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重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 1
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その頃、意知は大広間を殿中席とする諸侯を帝鑑之間に面した入側へと案内し、そこで打ち合わせに臨んでいた。
将軍は月次御礼においては黒書院において御三家やそれに松之大廊下の下之部屋、そして溜之間を殿中席とする諸侯と独礼にての拝謁に臨んだ後、今度は白書院へと足を向け、そこで大広間を殿中席とする諸侯との拝謁に臨む。
その際、将軍が黒書院における拝謁が終わるのを見計らって、大広間を殿中席とする諸侯を帝鑑之間に面した入側へと案内するのもまた、奏者番の仕事であった。
ところで何故に帝鑑之間に面した入側なのかと言うと、それは白書院、それも下段之間がちょうど帝鑑之間の隣に位置していた。
そして大広間を殿中席とする諸侯もまた、御三家らと同様に独礼にて将軍との拝謁に臨むため、そこで大広間を殿中席とする諸侯は白書院にて将軍に拝謁する、つまりは将軍に会える順番が廻ってくるまでこの白書院のそれも下段之間の直ぐ隣の部屋に当たる帝鑑之間に面した入側に控えることとなる。
それならば帝鑑之間にて待てば良さそうなものをと、そう思われるかも知れない。何しろ白書院における独礼にての拝謁とは即ち、大広間を殿中とする諸侯が一人ずつ、下段之間にて上段之間に鎮座する将軍に拝謁、つまりは対面することを意味していたからだ。
それゆえそのような大広間を殿中席とする諸侯としては、帝鑑之間からそのまま白書院の下段之間へと移動して、そして上段之間にて鎮座する将軍に拝謁、対面を果たす方が合理的ではあったが、しかし、生憎と帝鑑之間にもそこを殿中席とする諸侯が詰めており、まさかに彼等帝鑑之間を殿中席とする諸侯に対して、大広間を殿中席とする諸侯のために、つまりは拝謁の便宜上、その部屋を空けてくれとも言えず、そこで大広間を殿中席とする諸侯には帝鑑之間に面した入側にて待機して貰うことになる。
この案内役もまた、奏者番の仕事であり、そしてやはりと言うべきか、意知が務めることとなった。
大広間を殿中席とする諸侯は有力大名が多く、それゆえそのような彼等を案内することもまた、奏者番の仕事のうちでも特に晴れがましいものの一つに数えられており、将軍たる家治はそれを意知に命じたのであった。どうやら家治は意知を若年寄へと任じるに当たり、最後の最後まで徹底的に奏者番としてこき使うつもりのよであった。
さて、大広間を殿中席とする諸侯の中でも将軍に一番最初に拝謁、対面を果たすことが出来るのは一番、官位が高い諸侯であり、つまりは官位が高い者から将軍に会えるというわけだ。
そして今は仙台藩主の松平こと伊達陸奥守重村が謂わば「トップバッター」であった。
何しろ伊達重村の官位は、
「従四位上左近衛権中将」
というものであり、これは大広間を殿中席とする諸侯の中では一番高いものであった。
ちなみにこの伊達重村と同じ官位であるのが薩摩藩主の松平こと島津薩摩守重豪であった。
尤も、島津重豪が従四位上左近衛権中将に叙されたのは今から19年前の明和元(1764)年11月であったのに対して、伊達重村はと言うと、それより遅れること3年の明和4(1767)年のことであった。
それゆえ仮に今、ここ御城に伊達重村と島津重豪の二人がいたならば、重豪の方が先に将軍・家治に会うことになる。官位が同じであれば、将軍に会えるのは先任順となる。つまりはその官位に叙された者が先に将軍に会えるというわけで、重村は重豪の正に、
「後塵を拝する…」
こととなる。
だが幸いにも今、この場には島津重豪の姿はなかった。
将軍は月次御礼においては黒書院において御三家やそれに松之大廊下の下之部屋、そして溜之間を殿中席とする諸侯と独礼にての拝謁に臨んだ後、今度は白書院へと足を向け、そこで大広間を殿中席とする諸侯との拝謁に臨む。
その際、将軍が黒書院における拝謁が終わるのを見計らって、大広間を殿中席とする諸侯を帝鑑之間に面した入側へと案内するのもまた、奏者番の仕事であった。
ところで何故に帝鑑之間に面した入側なのかと言うと、それは白書院、それも下段之間がちょうど帝鑑之間の隣に位置していた。
そして大広間を殿中席とする諸侯もまた、御三家らと同様に独礼にて将軍との拝謁に臨むため、そこで大広間を殿中席とする諸侯は白書院にて将軍に拝謁する、つまりは将軍に会える順番が廻ってくるまでこの白書院のそれも下段之間の直ぐ隣の部屋に当たる帝鑑之間に面した入側に控えることとなる。
それならば帝鑑之間にて待てば良さそうなものをと、そう思われるかも知れない。何しろ白書院における独礼にての拝謁とは即ち、大広間を殿中とする諸侯が一人ずつ、下段之間にて上段之間に鎮座する将軍に拝謁、つまりは対面することを意味していたからだ。
それゆえそのような大広間を殿中席とする諸侯としては、帝鑑之間からそのまま白書院の下段之間へと移動して、そして上段之間にて鎮座する将軍に拝謁、対面を果たす方が合理的ではあったが、しかし、生憎と帝鑑之間にもそこを殿中席とする諸侯が詰めており、まさかに彼等帝鑑之間を殿中席とする諸侯に対して、大広間を殿中席とする諸侯のために、つまりは拝謁の便宜上、その部屋を空けてくれとも言えず、そこで大広間を殿中席とする諸侯には帝鑑之間に面した入側にて待機して貰うことになる。
この案内役もまた、奏者番の仕事であり、そしてやはりと言うべきか、意知が務めることとなった。
大広間を殿中席とする諸侯は有力大名が多く、それゆえそのような彼等を案内することもまた、奏者番の仕事のうちでも特に晴れがましいものの一つに数えられており、将軍たる家治はそれを意知に命じたのであった。どうやら家治は意知を若年寄へと任じるに当たり、最後の最後まで徹底的に奏者番としてこき使うつもりのよであった。
さて、大広間を殿中席とする諸侯の中でも将軍に一番最初に拝謁、対面を果たすことが出来るのは一番、官位が高い諸侯であり、つまりは官位が高い者から将軍に会えるというわけだ。
そして今は仙台藩主の松平こと伊達陸奥守重村が謂わば「トップバッター」であった。
何しろ伊達重村の官位は、
「従四位上左近衛権中将」
というものであり、これは大広間を殿中席とする諸侯の中では一番高いものであった。
ちなみにこの伊達重村と同じ官位であるのが薩摩藩主の松平こと島津薩摩守重豪であった。
尤も、島津重豪が従四位上左近衛権中将に叙されたのは今から19年前の明和元(1764)年11月であったのに対して、伊達重村はと言うと、それより遅れること3年の明和4(1767)年のことであった。
それゆえ仮に今、ここ御城に伊達重村と島津重豪の二人がいたならば、重豪の方が先に将軍・家治に会うことになる。官位が同じであれば、将軍に会えるのは先任順となる。つまりはその官位に叙された者が先に将軍に会えるというわけで、重村は重豪の正に、
「後塵を拝する…」
こととなる。
だが幸いにも今、この場には島津重豪の姿はなかった。
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