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第317話 うっかり記憶のぬかるみにはまる

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「ゼロにする為だよ」
 鍋物の湯気の向こうで、ユキが穏やかに言う。
「ゼロ……?」
 佐野は首をかしげる。さっぱり意味が分からない。
 空腹のせいで思考がうまく回らないということもあるが、それ以上に、去年の忘年会とほぼ同じ状況が目の前で展開されているゆえ、自動的にあの時の不愉快かつ屈辱的な記憶が次から次へと頭の中に浮かんで来て、一つのことに集中できないのだ。
「すみません。ちょっと意味が……」
 少しずつ煮詰まりつつある鍋物を前に、佐野がおずおずとユキを見る。
「うん。だろうな。じゃあ、手短に説明する」
 ユキは鍋の中をちらりと見たあと、そう言って苦笑する。どうやらユキも鍋の様子が気になるらしい。
「去年、ケイはここで、最悪の時間を過ごしていた――だよな?」
「はい。最初から最後まで、鍋物のあく取りと他の人が食べた皿の始末に追われて、全く料理が食べられなかった挙げ句、店先で置いてきぼりまで食らいました」
 未だ口に出しただけでも腹が立つ。その際の情景と心境が、臨場感たっぷりに脳裏へ再現されるからだ。
 加えて、今この瞬間も、物理的にそれらが存在しているので、精神的なダメージたるや筆舌に尽くし難いものがある。
「しかも――その一部始終を田上課長に見られていたことにも、僕は顔から火が出るくらにい恥ずかしかったし、すごく自分がみじめに思えてしまって」
 佐野はそう言い終えるや、すぐさま目頭を押さえる。
「本当に、みっともなくて情けないですよ……いい大人なのに……会社員なのに……あんなめに合うなんて……!」
 まずい。喋っているうちに、うっかり記憶のぬかるみにはまってしまった。 
 佐野は慌てて奥歯を食いしばり、肩を落として下を向く。一気に吹き出した涙と鼻水を抑え込む為である。



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