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御側御用取次の小笠原信喜の差配により西之丸へと差し遣わされ、そして家基を見殺しにした10人の医師たちは皆、一橋家と所縁があった。

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成程なるほど…、かる経緯いきさつからもり養春院ようしゅんいん婿むこ石寺いしでら伊織いおりよりの依頼いらいを…、一橋ひとつばしきょう殿が遅効性ちこうせい毒物どくぶつってして、おそおおくも大納言だいなごん様をがいたてまつりしうたがいがあり、そこで遅効性ちこうせい毒物どくぶつ発見はっけんたられたいとの依頼いらいけましたので?」

 意知おきともたしかめるようにたずねた。

左様さよう…、それと同時どうじ石寺いしでら伊織いおり盛朝もりともよりのたのみにより、家基いえもと療治りょうじたりし表番おもてばん医師いしの名を當定まささだよりしたそうな…」

 家治はおもすようにそうげた。すると意知おきともは、

一橋ひとつばしきょう殿との所縁ゆかり有無うむ調しらべるためでござりまするな?たしておそおおくも大納言だいなごん様を療治りょうじつかまつりし表番おもてばん医師いし一橋ひとつばしきょう殿との所縁ゆかりるのか、それともいのか…」

 即座そくざにそうおうじて家治をうなずかせた。

 それから家治はもう一枚の紙を意知おきとも寄越よこした。

 意知おきともはその紙を家治の手よりうやうやしくるやそれにとおすと驚愕きょうがくしたものであった。

 その紙には家基いえもとの「当初とうしょ治療ちりょうチーム」とも言うべき表番おもてばん医師いしつらねてあり、その…、そのすべてのよこには御丁寧ごていねいにも一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかりまでがつらねてあったのだ。

 すなわち、家基いえもとの「当初とうしょ治療ちりょうチーム」たる、つまりは小笠原おがさわら信喜のぶよし編成へんせいした家基いえもとの「治療ちりょうチーム」にくわえられた表番おもてばん医師いし全員ぜんいん一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかりわせていたのであった。

 その紙にはおそらくは深谷ふかや盛朝もりとも直筆じきひつであろう、10人の医師いしともに、一橋ひとつばし治済はるさだとの所縁ゆかりしたためられてあった。

中川なかがわ専庵せんあん義方よしかた

遊佐ゆさ卜庵ぼくあん信庭のぶにわ

峯岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおき

関本せきもと春臺しゅんだい壽熈よしてる

中川なかがわ隆玄りゅうげん瑞照のぶてる

千田せんだ玄知げんち温恭あつたか

片山かたやま宗哲そうてつ玄年はるとし

岡井おかい運南うんなん道晟みちあきら

山脇やまわき道作どうさく玄陶はるすえ

畠山はたけやま隆川りゅうせん常赴つねおき

 彼ら10人が小笠原おがさわら信喜のぶよしえらんだ、もっと言えば治済はるさだめいじられてえらんだ家基いえもとの「当初とうしょ治療ちりょうチーム」であった。

 いや、「治療ちりょうチーム」などと、そのように表現ひょうげんするのもおこがましいというものであろう。実際じっさいには家基いえもと見殺みごろしにするのが目当めあてであったに相違そういないからだ。

「されば中川なかがわ専庵せんあん一橋ひとつばし家にて徒頭かちがしらとしてつかえし久野くの三郎兵衛さぶろべえ芳矩よしのり実弟じっていにて…」

 家治は意次おきつぐかせるようにそう説明せつめいを始めた。どうやら意知おきともわたしたそのかみ内容ないようすべ暗記あんきしているようであった。

 成程なるほど、家治は何度なんどもそのかみにとってはそれこそ、

あながあくほどに…」

 凝視ぎょうししたのであろう、かみしわから意知おきともにはそのことがれた。

 さて、家治の説明せつめいによれば…、

 遊佐ゆさ卜庵ぼくあん実弟じっていである荒次郎こうじろう信鷹のぶたか共々ともども一橋ひとつばし家にて侍女じじょつとめる岡村おかむらやしなわれ、荒次郎こうじろう信鷹のぶたか岡村おかむらやしなわれつつ一橋ひとつばし家にてつかえ、そして元服げんぷく後は山名やまななるいえおこして御家人ごけにんとして一家いっかしたそうな。

 つまり遊佐ゆさ卜庵ぼくあん実弟じってい山名やまな荒次郎こうじろう一橋ひとつばし家の家臣かしんというわけで、しかも山名やまな荒次郎こうじろう長男ちょうなんすなわ遊佐ゆさ卜庵ぼくあんにとってはおいたる本次郎もとじろう氏房うじふさは江戸城西之丸にしのまるにて小納戸こなんどとして次期じき将軍たる家斉いえなりつかえていた。

 山名やまな本次郎もとじろうは父・荒次郎こうじろう共々ともども一橋ひとつばし家にてつかえていたのだが、一橋ひとつばし家のあるじたる治済はるさだ嫡男ちゃくなん豊千代とよちよこと家斉いえなり家基いえもとわる次期じき将軍として江戸城西之丸にしのまるりをたすにさいして、山名やまな本次郎もとじろうもそれにしたがい、江戸城西之丸にしのまるりをたし、その上で家斉いえなりつかえる小納戸こなんどてられたのであった。

 小納戸こなんど従六位じゅろくい布衣ほい役であり、しかも旗本はたもと役である。それゆえ山名やまな荒次郎こうじろうせがれ本次郎もとじろうがその小納戸こなんどてられた時点じてん山名やまな家は御家人ごけにんから旗本はたもとへと昇格しょうかくたしたのであった。所謂いわゆる

はんすすめた…」

 というわけである。

 ちなみに山名やまな荒次郎こうじろうは今は次男じなんである弓五郎ゆみごろう氏強うじつよとも一橋ひとつばし家にてつかえているそうな。

 峯岸みねぎし春庵しゅんあんはその実弟じっていである隆玄りゅうげん瑞照のぶてる中川なかがわ専庵せんあん養嗣子ようししであったのだ。

 つまり、中川なかがわ専庵せんあん隆玄りゅうげん瑞照のぶてる義理ぎり親子おやこであり、家基いえもと存命ぞんめいおりには親子おやこして番医ばんいつとめ、そして番医ばんいとして家基いえもと看取みとったというわけだ。

 いや、見殺みごろしにしたと言うべきであろう。中川なかがわ専庵せんあん一橋ひとつばし家と所縁ゆかりがあることは前述ぜんじゅつしたとおりだが、その養嗣子ようししとしてむかえられた隆玄りゅうげん瑞照のぶてる自身じしんもまた一橋ひとつばし家と所縁ゆかりがあったのだ。

 すなわち、中川なかがわ隆玄りゅうげん妻女さいじょは何と、久野くの伊兵衛いへえ宗房むねふさ長女ちょうじょなのであった。

 久野くの伊兵衛いへえ中川なかがわ専庵せんあんおい専庵せんあん実兄じっけいにして一橋ひとつばし治済はるさだつかえる久野くの三郎兵衛さぶろべえにとってもおいたり、その久野くの伊兵衛いへえ長女ちょうじょ中川なかがわ隆玄りゅうげんめとっていたのだ。これは峯岸みねぎし春庵しゅんあん実弟じっていである隆玄りゅうげん中川なかがわ専庵せんあん養嗣子ようししとしてむかれられるにさいして、隆玄りゅうげん養父ようふとなった専庵せんあん隆玄りゅうげんめあわせたことによる。

 ともあれかる事情じじょうから峯岸みねぎし春庵しゅんあん実弟じっていである中川なかがわ隆玄りゅうげん番医ばんいとして養父ようふである中川なかがわ専庵せんあん共々ともども家基いえもと見殺みごろしにしたということらしい。

 いや、のみならず峯岸みねぎし春庵しゅんあん中川なかがわ隆玄りゅうげん共々ともども、とも言えよう。

 関本せきもと春臺しゅんだいの場合、その実妹じつまい一橋ひとつばし家にて小姓こしょうとしてつかえる松本まつもと主税ちから峯盈みねみつつまであった。

 関本せきもと春臺しゅんだいの妹は寄合よりあい医師いしである岡井おかい運南うんなん道晟みちあきら養女ようじょとしてそだてられた後、一橋ひとつばし家にて小姓こしょうとして治済はるさだつかえる松本まつもと主税ちからもとへとし、その後、松本まつもと主税ちからとのあいだ一子いっし熊蔵くまぞう峯高みねたかをもうけたそうな。

 関本せきもと春臺しゅんだいにとってはおいたるこの松本まつもと熊蔵くまぞう峯高みねたかもまた、父・主税ちからとも一橋ひとつばし家にてつかえ、それも治済はるさだ嫡男ちゃくなん豊千代とよちよつかえ、豊千代とよちよ家基いえもとわる次期じき将軍として江戸城西之丸にしのまるりをたすや、松本まつもと熊蔵くまぞうもまたこれにしたが西之丸にしのまるりをたし、そして豊千代とよちよあらた家斉いえなりつかえる小納戸こなんどてられ、つまりその時点じてん松本まつもと家の家格かかく御家人ごけにんから旗本はたもとへと、

はんすすめた…」

 というわけであった。

「それでは山名やまな本次郎もとじろう場合ばあいおなじではありませぬかっ!」

 意知おきともおもわずおおきなこえげていた。それだけ衝撃しょうげきけたのであった。

「いや…、そればかりか岡井おかい運南うんなんなる者もまた、おそおおくも大納言だいなごん様を見殺みごろしにせし一人ひとりではありませぬか…」

 意知おきとも如何いかにも口惜くちおしげにそうつづけると、家治より手渡てわたされたかみとした。

左様さよう…、しかも岡井おかい運南うんなんめは番医ばんいあらずして、寄合よりあい医師いしなのだ…」

 てっきりかみしたためられていた10人の医師いし…、家基いえもと見殺みごろしにした10人の医師いし全員ぜんいん表番おもてばん医師いしだとおもっていた意知おきともはまたもや衝撃しょうげきおぼえ、それは父・意次おきつぐにしても同様どうようであり、

表番おもてばん医師いし…、でござりまするか?」

 意次おきつぐをしておもわずそうかえさせたほどであった。

 寄合よりあい医師いしとは持高もちだかづとめであり、平日へいじつ登城とじょうせずに不時ふじようそなえた。

 それゆえ次期じき将軍たる家基いえもと重態じゅうたい所謂いわゆる

「ご不例ふれい…」

 ともなれば、それはまさしく「不時ふじよう」にほかならず、それゆえ一見いっけん寄合よりあい医師いしである岡井おかい運南うんなん家基いえもと療治りょうじのために登城とじょうし、そしてその療治りょうじたったとしてもなん不思議ふしぎではないようにおもわれるが、しかし、そもそも家基いえもとつかえる、つまりは本来ほんらい家基いえもと療治りょうじたるべき西之丸にしのまるおく医師いし排除はいじょされたなか西之丸にしのまるすなわ家基いえもと療治りょうじ兼務けんむする表番おもてばん医師いしくわえて寄合よりあい医師いしまでが家基いえもと療治りょうじに「参戦さんせん」したとあらばこれはやはり異様いようと言えよう。

「それもやはり小笠原おがさわら若狭わかさめが仕業しわざにて?」

 意知おきともがそうかんはたらかせるや、家治はうなずき、そのうえ岡井おかい運南うんなん以外いがいにも寄合よりあい医師いしふくまれていることをげた。すなわち、

山脇やまわき道作どうさく玄陶はるすえ

畠山はたけやま隆川りゅうせん常赴つねおき
 
 この二人であった。

「その二人もまた、一橋ひとつばしきょう殿と所縁ゆかりが?」

 意知おきともねんのためにそうたずねた。すると家治からは「もうすまでもなきこと…」とにべもない返答へんとうがあり、

「されば山脇やまわき道作どうさくが弟・宗助そうすけ忠告ただつぐ一橋ひとつばし家にてこおり奉行ぶぎょうつとめし木村きむら源助げんすけ敬忠ゆきただ養嗣子ようししにて、一方いっぽう畠山はたけやま隆川りゅうせんはやはり弟・郷八ごうはち常則つねのり一橋ひとつばし家にて近習きんじゅうとして民部みんぶめにつかえておるわ」

 家治はてるようにそうこたえると、

「しかも畠山はたけやま隆川りゅうせん鍼灸しんきゅうなのだぞ…、されば重態じゅうたい家基いえもと療治りょうじたりし医師いしとして適任てきにんだとおもうか?」

 そうくわえたのであった。

到底とうてい適任てきにんとはもうせませぬな…、それどころかなんやくにもたず…、いえ、おそおおくも大納言だいなごん様を見殺みごろたてまつるというてんにおきましてはやくちましょうが…」

 意知おきとも皮肉ひにくまじりにそうこたえると家治はうなずいた。

 それから家治は最後さいご一人ひとり片山かたやま宗哲そうてつ玄年はるとしについて説明せつめいした。

 すなわち、片山かたやま宗哲そうてつ嫡男ちゃくなん亀太郎かめたろう玄篤はるあつ妻女さいじょ遊佐ゆさ卜庵ぼくあん養女ようじょであったのだ。

養女ようじょ…」

 意知おきともがそうつぶやくと、家治は「左様さよう…」とこたえたうえで、

「されば山名やまな荒次郎こうじろう信鷹のぶたか次女じじょにて…、本次郎もとじろう実妹じつまいにて…」

 そう補足ほそくした。

「されば山名やまな荒次郎こうじろう実兄じっけい遊佐ゆさ卜庵ぼくあんからすればめいたりしその者を養女ようじょとしてそだて、片山かたやま宗哲そうてつそく亀太郎かめたろうもとへ?」

 意知おきともたしかめるようにそうたずね、家治をうなずかせた。
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