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重村の暴走 ~ライバル・島津重豪より先んじて家格の上昇を狙う伊達重村は意知に味方する~ 2
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今年、天明3(1783)年は卯年に当たり、薩摩藩主の島津家の当主たる重豪にとってはちょうど、帰国の年に当たり、それも4月に帰国するのが仕来りであり、実際、4月23日に溜之間詰である会津藩主の松平肥後守容頌と共に、将軍・家治より暇を賜り、つまりは国許への帰国が許され、その国許である薩摩へと帰国の途につき、それゆえ重豪の姿はなかった。
それとは逆に、仙台藩主の伊達家の当主たる重村にとっては卯年は参府、つまりは江戸に来る年に当たり、それも奇しくも4月がそうで、今年は重豪が将軍・家治より暇を賜った23日よりも4日前の19日に将軍・家治に対して参観、つまりは挨拶をした。
そして4月の19日から23日にかけては幸いなことに月次御礼は元より、将軍に会える「イベント」はなかったので、重村が重豪と顔を合わすことは、もっと言えば重村が重豪の後塵を拝することはなかった。
ともあれそのようなわけで、今日の月次御礼においては大広間詰の諸侯の中で真っ先に将軍・家治に会えるのは伊達重村であった。
それゆえ重村は帝鑑之間に面した入側の中でもとりわけ白書院に近い、つまりは白書院の下段之間に面した入側に最も近い場所に腰をおろしていた。いや、一人で陣取っていた。何しろ、重村と同じ官位の者は重豪を除いては誰一人としていなかったからだ。
その重村の真後ろには従四位下少将の官位にある諸侯が控えていた。
即ち、西條藩主の松平左京大夫頼謙と熊本藩主の細川越中守重賢の二人がそうであった。
そして将軍家の親疎という観点からすれば、御三家の紀伊徳川家の連枝である西條藩主たる松平頼謙の方が雄藩とは申せ外様である熊本藩主の細川重賢よりも将軍家に近いと言えよう。家紋として所謂、
「葵の紋所」
それが許されていることからも明らかであった。
だが先に従四位下少将に叙されたのは細川重賢の方が早く、重賢が14年前の明和6(1769)年12月に叙されたのに対して、松平頼謙はそれからちょうど7年後の安永5(1776)年12月に叙され、それゆえこの場合もやはり、先任順となり、細川重賢の方が松平頼謙よりも先に将軍・家治に会えることになる。頼謙が如何に将軍家に近かろうとも、それが証に葵の紋所を背負っていようとも、その例外ではなかった。
そしてそれはそのまま、帝鑑之間の入側における座順にも反映され、松平頼謙は細川重賢と共に伊達重村の直ぐ真後ろにて並んで控えているわけだが、細川重賢が帝鑑之間により近い場所に控えているのに対して、松平頼謙はそれとは逆に庭に近い場所に控えていた。無論、帝鑑之間に近い場所の方が庭に近い場所よりも上であるのは言うまでもない。
この細川重賢と松平頼謙の更に真後ろには老中や京都所司代と同じ官位である従四位下侍従の諸侯が、そして更にそれよりワンランク下の、大坂城代と同じそれである従四位下諸大夫、所謂四品の諸侯がそれに続く。
そして彼等諸侯を官位の高低、或いは先任順に控えさせるのもまた、奏者番たる意知の仕事であり、意知はそれゆえそれらの情報を当然、頭に叩き込んでおかなければならなかった。カンニングペーパーの持込などは許されなかったからだ。
いや、奏者番の中でも記憶力の悪い者はおり、それゆえそのような者には当然、大広間詰の諸侯の案内などといった大役は任せられなかった。何しろ大広間詰の諸侯ともなると、いや、大広間詰の諸侯に限らず、大名諸侯は皆そうだろうが、自尊心の高い者たちばかりであり、それゆえ席次を間違えたりしたら大事であった。
その点、意知は奏者番の中でもとりわけ記憶力に勝れ、それゆえ家治も安心して意知に大役を任せられるというわけだ。意知が未だ家督相続前の、つまりは大名ですらない部屋住の身でありながら、譜代大名にとっての出世の登竜門たる奏者番に召出され、更に今度は若年寄へと栄進を果たそうとしていたのはのように意知自身に実力があったためである。
それとは逆に、仙台藩主の伊達家の当主たる重村にとっては卯年は参府、つまりは江戸に来る年に当たり、それも奇しくも4月がそうで、今年は重豪が将軍・家治より暇を賜った23日よりも4日前の19日に将軍・家治に対して参観、つまりは挨拶をした。
そして4月の19日から23日にかけては幸いなことに月次御礼は元より、将軍に会える「イベント」はなかったので、重村が重豪と顔を合わすことは、もっと言えば重村が重豪の後塵を拝することはなかった。
ともあれそのようなわけで、今日の月次御礼においては大広間詰の諸侯の中で真っ先に将軍・家治に会えるのは伊達重村であった。
それゆえ重村は帝鑑之間に面した入側の中でもとりわけ白書院に近い、つまりは白書院の下段之間に面した入側に最も近い場所に腰をおろしていた。いや、一人で陣取っていた。何しろ、重村と同じ官位の者は重豪を除いては誰一人としていなかったからだ。
その重村の真後ろには従四位下少将の官位にある諸侯が控えていた。
即ち、西條藩主の松平左京大夫頼謙と熊本藩主の細川越中守重賢の二人がそうであった。
そして将軍家の親疎という観点からすれば、御三家の紀伊徳川家の連枝である西條藩主たる松平頼謙の方が雄藩とは申せ外様である熊本藩主の細川重賢よりも将軍家に近いと言えよう。家紋として所謂、
「葵の紋所」
それが許されていることからも明らかであった。
だが先に従四位下少将に叙されたのは細川重賢の方が早く、重賢が14年前の明和6(1769)年12月に叙されたのに対して、松平頼謙はそれからちょうど7年後の安永5(1776)年12月に叙され、それゆえこの場合もやはり、先任順となり、細川重賢の方が松平頼謙よりも先に将軍・家治に会えることになる。頼謙が如何に将軍家に近かろうとも、それが証に葵の紋所を背負っていようとも、その例外ではなかった。
そしてそれはそのまま、帝鑑之間の入側における座順にも反映され、松平頼謙は細川重賢と共に伊達重村の直ぐ真後ろにて並んで控えているわけだが、細川重賢が帝鑑之間により近い場所に控えているのに対して、松平頼謙はそれとは逆に庭に近い場所に控えていた。無論、帝鑑之間に近い場所の方が庭に近い場所よりも上であるのは言うまでもない。
この細川重賢と松平頼謙の更に真後ろには老中や京都所司代と同じ官位である従四位下侍従の諸侯が、そして更にそれよりワンランク下の、大坂城代と同じそれである従四位下諸大夫、所謂四品の諸侯がそれに続く。
そして彼等諸侯を官位の高低、或いは先任順に控えさせるのもまた、奏者番たる意知の仕事であり、意知はそれゆえそれらの情報を当然、頭に叩き込んでおかなければならなかった。カンニングペーパーの持込などは許されなかったからだ。
いや、奏者番の中でも記憶力の悪い者はおり、それゆえそのような者には当然、大広間詰の諸侯の案内などといった大役は任せられなかった。何しろ大広間詰の諸侯ともなると、いや、大広間詰の諸侯に限らず、大名諸侯は皆そうだろうが、自尊心の高い者たちばかりであり、それゆえ席次を間違えたりしたら大事であった。
その点、意知は奏者番の中でもとりわけ記憶力に勝れ、それゆえ家治も安心して意知に大役を任せられるというわけだ。意知が未だ家督相続前の、つまりは大名ですらない部屋住の身でありながら、譜代大名にとっての出世の登竜門たる奏者番に召出され、更に今度は若年寄へと栄進を果たそうとしていたのはのように意知自身に実力があったためである。
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