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第1章
13.絶対零度の領域を(2)
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「……お……しまい…?」
「は?」
「……も……終わり……?」
「課長?」
「……まだ……こーひー……飲んでないのに…」
「課長」
「……のめ…ないの…かあ……」
牛乳、買っておけばよかったな、とぼんやり思う。
そうしたら、すぐに試せたのに。伊吹と一緒に楽しめたのに。なんだ、結局こういうことになっちゃうのか。やっぱりさっきのキスは、夢のようなものだったんだ。
途切れ途切れになっていく思考をのろのろと追い掛ける。
「時間切れ……なんだ」
死ぬ真際に、それでも頑張ったってことで見せてもらえる御褒美みたいなものだったのかな。
「どうしたんです?」
「……ぼく……窓、閉めてくるね」
開きっ放しの窓。
さっき伊吹が閉めてくれと言っていた。
昏い思いつきが京介の中で渦を巻いて凝り固まっていく。
「え? 課長、ちょっと待っ……」
呼び止めかけたらしい伊吹をちらっと見ると、今度は電話がかかってきた。
「もう、何っ、今度は」
険しい顔で出た伊吹が、それでも心配そうにこちらを見遣ってきてくれるのが何だか嬉しい。
そうだ。
京介は薄笑いした。
思いついたことは秀逸に思えた。
そうしよう。
一人頷く。
お芝居は得意だ。本心なんて、見てしまうから困るんだ。どうせここから出られない、永久にきっとそうなんだ。
「はい、何ですかっ……課長?」
ベランダに向かってまっすぐ歩く。
「恵子さん?」
「……恵子?」
は、と思わず笑いだして、窓枠を掴んだ。ぐずんと崩れた体が今にもそのまま床に呑み込まれそうだ。
御丁寧に解説してくれる気なんだ?
「……じゃあ…ほんとに……おしまい……なんだ」
呟いて、窓からベランダに出る。冷えたコンクリートが靴下一枚の足を凍らせる、それを振り切るように一歩ずつ前へ進む。
「課長、何する気ですか!」
恵子が何を話す気なのか、想像はつくな、と思った。
きっと京介が恵子の愛撫にどれほどよがって楽しんでいたかを説明してくれるつもりなのだろう。さすがの伊吹も、そこまで聞かされて、好きだの婚約者だの甘いことなど言ってはいられない。他の女、しかも義理の姉と関係を持つような男、安心も信頼もできないのはわかりきっている。
「何?」
携帯に問いかける伊吹の声は緊張していて、苛立っている。
その声を耳にしながら、京介はベランダに辿りついて手摺にもたれた。
そのままだと手摺は背中のまん中ほどの高さになるが、足下の植木鉢用の台に乗ると、腰近くまで手摺が低くなる。両足乗って思いきり仰け反れば、越えられない高さじゃない。
携帯を耳に、伊吹は不審げな目で京介を見ている。その顔に笑いかけた。
いいシチュエーションだよね?
「伊吹さん」
できるだけ甘い声で呼ぶ。
伊吹ならば、京介が何をしようとしているか理解するだろう。恵子に事情を解説されながら、目の前で飛び下りてやったら、きっと大石よりも伊吹の心に残るだろう。
一度大石を自殺させたと思ったことのある伊吹だからこそ、自分が救えず、しかも目の前で逝かせてしまった人間として、京介を絶対忘れないでいてくれるに違いない。
「僕」
それは伊吹を襲って憎まれるよりももう少し、伊吹に愛される記憶のはずだ。
「伊吹さんのこと」
もう少しだけ、愛されたい。今ここで気持ちを告げれば、伊吹を好きだと言っても恵子や大輔を拒み切れない京介にも、ささやかな真実があったと信じてもらえるかもしれない。
もっと派手に演出できれば、より効果的だっただろうけど、何だか胸がいっぱいで。
「……好きです」
よかった、言えた。
ほっとして目を閉じて吐息をつき、そのまま京介が背後に倒れ込むように体重を移動させようとした瞬間、
「……ざけんな」
「え?」
冷酷、と言っていいほどの唸り声が響いて思わず動きを止めた。
「黙ってろ、くそばばあ」
吐き捨てた伊吹がばちん、と携帯を閉じる。鷲掴みにしたそれを持って仁王立ち、じろりと京介を睨みつけた目は氷点下の黒。
あれ?
「いぶ…」
ここ、普通なら、やめて、とか、死なないで、とか、待って、とかそういうことばが響くはず、だよね?
京介は戸惑った。
「京介」
「はい、」
びしりとした、一分の隙もない声で呼びつけられ、京介は慌てて体を起こした。背中にじんわりと冷や汗をかきながら、なんだろう、何か予想外のことが起こってる、と唾を呑み込む。
「戻りなさい」
「え…あの、いや」
淡々とした声が命じて、なおさら京介は戸惑った。
失敗した。
直感で覚って愕然とする。
失敗? 何を?
困惑していると、再び圧倒的な声音で。
「戻りなさい」
「い、いぶきさ…」
いや、だって、あの、僕の気持ちは? 僕の状況は? 僕の……必死に考えた演出、少しでも伊吹さんに覚えていてもらおうと思ったことは、いったいどう、なっちゃう……。
「っ」
伊吹がゆっくりと目を細め、そのままにっこりと可愛らしく、今まで見たこともないほど可愛らしく笑われて、見愡れると同時に背筋が竦んだ。
怖い。
何だろう、凄く怖い。
前に感じた怖さの後ろにある甘い感覚はもうない。
ただ、冷え冷えとした、まるで砂漠に置き去られたような恐怖。
「突き落とされたいんですか?」
優しく柔らかく、告白みたいに尋ねられて凍りついた。
やるかも。
問答無用でそう思った。
伊吹はやるかもしれない。
突き落として、しかも平然と帰っていってしまうかもしれない、京介の生死を気にも止めないで。
「あ」
急いでぷるぷると首を振る。血の気が引いているのがわかったけれど、それでも恐怖と戸惑いが入り混じっている。
だって僕、自殺しようって感じだったんだよ、それをなんでどうしてこんなふうに目一杯怒られてるの?
そこまで考えて、そうだ、怒っているんだ、と気付いた。
伊吹はそれこそ本当に突き落としてしまいたいぐらいに激怒しているのだ、京介に。
へたすれば、京介が死んだところで、一瞬で忘れ去るぐらいに冷たく怒ってる。
どうしよう。
不安が一気に募った。
覚えてもらうどころか、憎むどころか、これって使い終わったティッシュ見る目じゃないの? 道端に轢かれて死んでる野良犬ほども同情してもらえないんじゃないの?
そんなの、あんまりだ、と泣きそうになった。
だって、僕は覚えていてほしい。伊吹さんの心のどこかでずっと僕のことを考えていてほしいのに。
「戻って、状況を説明してください」
冷然と命じられて、京介は急いで部屋に戻った。
「は?」
「……も……終わり……?」
「課長?」
「……まだ……こーひー……飲んでないのに…」
「課長」
「……のめ…ないの…かあ……」
牛乳、買っておけばよかったな、とぼんやり思う。
そうしたら、すぐに試せたのに。伊吹と一緒に楽しめたのに。なんだ、結局こういうことになっちゃうのか。やっぱりさっきのキスは、夢のようなものだったんだ。
途切れ途切れになっていく思考をのろのろと追い掛ける。
「時間切れ……なんだ」
死ぬ真際に、それでも頑張ったってことで見せてもらえる御褒美みたいなものだったのかな。
「どうしたんです?」
「……ぼく……窓、閉めてくるね」
開きっ放しの窓。
さっき伊吹が閉めてくれと言っていた。
昏い思いつきが京介の中で渦を巻いて凝り固まっていく。
「え? 課長、ちょっと待っ……」
呼び止めかけたらしい伊吹をちらっと見ると、今度は電話がかかってきた。
「もう、何っ、今度は」
険しい顔で出た伊吹が、それでも心配そうにこちらを見遣ってきてくれるのが何だか嬉しい。
そうだ。
京介は薄笑いした。
思いついたことは秀逸に思えた。
そうしよう。
一人頷く。
お芝居は得意だ。本心なんて、見てしまうから困るんだ。どうせここから出られない、永久にきっとそうなんだ。
「はい、何ですかっ……課長?」
ベランダに向かってまっすぐ歩く。
「恵子さん?」
「……恵子?」
は、と思わず笑いだして、窓枠を掴んだ。ぐずんと崩れた体が今にもそのまま床に呑み込まれそうだ。
御丁寧に解説してくれる気なんだ?
「……じゃあ…ほんとに……おしまい……なんだ」
呟いて、窓からベランダに出る。冷えたコンクリートが靴下一枚の足を凍らせる、それを振り切るように一歩ずつ前へ進む。
「課長、何する気ですか!」
恵子が何を話す気なのか、想像はつくな、と思った。
きっと京介が恵子の愛撫にどれほどよがって楽しんでいたかを説明してくれるつもりなのだろう。さすがの伊吹も、そこまで聞かされて、好きだの婚約者だの甘いことなど言ってはいられない。他の女、しかも義理の姉と関係を持つような男、安心も信頼もできないのはわかりきっている。
「何?」
携帯に問いかける伊吹の声は緊張していて、苛立っている。
その声を耳にしながら、京介はベランダに辿りついて手摺にもたれた。
そのままだと手摺は背中のまん中ほどの高さになるが、足下の植木鉢用の台に乗ると、腰近くまで手摺が低くなる。両足乗って思いきり仰け反れば、越えられない高さじゃない。
携帯を耳に、伊吹は不審げな目で京介を見ている。その顔に笑いかけた。
いいシチュエーションだよね?
「伊吹さん」
できるだけ甘い声で呼ぶ。
伊吹ならば、京介が何をしようとしているか理解するだろう。恵子に事情を解説されながら、目の前で飛び下りてやったら、きっと大石よりも伊吹の心に残るだろう。
一度大石を自殺させたと思ったことのある伊吹だからこそ、自分が救えず、しかも目の前で逝かせてしまった人間として、京介を絶対忘れないでいてくれるに違いない。
「僕」
それは伊吹を襲って憎まれるよりももう少し、伊吹に愛される記憶のはずだ。
「伊吹さんのこと」
もう少しだけ、愛されたい。今ここで気持ちを告げれば、伊吹を好きだと言っても恵子や大輔を拒み切れない京介にも、ささやかな真実があったと信じてもらえるかもしれない。
もっと派手に演出できれば、より効果的だっただろうけど、何だか胸がいっぱいで。
「……好きです」
よかった、言えた。
ほっとして目を閉じて吐息をつき、そのまま京介が背後に倒れ込むように体重を移動させようとした瞬間、
「……ざけんな」
「え?」
冷酷、と言っていいほどの唸り声が響いて思わず動きを止めた。
「黙ってろ、くそばばあ」
吐き捨てた伊吹がばちん、と携帯を閉じる。鷲掴みにしたそれを持って仁王立ち、じろりと京介を睨みつけた目は氷点下の黒。
あれ?
「いぶ…」
ここ、普通なら、やめて、とか、死なないで、とか、待って、とかそういうことばが響くはず、だよね?
京介は戸惑った。
「京介」
「はい、」
びしりとした、一分の隙もない声で呼びつけられ、京介は慌てて体を起こした。背中にじんわりと冷や汗をかきながら、なんだろう、何か予想外のことが起こってる、と唾を呑み込む。
「戻りなさい」
「え…あの、いや」
淡々とした声が命じて、なおさら京介は戸惑った。
失敗した。
直感で覚って愕然とする。
失敗? 何を?
困惑していると、再び圧倒的な声音で。
「戻りなさい」
「い、いぶきさ…」
いや、だって、あの、僕の気持ちは? 僕の状況は? 僕の……必死に考えた演出、少しでも伊吹さんに覚えていてもらおうと思ったことは、いったいどう、なっちゃう……。
「っ」
伊吹がゆっくりと目を細め、そのままにっこりと可愛らしく、今まで見たこともないほど可愛らしく笑われて、見愡れると同時に背筋が竦んだ。
怖い。
何だろう、凄く怖い。
前に感じた怖さの後ろにある甘い感覚はもうない。
ただ、冷え冷えとした、まるで砂漠に置き去られたような恐怖。
「突き落とされたいんですか?」
優しく柔らかく、告白みたいに尋ねられて凍りついた。
やるかも。
問答無用でそう思った。
伊吹はやるかもしれない。
突き落として、しかも平然と帰っていってしまうかもしれない、京介の生死を気にも止めないで。
「あ」
急いでぷるぷると首を振る。血の気が引いているのがわかったけれど、それでも恐怖と戸惑いが入り混じっている。
だって僕、自殺しようって感じだったんだよ、それをなんでどうしてこんなふうに目一杯怒られてるの?
そこまで考えて、そうだ、怒っているんだ、と気付いた。
伊吹はそれこそ本当に突き落としてしまいたいぐらいに激怒しているのだ、京介に。
へたすれば、京介が死んだところで、一瞬で忘れ去るぐらいに冷たく怒ってる。
どうしよう。
不安が一気に募った。
覚えてもらうどころか、憎むどころか、これって使い終わったティッシュ見る目じゃないの? 道端に轢かれて死んでる野良犬ほども同情してもらえないんじゃないの?
そんなの、あんまりだ、と泣きそうになった。
だって、僕は覚えていてほしい。伊吹さんの心のどこかでずっと僕のことを考えていてほしいのに。
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