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無位無官の松平信成に対して鄭重な態度を取る直幸に対して重富は殺意を確固たるものにしたが、しかし殺意の最大の原因が意知にあることに気づく。
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そして、最後に溜之間に姿を見せた松平榮松信成に対する井伊直幸の態度が重富を激昂させた。直幸に対する殺意を確固たるものにしたと言っても過言ではなかろう。
奏者番の松平和泉守乗完の案内により溜之間に姿を見せた松平榮松信成に対して、直幸は何と、会釈してこれを出迎えたのであった。
松平榮松信成もまた、重富と同様、松之大廊下の下之部屋を殿中席としていたものの、その下之部屋においては最末席に位置する。
即ち、今、松之大廊下の下之部屋を殿中席とする大名諸侯は加賀前田家、福井松平家、そして矢田松平家の三家に限られていた。
榮松信成はそのうちの矢田松平家の当主であり、松之大廊下の下之部屋にて矢田松平家に与えられた席次たるや、最末席であった。
ちなみに、最上席は加賀前田家であり、重富が当主を務める福井松平家はその次席であった。
そしてこの席次は固定されており、そこが御三家との違いと言えた。
御三家が殿中席とする松之大廊下の上之部屋において、その最上席に位置する者と言えば、最も官位の高い者であり、同格であれば先任順による。つまりは先にその高い官位に辿り着いた者が最上席を与えられる。
今、御三家の中で一番高い官位にあるのはその筆頭である尾張家の当主の宗睦であり、それゆえ最上席は宗睦に与えられていたものの、これで仮に紀伊家の当主である治貞や、或いは水戸家の当主である治保の方が官位が高かったならば、最上席の座は彼らに譲らざるを得なかったであろう。
事程左様に松之大廊下の上之部屋における御三家の席次は固定されてはいなかったものの、翻って下之部屋はと言うと、加賀前田家が最上席、福井松平家がその次席、そして矢田松平家が最末席と席次が固定されていた。
それと言うのも、これは特に加賀前田家に言えることだが、加賀前田家の嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に、
「正四位下少将」
その官位に叙任されるのだが、それは福井松平家や矢田松平家の極官を優に超えるものであった。
つまり福井松平家の当主にしろ、矢田松平家の当主にしろ、官位においては加賀前田家の成人嫡子にすら、
「永遠に及ばない…」
というもので、それゆえ加賀前田家の席次は最上席と固定されていたのだ。
それでは福井松平家と矢田松平家の関係はと言うと、福井松平家の嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に、
「従四位上侍従」
その官位に叙され、そしてその官位は矢田松平家の極官をこれまた超えるものであった。事実、福井松平家の成人嫡子たる治好はその官位にあり、一方、矢田松平家の極官はと言うと、
「従四位下侍従」
であり、やはり矢田松平家が福井松平家に及ぶことはなかった。
それゆえ福井松平家の席次が加賀前田家の次席、即ち、矢田松平家の上席に位置するのは極めて理に適っていた。
さて、直幸はその矢田松平家の当主たる榮松信成に対しては自ら、それも先に会釈してこれを出迎えたのであった。重富が嫡子の治好に対してはそのように会釈すらせず、それどころか治好に会釈をさせたというのに、である。
しかも榮松信成は未だ、無位無官の身であった。
加賀前田家と福井松平家の場合、その嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に叙任されるものの、しかし、矢田松平家の場合は同時にというわけではなかった。
実際、榮松信成がそうであり、榮松信成は半年前の4月朔日に将軍・家治に初御目見得を果たして元服を済ませたものの、しかし、叙任はまだであり、先代や先々代もそうであった。
その未だに無位無官である榮松信成に対して直幸が、それも「定溜」の筆頭たる彦根井伊家の当主である直幸が榮松信成に対して自ら先に会釈してこれを出迎えたことから、頼起やそれに直富や容詮も直幸に倣って一斉に会釈して榮松信成を出迎えたことから、榮松信成は大いに恐縮したもので、治好の隣に着座するなり、向かい合った直幸に対して平伏こそしなかったものの、それでも深々と叩頭することでこれに応じた。
その光景を目の当たりにした重富も治好も大いに憤慨し、殊に重富は直幸に対する殺意を括弧たるものへと転化させた次第であった。
いや、と重富はそこであることに気づかされた。
それと言うのも直幸のこの「仕打ち」たるや、直幸が溜之間にて床の間を背にして御三家や、それに重富らを、つまりは松之大廊下の上之部屋、及び下之部屋を殿中席とする大名諸侯を出迎えるようになった4ヶ月前からのことであり、当初こそ、重富は直幸のその「仕打ち」に対して大いに憤慨し、そして殺意すら抱いたものの、それも4ヶ月も経てばその殺意も大分薄らいだ。
いや、先月の9月25日に将軍・家治への初御目見得を果たせて元服を済ませたと同時に従四位上侍従に叙任された息・治好が今月、10月朔日の月次御礼に登城した際、溜之間にて初めて井伊直幸と向かい合った際には直幸は自ら先に治好に対して会釈してくれたものであった。
だがそれからちょうど2週間経った今日、10月15日の月次御礼においては直幸はまるでそれが嘘であったかのように治好に対して無礼極まりない「仕打ち」をした。
それゆえに己は直幸に対して薄らいでいた殺意が再び、ぶり返したのかと、重富はそのことに気づいた。
そしてそれから直ぐに、
「いや、そればかりではあるまい…」
重富はそう思い直した。
重富が直幸に対して薄らいでいた殺意をぶり返させた最大の原因が別にあることに気づいたからだ。
「山城めが所為ぞ…」
山城こと田沼山城守意知こそが重富に直幸への殺意をぶり返させた別の、それも最大の原因であることに気づいたのであった。
それと言うのも、将軍・家治が奏者番の中でもとりわけ意知を買っており、それゆえ家治は月次御礼の際においては松之大廊下の上之部屋、及び下之部屋を殿中席とする大名諸侯、即ち、御三家や加賀前田家の当主らの案内役という実に晴れがましい大役を命じることで、家治は意知を「ニューリーダー」として期待していることをアピールした。
だがその場合でも家治は意知に対して、松之大廊下の上之部屋を殿中席とする御三家の中でも当主ではなく嫡子の案内役を任せることで、下之部屋を殿中席とする諸侯の中でも最末席に位置する矢田松平家の当主たる榮松信成の案内役をやらせるといった「配慮」を示し、その家治の「配慮」の御蔭により、重富はこれまで、意知の案内を受けずに済んできた。
それが今日に限って、家治はそのような「配慮」を示すことなく、意知に重富の案内をやらせたのであった。
意知のことをその父・意次と共に、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる成り上がり者…」
そう軽蔑して已まない重富としては当然、大いに憤慨した。将軍・家治から、
「重富には意知の案内で充分…」
そう「烙印」を押されたも同然だからだ。少なくとも重富は強くそう思った。
そしてこのことが直幸に対する殺意をぶり返させた最大の理由であったかと、重富は気づいた。
奏者番の松平和泉守乗完の案内により溜之間に姿を見せた松平榮松信成に対して、直幸は何と、会釈してこれを出迎えたのであった。
松平榮松信成もまた、重富と同様、松之大廊下の下之部屋を殿中席としていたものの、その下之部屋においては最末席に位置する。
即ち、今、松之大廊下の下之部屋を殿中席とする大名諸侯は加賀前田家、福井松平家、そして矢田松平家の三家に限られていた。
榮松信成はそのうちの矢田松平家の当主であり、松之大廊下の下之部屋にて矢田松平家に与えられた席次たるや、最末席であった。
ちなみに、最上席は加賀前田家であり、重富が当主を務める福井松平家はその次席であった。
そしてこの席次は固定されており、そこが御三家との違いと言えた。
御三家が殿中席とする松之大廊下の上之部屋において、その最上席に位置する者と言えば、最も官位の高い者であり、同格であれば先任順による。つまりは先にその高い官位に辿り着いた者が最上席を与えられる。
今、御三家の中で一番高い官位にあるのはその筆頭である尾張家の当主の宗睦であり、それゆえ最上席は宗睦に与えられていたものの、これで仮に紀伊家の当主である治貞や、或いは水戸家の当主である治保の方が官位が高かったならば、最上席の座は彼らに譲らざるを得なかったであろう。
事程左様に松之大廊下の上之部屋における御三家の席次は固定されてはいなかったものの、翻って下之部屋はと言うと、加賀前田家が最上席、福井松平家がその次席、そして矢田松平家が最末席と席次が固定されていた。
それと言うのも、これは特に加賀前田家に言えることだが、加賀前田家の嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に、
「正四位下少将」
その官位に叙任されるのだが、それは福井松平家や矢田松平家の極官を優に超えるものであった。
つまり福井松平家の当主にしろ、矢田松平家の当主にしろ、官位においては加賀前田家の成人嫡子にすら、
「永遠に及ばない…」
というもので、それゆえ加賀前田家の席次は最上席と固定されていたのだ。
それでは福井松平家と矢田松平家の関係はと言うと、福井松平家の嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に、
「従四位上侍従」
その官位に叙され、そしてその官位は矢田松平家の極官をこれまた超えるものであった。事実、福井松平家の成人嫡子たる治好はその官位にあり、一方、矢田松平家の極官はと言うと、
「従四位下侍従」
であり、やはり矢田松平家が福井松平家に及ぶことはなかった。
それゆえ福井松平家の席次が加賀前田家の次席、即ち、矢田松平家の上席に位置するのは極めて理に適っていた。
さて、直幸はその矢田松平家の当主たる榮松信成に対しては自ら、それも先に会釈してこれを出迎えたのであった。重富が嫡子の治好に対してはそのように会釈すらせず、それどころか治好に会釈をさせたというのに、である。
しかも榮松信成は未だ、無位無官の身であった。
加賀前田家と福井松平家の場合、その嫡子が初めて将軍に御目見得を果たして元服を済ませるや、それと同時に叙任されるものの、しかし、矢田松平家の場合は同時にというわけではなかった。
実際、榮松信成がそうであり、榮松信成は半年前の4月朔日に将軍・家治に初御目見得を果たして元服を済ませたものの、しかし、叙任はまだであり、先代や先々代もそうであった。
その未だに無位無官である榮松信成に対して直幸が、それも「定溜」の筆頭たる彦根井伊家の当主である直幸が榮松信成に対して自ら先に会釈してこれを出迎えたことから、頼起やそれに直富や容詮も直幸に倣って一斉に会釈して榮松信成を出迎えたことから、榮松信成は大いに恐縮したもので、治好の隣に着座するなり、向かい合った直幸に対して平伏こそしなかったものの、それでも深々と叩頭することでこれに応じた。
その光景を目の当たりにした重富も治好も大いに憤慨し、殊に重富は直幸に対する殺意を括弧たるものへと転化させた次第であった。
いや、と重富はそこであることに気づかされた。
それと言うのも直幸のこの「仕打ち」たるや、直幸が溜之間にて床の間を背にして御三家や、それに重富らを、つまりは松之大廊下の上之部屋、及び下之部屋を殿中席とする大名諸侯を出迎えるようになった4ヶ月前からのことであり、当初こそ、重富は直幸のその「仕打ち」に対して大いに憤慨し、そして殺意すら抱いたものの、それも4ヶ月も経てばその殺意も大分薄らいだ。
いや、先月の9月25日に将軍・家治への初御目見得を果たせて元服を済ませたと同時に従四位上侍従に叙任された息・治好が今月、10月朔日の月次御礼に登城した際、溜之間にて初めて井伊直幸と向かい合った際には直幸は自ら先に治好に対して会釈してくれたものであった。
だがそれからちょうど2週間経った今日、10月15日の月次御礼においては直幸はまるでそれが嘘であったかのように治好に対して無礼極まりない「仕打ち」をした。
それゆえに己は直幸に対して薄らいでいた殺意が再び、ぶり返したのかと、重富はそのことに気づいた。
そしてそれから直ぐに、
「いや、そればかりではあるまい…」
重富はそう思い直した。
重富が直幸に対して薄らいでいた殺意をぶり返させた最大の原因が別にあることに気づいたからだ。
「山城めが所為ぞ…」
山城こと田沼山城守意知こそが重富に直幸への殺意をぶり返させた別の、それも最大の原因であることに気づいたのであった。
それと言うのも、将軍・家治が奏者番の中でもとりわけ意知を買っており、それゆえ家治は月次御礼の際においては松之大廊下の上之部屋、及び下之部屋を殿中席とする大名諸侯、即ち、御三家や加賀前田家の当主らの案内役という実に晴れがましい大役を命じることで、家治は意知を「ニューリーダー」として期待していることをアピールした。
だがその場合でも家治は意知に対して、松之大廊下の上之部屋を殿中席とする御三家の中でも当主ではなく嫡子の案内役を任せることで、下之部屋を殿中席とする諸侯の中でも最末席に位置する矢田松平家の当主たる榮松信成の案内役をやらせるといった「配慮」を示し、その家治の「配慮」の御蔭により、重富はこれまで、意知の案内を受けずに済んできた。
それが今日に限って、家治はそのような「配慮」を示すことなく、意知に重富の案内をやらせたのであった。
意知のことをその父・意次と共に、
「どこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる成り上がり者…」
そう軽蔑して已まない重富としては当然、大いに憤慨した。将軍・家治から、
「重富には意知の案内で充分…」
そう「烙印」を押されたも同然だからだ。少なくとも重富は強くそう思った。
そしてこのことが直幸に対する殺意をぶり返させた最大の理由であったかと、重富は気づいた。
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