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第1章
13.絶対零度の領域を(1)
しおりを挟む ミルクホイッパーを見つけて、それでカフェラテとかを試したいらしい伊吹がにこにこ京介を見上げてくるのが嬉しくて、思わず気持ちが軽くなっていたけれど、いざ伊吹のマンションを出ようとして閉まっていくドアに不安になった。
「何?」
「あの……さ」
ひょっとしたら、夢、だったんじゃないの、と思ってしまう。
ドアを閉じてしまうと、何もかも、伊吹もすうっと消えてしまうんじゃないの。
「はい」
「寝巻とか……歯ブラシとか……持ってこない?」
今は夜だし、京介は都合のいい夢とか妄想に落ち込んでいるのかもしれないし、気がついたらネットカフェとか、会社のソファの上とか、そういうオチだなんてこと、ないよね? 大輔との後で、繰り返しもうこんなことは起こらない、起こらないはず、そうなってるはず、そう思ったのにまた起こった、あの裏切り感覚が戻ってくる。
「は?」
「何もしないから」
もし、そんなことになったら。
恵子のメールとか大輔の電話で起こされて、目を開けると側には誰もいない、なんてことになったら。そのまま、大輔にのしかかられて嗤われたら。
僕は正気でいるのかな。
「今夜は一人で居たくない、だけだから」
溜め息をついた伊吹が容赦なくドアを閉めて鍵をかけ、京介はがっかりした。
ゆっくり行きましょう、おたがい子どもじゃないんだから。
伊吹のことばに、そんな時間はないんだ、と思わず携帯を確認する。
恵子はきっと京介に拒まれたことをよく思っていない。今この瞬間にも、伊吹の携帯に写真を送りつけるかもしれない。
そうなったら、全ては終わりだ。
他愛ないふざけあいをしながら、もう一度タクシーを呼んで、一緒に乗り込んで京介のマンションまで伊吹を連れ帰って。
部屋の暖房を入れて、コーヒーの準備をして、換気したいという伊吹を手伝って。
何度も何度も恵子のメールが届く場面を想像して。
怒るだろうか、悲しむだろうか、それとも仕方のない男だと見捨てるだろうか。
考えれば考えるほど、伊吹が京介を望んでくれる可能性なんて、万に一つもない気がしてくる。ましてや、写真を見た伊吹が京介を信頼してくれるなんて、奇跡、でしかないだろう。
「キス……できたから、よし、とするとか」
コーヒーを淹れながら呟く。
「でも、キスしたやつなんて、いっぱいいるよね……」
少なくとも大石とは一回ニ回じゃないだろう、恋人同士だったんだから。
「う…」
なんか泣きそうな気がしてきた。
「はぁ…」
なんで伊吹さんのことになると、これほど脆いかなあ。
京介は口を押さえて呟きを噛み殺す。それなりに職場でもプライベートでも冷静沈着アクシデントにもトラブルにも強い人間のはずだったのに。
「コーヒー入ったよ、それはどうするの」
溜め息を一つついて、ミルクホイッパーを確認している伊吹を振り返る。
「牛乳ありますか?」
「あ……そっか。ミルクホイッパーだから牛乳要るんだよね」
慌てて冷蔵庫を覗いたが、中にはほとんど何もない。
戻ってきてから夜中に時々実家から電話がかかってくることがあって、留守録にしてはいるものの、それが嫌さに特にここのところ家に戻ってなかったから、なおさらだ。
「ないよ」
「んー、じゃあ……これは次に……」
言いかけた美並の鞄から唐突に音楽が鳴り響いた。
「こんな時間に着信?」
「っっ」
顔をしかめた美並が取り出した携帯を開こうとするのを京介は強ばりながら見守る。
「画像がついてる…」
「い、」
「誰だろ、件名……真崎、恵子?」
恵子だ。恵子が、もう。
背後に開いた窓の外で風が寒そうに鳴って、京介は肩越しにベランダの向こうの空間を振り返る。
ここは八階だったよね。
うんと高いわけだよね、『きたがわ』のテラスよりも。
わけもなく思いながら顔を戻すと、訝しげにメールを読み終わった伊吹が、続いて携帯を覗き込みながら、ぎょっとしたように目を見開いた。
「…課長……?」
平然としていよう、そう思ったのに、身体が震える。
「わ…」
小さく声を上げた伊吹が、俯いて画像を見たまま固まっている。
「どうして、恵子さんこんなの」
戸惑った、不愉快そうな声。
ああ、何をしてたか、わかったんだ。それがどこか、わかったんだ。
足下が溶け崩れるような感覚に、京介はコーヒーを見下ろした。
「何?」
「あの……さ」
ひょっとしたら、夢、だったんじゃないの、と思ってしまう。
ドアを閉じてしまうと、何もかも、伊吹もすうっと消えてしまうんじゃないの。
「はい」
「寝巻とか……歯ブラシとか……持ってこない?」
今は夜だし、京介は都合のいい夢とか妄想に落ち込んでいるのかもしれないし、気がついたらネットカフェとか、会社のソファの上とか、そういうオチだなんてこと、ないよね? 大輔との後で、繰り返しもうこんなことは起こらない、起こらないはず、そうなってるはず、そう思ったのにまた起こった、あの裏切り感覚が戻ってくる。
「は?」
「何もしないから」
もし、そんなことになったら。
恵子のメールとか大輔の電話で起こされて、目を開けると側には誰もいない、なんてことになったら。そのまま、大輔にのしかかられて嗤われたら。
僕は正気でいるのかな。
「今夜は一人で居たくない、だけだから」
溜め息をついた伊吹が容赦なくドアを閉めて鍵をかけ、京介はがっかりした。
ゆっくり行きましょう、おたがい子どもじゃないんだから。
伊吹のことばに、そんな時間はないんだ、と思わず携帯を確認する。
恵子はきっと京介に拒まれたことをよく思っていない。今この瞬間にも、伊吹の携帯に写真を送りつけるかもしれない。
そうなったら、全ては終わりだ。
他愛ないふざけあいをしながら、もう一度タクシーを呼んで、一緒に乗り込んで京介のマンションまで伊吹を連れ帰って。
部屋の暖房を入れて、コーヒーの準備をして、換気したいという伊吹を手伝って。
何度も何度も恵子のメールが届く場面を想像して。
怒るだろうか、悲しむだろうか、それとも仕方のない男だと見捨てるだろうか。
考えれば考えるほど、伊吹が京介を望んでくれる可能性なんて、万に一つもない気がしてくる。ましてや、写真を見た伊吹が京介を信頼してくれるなんて、奇跡、でしかないだろう。
「キス……できたから、よし、とするとか」
コーヒーを淹れながら呟く。
「でも、キスしたやつなんて、いっぱいいるよね……」
少なくとも大石とは一回ニ回じゃないだろう、恋人同士だったんだから。
「う…」
なんか泣きそうな気がしてきた。
「はぁ…」
なんで伊吹さんのことになると、これほど脆いかなあ。
京介は口を押さえて呟きを噛み殺す。それなりに職場でもプライベートでも冷静沈着アクシデントにもトラブルにも強い人間のはずだったのに。
「コーヒー入ったよ、それはどうするの」
溜め息を一つついて、ミルクホイッパーを確認している伊吹を振り返る。
「牛乳ありますか?」
「あ……そっか。ミルクホイッパーだから牛乳要るんだよね」
慌てて冷蔵庫を覗いたが、中にはほとんど何もない。
戻ってきてから夜中に時々実家から電話がかかってくることがあって、留守録にしてはいるものの、それが嫌さに特にここのところ家に戻ってなかったから、なおさらだ。
「ないよ」
「んー、じゃあ……これは次に……」
言いかけた美並の鞄から唐突に音楽が鳴り響いた。
「こんな時間に着信?」
「っっ」
顔をしかめた美並が取り出した携帯を開こうとするのを京介は強ばりながら見守る。
「画像がついてる…」
「い、」
「誰だろ、件名……真崎、恵子?」
恵子だ。恵子が、もう。
背後に開いた窓の外で風が寒そうに鳴って、京介は肩越しにベランダの向こうの空間を振り返る。
ここは八階だったよね。
うんと高いわけだよね、『きたがわ』のテラスよりも。
わけもなく思いながら顔を戻すと、訝しげにメールを読み終わった伊吹が、続いて携帯を覗き込みながら、ぎょっとしたように目を見開いた。
「…課長……?」
平然としていよう、そう思ったのに、身体が震える。
「わ…」
小さく声を上げた伊吹が、俯いて画像を見たまま固まっている。
「どうして、恵子さんこんなの」
戸惑った、不愉快そうな声。
ああ、何をしてたか、わかったんだ。それがどこか、わかったんだ。
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