラー?
「飽きた?」
にっこり笑ったその顔の背後に、赤い夕焼けの空が広がって美並は瞬きする。
「まさ、か」
この少年は。
「こいつが真崎さんの企画と『Brechen』を見てみたいってきかなくて。あの、前に話してたでしょう、この『ニット・キャンパス』の企画、一つはこいつのオープン・イベントが目玉なんですが、お二方の企画にひどく興味を持ったようなんです。で、桜木通販、『Brechen』の参加を通さないならやりたくない、とかごねだしちゃって」
「芸術家」
源内が説明するのに、ハルは生真面目に付け加えた。ちろんと横目で美並を見遣り、同意を求めるように微笑む。
「はいはい。つまり、芸術家はわがままなんだ、そういうことだろ?」
「よろしく」
ひょっとしたら、この子は。
『ハル』ではない、もう一つの名前が浮かびかけた矢先、
「伊吹、さん」
露骨にうろたえた声を上げて真崎が近寄ってきた。ハルに冷淡に見遣られて立ち止まり、不安そうに美並を見る。
「しかも、今回のオープン・イベント、海外からこいつの作品を見に来るって人も居るから、止めるわけにはいかないんです、そう話しましたよね、真崎さん」
「ああ、そうだな……つまり、何か、俺が一番馬鹿馬鹿しい役割りってことか」
「は?」
「不愉快だ、部屋に引き上げる。お前達も帰れ」
大輔が唸って立ち上がったのは、自分の不利を十分自覚してのことだろう。さっきの老人のことも気になったのかもしれない。美並達を押し退けるように急ぎ足で奥のエレベーターの方へ去っていく。
それを見送った真崎がわずかに肩から力を抜き、そっと美並を振り返った。
終わったよ?
疲れているけれど、どこか誇らしげな顔に、切ないような愛しいような気持ちになって頷きかけたとたん、
「みなみ」
ハルが再び優しい声で首を傾げながら呼び掛けてきて、その笑顔に今度こそはっきり、汗に濡れた髪の匂いと、鮮やかな紅の空、繰り返し呼んだ名前を思い出した。
そうだ、とらくん。
「…じゃあ、ほんとうに『とらくん』なんだ?」
「うん、とらくん」
ハルは嬉しくてたまらないと言う顔で笑い返してきた。
「大きくなったねえ」
そう、あのころは美並との間で『とらくん』で通っていた。本名は風巻、だったと思うが、本人が自分を『とらくん』としか呼ばないし応じなかった。実の両親の名前より、祖父を慕ってその名字を自分で勝手に名乗っている、そう聞いただけだ。
とら・はる。
そんな妙な名前もないだろうと思っていたが、オープン・イベントのスタッフで数百枚のタイルで即興の作品を造るというアーティストの本名は確か。
『ニット・キャンパス』のチラシと記憶を頭の中で照合していって、ようやく美並は『渡来 晴』の綴りを思い出し、目の前のよく四肢の伸びた体とにこやかな笑顔に改めて驚く。
あんな小さな男の子、髪を汗に濡らして泣き疲れて眠ってしまっていた子供が、こんなに成長しているなんて。
しかも、『ニット・キャンパス』のメイン・イベントの一つになるような才能を発揮しているなんて。
ふいにその場にそぐわないのんびりした声が響いて、美並は顔を上げた。
「あちこち探しましたよ、真崎さん……って、あれ? 弟さんも? 大石さんも?」
上から下まで白づくめの高校生ぐらいの少年と、上から下まで黒づくめの男が美並達に近付いてくる。
あれは確か『きたがわ』で会ったことがある源内と言う男、少年の方はハル、と呼ばれていたはずだ。
何ということなくハルの濡れたような真っ黒な目を見返すと、相手がにこりと嬉しそうに笑った。
「?」
何だろう、妙に親しげだけど。あれより前に会ったことがあっただろうか。
潤んだ視界を慌てて瞬きして、覚えがない、と美並が一所懸命記憶を探っていると、
「なんでこんなところに皆さん一緒におられるんですか。真崎さんは重要な打ち合わせのためにこちらに来られてると協議会事務所でお聞きしましたが」
源内が訝しそうに眉を上げた。
今どき珍しい黒髪はオールバック、さりげなく着ているシャツもスラックスもよく見ればあまり見かけないデザイン、皮靴に至っては細かな切り替えがいっぱいある特殊なもので、オーダーメイドなのかと思うぐらいだ。
気まずい雰囲気が広がるが、誰も応じない。源内は戸惑った顔で誰に話しかけたものかと迷ったようだが、
「すみません、真崎さん」
「はい?」
「いや、お兄さんの方」
「なんだ」
「『ニット・キャンパス』、最終締め切り駆け込みのニ企業、参加させてもらうことになりそうです」
不愉快そうな大輔も、真崎も大石もそれぞれが一気に固まった。
「えーと、つまり、桜木通販と『Brechen』、ですね」
「どういうことだ…っ」
大輔が苛立った声を上げて立ち上がる。
と、そちらは源内の仕事と言わんばかりに、ハルが細い手足を泳がせるように美並に近寄ってきた。
「?」
「マフラー」
「え?」
マフラー?
「飽きた?」
にっこり笑ったその顔の背後に、赤い夕焼けの空が広がって美並は瞬きする。
「まさ、か」
この少年は。
「こいつが真崎さんの企画と『Brechen』を見てみたいってきかなくて。あの、前に話してたでしょう、この『ニット・キャンパス』の企画、一つはこいつのオープン・イベントが目玉なんですが、お二方の企画にひどく興味を持ったようなんです。で、桜木通販、『Brechen』の参加を通さないならやりたくない、とかごねだしちゃって」
「芸術家」
源内が説明するのに、ハルは生真面目に付け加えた。ちろんと横目で美並を見遣り、同意を求めるように微笑む。
「はいはい。つまり、芸術家はわがままなんだ、そういうことだろ?」
「よろしく」
ひょっとしたら、この子は。
『ハル』ではない、もう一つの名前が浮かびかけた矢先、
「伊吹、さん」
露骨にうろたえた声を上げて真崎が近寄ってきた。ハルに冷淡に見遣られて立ち止まり、不安そうに美並を見る。
「しかも、今回のオープン・イベント、海外からこいつの作品を見に来るって人も居るから、止めるわけにはいかないんです、そう話しましたよね、真崎さん」
「ああ、そうだな……つまり、何か、俺が一番馬鹿馬鹿しい役割りってことか」
「は?」
「不愉快だ、部屋に引き上げる。お前達も帰れ」
大輔が唸って立ち上がったのは、自分の不利を十分自覚してのことだろう。さっきの老人のことも気になったのかもしれない。美並達を押し退けるように急ぎ足で奥のエレベーターの方へ去っていく。
それを見送った真崎がわずかに肩から力を抜き、そっと美並を振り返った。
終わったよ?
疲れているけれど、どこか誇らしげな顔に、切ないような愛しいような気持ちになって頷きかけたとたん、
「みなみ」
ハルが再び優しい声で首を傾げながら呼び掛けてきて、その笑顔に今度こそはっきり、汗に濡れた髪の匂いと、鮮やかな紅の空、繰り返し呼んだ名前を思い出した。
そうだ、とらくん。
「…じゃあ、ほんとうに『とらくん』なんだ?」
「うん、とらくん」
ハルは嬉しくてたまらないと言う顔で笑い返してきた。
「大きくなったねえ」
そう、あのころは美並との間で『とらくん』で通っていた。本名は風巻、だったと思うが、本人が自分を『とらくん』としか呼ばないし応じなかった。実の両親の名前より、祖父を慕ってその名字を自分で勝手に名乗っている、そう聞いただけだ。
とら・はる。
そんな妙な名前もないだろうと思っていたが、オープン・イベントのスタッフで数百枚のタイルで即興の作品を造るというアーティストの本名は確か。
『ニット・キャンパス』のチラシと記憶を頭の中で照合していって、ようやく美並は『渡来 晴』の綴りを思い出し、目の前のよく四肢の伸びた体とにこやかな笑顔に改めて驚く。
あんな小さな男の子、髪を汗に濡らして泣き疲れて眠ってしまっていた子供が、こんなに成長しているなんて。
しかも、『ニット・キャンパス』のメイン・イベントの一つになるような才能を発揮しているなんて。
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