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水戸治保は己を溜之間まで案内してきた奏者番が嫌悪、軽蔑してやまない田沼意知であったために、それが気に入らずに直幸をいつも以上にイビった。
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治行は尾張大納言宗睦の養嗣子であった。
溜之間詰、それも代々に亘って溜之間を殿中席とする所謂、「定溜」の成人嫡子が父と共に溜之間に詰めることが許されるのと同様、御三家の成人嫡子もまた、御三家の当主たる父と共にその御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めることが許されていた。
尤も、御三家は平日登城が許されている溜之間詰の大名諸侯とは違って、平日登城は許されず、今日のような月次御礼などの式日にのみ登城が許されている程度であり、それゆえ御三家が殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めるのも畢竟、式日に限られ、その御三家の成人嫡子もそれに倣う。
さて、天明3(1783)年の今、御三家の中で成人嫡子に恵まれているのは尾張家と紀伊家の二家であり、紀伊中納言治貞には治寶という成人嫡子が存しており、治寶もまた、尾張大納言宗睦のそれである治行と共に月次御礼に当たる今日のような式日、御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めることが許されていた。
但し、治寶の官位は未だ、
「従四位下常陸介」
であり、これは治行のそれである従三位左近衛権中将よりも低いものであった。
それゆえ所謂、「嫡子組」では治行の方が治寶よりも先に将軍・家治に拝謁することになるので、治行が水戸治保に続いて溜之間に姿を現したというわけだ。
その治行は先ほどよりの水戸治保と紀伊治貞との口論の一部始終を耳にしており、それゆえ治行は溜之間へと足を踏み入れるなり、呵呵大笑してみせ、治保をギョッとさせたものである。
いや、ギョッとしたのは何も治保一人に限らず、その治保と争論に及んでいた紀伊治貞や、それに相変わらず平伏したままの直幸らをも皆、一様にギョッとさせたものである。
「水戸殿、掃部殿をたかが溜之間詰如きと申されるが、それなれば高松松平家の讃岐殿とて同様にたかが溜之間詰如きと相成りましょうが、これ如何に?」
治行は己の方に真っ先に振り向いた治保に対してまずはそうかましてみせた。
それに対して治保はと言うと、痛いところを衝かれた様子で渋面となった。
それと言うのも「高松松平家の讃岐殿」こと讃岐守頼起は治保が当主を務める水戸徳川家の連枝、つまりは分家筋に当たり、のみならず、頼起の妻女は誰あろう、その治保の長女であったのだ。
治行は勿論、これらの事情を、つまりは水戸徳川家と高松松平家の縁、更には各々の当主である治保と頼起との個人的な縁をも承知していたからこそ、治保に対してあえてその頼起の名を、存在を持ち出すことで、治保を黙らせたのであった。
するとそこで溜之間詰のさしずめ、「最後の訪問者」とも言うべき治貞が嫡子の治寶が姿を現したので、治行は治保に「止めの一撃」を御見舞いした。
「それにしても水戸殿はいつにも増して御機嫌斜めな御様子にて…、さればここまで水戸殿を案内せし奏者番が田沼山城殿であったことが余程に気に食わぬらしい…」
治行はそう冷罵してみせ、治保の自尊心を大いに傷付けた。いや、ズタズタにしたと言うべきか。
確かに治行の言う通りであった。
今日のような月次御礼においては御三家は奏者番と目付の、さしずめ「リレー方式」の案内によりここ溜之間までやって来る。
具体的には殿中席である松之大廊下の上之部屋にて控える御三家をまずは目付が波之間まで案内し、そして波之間にて控えていた奏者番に、
「御三家の案内」
という「バトン」が目付より渡されるのであった。
即ち、波之間よりは奏者番が御三家をここ、溜之間まで案内するのだ。
そして今日、紀伊治貞を波之間よりここ溜之間へと案内した奏者番が松平玄蕃頭忠福であるのに対して、水戸治保を波之間よりここ溜之間へと案内してきたそれは田沼意知であったのだ。
水戸治保は意知を、いや、意次・意知父子を毛嫌いしていた。心底、軽蔑していたと言っても良いであろう。
「どこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる輩が、いや、そのまた小倅が何故に奏者番を勤めておるのだ…」
水戸治保は奏者番を勤める意知をそのように見下していた。
だがこれまでは己に被害が及ぶことはなく、それゆえ水戸治保も意知を嫌悪、見下すのみで座視していた。
だが今日は違い、水戸治保に「被害」が及んだのであった。
江戸城内における儀式典礼を掌る奏者番にとって御三家の案内役は晴れがましい仕事の一つであった。いや、最も晴れがましい仕事と言っても過言ではないだろう。
それと言うのも将軍が奏者番に御三家を案内させることで、御三家に対して将軍がその奏者番を謂ってみれば、
「期待の星」
として見做していることをアピールする狙いが込められていたからだ。いや、更に進めて、幕府の次代を担う謂わば、
「ニューリーダー」
として御三家に認知させる意味をもそこには込められていた。
つまり将軍・家治が松平忠福には紀伊治貞の案内を、田沼意知には水戸治保の案内をそれぞれ命じたということは、家治が治貞や治保に対して忠福や意知を期待の星、そしてニューリーダーとして期待しているのだと、そのことを示唆していたのだ。
一方、治保はそのことが気に入らず、大いに不愉快であった。
いや、不愉快などと、そのような生易しいものではなかった。波之間からここ溜之間までは竹之御廊下を伝うわけだが、その道中、先立ちを務める意知の背中を治保は何度、脇差にて突こうとしたことか。
これで己の案内役が意知ではなく忠福であったならば、治保も意知に対してこのような殺意を覚えることはなかったであろう。
無論、その場合でも将軍・家治が意知を期待の星、そしてニューリーダーと見做していることに変わりはないものの、しかし、不快を覚える程度であっただろう。
だが実際には己を案内したのが嫌悪、軽蔑して已まない意知だったからこそ、治保はその意知が将軍・家治から期待の星、そしてニューリーダーと見做されていることとも相俟って、意知に殺意を覚えたのだ。治保にとっては折角の月次御礼が穢されたも同然だからだ。
それでも治保は浅野内匠頭程には短慮ではなく、その殺意を必死に抑えた。
だがそんな治保を待ち受けていたのは溜之間の最上席、床の間を背にして鎮座する井伊直幸であったために、治保は直幸に対していつも以上に苛立ちを覚えた。意知に対する殺意がその苛立ちを倍加させた面があった。
そこで治保はいつにも増して直幸をイビったのであった。即ち、いつも以上に下座にて着座する己に対して平伏させ続けたのであった。例え、そのことで分家筋に当たる松平頼起までも平伏させ続けることになったとしても、治保には正に、
「お構いなし…」
であった。それ程までに意知に対する殺意が深かったという証左とも言えた。
そして治行はその点を指摘し、治貞もそれで漸くに合点がいったものである。治貞にしても何故に治保が今日に限って直幸をいつも以上にイビるのかと、つまりは平伏させ続けるのかと、疑問に思っていたからだ。
それにしてもと、治貞は治行のその豪胆さに内心、感心させられた。
何しろ治行が絵解きをしてみせた治保のその胸のうちは、治保当人にとっては最も隠しておきたい類のそれに違いなかったからだ。治貞が治保の立場であったならばそうだ。
だが治行はそんなことには「お構いなし」とばかりに、治保のその最も触れられたくない胸のうちを、それも治貞らがいる前で「解剖」してみせたのだ。
治保は屈辱の余り、顔面を紅潮させた。
いや、普段の治行であったならば、ここまで豪胆な、いや、治保にとっては放埓とも思えるそのような所業には及ばなかったであろう。
治行は豪胆な気性の持ち主ではあるが、しかし普段は至って冷静沈着であり、豪胆とは無縁の、決して軽挙妄動などしないタイプであった。
だが同時に、理不尽な場面に際会してはその豪胆な気性がムクムクと、所謂、
「頭を擡げ…」
元来の気性である豪胆さが表出してしまい、今が正にそうであった。
治保の直幸らに対する、それも主に直幸に対する理不尽なる仕打が治行にはどうにも我慢がならず、そこで豪胆な行動へと走らせたのであった。
いや、治行の豪胆な行動はこれに止まらず、
「掃部殿らももう、面を上げられよ。上様でもない者にそういつまでも平伏す|必要はござるまいて…」
治行は治保にはお構いなしとばかり、直幸らに頭を上げさせようとしたのだ。
「おのれ、小僧…」
治保は治行からの度重なる無礼な振舞いに遂に我慢がならず、治行を「小僧」呼ばわりしたのであった。
棚に上げるとは正にこのことであり、治保もその点を指摘した。
「小僧呼ばわりとは…、余程に身共がそこもとに対する無礼なる仕打が気に障ったと見ゆるが、なれどそれはそこもとが掃部殿らに対してなされたのと…、掃部殿らへの理不尽なる仕打と同じことを身共もそこもとにしたまで…」
治行にそう切り返された治保は二の句が告げなかった。
すると治行はそれを良いことに止めを刺した。
「それにそこもとは身共を小僧呼ばわりされたが、成程、従三位参議のそこもとからすれば、未だ中将の身共は確かに小僧やも知れませぬが、なれどゆくゆく家督を継ぎましたなればそこもとと肩を並べる、いや、そこもとを追い抜くことと相成りましょうぞ…」
治行は冷笑を浮かべてそう言い放った。
御三家の中でも水戸家は尾張家、紀伊家よりも家格が低く、それが証に水戸家の極官…、昇叙できる最高の官位は、
「従三位権中納言」
であり、これは尾張家の家督を継いだ当主の官位に相当する。
つまり治行が尾張家の家督を継ぐと同時に、水戸家の当主の極官である、
「従三位権中納言」
その官位に叙されるわけで、その時まで…、水戸治保が治行が尾張家を継ぐまで今の官位、即ち、
「従三位宰相」
であったならば成程、治行が言う通り、治行が治保を、
「追い抜く…」
そうなるであろう。何しろ従三位権中納言と従三位宰相とでは従三位権中納言の方が上だからだ。
無論、治行が直ぐに尾張家の家督を継ぐとも思われず、それまでには間がある筈であり、そうであれば治行が尾張家の家督を継ぐのは、即ち、治保を追い抜くのはまだまだ先の話であろう。
だが、そうであればその間に治行が従三位権中納言と従三位宰相の間にある官位、即ち、水戸治保の今の官位である、
「従三位宰相…」
それへと昇叙する可能性は大いにあり得た。いや、確実に従三位宰相へと昇叙する筈であり、そうなれば治行は治保と肩を並べることになる。
いや、その前に治保が従三位権中納言へと更に昇叙を果たせば、治行と肩を並べることにはならないだろうが、しかしそこまでと言えた。何しろ、水戸家の当主たる治保が従三位権中納言以上に昇叙することはあり得ないからだ。
その点、尾張家の極官たるや、
「従二位権大納言」
であり、治行が養父にして尾張家当主たる宗睦の今の官位がそれであり、それゆえ治保はどう足掻いても官位においては治行には勝てない運命であり、治行はそのことを冷笑混じりに治保に指摘したのだ。
そしてそれは家格や官位といった謂わば格付けに、
「殊の外…」
敏感な治保には直ぐに察せられ、そして痛撃となった。大いなる侮辱とも言えよう。
それゆえ治保は今度こそ、浅野内匠頭になりかけた。
これで隣に座る治貞から、「殿中でござるぞ」と囁かれなければ、手にかけた脇差の鞘を走らせていたやも知れぬ。
治貞は同時に…、治保を我に返らせると同時に、
「治行殿も戯もそこまでになされよ…」
治行に対してもその豪胆な、或いは放埓なる振舞いを窘めてみせた。
それに対して治行はと言うと、治貞に対しては何の恨みもなかったので、素直に「ははぁっ」と応じてみせた。
溜之間詰、それも代々に亘って溜之間を殿中席とする所謂、「定溜」の成人嫡子が父と共に溜之間に詰めることが許されるのと同様、御三家の成人嫡子もまた、御三家の当主たる父と共にその御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めることが許されていた。
尤も、御三家は平日登城が許されている溜之間詰の大名諸侯とは違って、平日登城は許されず、今日のような月次御礼などの式日にのみ登城が許されている程度であり、それゆえ御三家が殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めるのも畢竟、式日に限られ、その御三家の成人嫡子もそれに倣う。
さて、天明3(1783)年の今、御三家の中で成人嫡子に恵まれているのは尾張家と紀伊家の二家であり、紀伊中納言治貞には治寶という成人嫡子が存しており、治寶もまた、尾張大納言宗睦のそれである治行と共に月次御礼に当たる今日のような式日、御三家の殿中席である松之大廊下の上之部屋に詰めることが許されていた。
但し、治寶の官位は未だ、
「従四位下常陸介」
であり、これは治行のそれである従三位左近衛権中将よりも低いものであった。
それゆえ所謂、「嫡子組」では治行の方が治寶よりも先に将軍・家治に拝謁することになるので、治行が水戸治保に続いて溜之間に姿を現したというわけだ。
その治行は先ほどよりの水戸治保と紀伊治貞との口論の一部始終を耳にしており、それゆえ治行は溜之間へと足を踏み入れるなり、呵呵大笑してみせ、治保をギョッとさせたものである。
いや、ギョッとしたのは何も治保一人に限らず、その治保と争論に及んでいた紀伊治貞や、それに相変わらず平伏したままの直幸らをも皆、一様にギョッとさせたものである。
「水戸殿、掃部殿をたかが溜之間詰如きと申されるが、それなれば高松松平家の讃岐殿とて同様にたかが溜之間詰如きと相成りましょうが、これ如何に?」
治行は己の方に真っ先に振り向いた治保に対してまずはそうかましてみせた。
それに対して治保はと言うと、痛いところを衝かれた様子で渋面となった。
それと言うのも「高松松平家の讃岐殿」こと讃岐守頼起は治保が当主を務める水戸徳川家の連枝、つまりは分家筋に当たり、のみならず、頼起の妻女は誰あろう、その治保の長女であったのだ。
治行は勿論、これらの事情を、つまりは水戸徳川家と高松松平家の縁、更には各々の当主である治保と頼起との個人的な縁をも承知していたからこそ、治保に対してあえてその頼起の名を、存在を持ち出すことで、治保を黙らせたのであった。
するとそこで溜之間詰のさしずめ、「最後の訪問者」とも言うべき治貞が嫡子の治寶が姿を現したので、治行は治保に「止めの一撃」を御見舞いした。
「それにしても水戸殿はいつにも増して御機嫌斜めな御様子にて…、さればここまで水戸殿を案内せし奏者番が田沼山城殿であったことが余程に気に食わぬらしい…」
治行はそう冷罵してみせ、治保の自尊心を大いに傷付けた。いや、ズタズタにしたと言うべきか。
確かに治行の言う通りであった。
今日のような月次御礼においては御三家は奏者番と目付の、さしずめ「リレー方式」の案内によりここ溜之間までやって来る。
具体的には殿中席である松之大廊下の上之部屋にて控える御三家をまずは目付が波之間まで案内し、そして波之間にて控えていた奏者番に、
「御三家の案内」
という「バトン」が目付より渡されるのであった。
即ち、波之間よりは奏者番が御三家をここ、溜之間まで案内するのだ。
そして今日、紀伊治貞を波之間よりここ溜之間へと案内した奏者番が松平玄蕃頭忠福であるのに対して、水戸治保を波之間よりここ溜之間へと案内してきたそれは田沼意知であったのだ。
水戸治保は意知を、いや、意次・意知父子を毛嫌いしていた。心底、軽蔑していたと言っても良いであろう。
「どこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる輩が、いや、そのまた小倅が何故に奏者番を勤めておるのだ…」
水戸治保は奏者番を勤める意知をそのように見下していた。
だがこれまでは己に被害が及ぶことはなく、それゆえ水戸治保も意知を嫌悪、見下すのみで座視していた。
だが今日は違い、水戸治保に「被害」が及んだのであった。
江戸城内における儀式典礼を掌る奏者番にとって御三家の案内役は晴れがましい仕事の一つであった。いや、最も晴れがましい仕事と言っても過言ではないだろう。
それと言うのも将軍が奏者番に御三家を案内させることで、御三家に対して将軍がその奏者番を謂ってみれば、
「期待の星」
として見做していることをアピールする狙いが込められていたからだ。いや、更に進めて、幕府の次代を担う謂わば、
「ニューリーダー」
として御三家に認知させる意味をもそこには込められていた。
つまり将軍・家治が松平忠福には紀伊治貞の案内を、田沼意知には水戸治保の案内をそれぞれ命じたということは、家治が治貞や治保に対して忠福や意知を期待の星、そしてニューリーダーとして期待しているのだと、そのことを示唆していたのだ。
一方、治保はそのことが気に入らず、大いに不愉快であった。
いや、不愉快などと、そのような生易しいものではなかった。波之間からここ溜之間までは竹之御廊下を伝うわけだが、その道中、先立ちを務める意知の背中を治保は何度、脇差にて突こうとしたことか。
これで己の案内役が意知ではなく忠福であったならば、治保も意知に対してこのような殺意を覚えることはなかったであろう。
無論、その場合でも将軍・家治が意知を期待の星、そしてニューリーダーと見做していることに変わりはないものの、しかし、不快を覚える程度であっただろう。
だが実際には己を案内したのが嫌悪、軽蔑して已まない意知だったからこそ、治保はその意知が将軍・家治から期待の星、そしてニューリーダーと見做されていることとも相俟って、意知に殺意を覚えたのだ。治保にとっては折角の月次御礼が穢されたも同然だからだ。
それでも治保は浅野内匠頭程には短慮ではなく、その殺意を必死に抑えた。
だがそんな治保を待ち受けていたのは溜之間の最上席、床の間を背にして鎮座する井伊直幸であったために、治保は直幸に対していつも以上に苛立ちを覚えた。意知に対する殺意がその苛立ちを倍加させた面があった。
そこで治保はいつにも増して直幸をイビったのであった。即ち、いつも以上に下座にて着座する己に対して平伏させ続けたのであった。例え、そのことで分家筋に当たる松平頼起までも平伏させ続けることになったとしても、治保には正に、
「お構いなし…」
であった。それ程までに意知に対する殺意が深かったという証左とも言えた。
そして治行はその点を指摘し、治貞もそれで漸くに合点がいったものである。治貞にしても何故に治保が今日に限って直幸をいつも以上にイビるのかと、つまりは平伏させ続けるのかと、疑問に思っていたからだ。
それにしてもと、治貞は治行のその豪胆さに内心、感心させられた。
何しろ治行が絵解きをしてみせた治保のその胸のうちは、治保当人にとっては最も隠しておきたい類のそれに違いなかったからだ。治貞が治保の立場であったならばそうだ。
だが治行はそんなことには「お構いなし」とばかりに、治保のその最も触れられたくない胸のうちを、それも治貞らがいる前で「解剖」してみせたのだ。
治保は屈辱の余り、顔面を紅潮させた。
いや、普段の治行であったならば、ここまで豪胆な、いや、治保にとっては放埓とも思えるそのような所業には及ばなかったであろう。
治行は豪胆な気性の持ち主ではあるが、しかし普段は至って冷静沈着であり、豪胆とは無縁の、決して軽挙妄動などしないタイプであった。
だが同時に、理不尽な場面に際会してはその豪胆な気性がムクムクと、所謂、
「頭を擡げ…」
元来の気性である豪胆さが表出してしまい、今が正にそうであった。
治保の直幸らに対する、それも主に直幸に対する理不尽なる仕打が治行にはどうにも我慢がならず、そこで豪胆な行動へと走らせたのであった。
いや、治行の豪胆な行動はこれに止まらず、
「掃部殿らももう、面を上げられよ。上様でもない者にそういつまでも平伏す|必要はござるまいて…」
治行は治保にはお構いなしとばかり、直幸らに頭を上げさせようとしたのだ。
「おのれ、小僧…」
治保は治行からの度重なる無礼な振舞いに遂に我慢がならず、治行を「小僧」呼ばわりしたのであった。
棚に上げるとは正にこのことであり、治保もその点を指摘した。
「小僧呼ばわりとは…、余程に身共がそこもとに対する無礼なる仕打が気に障ったと見ゆるが、なれどそれはそこもとが掃部殿らに対してなされたのと…、掃部殿らへの理不尽なる仕打と同じことを身共もそこもとにしたまで…」
治行にそう切り返された治保は二の句が告げなかった。
すると治行はそれを良いことに止めを刺した。
「それにそこもとは身共を小僧呼ばわりされたが、成程、従三位参議のそこもとからすれば、未だ中将の身共は確かに小僧やも知れませぬが、なれどゆくゆく家督を継ぎましたなればそこもとと肩を並べる、いや、そこもとを追い抜くことと相成りましょうぞ…」
治行は冷笑を浮かべてそう言い放った。
御三家の中でも水戸家は尾張家、紀伊家よりも家格が低く、それが証に水戸家の極官…、昇叙できる最高の官位は、
「従三位権中納言」
であり、これは尾張家の家督を継いだ当主の官位に相当する。
つまり治行が尾張家の家督を継ぐと同時に、水戸家の当主の極官である、
「従三位権中納言」
その官位に叙されるわけで、その時まで…、水戸治保が治行が尾張家を継ぐまで今の官位、即ち、
「従三位宰相」
であったならば成程、治行が言う通り、治行が治保を、
「追い抜く…」
そうなるであろう。何しろ従三位権中納言と従三位宰相とでは従三位権中納言の方が上だからだ。
無論、治行が直ぐに尾張家の家督を継ぐとも思われず、それまでには間がある筈であり、そうであれば治行が尾張家の家督を継ぐのは、即ち、治保を追い抜くのはまだまだ先の話であろう。
だが、そうであればその間に治行が従三位権中納言と従三位宰相の間にある官位、即ち、水戸治保の今の官位である、
「従三位宰相…」
それへと昇叙する可能性は大いにあり得た。いや、確実に従三位宰相へと昇叙する筈であり、そうなれば治行は治保と肩を並べることになる。
いや、その前に治保が従三位権中納言へと更に昇叙を果たせば、治行と肩を並べることにはならないだろうが、しかしそこまでと言えた。何しろ、水戸家の当主たる治保が従三位権中納言以上に昇叙することはあり得ないからだ。
その点、尾張家の極官たるや、
「従二位権大納言」
であり、治行が養父にして尾張家当主たる宗睦の今の官位がそれであり、それゆえ治保はどう足掻いても官位においては治行には勝てない運命であり、治行はそのことを冷笑混じりに治保に指摘したのだ。
そしてそれは家格や官位といった謂わば格付けに、
「殊の外…」
敏感な治保には直ぐに察せられ、そして痛撃となった。大いなる侮辱とも言えよう。
それゆえ治保は今度こそ、浅野内匠頭になりかけた。
これで隣に座る治貞から、「殿中でござるぞ」と囁かれなければ、手にかけた脇差の鞘を走らせていたやも知れぬ。
治貞は同時に…、治保を我に返らせると同時に、
「治行殿も戯もそこまでになされよ…」
治行に対してもその豪胆な、或いは放埓なる振舞いを窘めてみせた。
それに対して治行はと言うと、治貞に対しては何の恨みもなかったので、素直に「ははぁっ」と応じてみせた。
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