盗みから始まる異類婚姻譚

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4. 予期せぬ提案

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 それから数日間、リュカは気が気でなかった。あの得体の知れないものが毒ではないか、心配で仕方がなかった。目覚めることができないのではないか、と夜に眠りにつくのが怖かった。
洗っておけ、と精液まみれの下着を投げつけてきた男娼は案の定やって来た。リュカがあらってないことを知るなり憤慨したが、素直に謝罪する少年に呆気に取られた。まさかあっさりと己の過失を認めるとは思わず、調子を狂わされた男娼はそれ以上何も言わずに走り去った。その後も別の娼婦達に嫌がらせをされたが、気もそぞろで何とも思わなかった。
内心、それどころではない。大げさだが、生きるか死ぬかの瀬戸際かもしれないのだ。いやがらせなんぞに思考を割いている暇などない。
 だが、特に危惧していたような変化は一切起こらず、一週間も経つ頃には不安も消えつつあった。考えるのに疲れたリュカが思考を放棄したのもある。彼は物事を深く考えるのが苦手だった。

「おい、そこのクズ」

 ある日、いつものように清掃の仕事を行っていたリュカは廊下を歩いていると、ステラに声をかけられた。クズという名前に聞き覚え名はないので、リュカは無視しようとしたのだが、腕を掴まれてしまった。

「玄関ホールで、リー・ジンがお前のことを呼んでる」
「は?なんで…」
「さあ?僕は他の子から聞いただけだし。ただ、聞いたところによると、リー・ジンはめちゃくちゃ怒ってるらしいよ。人間の奴隷はどこだ、すぐに連れてこい、って怒鳴り散らしてたらしいよ。ねえ、あんた何したの?」

 聞きたいのはこっちのほうだ、とリュカは思った。長い前髪の下で、眉間にしわが寄る。ここ一週間、揉めごとは何一つ起こしていない。呼び出される身に覚えは一つもないが、それにしても玄関ホールに来いというのが分からない。リー・ジンの部屋ならまだしも。玄関ホールは、客が出入りし、男娼や娼婦が客を出迎え見送る場所だ。清掃夫のリュカにはまるで用のない場所だ。
 首をひねりながらも、リュカはステラを無視してリー・ジンのいる玄関ホールへと歩き始めた。後ろからは、蝶の男娼がニヤニヤ笑いながらついてくる。心底うざったい。客の指名を受けてどこかに行っちまえ、とリュカは小さく舌打ちをもらした。
 リュカの願いもむなしく、ステラに客の指名は入らず、玄関ホールまでついてきた。豪勢な調度品で溢れ、広く吹き抜けになっている玄関ホールは、豪華な装飾をじっくりと見ることもかなわない程に、何やら騒がしかった。男娼や娼婦の出迎えを受けた客達だけではなく、油を売っている娼婦達までが野次馬に来ている。彼らの視線の先、人だかりの中心には、リー・ジンがいた。誰かと話しているようだが、焦った様子で手がせわしなく動いている。
 彼の正面には、いつか見た、あの赤鬼がいた。リー・ジンの話など全く聞いていないようで、あくびをしながら指で耳をほじっている。鋭利な牙のようなものが見えた。
 鬼の姿を目にした瞬間、リュカは全身に汗が噴き出るのを感じていた。同時に心臓がどっと大きく拍動する。盗んだあの円錐状のものが頭をよぎる。鬼の懐からスったのがばれたのだ。返そうにも、どんなに探してもあの物体は見つからなかった。体内に吸収されたのかもしれないものを、取り出す術もなかった。
 急に体が鉛のように重くなる。足を前に踏み出せなくて、リュカはその場に立ち止まってしまった。リー・ジンを見下していた視線がすいと動き、リュカを捉えた。形の良い唇が、ニィ、と弧を描く。鬼の視線を追い、リュカに気がついたリー・ジンは、鬼に断りをいれると、もの凄い形相で少年の元へとやってきた。

「いつまで待たせる気だ、この愚図!奴隷の分際で私に恥をかかせるつもりか!早くこちらに来いっ!」

 少年にしか聞こえない小さな声で、リー・ジンは彼を罵った。つるりとした額には、血管の筋がいくつも浮き出ている。リー・ジンは動かないリュカの手首を掴むと、強引に引きずっていく。鬼の前に立たされ、数多の視線を全身に浴びて、恐怖で呼吸が苦しい。

「蘇芳様、たいっへんお待たせしました。こちらが、仰られていた人間の奴隷でございます。して、この者が、不快な気持ちにさせてしまったのでしたら、大変申し訳ございません!今後は、蘇芳様の目に入らぬよう、更に裏方の仕事をさせますので!」

 リー・ジンが媚びへつらっている間も、鬼の視線は一心に少年へと向けられていた。視線で穴が開きそうなほどだ。いや、むしろリュカは体に穴があいて、このまま跡形もなく消えてしまいたいと思っていた。鬼が口を開くのが怖い。その瞬間、スリを働いていたことがばれて、リュカの人生は終わりだ。彼の頭の中では、走馬灯と後悔が同時に駆け巡っていた。
 鬼が、すっと腕を上げ、リュカを指さす。

「違ぇ。そいつを身請けに来た」

 まさかの発言に、鬼以外の者が動きを止めた。てっきりリュカが怒られて辱めをうけるものとばかりに思っていた娼婦達の、くすくす笑いもぴたりと止む。リュカも例外ではなく、目を見開いた。

「す、蘇芳様、この奴隷を、でございますか?な、何もこのようなみすぼらしく何の価値もない人間でなくとも…。そうだ、アイーシャやナグダなんてどうです?先日、ご満足いただけたかと…」
「二度も言わせんな。俺は、そこの人間を引き取るっつってんだ」

 リー・ジンが手を伸ばした方向には、二人の娼婦が体をくねらせ、鬼に投げキッスを贈っている。だが、鬼は二人には目もくれず、リー・ジンの言葉をぴしゃりと遮った。明らかに苛立ち、不愉快だと言わんばかりに舌打ちをする。わずかに眉根を寄せただけなのに、威圧感に背筋に嫌なものが走る。リュカは隣のリー・ジンがのどを鳴らして唾を飲みこむ音を耳にした。

「で、ですが蘇芳様…っ!」
「あーうっぜえ。おら、金。100万ある。足りねえなら言え」
「ひゃ、100万…!?」

 蘇芳、と呼ばれた鬼は後頭部を乱雑に掻くと、懐から出した袋をリー・ジンの手に突きつけた。玄関ホールはどよめきに包まれた。
 カサ、と紙幣が擦れる音に、リュカは目を剥いた。100万などお目にかかったことがない。それに、人間の奴隷に100万以上を支払うなど、聞いたこともない。
 人間は繁殖力が強いという点においてのみ、異形から評価されている。特に人間の女は、子を孕みやすいということで、奴隷として人気だ。だが、価値のない子種をただまき散らすだけしか能のない人間の男はカーストの最下層だ。好んで引き取ろうとする者などいない。にも関わらず、目の前の鬼は、人間の男であるリュカを破格の値で買い上げると言う。
 リュカは何が何だかわからなかった。いったい何が起きているのかわからず、当事者であるというのにまるで傍観者のような気分で二人のやり取りを聞いていた。

「蘇芳様、無礼を承知をお伺いしますが…。どういう理由でかようにも、この奴隷の身請けをご希望で…?」

 玄関ホールに集った者全員の疑問を、リー・ジンがぶつける。辺りには再び静寂が訪れた。

「そいつ、俺の嫁だ」

 本日、二度目の衝撃発言だった。

「どういうことだ、貴様っ!一体何をした!」

 頬が触れそうになるくらいの至近距離で、リー・ジンに問いただされる。普段は開いていない目が、大きく見開かれ、血走っている。目の前の鬼も怖いが、リー・ジンもリー・ジンで怖い。
 リュカは何も知らない、と必死で頭を横に振った。どういうことなのか、教えて欲しいのはこっちだ。名前も知らない、話したこともない、スリを働いた客から一方的に俺の嫁宣言されたこっちの身にもなって欲しい。

「実際に見せた方が早いな」

 手首を掴まれて引き寄せられたかと思うと、鬼の顔が目の前にあった。黒みがかった深い赤の眼に魅入られていると、唇に何か柔らかいものがぶつかった。一瞬の思考停止の後、リュカは鬼に口づけられているのだと知った。

「ン゛──ッ!?」

 取り乱すリュカは両腕を振り回して暴れた。だが鬼に腕ごと羽交い締めにされ、抵抗は早々に封じられてしまう。鬼の唇が、ぴたりと閉じた唇を食み、こじ開けようとしている。させるか、とリュカは息巻くが、彼は口づけはもちろん初体験で呼吸の仕方がわからなかった。息を止めていられなくなり、リュカは酸素を取りこもうと口を開けた。

「はぁっ…ぁ!?ンむ…っ」

 一瞬の隙すら逃さず、鬼の舌がねじこまれる。生温かく湿った舌を押し出そうとするも、逆に絡めとられてしまう。まるでそれ自体が意志を持った生き物のような舌に翻弄され、リュカは心の中で悲鳴をあげっぱなしだった。鬼の腕を振りほどこうとするも、異形の怪物との圧倒的な体格差と力の差により、疲労が増すだけだった。

「っん、く…!」

 牙の先端を舌にあてられて、体がびくりと震える。腰のあたりがぞわぞわする。酸欠で苦しいのに、気持ちが良い。思考が鈍る中、リュカは流しこまれた唾液をごくりと飲みこんだ。途端に、覚えのあるぴりっとした痛みが額に走った。小さな水音を立て、ようやく唇が離れる。

「ぅわ…っ」

 情けないことに足腰に力が全く入らなくて、膝から崩れ落ちそうになるが、下から掬いあげられるように、鬼によって片腕で抱き上げられた。反射的に鬼の首に抱きつく。高くなった視界に、皆があんぐりと口を開けてリュカの顔を見ているのがよく見えた。ステラまで間抜け面をさらしていて、思わず笑いがこみあげてしまう。

「この角が、俺の嫁だという証拠だ」

 角、と言われてリュカは己の額に手を伸ばした。つるりとした平面があるはずなのに、指が何かの突起に突き刺さる。鏡がないので見えないが、それは額から生えているようだった。

「ぎゃ―っ!何だこれっ」
「うるせえ」
「ふぎゃっ」

 異様な状況にとうとう我慢できず、リュカは叫んだ。だが、即座に尻を平手で叩かれる。鬼に睨まれ、口をつぐむほかない。彼の妙な迫力に圧倒されていた。
 野次馬たちがこそこそと、「本当に、人間を伴侶に…?」「いや、まさか…」と戸惑った様子で囁きを交わしている。

「もう連れて帰ってもいいか?」

 鬼の一声に、放心状態だったリー・ジンも我に返る。さすがに冗談ではないことに気がついたのか、彼は態度を一変させた。

「ええ、ええ。どうぞ、どうぞ。お代もいりません。今後もどうか当館をご贔屓の程…」

 媚びた笑みを浮かべたリー・ジンは、へこへこと頭を下げながら紙幣の入った袋を差し出した。

「いらねえよ。借りを作りたくねえ。不要なら棄てろ」

 リュカはぎょっとした。自分が喉から手が出るほどに欲しい大金を、この男はまるでただの紙切れのように扱う。そんなにいらないのであれば、俺にくれ!
 鬼はそう言い残すと、リュカを抱えたまま、もう用はないとばかりに踵を返した。入り口へと向かう男に、リュカは慌てて声をかけた。

「ちょ、ま、待って!俺の荷物…!」
「あ?」

 荷物を取りに行かせて欲しい、と言うリュカに、鬼は眉をひそめた。奴隷のくせにわざわざ取りに戻らねばならない程の大事な荷物があるのか、とでも言わんばかりの表情だ。リュカは何度も頷いた。命を削る思いで木箱をいっぱいにしてきたのだ。自分が去った後、誰かがあれをさも自分の手柄のように手に入れるなど絶対に許せない。手放してなるものか。
 それに、取りに戻る間だけでも考える時間が欲しかった。目まぐるしい状況に、頭が追いついていない。娼館を出られるのは嬉しいが、この鬼についていって大丈夫なのかと思う。本能的には危険な匂いがする。

「部屋はどこだ」
「屋根裏。俺、急いで取りに…」
「必要ねえ」

 塔のように高くそびえる建物の天井を見上げる鬼に、リュカは声をかけた。彼の腕から降りようとするも、鬼は少年を抱える腕にさらに力をこめた。え、と思った時には、リュカは空中にいた。鬼が彼を抱いたまま、欄干を足がかりに跳躍し、屋根裏へと上がっていく。リュカは悲鳴を飲みこんだ。振り落とされないように男にしがみつく。

「これが部屋?…よくもまあこんなとこで生活できるな、お前」

 好きで住んでると思うのか、頭おかしいんじゃないのか。心の中で罵倒しつつ、リュカは床下に格納していた木箱を取り出した。懐に収めて鬼の元へと戻る。背後からの早くしろオーラに、彼の元へ行くしかなかった。玄関ホールまでの帰路はもちろん、鬼に抱えられて一気に下降した。着地する頃には、リュカはぐったりしていた。結局、考える暇など与えられなかったのだった。
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