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閑話 ニアミス ~天明3年12月28日の月次御礼にて佐野善左衛門は殿中席である新番所前廊下において本物の松平定信と接触する~
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治済は佐野善左衛門よりも早くに四谷大木戸にある田安家下屋敷に着くと、今日もまたやはり「芝居衣装」に着替えた。即ち、白河松平家の家紋があしらわれた羽織を身に着けたのであった。
その後、佐野善左衛門も訪れたので、治済は善左衛門と面会に及んだ。
そこで善左衛門は意知に陳情すべく田沼家へと足を運んだものの、しかし、件の「挨拶料」、即ち、取次の村上半左衛門への「挨拶料」を用意していなかった為に、意知に逢うことすら叶わなかったことを定信を演ずる治済に打明けたのであった。
「ほう…、挨拶料、とな…」
治済は如何にも初耳であるかの様に振舞った。
「御意…、されば10両も包まねばならぬそうにて…」
「何と…、10両もの大金を村上半左衛門なる取次に包まぬことには山城めに逢えぬと申すかっ!?」
治済は大仰に驚いて見せた。
「御意…、されば相役の矢部主膳より伺い申しましたこと故、間違いはござりませぬ…」
治済は佐野善左衛門よりそう聞かされて、内心、「でかした」と口にしていた。無論、矢部主膳に向けてであった。
矢部主膳は治済の指図を受けて佐野善左衛門に対して、件の「挨拶料」、もとい出鱈目を吹込ませたのであった。
無論、佐野善左衛門はその様なことは知る由もない。
「左様か…、なれど10両と申さば大金ぞ…、善左衛門よ、用立てられるのか?」
治済はさも、案ずるかの様な口振りであった。
一方、善左衛門もまた、治済が演ずる定信の同情を引くべく
「それが…、中々に難しく…」
さも、深刻そうな表情でそう応えたのであった。
無論、定信の―、治済扮する定信の「援助」を期待してのものであり、それに対して治済もその様な善左衛門の胸のうちが手に取る様に分かったので内心、善左衛門のその様な、おおよそ武士には似つかわしくない、
「はしたない…」
胸ねのうちに苦笑させられると同時に、心底、軽蔑もした。
だが治済は勿論、善左衛門にその様な己の内心を悟らせず、それどころか、「良かろう」と応じたかと思うと、
「その10両、この定信が用立てて遣わそうぞ…」
善左衛門が期待した通りの反応を示したのであった。
これには善左衛門も喜びの余り、
「まっ、真でござりまするかっ!?」
そう、どもりながら問返した。まさかに、こうもあっさりと|己《おのれ」が期待通りに事が運ぶとは、善左衛門も予期していなかったと見える。
「真よ…、なれど10両と申さば、如何にこの定信とて右から左へとは、ゆくまいて…、されば
28日まで待ってはくれまいかの…」
治済扮する定信よりそう問いかけられた善左衛門には否やなどは元より、あり得様筈もなかった。何しろ、こちらは10両もの大金を用立てて貰う立場にいたからだ。
それ故、善左衛門は「御意」と応ずるより外になかった。
「されば28日に…、左様、28日は月次御礼なれば今時分と申す訳にもゆかず…、されば昼八つ(午後2時頃)に逢おうぞ…、それも次はここではのうて日本橋の箱崎の下屋敷にてな…」
「日本橋の箱崎、でござりまするか?」
「左様…、否、10両もの大金を抱えて、この定信が住まう北八丁堀にある上屋敷よりここ四谷大木戸や、ましてや深川高橋へと足を運ぶは、如何にも物騒と申すものにて…、それよりは日本橋箱崎なれば北八丁堀の白河藩上屋敷よりも近く…」
治済のその言葉に善左衛門は「成程…」と大いに頷いたものである。
どうやら治済の思惑通り、善左衛門は完全に治済を定信だと思い込んでいる様子であった。
無論、これもまた―、次回の面会場所を日本橋箱崎の下屋敷と指定したのは善左衛門に己が真、定信であるとそう思い込ませる思惑も含まれていたが、しかしそれだけではなかった。
「日本橋箱崎なれば、神田橋御門内にある田沼家上屋敷からも近い…」
治済はそう考えて次回の面会場所を日本橋箱崎の下屋敷に指定したのであった。
12月28日、この日は今年最後の月次御礼に当たり、
「歳暮の拝賀」
そうも称され、いつもの月次御礼以上に賑々しいものであった。
新番士もこの月次御礼には参加出来るが、しかしそれも朝番と当番の者に限られており、宵番と不寝番は対象外であった。
月次御礼とはつまりは普段、将軍と接する機会に中々、恵まれない諸大名や或いは表向役人が将軍に逢える行事であった。
普段は滅多に逢えぬ将軍に逢うことで主従の絆を再確認するのがこの月次御礼の概念であった。
そうであれば新番も全員がこの月次御礼に参加するべきところであろうが、しかしそれは不可能であった。
それと言うのも新番は6組まであるのだが、1組につき20人の番士が配されており、120人の番士が存する訳で、しかし120人もの番士をその殿中席である時斗之間次、即ち新番所前廊下に一時に収容するのは不可能であったからだ。
新番士の殿中席である時斗之間次こと新番所前廊下に収容可能な人数はその半数の60人程度であり、それ故、月次御礼に参加可能な番士を朝番と当番の勤務の者に限ったのだ。
武官である番方の勤務は1日4交代制であり、新番の場合、1組につき丁度、4の倍数の20人が配されているので5人1組で勤務に入る。
つまり新番においては番士30人が勤務に入る計算であり、それが朝番と当番を合わせれば丁度、60人という計算であった。
さてそこで佐野善左衛門の場合であるが、佐野善左衛門は今日28日は幸いにも朝番故、今日の月次御礼に参加することが出来た。
佐野善左衛門は21日が朝番、22日は当番、次いで23日と24日にかけてが宵番、そして25日と26日にかけて不寝番を勤めると、27日は休日であり、今日28日には再び、朝番を勤めるという「ルーティン」であった。
その佐野善左衛門が登城し、新番所前廊下へと向かう道すがら、松平定信と―、本物の松平定信とすれ違ったのであった。
松平定信の殿中席は帝鑑間であるので、本来ならば新番所前廊下を殿中席とする佐野善左衛門とすれ違うことはない。帝鑑間と新番所前廊下とではまるで方角が違うからだ。
だが定信は丁度10日前の18日に従四位下諸大夫、所謂、四品に昇叙し、すると将軍・家治は定信に対して、
「今後は御用部屋にて国政を議することを許す…」
老中の執務室である上御用部屋、或いは若年寄の執務室である次御用部屋に立入り、自分の思う政策を老中や若年寄に提案することを許したのであった。
御用部屋は上御用部屋は元より、次御用部屋さえも、仮令、御三家であったとしても立入りは許されてはいなかった。
それ程までに格式ある御用部屋に定信は立入りを許され、のみならず国政を議することまで―、己の政策、所謂、経綸といったものを老中や若年寄に提案することまで許されたのだから、これは明らかに恩典と言えた。
何しろ定信は御三家や、溜間詰に次ぐ帝鑑間詰に過ぎなかったからだ。
それだけ家治が定信を大事に思っている証とも言えた。
事実、定信は家治のこの「配慮」に素直に感謝したものである。
尤も、定信は帝鑑間詰故、平日登城は許されておらず、登城出来るのは今日の様な月次御礼をはじめとする式日に限られており、その為、御用部屋に立入り、老中や若年寄を相手に己の経綸を披瀝するのも畢竟、式日に限られていた。
式日は月に数回しかないので、定信が老中や若年寄に経綸を披瀝するのも月に数回程度に限られるという訳だ。
家治は定信が再び一橋治済に取込まれぬ様―、と言うよりは利用されぬ様、そこで定信にその様な配慮を見せることで、定信の心を己や、ひいては意知へと繋ぎ止めようとする意図がそこには込められていたのだが、その際、定信が帝鑑間詰であったのは僥倖と言えた。
これで定信が平日登城が許されている溜間詰や、或いは雁間詰であったならば一大事であったからだ。
それと言うのも定信のことである、毎日でも御用部屋に押掛けては老中や若年寄の迷惑も顧みず、長々と己の経綸を披瀝するに違いなかったからだ。
その点、月に数回程度しかない式日だけならば―、数回程度、定信の「御高説」に付合う程度ならば老中も若年寄も辛抱も出来様―、家治はその様な強かな計算まで働かせた訳だが、無論、定信は知る由もない。
ともあれ定信は家治が予期した通り、早速、式日である月次御礼の今日、28日にまず次御用部屋を訪れては若年寄の田沼意知に己の経綸を長々と語って見せた。
否、定信は今日という日を楽しみにしており、そこで何と明の六つ半(午前7時頃)に登城するという有様であった。
それは丁度、遠足を楽しみにしていた園児が待合わせ場所に早く来過ぎる様なものであろうか。
それ故、上御用部屋にも次御用部屋にもまだ誰もいないという状況であり、そこで定信は誰か来るまで―、老中が来るまで上御用部屋にて、
「捏ねんと…」
座っていたのだから、その姿たるや哀れですらあった。
やがて半刻(約1時間)程も経った朝五つ(午前8時頃)になって漸く意知が姿を見せたのであった。
意知は中奥兼帯の若年寄として月番が免除されていたので、對客日でない日には外の若年寄も早くに出勤、登城することを心掛けていた。
今日28日は意知にとっては對客日―、登城前に陳情客の相手をしてやる日ではないので、いつもよりも早くに登城したという訳だ。
否、そうでなくとも今日は月次御礼であるので、意知以外の若年寄は元より、老中さえも早目に登城する。
老中や若年寄は普段は昼四つ(午前10時頃)までに下部屋に集まり、そこで四半刻(約30分)程、雑談に興じた後、御用部屋へと足を向ける。
だがそれが式日ともなると、それよりも半刻(約1時間)程も早い、朝の五つ半(午前9時頃)には下部屋に集まり、しかも雑談に興じることなく真直ぐ、御用部屋へと向かう。
今日28日もそうで、定信が意知相手に半刻(約1時間)も己の経綸を捲くし立てたところで、老中や若年寄の姿が見えたので、定信は次御用部屋より上御用部屋へと移動すると、そこでも更に老中やそれに若年寄も招いて意知に対してなしたのと同じ「御高説」を披瀝したものである。
こうして昼四つ(午前10時頃)には定信もすっかり満足した様子で、己の殿中席である帝鑑間へと戻るべく上御用部屋を出た訳だが、その際、定信は佐野善左衛門が控えていた時斗之間次こと新番所前廊下を通ったのだ。
否、定信だけではない。月番の若年寄の加納遠江守久堅とそれに意知が定信の案内役を買って出たのであった。
「越中様を御一人で帰しては失礼であろう…」
老中首座にして意知の元・岳父でもある松平周防守康福は定信が帰り際、そう告げると陪席していた意知と、それに意知とは相役にして月番の加納久堅の二人に定信の案内役を命じたのであった。
斯かる次第で意知と久堅は定信の案内役として、定信と共に新番所前廊下を通った訳だが、その際、意知は佐野善左衛門が控えているとも知らずに、
「されば越中様、次の式日の折にも御高説を拝聴仕り度…」
そう「阿諛」を口にし、しかもその「阿諛」が佐野善左衛門の耳に届いてしまったので、善左衛門はすくっと立上がると、3人の背中、それも真中に位置する定信の背中目掛けて、「越中様」と声を掛けたのであった。
善左衛門のその声で定信は立止まり、声の主である善左衛門の方へと振返った。定信の両脇を固めていた意知と久堅もそうした。
定信は―、本物の定信にとっては佐野善左衛門は初めて見る顔であったので、
「何故、顔も名前も知らぬ者から呼止められねばならぬのだ…」
定信はそう思い、怪訝な表情を浮かべた。
一方、佐野善左衛門はそうとは知らずに、
「今日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた…」
定信にそう声をかけたのであった。
善左衛門は今日28日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた、今度は日本橋は箱崎にある田安家下屋敷にて定信と―、治済が扮する定信と逢う予定であったので、そう声をかけたのであった。
否、治済と定信は共に八代将軍・吉宗の孫とは申せ、瓜二つという程のことでもない。良く見れば別人だと気付く筈である。
だが生憎、今の佐野善左衛門にはそこまで注意力が働かなかった。
善左衛門は治済とは別人である筈の定信を治済だと―、治済が扮する定信だと信じて疑わなかった。
それに対して定信は愈愈もって怪訝な表情を浮かべ、
「今日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた、何だと申すのだ?」
善左衛門にそう問返した。
それもその筈、今ここにいる本物の定信は善左衛門と斯かる約束をした記憶はどこにもないのだから、そう反応するのが自然であった。
否、定信は更に続けて、
「大体、そなたは誰だ?」
止めとも言うべきそんな反応を示したのであった。
これで仮にこの新番所前廊下に矢部主膳でも控えていてくれたならば、佐野善左衛門の口を封じていたであろう。
だが生憎と矢部主膳は―、治済の「手下」とも言うべき矢部主膳は今日は朝番でもなければ当番でもなく、それ故、今日はこの場にはいなかったのだ。
このまま事態が進行していたならば、さしもの治済も万事休す、治済の「危険な遊戯」が発覚したに違いない。
だが治済はまだ、運に見放されてはいなかった。
丁度、その時、新番所前廊下の様子が良く見渡せる中之間には新番頭が控えており、そこには矢部主膳と同じく治済の「手下」である4番組の番頭・松平大膳亮忠香も含まれていた。
松平忠香もまた、治済の「危険な遊戯」は心得ていたので、そこで忠香は、新番所前廊下にて佐野善左衛門と本物の定信との間で繰広げられている光景を目の当たりにして、
「このままでは拙いぞ…」
咄嗟にそう判断するや正に、
「脱兎の如く…」
中之間を駈出すと新番所前廊下へと足を踏み入れ、直ちに定信と善左衛門との間に割って入った。
「越中様、申訳ござりませぬ…、彼の者は畏れ多くも上様に拝謁出来るとあって、気が昂ぶっておりましてな…、何か勘違いしております様にて…」
松平忠香は慌ててそう取繕って見せた。
それに対して定信は未だ怪訝な表情を浮かべたまま、「そこもとは?」と忠香の身許を尋ねた。
「ははっ、されば新番頭を相勤めおりまする松平大膳亮忠香にて…」
忠香がそう名乗ると定信も警戒心を緩めた。
「松平か…」
定信はそう問返した。それが定信が緊張を緩めた理由であった。
忠香もそうと察すると、「ははっ」と応じた上で、
「されば五井松平の流を汲みし…」
そう補足したのであった。
五井松平と言えば定信が当主を務める、久松松平の流を汲む松平家とも遜色がない程の由緒を誇り、定信は愈愈もって警戒心を解き、それどころか完全に無防備となった。
「左様であったか…」
定信は表情を緩め、微笑みすら浮かべてそう応じた。
忠香もそんな定信の表情の変化を見逃さず、
「さればこれなる佐野善左衛門が無礼につきましてはこの松平忠香めが善左衛門に成代わりまして心より、お詫び申上げまする故、何卒、何卒、御寛容の程を…」
定信に対して深々と頭を下げたものである。
それで定信も善左衛門より受けた不躾なる態度をすっかり水に流す気になった。この辺りは名門意識で凝固まった者の弱さ、或いは注意力の欠如と言えようか。
ともあれ定信は忠香に対して、「もう良いぞ」と頭を上げる様に促して、再び帝鑑間へと歩を進めたので、意知と久堅もその後に続いた。
忠香は定信たちの背中を見送ると、佐野善左衛門を新番所前廊下の溜へと連込み、そこで「訓戒」を与えた。
「ここでは…、御城にては越中様に声をかけてはならんぞ。下手に声掛けでもして、田安家にて、そなたと密かに逢っていることが明らかともなれば越中様に多大なる御迷惑が及ぶでな…」
忠香のその「訓戒」に佐野善左衛門もその点にハッと気付くと、「申訳ござりませぬ」と応じた。
「もう良い…、以後、気を付ける様に…、それと意知から、先程のそなたのその声掛けについて尋ねられるやも知れぬが、気が昂ぶっていたで押通す様に…」
「畏まりましてござりまする…」
「それと今一つ…、そなた今日は…、昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにも越中様に逢われるのか?」
「ははっ…、されば日本橋箱崎の田安様が御下屋敷にて…」
「左様か…、さればその場にはこの忠香も陪席しようぞ…」
「えっ?大膳亮様が?」
「左様…、先程のそなたが無礼、越中様は果たして真、お許しあそばされたのかどうか、それは分からぬ故な…」
「今でもまた、この善左衛門めが粗忽を越中様は、お怒りあそばされている、と?」
善左衛門は如何にも不安げな面持ちで尋ねた。
「その可能性も無きにしも非ず…、そこで改めてこの忠香がそなたに成代わり越中様にそなたが粗忽を詫びて遣わそうぞ…」
忠香もまた、
「如何にも…」
恩着せがましくそう言ったが、無論、それが治済と善左衛門との面会に陪席する理由ではなかった。
治済に今日のことをそれとなく伝える為であった。
その後、佐野善左衛門も訪れたので、治済は善左衛門と面会に及んだ。
そこで善左衛門は意知に陳情すべく田沼家へと足を運んだものの、しかし、件の「挨拶料」、即ち、取次の村上半左衛門への「挨拶料」を用意していなかった為に、意知に逢うことすら叶わなかったことを定信を演ずる治済に打明けたのであった。
「ほう…、挨拶料、とな…」
治済は如何にも初耳であるかの様に振舞った。
「御意…、されば10両も包まねばならぬそうにて…」
「何と…、10両もの大金を村上半左衛門なる取次に包まぬことには山城めに逢えぬと申すかっ!?」
治済は大仰に驚いて見せた。
「御意…、されば相役の矢部主膳より伺い申しましたこと故、間違いはござりませぬ…」
治済は佐野善左衛門よりそう聞かされて、内心、「でかした」と口にしていた。無論、矢部主膳に向けてであった。
矢部主膳は治済の指図を受けて佐野善左衛門に対して、件の「挨拶料」、もとい出鱈目を吹込ませたのであった。
無論、佐野善左衛門はその様なことは知る由もない。
「左様か…、なれど10両と申さば大金ぞ…、善左衛門よ、用立てられるのか?」
治済はさも、案ずるかの様な口振りであった。
一方、善左衛門もまた、治済が演ずる定信の同情を引くべく
「それが…、中々に難しく…」
さも、深刻そうな表情でそう応えたのであった。
無論、定信の―、治済扮する定信の「援助」を期待してのものであり、それに対して治済もその様な善左衛門の胸のうちが手に取る様に分かったので内心、善左衛門のその様な、おおよそ武士には似つかわしくない、
「はしたない…」
胸ねのうちに苦笑させられると同時に、心底、軽蔑もした。
だが治済は勿論、善左衛門にその様な己の内心を悟らせず、それどころか、「良かろう」と応じたかと思うと、
「その10両、この定信が用立てて遣わそうぞ…」
善左衛門が期待した通りの反応を示したのであった。
これには善左衛門も喜びの余り、
「まっ、真でござりまするかっ!?」
そう、どもりながら問返した。まさかに、こうもあっさりと|己《おのれ」が期待通りに事が運ぶとは、善左衛門も予期していなかったと見える。
「真よ…、なれど10両と申さば、如何にこの定信とて右から左へとは、ゆくまいて…、されば
28日まで待ってはくれまいかの…」
治済扮する定信よりそう問いかけられた善左衛門には否やなどは元より、あり得様筈もなかった。何しろ、こちらは10両もの大金を用立てて貰う立場にいたからだ。
それ故、善左衛門は「御意」と応ずるより外になかった。
「されば28日に…、左様、28日は月次御礼なれば今時分と申す訳にもゆかず…、されば昼八つ(午後2時頃)に逢おうぞ…、それも次はここではのうて日本橋の箱崎の下屋敷にてな…」
「日本橋の箱崎、でござりまするか?」
「左様…、否、10両もの大金を抱えて、この定信が住まう北八丁堀にある上屋敷よりここ四谷大木戸や、ましてや深川高橋へと足を運ぶは、如何にも物騒と申すものにて…、それよりは日本橋箱崎なれば北八丁堀の白河藩上屋敷よりも近く…」
治済のその言葉に善左衛門は「成程…」と大いに頷いたものである。
どうやら治済の思惑通り、善左衛門は完全に治済を定信だと思い込んでいる様子であった。
無論、これもまた―、次回の面会場所を日本橋箱崎の下屋敷と指定したのは善左衛門に己が真、定信であるとそう思い込ませる思惑も含まれていたが、しかしそれだけではなかった。
「日本橋箱崎なれば、神田橋御門内にある田沼家上屋敷からも近い…」
治済はそう考えて次回の面会場所を日本橋箱崎の下屋敷に指定したのであった。
12月28日、この日は今年最後の月次御礼に当たり、
「歳暮の拝賀」
そうも称され、いつもの月次御礼以上に賑々しいものであった。
新番士もこの月次御礼には参加出来るが、しかしそれも朝番と当番の者に限られており、宵番と不寝番は対象外であった。
月次御礼とはつまりは普段、将軍と接する機会に中々、恵まれない諸大名や或いは表向役人が将軍に逢える行事であった。
普段は滅多に逢えぬ将軍に逢うことで主従の絆を再確認するのがこの月次御礼の概念であった。
そうであれば新番も全員がこの月次御礼に参加するべきところであろうが、しかしそれは不可能であった。
それと言うのも新番は6組まであるのだが、1組につき20人の番士が配されており、120人の番士が存する訳で、しかし120人もの番士をその殿中席である時斗之間次、即ち新番所前廊下に一時に収容するのは不可能であったからだ。
新番士の殿中席である時斗之間次こと新番所前廊下に収容可能な人数はその半数の60人程度であり、それ故、月次御礼に参加可能な番士を朝番と当番の勤務の者に限ったのだ。
武官である番方の勤務は1日4交代制であり、新番の場合、1組につき丁度、4の倍数の20人が配されているので5人1組で勤務に入る。
つまり新番においては番士30人が勤務に入る計算であり、それが朝番と当番を合わせれば丁度、60人という計算であった。
さてそこで佐野善左衛門の場合であるが、佐野善左衛門は今日28日は幸いにも朝番故、今日の月次御礼に参加することが出来た。
佐野善左衛門は21日が朝番、22日は当番、次いで23日と24日にかけてが宵番、そして25日と26日にかけて不寝番を勤めると、27日は休日であり、今日28日には再び、朝番を勤めるという「ルーティン」であった。
その佐野善左衛門が登城し、新番所前廊下へと向かう道すがら、松平定信と―、本物の松平定信とすれ違ったのであった。
松平定信の殿中席は帝鑑間であるので、本来ならば新番所前廊下を殿中席とする佐野善左衛門とすれ違うことはない。帝鑑間と新番所前廊下とではまるで方角が違うからだ。
だが定信は丁度10日前の18日に従四位下諸大夫、所謂、四品に昇叙し、すると将軍・家治は定信に対して、
「今後は御用部屋にて国政を議することを許す…」
老中の執務室である上御用部屋、或いは若年寄の執務室である次御用部屋に立入り、自分の思う政策を老中や若年寄に提案することを許したのであった。
御用部屋は上御用部屋は元より、次御用部屋さえも、仮令、御三家であったとしても立入りは許されてはいなかった。
それ程までに格式ある御用部屋に定信は立入りを許され、のみならず国政を議することまで―、己の政策、所謂、経綸といったものを老中や若年寄に提案することまで許されたのだから、これは明らかに恩典と言えた。
何しろ定信は御三家や、溜間詰に次ぐ帝鑑間詰に過ぎなかったからだ。
それだけ家治が定信を大事に思っている証とも言えた。
事実、定信は家治のこの「配慮」に素直に感謝したものである。
尤も、定信は帝鑑間詰故、平日登城は許されておらず、登城出来るのは今日の様な月次御礼をはじめとする式日に限られており、その為、御用部屋に立入り、老中や若年寄を相手に己の経綸を披瀝するのも畢竟、式日に限られていた。
式日は月に数回しかないので、定信が老中や若年寄に経綸を披瀝するのも月に数回程度に限られるという訳だ。
家治は定信が再び一橋治済に取込まれぬ様―、と言うよりは利用されぬ様、そこで定信にその様な配慮を見せることで、定信の心を己や、ひいては意知へと繋ぎ止めようとする意図がそこには込められていたのだが、その際、定信が帝鑑間詰であったのは僥倖と言えた。
これで定信が平日登城が許されている溜間詰や、或いは雁間詰であったならば一大事であったからだ。
それと言うのも定信のことである、毎日でも御用部屋に押掛けては老中や若年寄の迷惑も顧みず、長々と己の経綸を披瀝するに違いなかったからだ。
その点、月に数回程度しかない式日だけならば―、数回程度、定信の「御高説」に付合う程度ならば老中も若年寄も辛抱も出来様―、家治はその様な強かな計算まで働かせた訳だが、無論、定信は知る由もない。
ともあれ定信は家治が予期した通り、早速、式日である月次御礼の今日、28日にまず次御用部屋を訪れては若年寄の田沼意知に己の経綸を長々と語って見せた。
否、定信は今日という日を楽しみにしており、そこで何と明の六つ半(午前7時頃)に登城するという有様であった。
それは丁度、遠足を楽しみにしていた園児が待合わせ場所に早く来過ぎる様なものであろうか。
それ故、上御用部屋にも次御用部屋にもまだ誰もいないという状況であり、そこで定信は誰か来るまで―、老中が来るまで上御用部屋にて、
「捏ねんと…」
座っていたのだから、その姿たるや哀れですらあった。
やがて半刻(約1時間)程も経った朝五つ(午前8時頃)になって漸く意知が姿を見せたのであった。
意知は中奥兼帯の若年寄として月番が免除されていたので、對客日でない日には外の若年寄も早くに出勤、登城することを心掛けていた。
今日28日は意知にとっては對客日―、登城前に陳情客の相手をしてやる日ではないので、いつもよりも早くに登城したという訳だ。
否、そうでなくとも今日は月次御礼であるので、意知以外の若年寄は元より、老中さえも早目に登城する。
老中や若年寄は普段は昼四つ(午前10時頃)までに下部屋に集まり、そこで四半刻(約30分)程、雑談に興じた後、御用部屋へと足を向ける。
だがそれが式日ともなると、それよりも半刻(約1時間)程も早い、朝の五つ半(午前9時頃)には下部屋に集まり、しかも雑談に興じることなく真直ぐ、御用部屋へと向かう。
今日28日もそうで、定信が意知相手に半刻(約1時間)も己の経綸を捲くし立てたところで、老中や若年寄の姿が見えたので、定信は次御用部屋より上御用部屋へと移動すると、そこでも更に老中やそれに若年寄も招いて意知に対してなしたのと同じ「御高説」を披瀝したものである。
こうして昼四つ(午前10時頃)には定信もすっかり満足した様子で、己の殿中席である帝鑑間へと戻るべく上御用部屋を出た訳だが、その際、定信は佐野善左衛門が控えていた時斗之間次こと新番所前廊下を通ったのだ。
否、定信だけではない。月番の若年寄の加納遠江守久堅とそれに意知が定信の案内役を買って出たのであった。
「越中様を御一人で帰しては失礼であろう…」
老中首座にして意知の元・岳父でもある松平周防守康福は定信が帰り際、そう告げると陪席していた意知と、それに意知とは相役にして月番の加納久堅の二人に定信の案内役を命じたのであった。
斯かる次第で意知と久堅は定信の案内役として、定信と共に新番所前廊下を通った訳だが、その際、意知は佐野善左衛門が控えているとも知らずに、
「されば越中様、次の式日の折にも御高説を拝聴仕り度…」
そう「阿諛」を口にし、しかもその「阿諛」が佐野善左衛門の耳に届いてしまったので、善左衛門はすくっと立上がると、3人の背中、それも真中に位置する定信の背中目掛けて、「越中様」と声を掛けたのであった。
善左衛門のその声で定信は立止まり、声の主である善左衛門の方へと振返った。定信の両脇を固めていた意知と久堅もそうした。
定信は―、本物の定信にとっては佐野善左衛門は初めて見る顔であったので、
「何故、顔も名前も知らぬ者から呼止められねばならぬのだ…」
定信はそう思い、怪訝な表情を浮かべた。
一方、佐野善左衛門はそうとは知らずに、
「今日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた…」
定信にそう声をかけたのであった。
善左衛門は今日28日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた、今度は日本橋は箱崎にある田安家下屋敷にて定信と―、治済が扮する定信と逢う予定であったので、そう声をかけたのであった。
否、治済と定信は共に八代将軍・吉宗の孫とは申せ、瓜二つという程のことでもない。良く見れば別人だと気付く筈である。
だが生憎、今の佐野善左衛門にはそこまで注意力が働かなかった。
善左衛門は治済とは別人である筈の定信を治済だと―、治済が扮する定信だと信じて疑わなかった。
それに対して定信は愈愈もって怪訝な表情を浮かべ、
「今日の昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにまた、何だと申すのだ?」
善左衛門にそう問返した。
それもその筈、今ここにいる本物の定信は善左衛門と斯かる約束をした記憶はどこにもないのだから、そう反応するのが自然であった。
否、定信は更に続けて、
「大体、そなたは誰だ?」
止めとも言うべきそんな反応を示したのであった。
これで仮にこの新番所前廊下に矢部主膳でも控えていてくれたならば、佐野善左衛門の口を封じていたであろう。
だが生憎と矢部主膳は―、治済の「手下」とも言うべき矢部主膳は今日は朝番でもなければ当番でもなく、それ故、今日はこの場にはいなかったのだ。
このまま事態が進行していたならば、さしもの治済も万事休す、治済の「危険な遊戯」が発覚したに違いない。
だが治済はまだ、運に見放されてはいなかった。
丁度、その時、新番所前廊下の様子が良く見渡せる中之間には新番頭が控えており、そこには矢部主膳と同じく治済の「手下」である4番組の番頭・松平大膳亮忠香も含まれていた。
松平忠香もまた、治済の「危険な遊戯」は心得ていたので、そこで忠香は、新番所前廊下にて佐野善左衛門と本物の定信との間で繰広げられている光景を目の当たりにして、
「このままでは拙いぞ…」
咄嗟にそう判断するや正に、
「脱兎の如く…」
中之間を駈出すと新番所前廊下へと足を踏み入れ、直ちに定信と善左衛門との間に割って入った。
「越中様、申訳ござりませぬ…、彼の者は畏れ多くも上様に拝謁出来るとあって、気が昂ぶっておりましてな…、何か勘違いしております様にて…」
松平忠香は慌ててそう取繕って見せた。
それに対して定信は未だ怪訝な表情を浮かべたまま、「そこもとは?」と忠香の身許を尋ねた。
「ははっ、されば新番頭を相勤めおりまする松平大膳亮忠香にて…」
忠香がそう名乗ると定信も警戒心を緩めた。
「松平か…」
定信はそう問返した。それが定信が緊張を緩めた理由であった。
忠香もそうと察すると、「ははっ」と応じた上で、
「されば五井松平の流を汲みし…」
そう補足したのであった。
五井松平と言えば定信が当主を務める、久松松平の流を汲む松平家とも遜色がない程の由緒を誇り、定信は愈愈もって警戒心を解き、それどころか完全に無防備となった。
「左様であったか…」
定信は表情を緩め、微笑みすら浮かべてそう応じた。
忠香もそんな定信の表情の変化を見逃さず、
「さればこれなる佐野善左衛門が無礼につきましてはこの松平忠香めが善左衛門に成代わりまして心より、お詫び申上げまする故、何卒、何卒、御寛容の程を…」
定信に対して深々と頭を下げたものである。
それで定信も善左衛門より受けた不躾なる態度をすっかり水に流す気になった。この辺りは名門意識で凝固まった者の弱さ、或いは注意力の欠如と言えようか。
ともあれ定信は忠香に対して、「もう良いぞ」と頭を上げる様に促して、再び帝鑑間へと歩を進めたので、意知と久堅もその後に続いた。
忠香は定信たちの背中を見送ると、佐野善左衛門を新番所前廊下の溜へと連込み、そこで「訓戒」を与えた。
「ここでは…、御城にては越中様に声をかけてはならんぞ。下手に声掛けでもして、田安家にて、そなたと密かに逢っていることが明らかともなれば越中様に多大なる御迷惑が及ぶでな…」
忠香のその「訓戒」に佐野善左衛門もその点にハッと気付くと、「申訳ござりませぬ」と応じた。
「もう良い…、以後、気を付ける様に…、それと意知から、先程のそなたのその声掛けについて尋ねられるやも知れぬが、気が昂ぶっていたで押通す様に…」
「畏まりましてござりまする…」
「それと今一つ…、そなた今日は…、昼の八つ半(午後3時頃)過ぎにも越中様に逢われるのか?」
「ははっ…、されば日本橋箱崎の田安様が御下屋敷にて…」
「左様か…、さればその場にはこの忠香も陪席しようぞ…」
「えっ?大膳亮様が?」
「左様…、先程のそなたが無礼、越中様は果たして真、お許しあそばされたのかどうか、それは分からぬ故な…」
「今でもまた、この善左衛門めが粗忽を越中様は、お怒りあそばされている、と?」
善左衛門は如何にも不安げな面持ちで尋ねた。
「その可能性も無きにしも非ず…、そこで改めてこの忠香がそなたに成代わり越中様にそなたが粗忽を詫びて遣わそうぞ…」
忠香もまた、
「如何にも…」
恩着せがましくそう言ったが、無論、それが治済と善左衛門との面会に陪席する理由ではなかった。
治済に今日のことをそれとなく伝える為であった。
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