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閑話 ニアミス ~天明3年12月28日の月次御礼にて佐野善左衛門は殿中席である新番所前廊下において本物の松平定信と接触する~

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 治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんよりもはやくに四谷よつや大木戸おおきどにある田安家たやすけ下屋敷しもやしきくと、今日きょうもまたやはり「芝居しばい衣装いしょう」に着替きがえた。すなわち、白河しらかわ松平家まつだいらけ家紋かもんがあしらわれた羽織はおりけたのであった。

 そのあと佐野さの善左衛門ぜんざえもんおとずれたので、治済はるさだ善左衛門ぜんざえもん面会めんかいおよんだ。

 そこで善左衛門ぜんざえもん意知おきとも陳情ちんじょうすべく田沼家たぬまけへとあしはこんだものの、しかし、くだんの「挨拶あいさつりょう」、すなわち、取次とりつぎ村上むらかみ半左衛門はんざえもんへの「挨拶あいさつりょう」を用意よういしていなかったために、意知おきともうことすらかなわなかったことを定信さだのぶえんずる治済はるさだ打明うちあけたのであった。

「ほう…、挨拶あいさつりょう、とな…」

 治済はるさだ如何いかにも初耳はつみみであるかのよう振舞ふるまった。

御意ぎょい…、されば10両もつつまねばならぬそうにて…」

なんと…、10両もの大金たいきん村上むらかみ半左衛門はんざえもんなる取次とりつぎつつまぬことには山城おきともめにえぬともうすかっ!?」

 治済はるさだ大仰おおぎょうおどろいてせた。

御意ぎょい…、されば相役あいやく矢部やべ主膳しゅぜんよりうかがもうしましたことゆえ間違まちがいはござりませぬ…」

 治済はるさだ佐野さの善左衛門ぜんざえもんよりそうかされて、内心ないしん、「でかした」とくちにしていた。無論むろん矢部やべ主膳しゅぜんけてであった。

 矢部やべ主膳しゅぜん治済はるさだ指図さしずけて佐野さの善左衛門ぜんざえもんたいして、くだんの「挨拶あいさつりょう」、もとい出鱈目でたらめ吹込ふきこませたのであった。

 無論むろん佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそのようなことはよしもない。

左様さようか…、なれど10両ともうさば大金たいきんぞ…、善左衛門ぜんざえもんよ、用立ようだてられるのか?」

 治済はるさだはさも、あんずるかのよう口振くちぶりであった。

 一方いっぽう善左衛門ぜんざえもんもまた、治済はるさだえんずる定信さだのぶ同情どうじょうくべく

「それが…、中々なかなかむずかしく…」

 さも、深刻しんこくそうな表情ひょうじょうでそうこたえたのであった。

 無論むろん定信さだのぶの―、治済はるさだふんする定信さだのぶの「援助えんじょ」を期待きたいしてのものであり、それにたいして治済はるさだもそのよう善左衛門ぜんざえもんむねのうちがようかったので内心ないしん善左衛門ぜんざえもんのそのような、おおよそ武士ぶしにはつかわしくない、

「はしたない…」

 ねのうちに苦笑くしょうさせられると同時どうじに、心底しんそこ軽蔑けいべつもした。

 だが治済はるさだ勿論もちろん善左衛門ぜんざえもんにそのようおのれ内心ないしんさとらせず、それどころか、「かろう」とおうじたかとおもうと、

「その10両、この定信さだのぶ用立ようだててつかわそうぞ…」

 善左衛門ぜんざえもん期待きたいしたとおりの反応はんのうしめしたのであった。

 これには善左衛門ぜんざえもんよろこびのあまり、

「まっ、まことでござりまするかっ!?」

 そう、どもりながら問返といかえした。まさかに、こうもあっさりと|己《おのれ」が期待きたいどおりにことはこぶとは、善左衛門ぜんざえもん予期よきしていなかったとえる。

まことよ…、なれど10両ともうさば、如何いかにこの定信さだのぶとてみぎからひだりへとは、ゆくまいて…、されば
28日までってはくれまいかの…」

 治済はるさだふんする定信さだのぶよりそういかけられた善左衛門ぜんざえもんにはいなやなどはもとより、あり様筈ようはずもなかった。なにしろ、こちらは10両もの大金たいきん用立ようだててもら立場たちばにいたからだ。

 それゆえ善左衛門ぜんざえもんは「御意ぎょい」とおうずるよりほかになかった。

「されば28日に…、左様さよう、28日は月次御礼つきなみおんれいなれば今時分いまじぶんもうわけにもゆかず…、されば昼八つ(午後2時頃)におうぞ…、それもつぎはここではのうて日本橋にほんばし箱崎はこざき下屋敷しもやしきにてな…」

日本橋にほんばし箱崎はこざき、でござりまするか?」

左様さよう…、いや、10両もの大金たいきんかかえて、この定信さだのぶまうきた八丁堀はっちょうぼりにある上屋敷かみやしきよりここ四谷よつや大木戸おおきどや、ましてや深川高橋ふかがわたかはしへとあしはこぶは、如何いかにも物騒ぶっそうもうすものにて…、それよりは日本橋にほんばし箱崎はこざきなればきた八丁堀はっちょうぼり白河藩しらかわはん上屋敷かみやしきよりもちかく…」

 治済はるさだのその言葉ことば善左衛門ぜんざえもんは「成程なるほど…」とおおいにうなずいたものである。

 どうやら治済はるさだ思惑通おもわくどおり、善左衛門ぜんざえもん完全かんぜん治済はるさだ定信さだのぶだとおもんでいる様子ようすであった。

 無論むろん、これもまた―、次回じかい面会めんかい場所ばしょ日本橋にほんばし箱崎はこざき下屋敷しもやしき指定していしたのは善左衛門ぜんざえもんおのれまこと定信さだのぶであるとそうおもませる思惑おもわくふくまれていたが、しかしそれだけではなかった。

日本橋にほんばし箱崎はこざきなれば、神田かんだばし門内もんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきからもちかい…」

 治済はるさだはそうかんがえて次回じかい面会めんかい場所ばしょ日本橋にほんばし箱崎はこざき下屋敷しもやしき指定していしたのであった。

 12月28日、この今年最後ことしさいご月次御礼つきなみおんれいたり、

歳暮せいぼ拝賀はいが

 そうもしょうされ、いつもの月次御礼つきなみおんれい以上いじょう賑々にぎにぎしいものであった。

 新番しんばんもこの月次御礼つきなみおんれいには参加さんか出来できるが、しかしそれも朝番あさばん当番とうばんものかぎられており、宵番よいばん不寝番ねずのばん対象外たいしょうがいであった。

 月次御礼つきなみおんれいとはつまりは普段ふだん将軍しょうぐんせっする機会きかい中々なかなかめぐまれない諸大名しょだいみょうあるいは表向おもてむき役人やくにん将軍しょうぐんえる行事イベントであった。

 普段ふだん滅多めったえぬ将軍しょうぐんうことで主従しゅじゅうきずな再確認さいかくにんするのがこの月次御礼つきなみおんれい概念コンセプトであった。

 そうであれば新番しんばん全員ぜんいんがこの月次御礼つきなみおんれい参加さんかするべきところであろうが、しかしそれは不可能ふかのうであった。

 それと言うのも新番しんばんは6組まであるのだが、1組につき20人の番士ばんしはいされており、120人の番士ばんしそんするわけで、しかし120人もの番士ばんしをその殿中でんちゅうせきである時斗之間次とけいのまつぎすなわ新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか一時いちどき収容しゅうようするのは不可能ふかのうであったからだ。

 新番しんばん殿中でんちゅうせきである時斗之間次とけいのまつぎこと新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか収容しゅうよう可能かのう人数にんずうはその半数はんすうの60人程度ていどであり、それゆえ月次御礼つきなみおんれい参加可能さんかかのう番士ばんし朝番あさばん当番とうばん勤務シフトものかぎったのだ。

 武官ぶかんである番方ばんかた勤務シフトは1日4交代制こうたいせいであり、新番しんばん場合ばあい、1組につき丁度ちょうど、4の倍数ばいすうの20人がはいされているので5人1組で勤務シフトはいる。

 つまり新番しんばんにおいては番士ばんし30人が勤務シフトはい計算けいさんであり、それが朝番あさばん当番とうばんわせれば丁度ちょうど、60人という計算けいさんであった。

 さてそこで佐野さの善左衛門ぜんざえもん場合ばあいであるが、佐野さの善左衛門ぜんざえもん今日きょう28日はさいわいにも朝番故あさばんゆえ今日きょう月次御礼つきなみおんれい参加さんかすることが出来できた。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもんは21日が朝番あさばん、22日は当番とうばんいで23日と24日にかけてが宵番よいばん、そして25日と26日にかけて不寝番ねずのばんつとめると、27日は休日きゅうじつであり、今日きょう28日にはふたたび、朝番あさばんつとめるという「ルーティン」であった。

 その佐野さの善左衛門ぜんざえもん登城とじょうし、新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかへとかうみちすがら、松平まつだいら定信さだのぶと―、本物ほんもの松平まつだいら定信さだのぶとすれちがったのであった。

 松平まつだいら定信さだのぶ殿中でんちゅうせき帝鑑間ていかんのまであるので、本来ほんらいならば新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか殿中でんちゅうせきとする佐野さの善左衛門ぜんざえもんとすれちがうことはない。帝鑑間ていかんのま新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかとではまるで方角ほうがくちがうからだ。

 だが定信さだのぶ丁度ちょうど10日前の18日に従四位下じゅしいのげ諸大夫しょだいぶ所謂いわゆる四品しほん昇叙しょうじょし、すると将軍しょうぐん家治いえはる定信さだのぶたいして、

今後こんごよう部屋べやにて国政こくせいすることをゆるす…」

 老中ろうじゅう執務室しつむしつであるうえよう部屋べやあるいは若年寄わかどしより執務室しつむしつであるつぎよう部屋べや立入たちいり、自分じぶんおも政策せいさく老中ろうじゅう若年寄わかどしより提案ていあんすることをゆるしたのであった。

 よう部屋べやうえよう部屋べやもとより、つぎよう部屋べやさえも、仮令たとえ御三家ごさんけであったとしても立入たちいりはゆるされてはいなかった。

 それほどまでに格式かくしきあるよう部屋べや定信さだのぶ立入たちいりをゆるされ、のみならず国政こくせいすることまで―、おのれ政策せいさく所謂いわゆる経綸けいりんといったものを老中ろうじゅう若年寄わかどしより提案ていあんすることまでゆるされたのだから、これはあきらかに恩典おんてんと言えた。

 なにしろ定信さだのぶ御三家ごさんけや、溜間たまりのまづめ帝鑑間ていかんのまづめぎなかったからだ。

 それだけ家治いえはる定信さだのぶ大事だいじおもっているあかしとも言えた。

 事実じじつ定信さだのぶ家治いえはるのこの「配慮はいりょ」に素直すなお感謝かんしゃしたものである。

 もっとも、定信さだのぶ帝鑑間ていかんのま詰故づめゆえ平日へいじつ登城とじょうゆるされておらず、登城とじょう出来できるのは今日きょうよう月次御礼つきなみおんれいをはじめとする式日しきじつかぎられており、そのためよう部屋べや立入たちいり、老中ろうじゅう若年寄わかどしより相手あいておのれ経綸けいりん披瀝ひれきするのも畢竟ひっきょう式日しきじつかぎられていた。

 式日しきじつつき数回すうかいしかないので、定信さだのぶ老中ろうじゅう若年寄わかどしより経綸けいりん披瀝ひれきするのもつき数回すうかい程度ていどかぎられるというわけだ。

 家治いえはる定信さだのぶふたた一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれぬよう―、と言うよりは利用りようされぬよう、そこで定信さだのぶにそのよう配慮はいりょせることで、定信さだのぶハートおのれや、ひいては意知おきともへとつなめようとする意図いとがそこにはめられていたのだが、そのさい定信さだのぶ帝鑑間ていかんのまづめであったのは僥倖ぎょうこうと言えた。

 これで定信さだのぶ平日へいじつ登城とじょうゆるされている溜間たまりのまづめや、あるいは雁間がんのまづめであったならば一大事いちだいじであったからだ。

 それと言うのも定信さだのぶのことである、毎日まいにちでもよう部屋べや押掛おしかけては老中ろうじゅう若年寄わかどしより迷惑めいわくかえりみず、長々ながながおのれ経綸けいりん披瀝ひれきするにちがいなかったからだ。

 そのてんつき数回すうかい程度ていどしかない式日しきじつだけならば―、数回すうかい程度ていど定信さだのぶの「御高説ごこうせつ」に付合つきあ程度ていどならば老中ろうじゅう若年寄わかどしより辛抱しんぼう出来できよう―、家治いえはるはそのようしたたかな計算けいさんまではたらかせたわけだが、無論むろん定信さだのぶよしもない。

 ともあれ定信さだのぶ家治いえはる予期よきしたとおり、早速さっそく式日しきじつである月次御礼つきなみおんれい今日きょう、28日にまずつぎよう部屋べやおとずれては若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきともおのれ経綸けいりん長々ながながかたってせた。

 いや定信さだのぶ今日きょうというたのしみにしており、そこでなんあけの六つ半(午前7時頃)に登城とじょうするという有様ありさまであった。

 それは丁度ちょうど遠足えんそくたのしみにしていた園児えんじ待合まちあわせ場所ばしょはや来過きすぎるようなものであろうか。

 それゆえうえよう部屋べやにもつぎよう部屋べやにもまだだれもいないという状況じょうきょうであり、そこで定信さだのぶだれるまで―、老中ろうじゅうるまでうえよう部屋べやにて、

つくねんと…」

 すわっていたのだから、その姿すがたたるやあわれですらあった。

 やがて半刻はんとき(約1時間)ほどった朝五つ(午前8時頃)になってようや意知おきとも姿すがたせたのであった。

 意知おきとも中奥兼帯なかおくけんたい若年寄わかどしよりとして月番つきばん免除めんじょされていたので、對客たいきゃくでないにはほか若年寄わかどしよりはやくに出勤しゅっきん登城とじょうすることを心掛こころがけていた。

 今日きょう28日は意知おきともにとっては對客たいきゃく―、登城とじょうまえ陳情ちんじょうきゃく相手あいてをしてやるではないので、いつもよりもはやくに登城とじょうしたというわけだ。

 いや、そうでなくとも今日きょう月次御礼つきなみおんれいであるので、意知おきとも以外いがい若年寄わかどしよりもとより、老中ろうじゅうさえも早目はやめ登城とじょうする。

 老中ろうじゅう若年寄わかどしより普段ふだんは昼四つ(午前10時頃)までに下部屋しもべやあつまり、そこで四半刻しはんとき(約30分)ほど雑談ざつだんきょうじたのちよう部屋べやへとあしける。

 だがそれが式日しきじつともなると、それよりも半刻はんとき(約1時間)ほどはやい、あさの五つ半(午前9時頃)には下部屋しもべやあつまり、しかも雑談ざつだんきょうじることなく真直まっすぐ、よう部屋べやへとかう。

 今日きょう28日もそうで、定信さだのぶ意知おきとも相手あいて半刻はんとき(約1時間)もおのれ経綸けいりんくしてたところで、老中ろうじゅう若年寄わかどしより姿すがたえたので、定信さだのぶつぎよう部屋べやよりうえよう部屋べやへと移動いどうすると、そこでもさら老中ろうじゅうやそれに若年寄わかどしよりまねいて意知おきともたいしてなしたのとおなじ「御高説ごこうせつ」を披瀝ひれきしたものである。

 こうして昼四つ(午前10時頃)には定信さだのぶもすっかり満足まんぞくした様子ようすで、おのれ殿中でんちゅうせきである帝鑑間ていかんのまへともどるべくうえよう部屋べやわけだが、そのさい定信さだのぶ佐野さの善左衛門ぜんざえもんひかえていた時斗之間次とけいのまつぎこと新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかとおったのだ。

 いや定信さだのぶだけではない。月番つきばん若年寄わかどしより加納かのう遠江守とおとうみのかみ久堅ひさかたとそれに意知おきとも定信さだのぶ案内役あんないやくってたのであった。

越中様えっちゅうさま御一人おひとりかえしては失礼しつれいであろう…」

 老中ろうじゅう首座しゅざにして意知おきとももと岳父がくふでもある松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよし定信さだのぶかえぎわ、そうげると陪席ばいせきしていた意知おきともと、それに意知おきともとは相役あいやくにして月番つきばん加納かのう久堅ひさかた二人ふたり定信さだのぶ案内役あんないやくめいじたのであった。

 かる次第しだい意知おきとも久堅ひさかた定信さだのぶ案内役あんないやくとして、定信さだのぶとも新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかとおったわけだが、そのさい意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんひかえているともらずに、

「されば越中様えっちゅうさまつぎ式日しきじつおりにも御高説ごこうせつ拝聴はいちょうつかまつたく…」

 そう「阿諛あゆ」をくちにし、しかもその「阿諛あゆ」が佐野さの善左衛門ぜんざえもんみみとどいてしまったので、善左衛門ぜんざえもんはすくっと立上たちあがると、3人の背中せなか、それも真中まんなか位置いちする定信さだのぶ背中せなか目掛めがけて、「越中様えっちゅうさま」とこえけたのであった。

 善左衛門ぜんざえもんのそのこえ定信さだのぶ立止たちどまり、こえぬしである善左衛門ぜんざえもんほうへと振返ふりかえった。定信さだのぶ両脇りょうわきかためていた意知おきとも久堅ひさかたもそうした。

 定信さだのぶは―、本物ほんもの定信さだのぶにとっては佐野さの善左衛門ぜんざえもんはじめてかおであったので、

何故なにゆえかお名前なまえらぬものから呼止よびとめられねばならぬのだ…」

 定信さだのぶはそうおもい、怪訝けげん表情ひょうじょうかべた。

 一方いっぽう佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそうとはらずに、

今日きょうひるの八つ半(午後3時頃)ぎにまた…」

 定信さだのぶにそうこえをかけたのであった。

 善左衛門ぜんざえもん今日きょう28日のひるの八つ半(午後3時頃)ぎにまた、今度こんど日本橋にほんばし箱崎はこざきにある田安家たやすけ下屋敷しもやしきにて定信さだのぶと―、治済はるさだふんする定信さだのぶ予定よていであったので、そうこえをかけたのであった。

 いや治済はるさだ定信さだのぶとも八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごとはもうせ、瓜二うりふたつというほどのことでもない。れば別人べつじんだと気付きづはずである。

 だが生憎あいにくいま佐野さの善左衛門ぜんざえもんにはそこまで注意力ちゅういりょくはたらかなかった。

 善左衛門ぜんざえもん治済はるさだとは別人べつじんであるはず定信さだのぶ治済はるさだだと―、治済はるさだふんする定信さだのぶだとしんじてうたがわなかった。

 それにたいして定信さだのぶ愈愈いよいよもって怪訝けげん表情ひょうじょうかべ、

今日きょうひるの八つ半(午後3時頃)ぎにまた、なんだともうすのだ?」

 善左衛門ぜんざえもんにそう問返といかえした。

 それもそのはずいまここにいる本物ほんもの定信さだのぶ善左衛門ぜんざえもんかる約束やくそくをした記憶きおくはどこにもないのだから、そう反応はんのうするのが自然しぜんであった。

 いや定信さだのぶさらつづけて、

大体だいたい、そなたはだれだ?」

 とどめとも言うべきそんな反応はんのうしめしたのであった。

 これでかりにこの新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか矢部やべ主膳しゅぜんでもひかえていてくれたならば、佐野さの善左衛門ぜんざえもんくちふうじていたであろう。

 だが生憎あいにく矢部やべ主膳しゅぜんは―、治済はるさだの「手下てした」とも言うべき矢部やべ主膳しゅぜん今日きょう朝番あさばんでもなければ当番とうばんでもなく、それゆえ今日きょうはこのにはいなかったのだ。

 このまま事態じたい進行しんこうしていたならば、さしもの治済はるさだ万事休ばんじきゅうす、治済はるさだの「危険きけん遊戯ゆうぎ」が発覚はっかくしたにちがいない。

 だが治済はるさだはまだ、うん見放みはなされてはいなかった。

 丁度ちょうど、そのとき新番所前しんばんしょまえ廊下ろうか様子ようす見渡みわたせる中之間なかのまには新番頭しんばんがしらひかえており、そこには矢部やべ主膳しゅぜんおなじく治済はるさだの「手下てした」である4番組ばんぐみ番頭ばんがしら松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけ忠香ただよしふくまれていた。

 松平まつだいら忠香ただよしもまた、治済はるさだの「危険きけん遊戯ゆうぎ」は心得こころえていたので、そこで忠香ただよしは、新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかにて佐野さの善左衛門ぜんざえもん本物ほんもの定信さだのぶとのあいだ繰広くりひろげられている光景こうけいたりにして、

「このままではまずいぞ…」

 咄嗟とっさにそう判断はんだんするやまさに、

脱兎だっとごとく…」

 中之間なかのま駈出かけだすと新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかへとあしれ、ただちに定信さだのぶ善左衛門ぜんざえもんとのあいだってはいった。

越中様えっちゅうさま申訳もうしわけござりませぬ…、ものおそおおくも上様うえさま拝謁はいえつ出来できるとあって、たかぶっておりましてな…、なに勘違かんちがいしておりますようにて…」

 松平まつだいら忠香ただよしあわててそう取繕とりつくろってせた。

 それにたいして定信さだのぶいま怪訝けげん表情ひょうじょうかべたまま、「そこもとは?」と忠香ただよし身許みもとたずねた。

「ははっ、されば新番頭しんばんがしら相勤あいつとめおりまする松平まつだいら大膳亮だいぜんのすけ忠香ただよしにて…」

 忠香ただよしがそう名乗なのると定信さだのぶ警戒心けいかいしんゆるめた。

松平まつだいらか…」

 定信さだのぶはそう問返といかえした。それが定信さだのぶ緊張きんちょうゆるめた理由わけであった。

 忠香ただよしもそうとさっすると、「ははっ」とおうじたうえで、

「されば五井ごい松平まつだいらながれみし…」

 そう補足ほそくしたのであった。

 五井ごい松平まつだいらと言えば定信さだのぶ当主とうしゅつとめる、久松ひさまつ松平まつだいらながれ松平家まつだいらけとも遜色そんしょくがないほど由緒ゆいしょほこり、定信さだのぶ愈愈いよいよもって警戒心けいかいしんき、それどころか完全かんぜん無防備むぼうびとなった。

左様さようであったか…」

 定信さだのぶ表情ひょうじょうゆるめ、微笑ほほえみすらかべてそうおうじた。

 忠香ただよしもそんな定信さだのぶ表情ひょうじょう変化へんか見逃みのがさず、

「さればこれなる佐野さの善左衛門ぜんざえもん無礼ぶれいにつきましてはこの松平まつだいら忠香ただよしめが善左衛門ぜんざえもん成代なりかわりましてこころより、お申上もうしあげまするゆえ何卒なにとぞ何卒なにとぞ寛容かんようほどを…」

 定信さだのぶたいして深々ふかぶかあたまげたものである。

 それで定信さだのぶ善左衛門ぜんざえもんよりけた不躾ぶしつけなる態度たいどをすっかりみずながになった。このあたりは名門めいもん意識いしき凝固こりかたまったものよわさ、あるいは注意力ちゅういりょく欠如けつじょと言えようか。

 ともあれ定信さだのぶ忠香ただよしたいして、「もういぞ」とあたまげるよううながして、ふたた帝鑑間ていかんのまへとすすめたので、意知おきとも久堅ひさかたもそのあとつづいた。

 忠香ただよし定信さだのぶたちの背中せなか見送みおくると、佐野さの善左衛門ぜんざえもん新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかたまりへと連込つれこみ、そこで「訓戒くんかい」をあたえた。

「ここでは…、御城えどじょうにては越中様えっちゅうさまこえをかけてはならんぞ。下手へた声掛こえかけでもして、田安家たやすけにて、そなたとひそかにっていることがあきらかともなれば越中様えっちゅうさま多大ただいなる迷惑めいわくおよぶでな…」

 忠香ただよしのその「訓戒くんかい」に佐野さの善左衛門ぜんざえもんもそのてんにハッと気付きづくと、「申訳もうしわけござりませぬ」とおうじた。

「もうい…、以後いごけるように…、それと意知おきともから、先程さきほどのそなたのその声掛こえかけについてたずねられるやもれぬが、たかぶっていたで押通おしとおように…」

かしこまりましてござりまする…」

「それと今一いまひとつ…、そなた今日きょうは…、ひるの八つ半(午後3時頃)ぎにも越中様えっちゅうさまわれるのか?」

「ははっ…、されば日本橋にほんばし箱崎はこざき田安様たやすさま下屋敷しもやしきにて…」

左様さようか…、さればそのにはこの忠香ただよし陪席ばいせきしようぞ…」

「えっ?大膳亮だいぜんのすけさまが?」

左様さよう…、先程さきほどのそなたが無礼ぶれい越中様えっちゅうさまたしてまこと、おゆるしあそばされたのかどうか、それはからぬゆえな…」

いまでもまた、この善左衛門ぜんざえもんめが粗忽そこつ越中様えっちゅうさまは、おいかりあそばされている、と?」

 善左衛門ぜんざえもん如何いかにも不安ふあんげな面持おももちでたずねた。

「その可能性かのうせいきにしもあらず…、そこであらためてこの忠香ただよしがそなたに成代なりかわり越中様えっちゅうさまにそなたが粗忽そこつびてつかわそうぞ…」

 忠香ただよしもまた、

如何いかにも…」

 恩着おんきせがましくそう言ったが、無論むろん、それが治済はるさだ善左衛門ぜんざえもんとの面会めんかい陪席ばいせきする理由りゆうではなかった。

 治済はるさだ今日きょうのことをそれとなくつたえるためであった。
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