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天明3年12月8日、将軍よりの褒美の時服に与れなかった佐野善左衛門は新番頭・松平大膳亮忠香から「甘い言葉」を囁かれる。
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果たして翌日の12月8日、治済が予期した通り、この日、4人の番士に対して、即ち、
「小姓組番1番組・羽根伊織常敷」
「書院番2番組・羽太清左衛門正忠」
「新番4番組・森彌五郎定救」
「小十人組番2番組・澤吉次郎實茂」
12月3日の木下川の畔における鷹狩りにて見事、雁を仕留めた以上の4人の番士―、供弓を勤めた番士に対して将軍・家治よりその褒美として時服三領が下賜された。
正確には表向の奥右筆部屋の縁頬にて月番老中の松平周防守康福から手渡されたのであった。
否、直接将軍から褒美の品が、即ち、時服三領が手渡されずとも、月番老中から手渡されるだけでも名誉なことであった。
ことに松平康福は老中の中でも筆頭である首座にあった。
今月は首座の松平康福が偶々、月番を務めていたので、羽根伊織たちも首座の松平康福から将軍・家治よりの褒美の品を手渡されるという幸運に恵まれたのであった。
将軍の鷹狩りにて、鳥を仕留めた番士に対して将軍からの褒美の品を渡すのは月番老中の仕事であったからだ。
その様を新番所より実に恨めしそうに眺めていたのが、幸運に見放されていた新番士の佐野善左衛門であった。
奥右筆部屋は若年寄の執務室である次御用部屋とそれに新番士の詰所である新番所に囲まれた一角にあり、それ故、新番士としてその時、新番所に詰めていた佐野善左衛門の目にはそれこそ、
「嫌でも…」
老中首座である松平康福より将軍・家治からの褒美の品を手渡されて誇らしげな羽根伊織たちの姿が、ことに澤吉次郎の姿が飛込んできた。
すると澤吉次郎が己へと向けられた視線に気付いたらしく、視線の先、即ち、佐野善左衛門を見た。
それは一瞬のことであり、佐野善左衛門は視線を外すのが遅れ、結果として澤吉次郎に己が見つめていたことを悟られてしまった。
これだけでも充分に恥ずかしいのだが、澤吉次郎はその上、佐野善左衛門に対して嗤って見せたのだ。
否、それは佐野善左衛門の「被害妄想」に過ぎないのだが、佐野善左衛門は澤吉次郎に嗤われたと、そう堅く信じて疑わず、羞恥の余り俯いた。
その様な佐野善左衛門に対して肩を叩く者があった。
その時の佐野善左衛門は肩を叩かれるのも鬱陶しかったので、条件反射的に、
「キッと…」
睨み付ける様な眼つきになって振返り、そして己の肩を叩いた主を見上げた。
するとそこには何と佐野善左衛門が属する組、3番組ではないものの、それでも4番組を支配する番頭の松平大膳亮忠香が立っていたのだ。
佐野善左衛門は慌てて眼つきを緩めると平伏した。
ヒラの番士が番頭に「ガン」を飛ばしては如何にも拙いからだ。
仮令、己が所属する3番組を支配する番頭ではないとしてもだ。
それに対して松平忠香は、
「左様に畏まらずとも良い…」
平伏する佐野善左衛門にそう声をかけたかと思うと、しゃがみ込み、
「そなたにちと、話があるのだ…」
佐野善左衛門にそうも耳打ちしたのであった。
それで佐野善左衛門も少しだけだが顔を上げると、
「それがしに…、話でござりまするか?」
松平忠香に倣って小声で確かめる様に尋ねた。
「左様…」
松平忠香は首肯するや、佐野善左衛門の顔を完全に上げさせ、のみならず、腰も上げさせて、やはり密談の場所にはうってつけの新番所前廊下にある溜へと佐野善左衛門を誘った。
新番所前廊下にある溜にて松平忠香は佐野善左衛門と向かい合うなり、
「いや…、実に惜しかったのう…」
そう切出した。
それに対して佐野善左衛門は唐突にこと故、訳が分からず、しかしそれでも、「はぁ…」と気のない返事を寄越した。
松平忠香もそうと察すると、
「されば鷹狩りの件よ…」
そう告げて、佐野善左衛門に事情を呑込ませた。
同時に佐野善左衛門は松平忠香までが「四羽目の雁」を仕留めたのはこの己であると信じてくれているのかと、そう期待した。
果たして松平忠香は佐野善左衛門が期待した通りの返答をした。
「されば四羽目の雁…、あれは明らかに佐野善左衛門よ…、そなたが仕留めしものぞ…、だのに…、澤吉次郎なる小十人風情に手柄を掻っ攫われて、実に無念であろうぞ…」
松平忠香は佐野善左衛門にそう優しく語り掛けたものである。
一方、佐野善左衛門はそれで漸くに愁眉が開けた。
幸田源之助だけでなく、松平忠香までが己の「手柄」を認めてくれたからだ。
否、幸田源之助の場合は先程の松平忠香の言葉、もとい侮蔑を拝借するならば、
「小十人風情…」
それに過ぎないが、松平忠香の場合はそれとは正反対、従六位布衣役の中でも小普請組支配と並んで頂点に立つ新番頭なのである。
その新番頭である松平忠香までが、
「四羽目の雁は佐野善左衛門が仕留めた…」
そう己の手柄を認めてくれたとあって、佐野善左衛門は愈々、四羽目の雁は己が仕留めたのだと、その意を強くした。
「にもかかわらず…、どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成上がり者の田沼意知めが仕業により、手柄を掻っ攫われたのだからのう…」
松平忠香は更にそう続けることで、実に巧妙に佐野善左衛門を、
「田沼意知憎し…」
へと誘導した。
松平忠香はその上で、遂に「本題」とも言うべき松平定信の名を出したのだ。
「されば越中様…、定信様もそなたのことは、いたく、気にかけておられてのう…」
松平忠香が「越中様」こと松平越中守定信の名を出した途端、佐野善左衛門は「えっ!?」と激しい反応を示した。
松平忠香は佐野善左衛門が己が、ひいては一橋治済が期待した通りの反応を示してくれたので内心、噴出したいのを堪えつつ、先を続けた。
即ち、松平忠香は松平定信との「所縁」について説明したのだ。
そこには勿論、田安贔屓の佐野善左衛門の心を、
「グッと…」
引寄せるのが目的が含まれていた。
「されば…、この忠香が養嗣子は西尾藩主…、御先代の松平和泉守様…、乗佑様が11男…、と申すよりは今の西尾藩主にして、御奏者番を務めあそばされし和泉守乗完様が舎弟にて、その縁でこの忠香は乗完様とは親しくさせて貰うておるのだが…」
松平忠香はさりげなく、大名の庶子、それも譜代大名の雄たる西尾藩主の松平和泉守家より養嗣子を迎えたことを打明けることで、己の「大物ぶり」をもアピールした。
「されば西尾の松平和泉守家と申さば代々、帝鑑間を殿中席としており、同じく帝鑑間を殿中席とする白河松平家の定信様とも親しく…」
これは事実であった。
否、正確には松平定信と松平乗完が帝鑑間にて同席であったのは―、月次御礼などの式日の折に、将軍に拝謁するまでの待合所とも言うべき殿中席である帝鑑間にて定信と乗完が一緒に詰めていたのは定信が前の白河藩主・松平越中守定邦が養嗣子として将軍・家治に初御目見得を果たした安永4(1775)年閏12月より、乗完が奏者番に取立てられた2年前の天明元(1781)年4月までの凡そ、6年弱の間であった。
帝鑑間は父子同席―、嫡子が将軍に初御目見得、つまりは将軍に嫡子、世継として認知されることで、爾来、月次御礼などの式日の折には父、或いは養父である当主と共に御城への登城が許され、且、父と共に殿中席である帝鑑間に詰めることが許されるのであった。
それ故、定信は乗完と帝間間で一緒であったのは白河松平家の嫡子、養嗣子の時代であり、一方、乗完は既にその時には西尾藩主であった。
定信が将軍・家治に初御目見得を果たすことで養父、定邦の嫡子、養嗣子として家治に認知された安永4(1775)年閏12月よりも遥か前の明和6(1769)年10月に父・乗佑の遺跡を継いで西尾藩主となっていたからだ。
そして白河松平家と西尾松平家は奇しくも参府と暇の年が同じ―、参勤交代により江戸に来る年と国許に帰る年、それもその月までが同じであり、白河松平家と西尾松平家は斯かる事情、もとい偶然も相俟って親しく付合う間柄であった。
尤も、仮令、白河松平家と西尾松平家の参府と暇の年が違っていたとしても、嫡子であった時分の定信は定府―、常に江戸の上屋敷にて暮らすことが義務付けられていたので、裏を返せば参勤交代の義務からは免除されていたので、毎年、月次御礼などの式日に御城に登城して帝鑑間に詰められたので、乗完とは帝鑑間にて顔を合わすことが出来たであろう。
さて、その乗完も2年前の天明元(1781)年4月に奏者番に取立てられると、月次御礼などの式日に殿中席である帝鑑間にて定信と一緒に詰めることもなくなった。
それと言うのも奏者番の殿中席は芙蓉之間であるので、乗完は幕府の役職である奏者番に取立てられた為に平日登城が許される様になったが、その代わりという訳でもないが、平日は奏者番としてその殿中席である芙蓉之間に詰め、その職務をこなさなければならなかった。
即ち、奏者番とは幕府の儀礼典礼を掌る、要は「ホスト役」であり、それ故、平日は奏者番は芙蓉之間にて月次御礼などの式日などの進行、所謂、「式次第」について打合わせに追われていた。
御城においては式日だけではなく、大名の家督相続など、常に行事が満載であり、それら行事の「式次第」を担うのが奏者番であり、「ホスト役」である所以であった。
それ故、奏者番は月次御礼などの式日当日においては殿中席である芙蓉之間にて、それこそ、
「のんべんだらり…」
詰めることなど許されず、「ホスト役」として「式次第」に追われることになる。
帝鑑間詰は、否、帝鑑間詰に限らず、松之大廊下詰は元より大廣間詰や柳間詰、雁間詰や菊間詰に至るまで、全ての大名は式日においては、将軍との主従の絆を再確認するという意味もあって、
「お客様大名…」
その様に扱われる。
それ故、奏者番はその式日の「式次第」を「ホスト役」として担う以上、最早、
「お客様大名」
それではないのだから、「お客様大名」として将軍に拝謁することなど許されず、そうである以上、そもそも将軍に拝謁するまでの間、殿中席にて待つ余地などなかった。
否、これで奏者番の筆頭である寺社奉行ともなれば話は別で、寺社奉行もまた、「お客様大名」として月次御礼の際には将軍に拝謁することが許されるので、そこで将軍に拝謁するまでの間、その殿中席である芙蓉之間にて待つことになる。
だが松平乗完は未だヒラの奏者番に過ぎず、式日には「ホスト役」に徹しなければならない。
ともあれ斯かる事情から、乗完が奏者番に取立てられると爾来、定信は月次御礼などの式日の折、殿中席である帝鑑間にて顔を合わすことはなくなった訳だが、しかし、それまでに定信が乗完との間に育んだ謂わば「友情」が消えることはなく、文通をはじめとし、互いの屋敷を往来することもあった。
「さればこの忠香、乗完様を介して、定信様とも親しくさせて貰う機会に恵まれてのう…」
ここからは忠香の「虚言」であった。
それ以前に忠香は乗完とも親しくは付合ってはいなかった。
成程、忠香は確に乗佑の11男にして、乗完の舎弟である帯刀忠順を養嗣子に迎えてはいたものの、それで乗完と親しく付合うことはなかった。
否、忠香としては、
「譜代の雄たる乗完と親しく付合いたい…」
その様な「下心」があったであろうが、しかし、乗完の方が忠香を単なる、
「遠い親戚…」
そうとしか看做さず、親しくしようとはしなかったのだ。
そうである以上、忠香が乗完を介して定信とも親しく付合うなど、そもそもあり得ない話であった。
だが今やすっかり忠香の「マインドコントロール下」に置かれた佐野善左衛門は忠香の「虚言」を「真実」として受止めた。
「されば定信様の知遇を得しこの忠香、定信様が御厚意により、その御実家である田安様の御屋形にも招かれる様になり…」
田安贔屓の佐野善左衛門にとって、今の忠香のその言葉はさしずめ「麻薬」の様な効目を齎した。
「何と…、されば上屋敷に?」
佐野善左衛門は忠香の「虚言」をすっかり信じた様子でそう尋ねた。
「否…、上屋敷は流石にのう…、ほれ、上屋敷には寶蓮院様がおられるでのう…、されば寶蓮院様は定信様が田安屋形へと軽々に戻って来られるのを良しとせず…」
「されば上屋敷ではのうて、下屋敷にて?」
「左様…、されば田安屋形には今でも定信様をお慕い申す家臣がおられるでのう…、例えば中田左兵衛殿や金森五郎右衛門殿、或いは幸田友之助殿などが…」
忠香がそれら3人の名を出した途端、佐野善左衛門は3人の役職をピタリと言当てて見せた。
「中田左兵衛殿と申さば御番頭ではござりませぬか…、それに金森殿は物頭…、幸田殿は御用人格の郡奉行…」
佐野善左衛門のその田安家に関する知識の深さに忠香は内心、舌を巻くと同時に、
「田安家に関しては、佐野善左衛門は侮れまい…」
その様に警戒もしつつ、「左様…」と応じた。
忠香はその上で、
「されば彼等の手引にて下屋敷にて定信様と逢う機会にも恵まれてのう…」
更にそう「虚言」を紡いだ。
「されば…、下屋敷と仰せられますると、箱崎町の?」
佐野善左衛門は「田安贔屓」らしく、治済が予期した通り、下屋敷の場所まで把握していた。やはり田安家に関する知識については佐野善左衛門は侮れなかった。
「左様…、いや、箱崎町の御屋敷だけではない、四谷大木戸の御屋敷にて逢うことも度々でのう…」
忠香もそこで、「四谷大木戸」の地名を挙げることで、佐野善左衛門に己の「虚言」を愈々もって信じさせた。
田安家の下屋敷は箱崎町とそれに今、忠香が挙げた四谷大木戸の二つの地点にあった。
佐野善左衛門は「左様でござりまするか…」とすっかり感嘆した様子で、即ち、忠香の「虚言」を信じた様子でそう応じた。
「さればその折…、あれは箱崎町の御屋敷にて定信様と逢うた時だの、鷹狩りの話題となり…、いや、そなたも存じておろうが、定信様は流石に八代様の御血筋故、文武両道に優れ…」
確かにこの点だけは、即ち、
「定信は八代将軍・吉宗の孫だけあって、文武両道に優れている…」
それだけはこれまた事実であった。
だがそこから先は再び、「虚言」であった。
「そこでふとした弾みに、そなたの話題を口にしてのう…」
「この善左衛門めが話題と?」
「左様…、されば意知めが仕業により、手柄を奪われた者がおると…、誇り高き、それも下賤、卑賤なる意知などとは異なり、確かなる筋目の佐野善左衛門なる番士が手柄を…、供弓として見事、雁を仕留めしにもかかわらず、意知めが仕業によりその手柄を奪われたと…、定信様に左様、申上げると、定信様も佐野善左衛門に…、そなたに大いに同情なされると同時に、それ程の男なればと、一度、佐野善左衛門という男に逢ってみたいと仰せられてのう…」
「何と…、畏れ多くも定信様がこの善左衛門めに…」
佐野善左衛門はすっかり感動の極致であった。
「左様…、さればどうだの…、一度、定信様と逢うてはみないか?」
定信に逢える―、忠香のその提案に佐野善左衛門としては元より、否やなどあり得よう筈はなく、
「ははっ、有難く…」
佐野善左衛門は平伏してそう応じた。
「左様か…、いや、そなたが定信様よりの御申出を受けてくれて、この忠香も嬉しく思うぞ…」
忠香はそう声をかけると、定信との面会の日取や場所―、箱崎町かそれとも四谷大木戸、何れの下屋敷にて逢うか、それらの点については追って連絡すると、佐野善左衛門に告げた。
そして忠香は更に、
「さればこのこと決して他言無用ぞ…、そなたには田安家臣の縁者がおるようだが、その者に対しては元より、外の者にもな…、下屋敷を定信様がお使いあそばされることが明らかとならば、定信様が大変に困った立場に追込まれるでな…」
佐野善左衛門にそう「口止」するのを忘れなかった。すると佐野善左衛門も忠香のその「口止」に対して、
「何の疑いもなし…」
ははぁっ、と素直に受容れたのであった。
「小姓組番1番組・羽根伊織常敷」
「書院番2番組・羽太清左衛門正忠」
「新番4番組・森彌五郎定救」
「小十人組番2番組・澤吉次郎實茂」
12月3日の木下川の畔における鷹狩りにて見事、雁を仕留めた以上の4人の番士―、供弓を勤めた番士に対して将軍・家治よりその褒美として時服三領が下賜された。
正確には表向の奥右筆部屋の縁頬にて月番老中の松平周防守康福から手渡されたのであった。
否、直接将軍から褒美の品が、即ち、時服三領が手渡されずとも、月番老中から手渡されるだけでも名誉なことであった。
ことに松平康福は老中の中でも筆頭である首座にあった。
今月は首座の松平康福が偶々、月番を務めていたので、羽根伊織たちも首座の松平康福から将軍・家治よりの褒美の品を手渡されるという幸運に恵まれたのであった。
将軍の鷹狩りにて、鳥を仕留めた番士に対して将軍からの褒美の品を渡すのは月番老中の仕事であったからだ。
その様を新番所より実に恨めしそうに眺めていたのが、幸運に見放されていた新番士の佐野善左衛門であった。
奥右筆部屋は若年寄の執務室である次御用部屋とそれに新番士の詰所である新番所に囲まれた一角にあり、それ故、新番士としてその時、新番所に詰めていた佐野善左衛門の目にはそれこそ、
「嫌でも…」
老中首座である松平康福より将軍・家治からの褒美の品を手渡されて誇らしげな羽根伊織たちの姿が、ことに澤吉次郎の姿が飛込んできた。
すると澤吉次郎が己へと向けられた視線に気付いたらしく、視線の先、即ち、佐野善左衛門を見た。
それは一瞬のことであり、佐野善左衛門は視線を外すのが遅れ、結果として澤吉次郎に己が見つめていたことを悟られてしまった。
これだけでも充分に恥ずかしいのだが、澤吉次郎はその上、佐野善左衛門に対して嗤って見せたのだ。
否、それは佐野善左衛門の「被害妄想」に過ぎないのだが、佐野善左衛門は澤吉次郎に嗤われたと、そう堅く信じて疑わず、羞恥の余り俯いた。
その様な佐野善左衛門に対して肩を叩く者があった。
その時の佐野善左衛門は肩を叩かれるのも鬱陶しかったので、条件反射的に、
「キッと…」
睨み付ける様な眼つきになって振返り、そして己の肩を叩いた主を見上げた。
するとそこには何と佐野善左衛門が属する組、3番組ではないものの、それでも4番組を支配する番頭の松平大膳亮忠香が立っていたのだ。
佐野善左衛門は慌てて眼つきを緩めると平伏した。
ヒラの番士が番頭に「ガン」を飛ばしては如何にも拙いからだ。
仮令、己が所属する3番組を支配する番頭ではないとしてもだ。
それに対して松平忠香は、
「左様に畏まらずとも良い…」
平伏する佐野善左衛門にそう声をかけたかと思うと、しゃがみ込み、
「そなたにちと、話があるのだ…」
佐野善左衛門にそうも耳打ちしたのであった。
それで佐野善左衛門も少しだけだが顔を上げると、
「それがしに…、話でござりまするか?」
松平忠香に倣って小声で確かめる様に尋ねた。
「左様…」
松平忠香は首肯するや、佐野善左衛門の顔を完全に上げさせ、のみならず、腰も上げさせて、やはり密談の場所にはうってつけの新番所前廊下にある溜へと佐野善左衛門を誘った。
新番所前廊下にある溜にて松平忠香は佐野善左衛門と向かい合うなり、
「いや…、実に惜しかったのう…」
そう切出した。
それに対して佐野善左衛門は唐突にこと故、訳が分からず、しかしそれでも、「はぁ…」と気のない返事を寄越した。
松平忠香もそうと察すると、
「されば鷹狩りの件よ…」
そう告げて、佐野善左衛門に事情を呑込ませた。
同時に佐野善左衛門は松平忠香までが「四羽目の雁」を仕留めたのはこの己であると信じてくれているのかと、そう期待した。
果たして松平忠香は佐野善左衛門が期待した通りの返答をした。
「されば四羽目の雁…、あれは明らかに佐野善左衛門よ…、そなたが仕留めしものぞ…、だのに…、澤吉次郎なる小十人風情に手柄を掻っ攫われて、実に無念であろうぞ…」
松平忠香は佐野善左衛門にそう優しく語り掛けたものである。
一方、佐野善左衛門はそれで漸くに愁眉が開けた。
幸田源之助だけでなく、松平忠香までが己の「手柄」を認めてくれたからだ。
否、幸田源之助の場合は先程の松平忠香の言葉、もとい侮蔑を拝借するならば、
「小十人風情…」
それに過ぎないが、松平忠香の場合はそれとは正反対、従六位布衣役の中でも小普請組支配と並んで頂点に立つ新番頭なのである。
その新番頭である松平忠香までが、
「四羽目の雁は佐野善左衛門が仕留めた…」
そう己の手柄を認めてくれたとあって、佐野善左衛門は愈々、四羽目の雁は己が仕留めたのだと、その意を強くした。
「にもかかわらず…、どこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる成上がり者の田沼意知めが仕業により、手柄を掻っ攫われたのだからのう…」
松平忠香は更にそう続けることで、実に巧妙に佐野善左衛門を、
「田沼意知憎し…」
へと誘導した。
松平忠香はその上で、遂に「本題」とも言うべき松平定信の名を出したのだ。
「されば越中様…、定信様もそなたのことは、いたく、気にかけておられてのう…」
松平忠香が「越中様」こと松平越中守定信の名を出した途端、佐野善左衛門は「えっ!?」と激しい反応を示した。
松平忠香は佐野善左衛門が己が、ひいては一橋治済が期待した通りの反応を示してくれたので内心、噴出したいのを堪えつつ、先を続けた。
即ち、松平忠香は松平定信との「所縁」について説明したのだ。
そこには勿論、田安贔屓の佐野善左衛門の心を、
「グッと…」
引寄せるのが目的が含まれていた。
「されば…、この忠香が養嗣子は西尾藩主…、御先代の松平和泉守様…、乗佑様が11男…、と申すよりは今の西尾藩主にして、御奏者番を務めあそばされし和泉守乗完様が舎弟にて、その縁でこの忠香は乗完様とは親しくさせて貰うておるのだが…」
松平忠香はさりげなく、大名の庶子、それも譜代大名の雄たる西尾藩主の松平和泉守家より養嗣子を迎えたことを打明けることで、己の「大物ぶり」をもアピールした。
「されば西尾の松平和泉守家と申さば代々、帝鑑間を殿中席としており、同じく帝鑑間を殿中席とする白河松平家の定信様とも親しく…」
これは事実であった。
否、正確には松平定信と松平乗完が帝鑑間にて同席であったのは―、月次御礼などの式日の折に、将軍に拝謁するまでの待合所とも言うべき殿中席である帝鑑間にて定信と乗完が一緒に詰めていたのは定信が前の白河藩主・松平越中守定邦が養嗣子として将軍・家治に初御目見得を果たした安永4(1775)年閏12月より、乗完が奏者番に取立てられた2年前の天明元(1781)年4月までの凡そ、6年弱の間であった。
帝鑑間は父子同席―、嫡子が将軍に初御目見得、つまりは将軍に嫡子、世継として認知されることで、爾来、月次御礼などの式日の折には父、或いは養父である当主と共に御城への登城が許され、且、父と共に殿中席である帝鑑間に詰めることが許されるのであった。
それ故、定信は乗完と帝間間で一緒であったのは白河松平家の嫡子、養嗣子の時代であり、一方、乗完は既にその時には西尾藩主であった。
定信が将軍・家治に初御目見得を果たすことで養父、定邦の嫡子、養嗣子として家治に認知された安永4(1775)年閏12月よりも遥か前の明和6(1769)年10月に父・乗佑の遺跡を継いで西尾藩主となっていたからだ。
そして白河松平家と西尾松平家は奇しくも参府と暇の年が同じ―、参勤交代により江戸に来る年と国許に帰る年、それもその月までが同じであり、白河松平家と西尾松平家は斯かる事情、もとい偶然も相俟って親しく付合う間柄であった。
尤も、仮令、白河松平家と西尾松平家の参府と暇の年が違っていたとしても、嫡子であった時分の定信は定府―、常に江戸の上屋敷にて暮らすことが義務付けられていたので、裏を返せば参勤交代の義務からは免除されていたので、毎年、月次御礼などの式日に御城に登城して帝鑑間に詰められたので、乗完とは帝鑑間にて顔を合わすことが出来たであろう。
さて、その乗完も2年前の天明元(1781)年4月に奏者番に取立てられると、月次御礼などの式日に殿中席である帝鑑間にて定信と一緒に詰めることもなくなった。
それと言うのも奏者番の殿中席は芙蓉之間であるので、乗完は幕府の役職である奏者番に取立てられた為に平日登城が許される様になったが、その代わりという訳でもないが、平日は奏者番としてその殿中席である芙蓉之間に詰め、その職務をこなさなければならなかった。
即ち、奏者番とは幕府の儀礼典礼を掌る、要は「ホスト役」であり、それ故、平日は奏者番は芙蓉之間にて月次御礼などの式日などの進行、所謂、「式次第」について打合わせに追われていた。
御城においては式日だけではなく、大名の家督相続など、常に行事が満載であり、それら行事の「式次第」を担うのが奏者番であり、「ホスト役」である所以であった。
それ故、奏者番は月次御礼などの式日当日においては殿中席である芙蓉之間にて、それこそ、
「のんべんだらり…」
詰めることなど許されず、「ホスト役」として「式次第」に追われることになる。
帝鑑間詰は、否、帝鑑間詰に限らず、松之大廊下詰は元より大廣間詰や柳間詰、雁間詰や菊間詰に至るまで、全ての大名は式日においては、将軍との主従の絆を再確認するという意味もあって、
「お客様大名…」
その様に扱われる。
それ故、奏者番はその式日の「式次第」を「ホスト役」として担う以上、最早、
「お客様大名」
それではないのだから、「お客様大名」として将軍に拝謁することなど許されず、そうである以上、そもそも将軍に拝謁するまでの間、殿中席にて待つ余地などなかった。
否、これで奏者番の筆頭である寺社奉行ともなれば話は別で、寺社奉行もまた、「お客様大名」として月次御礼の際には将軍に拝謁することが許されるので、そこで将軍に拝謁するまでの間、その殿中席である芙蓉之間にて待つことになる。
だが松平乗完は未だヒラの奏者番に過ぎず、式日には「ホスト役」に徹しなければならない。
ともあれ斯かる事情から、乗完が奏者番に取立てられると爾来、定信は月次御礼などの式日の折、殿中席である帝鑑間にて顔を合わすことはなくなった訳だが、しかし、それまでに定信が乗完との間に育んだ謂わば「友情」が消えることはなく、文通をはじめとし、互いの屋敷を往来することもあった。
「さればこの忠香、乗完様を介して、定信様とも親しくさせて貰う機会に恵まれてのう…」
ここからは忠香の「虚言」であった。
それ以前に忠香は乗完とも親しくは付合ってはいなかった。
成程、忠香は確に乗佑の11男にして、乗完の舎弟である帯刀忠順を養嗣子に迎えてはいたものの、それで乗完と親しく付合うことはなかった。
否、忠香としては、
「譜代の雄たる乗完と親しく付合いたい…」
その様な「下心」があったであろうが、しかし、乗完の方が忠香を単なる、
「遠い親戚…」
そうとしか看做さず、親しくしようとはしなかったのだ。
そうである以上、忠香が乗完を介して定信とも親しく付合うなど、そもそもあり得ない話であった。
だが今やすっかり忠香の「マインドコントロール下」に置かれた佐野善左衛門は忠香の「虚言」を「真実」として受止めた。
「されば定信様の知遇を得しこの忠香、定信様が御厚意により、その御実家である田安様の御屋形にも招かれる様になり…」
田安贔屓の佐野善左衛門にとって、今の忠香のその言葉はさしずめ「麻薬」の様な効目を齎した。
「何と…、されば上屋敷に?」
佐野善左衛門は忠香の「虚言」をすっかり信じた様子でそう尋ねた。
「否…、上屋敷は流石にのう…、ほれ、上屋敷には寶蓮院様がおられるでのう…、されば寶蓮院様は定信様が田安屋形へと軽々に戻って来られるのを良しとせず…」
「されば上屋敷ではのうて、下屋敷にて?」
「左様…、されば田安屋形には今でも定信様をお慕い申す家臣がおられるでのう…、例えば中田左兵衛殿や金森五郎右衛門殿、或いは幸田友之助殿などが…」
忠香がそれら3人の名を出した途端、佐野善左衛門は3人の役職をピタリと言当てて見せた。
「中田左兵衛殿と申さば御番頭ではござりませぬか…、それに金森殿は物頭…、幸田殿は御用人格の郡奉行…」
佐野善左衛門のその田安家に関する知識の深さに忠香は内心、舌を巻くと同時に、
「田安家に関しては、佐野善左衛門は侮れまい…」
その様に警戒もしつつ、「左様…」と応じた。
忠香はその上で、
「されば彼等の手引にて下屋敷にて定信様と逢う機会にも恵まれてのう…」
更にそう「虚言」を紡いだ。
「されば…、下屋敷と仰せられますると、箱崎町の?」
佐野善左衛門は「田安贔屓」らしく、治済が予期した通り、下屋敷の場所まで把握していた。やはり田安家に関する知識については佐野善左衛門は侮れなかった。
「左様…、いや、箱崎町の御屋敷だけではない、四谷大木戸の御屋敷にて逢うことも度々でのう…」
忠香もそこで、「四谷大木戸」の地名を挙げることで、佐野善左衛門に己の「虚言」を愈々もって信じさせた。
田安家の下屋敷は箱崎町とそれに今、忠香が挙げた四谷大木戸の二つの地点にあった。
佐野善左衛門は「左様でござりまするか…」とすっかり感嘆した様子で、即ち、忠香の「虚言」を信じた様子でそう応じた。
「さればその折…、あれは箱崎町の御屋敷にて定信様と逢うた時だの、鷹狩りの話題となり…、いや、そなたも存じておろうが、定信様は流石に八代様の御血筋故、文武両道に優れ…」
確かにこの点だけは、即ち、
「定信は八代将軍・吉宗の孫だけあって、文武両道に優れている…」
それだけはこれまた事実であった。
だがそこから先は再び、「虚言」であった。
「そこでふとした弾みに、そなたの話題を口にしてのう…」
「この善左衛門めが話題と?」
「左様…、されば意知めが仕業により、手柄を奪われた者がおると…、誇り高き、それも下賤、卑賤なる意知などとは異なり、確かなる筋目の佐野善左衛門なる番士が手柄を…、供弓として見事、雁を仕留めしにもかかわらず、意知めが仕業によりその手柄を奪われたと…、定信様に左様、申上げると、定信様も佐野善左衛門に…、そなたに大いに同情なされると同時に、それ程の男なればと、一度、佐野善左衛門という男に逢ってみたいと仰せられてのう…」
「何と…、畏れ多くも定信様がこの善左衛門めに…」
佐野善左衛門はすっかり感動の極致であった。
「左様…、さればどうだの…、一度、定信様と逢うてはみないか?」
定信に逢える―、忠香のその提案に佐野善左衛門としては元より、否やなどあり得よう筈はなく、
「ははっ、有難く…」
佐野善左衛門は平伏してそう応じた。
「左様か…、いや、そなたが定信様よりの御申出を受けてくれて、この忠香も嬉しく思うぞ…」
忠香はそう声をかけると、定信との面会の日取や場所―、箱崎町かそれとも四谷大木戸、何れの下屋敷にて逢うか、それらの点については追って連絡すると、佐野善左衛門に告げた。
そして忠香は更に、
「さればこのこと決して他言無用ぞ…、そなたには田安家臣の縁者がおるようだが、その者に対しては元より、外の者にもな…、下屋敷を定信様がお使いあそばされることが明らかとならば、定信様が大変に困った立場に追込まれるでな…」
佐野善左衛門にそう「口止」するのを忘れなかった。すると佐野善左衛門も忠香のその「口止」に対して、
「何の疑いもなし…」
ははぁっ、と素直に受容れたのであった。
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