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溜之間の事情 ~水戸治保は最上席にて御三家を出迎える井伊直幸が気に入らず、直幸をイビリ、割って入った紀伊治貞をも冷罵する~
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さて、直幸が頼起らと共にここ溜之間にて控えていると、やがて御三家が竹之御廊下を伝って姿を見せた。
その「トップバッター」が紀伊中納言治貞であった。
今日のような月次御礼における黒書院での将軍と御三家との拝謁の際、御三家は全員、まずここ溜之間にて揃って控え、己の拝謁の順番が来るのを待つ。
その順番たるや官位で決まる。つまりは御三家の中でも一番官位が高い者から将軍に拝謁出来るというわけだ。
そして御三家の中でも今、一番高い官位にあるのは何といってもその筆頭たる尾張家の当主の宗睦であった。尾張宗睦は従二位権大納言の位にあった。
だが生憎というべきか、幸いというべきか、宗睦はこの時、この江戸にはおらず、国許である尾張に帰国していた。今年、天明3(1783)年の卯年は宗睦にとっては帰国の年に当たり、3月に尾張に帰国していた。
そこで宗睦不在の今、御三家の中で一番高い官位にある者と言えば紀伊家の当主にして従三位中納言の位にある治貞であった。
それゆえ治貞が真っ先にここ溜之間に姿を見せ、そして南側のそれも黒書院に、黒書院の下段に面した入側に一番近い場所に座った。
御三家は己の拝謁の順番が来るまでここ溜之間にて待つことになるわけだが、その際の御三家の座席だが溜之間の南側が定位置であった。
それゆえ南側に着座した御三家は北側の最上席にて、つまりは所謂、
「南面に坐す…」
床の間を背にする井伊直幸と嫌でも向かい合うことになる。
そして「嫌でも」とは外でもない、南側に着座する御三家にしてみれば北側に着座する直幸と向かい合うことで己が、それも御三家たる己が下座に着座していることを思い知らされるからだ。
直幸がまだ、外の溜之間詰の大名諸侯と共に溜之間の西側にて控えて御三家を出迎えていた頃には北側の最上席は空席であり、それゆえ御三家にしてみれば、とりわけ直幸と参府年がかち合うことになる紀伊家の当主の治貞は今のように、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのように意識することもなかったが、しかし、4ヶ月前に直幸が将軍・家治より溜之間の最上席である床の間を背にする北側、即ち、
「南面に…」
着座するよう命じられるや、南側に着座する御三家、それも参府年が直幸と同じ紀伊藩主の治貞はその度に…、今日のような月次御礼の際、黒書院にて将軍・家治との拝謁に臨むまでの間、ここ溜之間にて待たねばならぬ度に、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような思いに囚われることになった。
ちなみに尾張宗睦の場合は紀伊治貞とは違い、即ち、井伊直幸とは違って参府年が違うのでそのような思いに囚われずに済んだ。
つまりは直幸や治貞にとっては参府年に当たる今年、卯年は宗睦にとっては帰国の年に当たり、宗睦が再びこの江戸の土を踏むことになる参府年は来年の辰年になるわけだが、辰年は直幸と治貞にとっては逆に帰国の年に当たるので、それゆえ宗睦が直幸と、月次御礼の折に最上席にて着座する直幸とかち合うことはなく、それゆえ宗睦は治貞のように、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような思い、それも所謂、「負の感情」に囚われずに済んだ。何しろ直幸をおいて外には最上席に着座することを将軍・家治より許された溜之間詰の大名諸侯はおらず、それゆえ直幸が参勤交代により帰国すると必然的に最上席は空席となるからだ。
いや、直幸は来年の辰年に帰国すると言っても、それは5月と定められており、それゆえ来年の辰年の3月に参府する宗睦とは2ヶ月の間があった。つまり3月から5月の2ヶ月間は宗睦と直幸は共にこの江戸にいるというわけで、その2ヶ月の間にも当然、今日のように月次御礼の行事があり、宗睦もまた治貞と同様、最上席にて鎮座する直幸と向かい合うことになる。
尤もそれは僅か2ヶ月だけの間に過ぎず、そこが毎年のように、それも通年に亘って、
「嫌でも…」
直幸と向かい合うことになる治貞との違い、それも最大の違いであった。
ともあれ尾張宗睦にとっては卯年の今年がちょうど帰国の年に当たり、それゆえ江戸にいないことが、
「幸いというべきか…」
とはつまりはそういう意味であった。
さて、御三家と対する井伊直幸も紀伊治貞のそのような胸のうちには勿論気づいていたので、それゆえ溜之間に治貞が姿を見せるやいなや、平伏してこれを出迎えた。
そして直幸の平伏は治貞が定位置に着座し、そして治貞が咳払いするまで続けられた。
直幸は最初、治貞が着座しても中々に頭を上げずにいたので、それで治貞もそのような直幸の態度を不審に思い、「掃部殿?」と直幸に声をかけたものである。
それに対して直幸はと言うと、御三家より頭を上げることを許されるまでは頭を上げるわけにはゆかぬと、大意そのように答えて治貞を大いに感心させたものである。
そしてこれこそが直幸の「狙い」であった。将軍家からは何かと敬遠されがちな御三家ではあるものの、しかしそれでも、
「腐っても鯛…」
というわけでもないが、天下の御三家を敵に回すのは得策ではなく、それゆえ直幸はその御三家にして己に対して「負の感情」を抱きがちな治貞を謂わば、
「煽てて見せる…」
そのために直幸は治貞に対して馬鹿丁寧な程に平伏を続けたのであった。
そして直幸のこの「狙い」は見事に図に当たり、治貞は直幸に対してそれ程、「負の感情」に囚われることはなくなり、治貞はそれなればと、己の咳払いを合図として頭を上げるようにと、そう直幸に命じ、それに対して直幸も治貞のその厚意を拝辞することなく素直に受け止め、爾来、慣習としていた。
さて、紀伊中納言治貞に続いて溜之間に姿を見せたのは水戸宰相治保であった。
治保は従三位宰相、つまりは参議の位にあり、この宰相こと参議は大納言、中納言に次ぐそれであるので、将軍・家治への拝謁も中納言である紀伊治貞に次ぎ、それゆえ治貞に続けてこの溜之間に姿を見せたというわけだ。
その治保が当主を務める水戸家だが、水戸家の当主は所謂、
「定府」
つまりはこの江戸で暮らすことが義務付けられており、当主でいる間は一度も国許である水戸に帰ることは許されなかった。
それゆえ治保はその水戸家の当主として、紀伊治貞と同じく、いや、国許に帰れない治保は参勤交代はないも同然あり、それゆえ当然と言うべきであろう、直幸と向かい合うことになる。
そして治保は治貞以上に、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような「負の感情」に囚われる性質であった。
無論、直幸もこの水戸治保に対しても紀伊治貞に対するのと同様、平伏してこれを出迎えた。
だが治保の場合、治貞とは違って、直幸から平伏されてもそのような「負の感情」を拭い去ることは出来ず、そこで直幸の頭を中々上げさせようとはしなかった。
それゆえ西側に居並ぶ頼起ら外の溜之間詰の大名諸侯らも頭を上げられずにいた。
高松松平家の讃岐守頼起ら…、直幸の嫡子の直富や会津松平家の当主・肥後守容頌が嫡子の容詮もまた、直幸に倣い、紀伊治貞の「登場」に際して平伏してこれを出迎え、そして治貞の「咳払い」を受けて頭を上げた直幸に倣い、頼起らも頭を上げた。
さて、こういった時…、治保の「意地悪」に際会していつも「救いの手」を差し伸べるのが治貞であった。
直幸らに、それも主に「最上席」にて着座する直幸に対して中々、頭を上げさせようとはしない治保に代わって治貞が直幸に頭を上げるよう促すべく、例の「咳払い」をしてみせた。
直幸もそれを受けて少しだけ頭を上げたものの、そんな直幸の視界に入ってきたのはこれまたと言うべきか、治保の仏頂面であった。
いや、「これまた」は仏頂面だけに止まらない。
「誰が面を上げよと命じた?」
治保が直幸にそう告げて再び、直幸を平伏させるのも「これまた」であった。
それに対して直幸は、「ははぁっ」と再び、平伏し、それゆえ頼起らも畢竟、頭を上げられずにいた。
そして治保のそのような「意地悪」に対して治貞が心底、ウンザリさせられるのもやはり「これまた」であった。
治貞は居た堪れず、「水戸殿、もう良かろう…」と口を挟んだ。無論、
「もう直幸らに、いや、直幸に頭を上げさせても良いだろう…」
そのような意味がそこには込められていた。
一方、治保にしても勿論、治貞の意図するところに察しがついていたものの、しかし、表面的にはあくまで知らぬフリを装った。
「何が良かろうと?」
平然とそう応じる治保に対して治貞が苛立ちを覚えるのはしかし、「これまた」ではなかった。治保の直幸に対する「イビリ」が今日はいつにも増して執拗であった。少なくとも治貞にはそう感じられた。
「何がではござらぬ。一体いつまで掃部殿らを平伏させる御所存かっ」
治貞は治保を詰問した。
だが治保は冷笑でこれを受け流した。
「たかが溜之間詰如きに掃部殿などと…、斯かる輩は掃部で十分、いや、過分と申すものにて…」
治保はまずはそうのたもうたものだった。余程に直幸が最上席に鎮座していることが、即ち、己が下座にて着座させられていることが気に入らぬものと見える。
「いや、それはさておき、されば掃部めが御三家に敬意を払うまで、でござるよ…」
治保は続けてそうのたもうた。
「それなれば斯様に平伏して敬意を払い申しているではござらぬか」
治貞は直幸に代わってそう反論した。
だが治保はそれに対してもやはり冷笑で応じた。
「腹では舌を出しているに違いござるまいて…、然様なことも見抜けぬとは、紀伊殿、間抜けの謗りは免れますまいて…」
治保は治貞を間抜け呼ばわりする始末であった。
これには流石に治貞も、
「我を忘れて…」
激昂したものである。治貞は、「なに…」と低い声を発した。
このままではまずい…、直幸はそう思うやいなや、
「如何にも水戸様の仰せの通りにて、身共が心底にどこか御三家を蔑ろにせしところが…、それゆえに水戸様もそれにお気づきあそばされましたのやも知れず、されば水戸様、そして紀伊様、心中よりお詫び申し上げまする…」
直幸は平伏したまま、そう謝罪の言葉を口にすることで、治貞を救った。このままでは治貞が治保に斬りかかるやも知れぬと、直幸はそれを危惧したからだ。
いや、治貞は仮にも御三家の紀伊家の当主である。そうであれば浅野内匠頭の二の舞を演ずるとは、そこまで短慮を起こすとも到底思えなかったものの、それでも万が一ということもあり得た。
ともあれ直幸の今の言葉で治貞も我に返ると同時に直幸に大いに感謝したものである。
一方、治保はそんな直幸の如何にも殊勝な態度が忌々しく、そんな直幸に心を寄せる治貞はそれ以上に忌々しかった。
そしてそんな治保をいよいよ忌々しくさせたのが治保に続いてこの溜之間に姿を現した尾張中将治行であった。
その「トップバッター」が紀伊中納言治貞であった。
今日のような月次御礼における黒書院での将軍と御三家との拝謁の際、御三家は全員、まずここ溜之間にて揃って控え、己の拝謁の順番が来るのを待つ。
その順番たるや官位で決まる。つまりは御三家の中でも一番官位が高い者から将軍に拝謁出来るというわけだ。
そして御三家の中でも今、一番高い官位にあるのは何といってもその筆頭たる尾張家の当主の宗睦であった。尾張宗睦は従二位権大納言の位にあった。
だが生憎というべきか、幸いというべきか、宗睦はこの時、この江戸にはおらず、国許である尾張に帰国していた。今年、天明3(1783)年の卯年は宗睦にとっては帰国の年に当たり、3月に尾張に帰国していた。
そこで宗睦不在の今、御三家の中で一番高い官位にある者と言えば紀伊家の当主にして従三位中納言の位にある治貞であった。
それゆえ治貞が真っ先にここ溜之間に姿を見せ、そして南側のそれも黒書院に、黒書院の下段に面した入側に一番近い場所に座った。
御三家は己の拝謁の順番が来るまでここ溜之間にて待つことになるわけだが、その際の御三家の座席だが溜之間の南側が定位置であった。
それゆえ南側に着座した御三家は北側の最上席にて、つまりは所謂、
「南面に坐す…」
床の間を背にする井伊直幸と嫌でも向かい合うことになる。
そして「嫌でも」とは外でもない、南側に着座する御三家にしてみれば北側に着座する直幸と向かい合うことで己が、それも御三家たる己が下座に着座していることを思い知らされるからだ。
直幸がまだ、外の溜之間詰の大名諸侯と共に溜之間の西側にて控えて御三家を出迎えていた頃には北側の最上席は空席であり、それゆえ御三家にしてみれば、とりわけ直幸と参府年がかち合うことになる紀伊家の当主の治貞は今のように、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのように意識することもなかったが、しかし、4ヶ月前に直幸が将軍・家治より溜之間の最上席である床の間を背にする北側、即ち、
「南面に…」
着座するよう命じられるや、南側に着座する御三家、それも参府年が直幸と同じ紀伊藩主の治貞はその度に…、今日のような月次御礼の際、黒書院にて将軍・家治との拝謁に臨むまでの間、ここ溜之間にて待たねばならぬ度に、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような思いに囚われることになった。
ちなみに尾張宗睦の場合は紀伊治貞とは違い、即ち、井伊直幸とは違って参府年が違うのでそのような思いに囚われずに済んだ。
つまりは直幸や治貞にとっては参府年に当たる今年、卯年は宗睦にとっては帰国の年に当たり、宗睦が再びこの江戸の土を踏むことになる参府年は来年の辰年になるわけだが、辰年は直幸と治貞にとっては逆に帰国の年に当たるので、それゆえ宗睦が直幸と、月次御礼の折に最上席にて着座する直幸とかち合うことはなく、それゆえ宗睦は治貞のように、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような思い、それも所謂、「負の感情」に囚われずに済んだ。何しろ直幸をおいて外には最上席に着座することを将軍・家治より許された溜之間詰の大名諸侯はおらず、それゆえ直幸が参勤交代により帰国すると必然的に最上席は空席となるからだ。
いや、直幸は来年の辰年に帰国すると言っても、それは5月と定められており、それゆえ来年の辰年の3月に参府する宗睦とは2ヶ月の間があった。つまり3月から5月の2ヶ月間は宗睦と直幸は共にこの江戸にいるというわけで、その2ヶ月の間にも当然、今日のように月次御礼の行事があり、宗睦もまた治貞と同様、最上席にて鎮座する直幸と向かい合うことになる。
尤もそれは僅か2ヶ月だけの間に過ぎず、そこが毎年のように、それも通年に亘って、
「嫌でも…」
直幸と向かい合うことになる治貞との違い、それも最大の違いであった。
ともあれ尾張宗睦にとっては卯年の今年がちょうど帰国の年に当たり、それゆえ江戸にいないことが、
「幸いというべきか…」
とはつまりはそういう意味であった。
さて、御三家と対する井伊直幸も紀伊治貞のそのような胸のうちには勿論気づいていたので、それゆえ溜之間に治貞が姿を見せるやいなや、平伏してこれを出迎えた。
そして直幸の平伏は治貞が定位置に着座し、そして治貞が咳払いするまで続けられた。
直幸は最初、治貞が着座しても中々に頭を上げずにいたので、それで治貞もそのような直幸の態度を不審に思い、「掃部殿?」と直幸に声をかけたものである。
それに対して直幸はと言うと、御三家より頭を上げることを許されるまでは頭を上げるわけにはゆかぬと、大意そのように答えて治貞を大いに感心させたものである。
そしてこれこそが直幸の「狙い」であった。将軍家からは何かと敬遠されがちな御三家ではあるものの、しかしそれでも、
「腐っても鯛…」
というわけでもないが、天下の御三家を敵に回すのは得策ではなく、それゆえ直幸はその御三家にして己に対して「負の感情」を抱きがちな治貞を謂わば、
「煽てて見せる…」
そのために直幸は治貞に対して馬鹿丁寧な程に平伏を続けたのであった。
そして直幸のこの「狙い」は見事に図に当たり、治貞は直幸に対してそれ程、「負の感情」に囚われることはなくなり、治貞はそれなればと、己の咳払いを合図として頭を上げるようにと、そう直幸に命じ、それに対して直幸も治貞のその厚意を拝辞することなく素直に受け止め、爾来、慣習としていた。
さて、紀伊中納言治貞に続いて溜之間に姿を見せたのは水戸宰相治保であった。
治保は従三位宰相、つまりは参議の位にあり、この宰相こと参議は大納言、中納言に次ぐそれであるので、将軍・家治への拝謁も中納言である紀伊治貞に次ぎ、それゆえ治貞に続けてこの溜之間に姿を見せたというわけだ。
その治保が当主を務める水戸家だが、水戸家の当主は所謂、
「定府」
つまりはこの江戸で暮らすことが義務付けられており、当主でいる間は一度も国許である水戸に帰ることは許されなかった。
それゆえ治保はその水戸家の当主として、紀伊治貞と同じく、いや、国許に帰れない治保は参勤交代はないも同然あり、それゆえ当然と言うべきであろう、直幸と向かい合うことになる。
そして治保は治貞以上に、
「御三家たる己が下座に着座している…」
そのような「負の感情」に囚われる性質であった。
無論、直幸もこの水戸治保に対しても紀伊治貞に対するのと同様、平伏してこれを出迎えた。
だが治保の場合、治貞とは違って、直幸から平伏されてもそのような「負の感情」を拭い去ることは出来ず、そこで直幸の頭を中々上げさせようとはしなかった。
それゆえ西側に居並ぶ頼起ら外の溜之間詰の大名諸侯らも頭を上げられずにいた。
高松松平家の讃岐守頼起ら…、直幸の嫡子の直富や会津松平家の当主・肥後守容頌が嫡子の容詮もまた、直幸に倣い、紀伊治貞の「登場」に際して平伏してこれを出迎え、そして治貞の「咳払い」を受けて頭を上げた直幸に倣い、頼起らも頭を上げた。
さて、こういった時…、治保の「意地悪」に際会していつも「救いの手」を差し伸べるのが治貞であった。
直幸らに、それも主に「最上席」にて着座する直幸に対して中々、頭を上げさせようとはしない治保に代わって治貞が直幸に頭を上げるよう促すべく、例の「咳払い」をしてみせた。
直幸もそれを受けて少しだけ頭を上げたものの、そんな直幸の視界に入ってきたのはこれまたと言うべきか、治保の仏頂面であった。
いや、「これまた」は仏頂面だけに止まらない。
「誰が面を上げよと命じた?」
治保が直幸にそう告げて再び、直幸を平伏させるのも「これまた」であった。
それに対して直幸は、「ははぁっ」と再び、平伏し、それゆえ頼起らも畢竟、頭を上げられずにいた。
そして治保のそのような「意地悪」に対して治貞が心底、ウンザリさせられるのもやはり「これまた」であった。
治貞は居た堪れず、「水戸殿、もう良かろう…」と口を挟んだ。無論、
「もう直幸らに、いや、直幸に頭を上げさせても良いだろう…」
そのような意味がそこには込められていた。
一方、治保にしても勿論、治貞の意図するところに察しがついていたものの、しかし、表面的にはあくまで知らぬフリを装った。
「何が良かろうと?」
平然とそう応じる治保に対して治貞が苛立ちを覚えるのはしかし、「これまた」ではなかった。治保の直幸に対する「イビリ」が今日はいつにも増して執拗であった。少なくとも治貞にはそう感じられた。
「何がではござらぬ。一体いつまで掃部殿らを平伏させる御所存かっ」
治貞は治保を詰問した。
だが治保は冷笑でこれを受け流した。
「たかが溜之間詰如きに掃部殿などと…、斯かる輩は掃部で十分、いや、過分と申すものにて…」
治保はまずはそうのたもうたものだった。余程に直幸が最上席に鎮座していることが、即ち、己が下座にて着座させられていることが気に入らぬものと見える。
「いや、それはさておき、されば掃部めが御三家に敬意を払うまで、でござるよ…」
治保は続けてそうのたもうた。
「それなれば斯様に平伏して敬意を払い申しているではござらぬか」
治貞は直幸に代わってそう反論した。
だが治保はそれに対してもやはり冷笑で応じた。
「腹では舌を出しているに違いござるまいて…、然様なことも見抜けぬとは、紀伊殿、間抜けの謗りは免れますまいて…」
治保は治貞を間抜け呼ばわりする始末であった。
これには流石に治貞も、
「我を忘れて…」
激昂したものである。治貞は、「なに…」と低い声を発した。
このままではまずい…、直幸はそう思うやいなや、
「如何にも水戸様の仰せの通りにて、身共が心底にどこか御三家を蔑ろにせしところが…、それゆえに水戸様もそれにお気づきあそばされましたのやも知れず、されば水戸様、そして紀伊様、心中よりお詫び申し上げまする…」
直幸は平伏したまま、そう謝罪の言葉を口にすることで、治貞を救った。このままでは治貞が治保に斬りかかるやも知れぬと、直幸はそれを危惧したからだ。
いや、治貞は仮にも御三家の紀伊家の当主である。そうであれば浅野内匠頭の二の舞を演ずるとは、そこまで短慮を起こすとも到底思えなかったものの、それでも万が一ということもあり得た。
ともあれ直幸の今の言葉で治貞も我に返ると同時に直幸に大いに感謝したものである。
一方、治保はそんな直幸の如何にも殊勝な態度が忌々しく、そんな直幸に心を寄せる治貞はそれ以上に忌々しかった。
そしてそんな治保をいよいよ忌々しくさせたのが治保に続いてこの溜之間に姿を現した尾張中将治行であった。
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