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溜之間の事情 ~黒書院溜之間における人間模様~

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 中奥なかおく御座之間ござのまにおいて将軍・家治との拝謁はいえつえた井伊いい直幸なおひで表向おもてむきへともどると、おのれ殿中でんちゅうせきである溜之間たまりのまあしれた。

 溜之間たまりのまではその西側にしがわにおいてすで高松たかまつ松平まつだいら家の当主とうしゅである頼起よりおきとそれに直幸なおひで嫡子ちゃくしである玄蕃頭げんばのかみ直富なおとみ、そして会津あいづ松平まつだいら家の当主とうしゅである肥後守ひごのかみ容頌かたのぶ嫡子ちゃくしである駿河守するがのかみ容詮かたさだの3人が西側にしがわにして縦一列たていちれつならんでひかえており、そこへ直幸なおひであしれるや、頼起よりおき会釈えしゃくしてこれを出迎でむかえ、それに対して井伊いい直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだ二人ふたり平伏へいふくこそしなかったものの、しかし、深々ふかぶか叩頭こうとうして出迎でむかえた。直幸なおひでに対するこの「」はひとえに、

大名だいみょうであるかいなか…」

 それによる。

 すなわち、頼起よりおきすで高松たかまつ松平まつだいら家をいでおり、れきとした大名だいみょうであるのに対して井伊いい直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだ場合ばあい嫡子ちゃくしであり、つまりは、

いま大名だいみょうあらず…」

 というわけで、頼起よりおき直幸なおひでとはおなじく、大名だいみょう同士どうしというわけで直幸なおひでに対して会釈えしゃく程度ていどとどめ、それに対して直富なおとみ容詮かたさだいま大名だいみょうあらず、それゆえ直幸なおひでに対しては平伏へいふくしてこれを出迎でむかえたのであった。

 もっとも、頼起よりおき直幸なおひでとはおな大名だいみょう同士どうしとは言え、官位かんいおなじではなかったので、それゆえ直幸なおひでが、

とこにして…」

 最上席さいじょうせき着座ちゃくざするまでのあいだ頼起よりおき会釈えしゃくしたままの姿勢しせいたもった。

 すなわち、頼起よりおきいま、このとき

従四位下じゅしいのげ左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう…」

 その官位かんいにあり、これは直幸なおひで官位かんいである、

正四位上しょうしいのじょう左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょう

 それよりもひくいものであり、つまりは直幸なおひでほう頼起よりおきよりも、

くらいうえ…」

 というわけで、それゆえ頼起よりおき直幸なおひでに対してれいをとらねばならなかった。

 ちなみにこの、頼起よりおき官位かんいである、

従四位下じゅしいのげ左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう…」

 であるが、直富なおとみのそれとおなじであった。

 つまり高松たかまつ松平まつだいら家の当主とうしゅたる頼起よりおき彦根ひこね井伊いい家の嫡子ちゃくしである直富なおとみ同格どうかくというわけだ。

 そしてこの場合ばあい席次せきじすなわち、ここ溜之間たまりのまにおける座順ざじゅんだが、

官位かんい先任せんにんじゅん…」

 による。つまりはさきにその官位かんいた方がうえというわけで、頼起よりおきが、

従四位下じゅしいのげ左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう…」

 その官位かんいたのが去年きょねん、天明2(1782)年の6月であるのに対して、直富なおとみはそれよりもさらはやい安永9(1780)年の10月のことであった。

 それゆえ直富なおとみの方が頼起よりおきよりも、

席次せきじうえ…」

 というわけで、本来ほんらいならば、

とこにして…」

 最上席さいじょうせき着座ちゃくざする直幸なおひで一番いちばんちかくにすわるべきは直幸なおひで嫡子ちゃくしである直富なおとみであり、頼起よりおきはその直富なおとみとなりすわるべきであった。

 ところが実際じっさいには直幸なおひで一番いちばんちかくにしているのは頼起よりおきであった。これは直富なおとみが、と言うよりはちち直幸なおひで頼起よりおきの、

面子めんつ…」

 それをおもんじて、そのような座順ざじゅんとしたのだ。

 この頼起よりおきの「面子めんつ」とはほかでもない、

高松たかまつ松平まつだいら家の当主とうしゅ…」

 つまりは堂々どうどうたる大名だいみょうとしてのそれであった。

 何しろ直富なおとみいま直幸なおひで嫡子ちゃくしぎず、大名だいみょうですらないのだ。

 その直富なおとみ頼起よりおきよりもさきに、

従四位下じゅしいのげ左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう…」

 それに叙任じょにんされたからと言って、仕来しきたどおり、席次せきじにおいて直富なおとみ頼起よりおきうえさだめては、頼起よりおき面子めんつまさに、

丸潰まるつぶれ…」

 というわけだ。

 いや、頼起よりおきはこの手の「面子めんつ」にこだわるようなおとこではなく、実際じっさい頼起よりおき直富なおとみ下座げざすわろうとし、それを直幸なおひでつよ調子ちょうしせいしてみずからに一番いちばんちかいその場所ばしょを、すなわち、

席次せきじ二番にばん…」

 それを頼起よりおき座席ざせきさだめたのであった。

 ちなみに会津あいづ松平まつだいら家の当主とうしゅである容頌かたのぶ嫡子ちゃくしである容詮かたさだ官位かんいは、

従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう…」

 であり、この4人の中では一番いちばんひくく、つ、嫡子ちゃくしであるという事情じじょう相俟あいまって、この溜之間たまりのまにおいては最末席さいまっせきであった。

 ところでこの溜之間たまりのま殿中でんちゅうせきとする大名だいみょう諸侯しょこうだが、代々だいだいわたって殿中でんちゅうせきとしてめることがゆるされている所謂いわゆる

定溜じょうだまり…」

 その家柄いえがらである彦根ひこね井伊いい家、高松たかまつ松平まつだいら家、会津あいづ松平まつだいら家の三家さんけ当主とうしゅとその嫡子ちゃくしほかに、

松山まつやま藩主はんしゅ松平まつだいら隠岐守おきのかみ定國さだくに

桑名くわな藩主はんしゅ松平まつだいら下総守しもうさのかみ忠啓ただひら

 この二人がその一代いちだいかぎりにて溜之間たまりのまめることがゆるされていた。

 だが今、この溜之間たまりのまには定溜じょうだまりである会津あいづ松平まつだいら家の当主とうしゅたる松平まつだいら容頌かたのぶと、それにその一代いちだいかぎりで溜之間たまりのまめることがゆるされている松山まつやま藩主はんしゅ松平まつだいら定國さだくに桑名くわな藩主はんしゅ松平まつだいら忠啓ただひらの3人の姿すがたはなかった。

 それと言うのも今年、天明3(1783)年は卯年うどしであり、松平まつだいら容頌かたのぶ松平まつだいら定國さだくに松平まつだいら忠啓ただひらの3人にとっては所謂いわゆる

参勤交代さんきんこうたい…」

 それにより、国許くにもとかえとしたり、実際じっさい松平まつだいら容頌かたのぶは4月23日に、松平まつだいら定國さだくに松平まつだいら忠啓ただひら二人ふたりは5月朔日ついたちに、将軍・家治より

就封しゅうほういとまたまわり…」

 それぞれの国許くにもとへとかえゆるしをのち帰国きこくについたのであった。

 それゆえ今年ことし、天明3(1783)年の4月23日まではここ溜之間たまりのまには容頌かたのぶ定國さだくに忠啓ただひらの3人とそれに直富なおとみ容詮かたさだ二人ふたり嫡子ちゃくしめており、容頌かたのぶが将軍・家治より、

就封しゅうほういとま…」

 帰国きこく許可きょかた4月23日以降いこう、5月朔日ついたちまでは定國さだくに忠啓ただひら直富なおとみ容詮かたさだの4人でめていたわけで、井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおき二人ふたり溜之間たまりのまへと合流ごうりゅうしたのはちょうど、定國さだくに忠啓ただひら二人ふたりが将軍・家治より帰国きこく許可きょかた5月朔日ついたちのことであった。

 すなわち、井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおきにとってはぎゃく卯年うどし参府さんぷ、つまりはこの江戸えどとしたり、井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおき二人ふたりはその卯年うどしたる今年ことしの5月のそれも朔日ついたちに将軍・家治に対して、

参観さんかん

 江戸に到着とうちゃくしたのでその挨拶あいさつをし、それから井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおき二人ふたり松平まつだいら定國さだくに松平まつだいら忠啓ただひら二人ふたりわる格好かっこうでこの溜之間たまりのまめたのであった。

 ちなみに井伊いい直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだ二人ふたり嫡子ちゃくし、つまりは大名だいみょうではないというわけで、参勤交代さんきんこうたい義務ぎむいまだになく、江戸えどにあるそれぞれの藩邸はんてい、それも上屋敷かみやしきにてらしていたので、干支えと関係かんけいなく江戸城に登城とじょうしては溜之間たまりのまめることが出来できた。

 もっとも、嫡子ちゃくし溜之間たまりのまめることがゆるされているのはあくまで、

定溜じょうだまり…」

 代々だいだいわたって溜之間たまりのまめることがゆるされている彦根ひこね井伊いい家、高松たかまつ松平まつだいら家、会津あいづ松平まつだいら家の三家さんけ嫡子ちゃくしかぎられており、松平まつだいら定國さだくに松平まつだいら忠啓ただひらのようにその一代いちだいかぎりで溜之間たまりのまめることがゆるされた大名だいみょう諸侯しょこう嫡子ちゃくし溜之間たまりのまめることはゆるされておらず、それゆえ定國さだくに忠啓ただひら二人ふたり嫡子ちゃくし溜之間たまりのまにはめられないというわけだ。

 もっとも、定國さだくににはいま嫡子ちゃくしはおらず、忠啓ただひらには職之丞もとのじょう忠功ただかつという養嗣子ようししがいたものの、しかしいま無位むい無官むかんであり、何より将軍・家治への御目見得おめみえませてはおらず、これではたとえ、「定溜じょうだまり」の嫡子ちゃくしであったとしても溜之間たまりのまめることは出来できない。

 ただし、そうして嫡子ちゃくしでありながら溜之間たまりのまめられる井伊いい直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだであったが、溜之間たまりのまにおいてはあくまで、

政治せいじ顧問こもん見習みならい

 それにぎず、それゆえ昨日さくじつ意知おきともめぐ人事じんじ…、意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるかいなかにつき、れきとした溜之間たまりのまづめ大名だいみょうである井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおきのように将軍・家治の諮問しもんおうずることもなければ、溜之間たまりのまにおいても発言権はつげんけんはなく、精々せいぜい、「見学けんがく」するのみであった。

 ところで井伊いい直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおきがそれぞれ国許くにもとにいたころすなわち、在府中ざいふちゅうであった松平まつだいら容頌かたのぶ松平まつだいら定國さだくに松平まつだいら忠啓ただひら三人さんにん溜之間たまりのまめていたころ座順ざじゅんだが、最上席さいじょうせきには松平まつだいら容頌かたのぶ陣取じんどっていた。

 容頌かたのぶ官位かんいは、

正四位下しょうしいのげ左中将さちゅうじょう権中将ごんのちゅうじょう…」

 であり、井伊いい直幸なおひでよりは「ワンランク下」に位置いちするものの、しかし、定國さだくに忠啓ただひら三人さんにんなかでは一番いちばん官位かんいたかく、そして容頌かたのぶ定國さだくに忠啓ただひら三人さんにん溜之間たまりのまめているあいだ直幸なおひで松平まつだいら頼起よりおきとも帰国きこく中のというわけで、この江戸えどにはおらず、つまりは江戸城に登城とじょうして溜之間たまりのまめることなど、

「おおよそ不可能ふかのう…」

 というわけで、容頌かたのぶ遠慮えんりょなく最上席さいじょうせき陣取じんどることが出来できたのであった。

 もっともその場合ばあいでも容頌かたのぶゆるされているのはあくまで「とこ」に一番いちばんちか場所ばしょすのみであり、直幸なおひでのように、

とこにして…」

 着座ちゃくざすることまではゆるされていなかった。

 それゆえ直幸なおひで不在ふざいあいだは「とこ」をにすることが出来できる「スペース」は空間くうかんとなる。

 さてその容頌かたのぶとなり次席じせき定國さだくに、そして忠啓ただひらつづき、やはり「嫡子ちゃくしぐみ」である井伊いい直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだつづく。

 いや、容頌かたのぶ溜之間たまりのま最上席さいじょうせき、いや、直幸なおひでのように、

とこにして…」

 すわるわけではないので、たん上席じょうせきとどまるであろうか、ともあれ上座かみざ陣取じんどっているあいだ直富なおとみ最末席さいまっせき着座ちゃくざし、みずからのせき容詮かたさだゆずった。それと言うのも容詮かたさだ容頌かたのぶ嫡子ちゃくしであり、その容頌かたのぶ上座かみざ陣取じんどっているおりである容詮かたさだ最末席さいまっせきすわらせては、たとえそれが作法さほうのっとるものだとしても、容頌かたのぶ容詮かたさだちちとして、

こころおだやかならぬ…」

 それにちがいないと、直富なおとみ容頌かたのぶむねのうちを忖度そんたくし、そこで容頌かたのぶ溜之間たまりのまにいるあいだみずからのせき容詮かたさだのそれとを交換こうかんして、最末席さいまっせきひかえたのであり、直富なおとみまさに、

気配きくばりの人…」

 とえようか。そしてその「気配きくばり」はちち直幸なおひでゆずりであった。

 そしてそんな直幸なおひで直富なおとみ父子ふしとは対極たいきょく位置いちするのが松平まつだいら定國さだくにであった。

 定國さだくに忠啓ただひらともに、

従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう…」

 そのくらいにあり、容詮かたさだ同格どうかくにして直富なおとみ下位かい位置いちするものの、定國さだくに忠啓ただひら二人ふたり直富なおとみ容詮かたさだの「嫡子ちゃくしぐみ」とはちがい、

れきとした大名だいみょうである…」

 とのれい理由りゆうから、定國さだくに忠啓ただひら二人ふたりもまた、直富なおとみ容詮かたさだ二人ふたりよりも席次せきじうえであった。

 その定國さだくに忠啓ただひら同格どうかくであるゆえに上座かみざ容頌かたのぶとなりすべきは無論むろん

官位かんい先任せんにんじゅん

 それにより、定國さだくに忠啓ただひら場合ばあいで言えば、

従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう…」

 その官位かんいさき叙任じょにんされたほう容頌かたのぶとなりすことが出来できはずであり、定國さだくに容頌かたのぶとなりしていることから、定國さだくに忠啓ただひらよりもさきにその官位かんい辿たどいたのかと言うと、

あらず…」

 であった。「従四位下じゅしいのげ侍従じじゅう」にさき叙任じょにんされたのは忠啓ただひらの方であり、忠啓ただひらは今から7年前の安永5(1776)年12月に叙任じょにんされたのに対して定國さだくに叙任じょにんはと言うと、おくれること3年の安永8(1779)年の12月のことであった。

 そうであれば容頌かたのぶとなりすわるべきは忠啓ただひらということになるが、しかし実際じっさいには定國さだくにすわった。それも忠啓ただひら退けて、であった。

 定國さだくには実は八代将軍・吉宗のまごたり、御三卿ごさんきょう筆頭ひっとうである田安たやす家の始祖しそである宗武むねたけ六男ろくなんとしてまれ、松山まつやま藩主はんしゅであった松平まつだいら隠岐守おきのかみ定静さだきよ養嗣子ようししとしてむかえられたわけだが、しかし、定國さだくに定静さだきよ養嗣子ようししとしてむかえられたのちいまいたるまで、

は八代将軍・吉宗こう血筋ちすじぞ…」

 その意識いしきけきれず、それどころかその意識いしき肥大化ひだいかさせ、

こそ、溜之間たまりのま最上席さいじょうせきすべきなのだ…」

 定國さだくに肥大化ひだいかさせたその意識いしきからそうしんじてうたがわず、こともあろうに溜之間たまりのまにおいて、

とこにして…」

 最上席さいじょうせき陣取じんどり、容頌かたのぶおのれ下位かいとする暴挙ぼうきょに出たことがあった。これにはさしもの容頌かたのぶ心底しんそこあきかえったものであり、しかし、定國さだくに当人とうにん自負じふしてまないように、

「八代将軍・吉宗こう血筋ちすじ…」

 それゆえ容頌かたのぶとしても定國さだくに無礼ぶれい慮外りょがいたしなめるわけにもゆかず、無論むろん、将軍・家治にぐちするようなそんなはしたない真似まねをするわけにもゆかずで、しばらくは定國さだくにの好きにさせていたのだが、しかしもなく定國さだくにのその「暴挙ぼうきょ」が家治の耳にとどいてしまい、この時ばかりは温厚おんこうな家治も定國さだくにを、

「こっぴどく…」

 しかけ、それで定國さだくに爾来じらいとこにすることは流石さすがにしなくなったものの、しかしそのわりというわけでもないだろうが、定國さだくに容頌かたのぶとなりすわっていた忠啓ただひら退けてそこをみずからのせきとしてしまったのだ。

 そしてこのこともやはり家治の耳にはいり、家治はやはり定國さだくにしかけてそれをめさせようとしたものの、しかし、当人とうにんとも言うべき忠啓ただひらが家治に対してそれにはおよばないと、定國さだくにの好きにさせてやりたいとの意向いこうしめしたために、家治もなかあきれつつこれを黙認もくにんしたのであった。

 定國さだくに容頌かたのぶとなり陣取じんどったのにはこのような経緯いきさつがあった。
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