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森養春院當定を始めとする内科系の奥医師たちは御側御用取次の小笠原信喜の差し金により家基の治療チームから排除された疑いがあった。
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森養春院當定は2年前の天明元(1781)年、11月16日に卒した。家基に代わる次期将軍として一橋治済が息・豊千代こと家斉が西之丸に迎えられてから凡そ半年後のことであった。即ち、當定が家基に代わって家斉に仕え始めてから半年後のことである。
それまで意次にしろ意知にしろ、當定の死もまた病死だと思い込んでいた。
だが家治の話を聞いた今、意次も意知も當定の死が単なる病死ではないように思えてならなかった。
いや、はっきり言えば當定もまた、吉田桃源院善正・元策善之親子同様、治済の手にかかったとしか思えなかった。
「森養春院は確か、還暦を過ぎておりましたな…」
意次は當定の行年を思い出そうとした。
すると家治が「65ぞ」と即答した。
65…、この頃の平均壽命と言えなくもなかったが、しかし、天壽を全うしたとは言えないだろう。
「やはり…、森養春院もまた、遅効性の毒物の発見に努めましたることが一橋卿殿に悟られたとか?」
森當定もまた、縁者の中に一橋治済に所縁の者があり、その者から治済へと當定のことが…、當定が遅効性の毒物の発見に努めていることが伝わり、そして治済の手にかかったのか…、意知はそう尋ねたのであった。
それに対して家治も意知のその問いの意味するところを察するや、しかし頭を振って、「考えられぬ」とこれまた即答した。
「真でござりまするか?」
意知は家治の言葉が嘘だとは思えなかったものの、しかし俄かには信じ難く、それゆえ思わず聞き返した。
「真ぞ。されば石寺伊織は己が岳父の當定には吉田桃源院の二の舞を踏ませてはならぬと、當定に遅効性の毒物の発見を依頼するに際して、一橋家との所縁を尋ねたそうな…」
「斯かることを…、一橋家との所縁を尋ねましたからには勿論、遅効性の毒物の発見につきましてもその真意にきて…、つまりは一橋卿殿が遅効性の毒物をもってして、畏れ多くも大納言様を害し奉りし疑のあることを伝えましたので?石寺伊織は森養春院にそのことを…」
意知は恐る恐るそう尋ねた。
すると家治は不快気な表情を浮かべたかと思うと、
「疑ではのうて事実ぞ」
即座に意知の「言い間違い」を訂正したものである。
家治はそれから、「無論その通りぞ」と意知の問いかけを首肯した。
「それに対して森養春院はそれを否定されましたので?」
意知は続けてそう尋ねた。
「左様。それで伊織も岳父の當定に依頼することに致したそうな…」
「森養春院は如何に?左様なる大事、如何に婿からの依頼とは申せ、尻込み致したのではござりますまいか?」
意次がずっと疑問に思っていたことを口にした。
「無論、尻込みは致したであろうぞ…、いや、余は當定ではないゆえに、當定のその時の真情までは…、その正確なるところまでは分からぬが、なれどそれが自然と申すものであろうぞ…」
家治の言葉に意次も意知も同時に、「御意…」と口を揃えた。
「なれどそうだとしてもだ、當定は…、いや、當定もと申すべきであろうな…、當定もまた、家基が死に疑念を抱いていたようなのだ…」
これには意次も意知も驚かされた。
「と仰せられますると、森養春院もまた、畏れ多くも大納言様が御薨去につきまして、それた単なる御病死ではないのではとの疑を抱いておりましたので?」
意知は確かめるように尋ねた。
「左様…、いや、流石に毒殺されたとまでは思わなんだようだが、なれど家基が最期を看取ることが出来ず…、それどころか療治に携わることすら許されず、それゆえに家基が死に、いや、発病そのものに疑念を抱いていたそうな…」
家治の言葉で意次はそうであったと思い出した。
と言うのも意次は家基が生死の境を彷徨っていた頃、池原良誠を介して森當定より家基の療治に加われるよう将軍・家治に取り成して欲しいとの陳情を受け、|そのことを思い出したのであった。
そしてその陳情だが、當定一人だけの陳情に非ずして、西之丸の奥医師、それも本道、つまりは内科の奥医師の総意であったのだ。
それと言うのも西之丸の奥医師の中でも家基の療治に携わることが出来たのは外科の津軽意伯健壽と佐藤祐仙天信の二人だけで、後は本丸の表番医師が家基の療治に携わった。
いや、表番医師は西之丸の医師としての顔も持ち合わせているので、それゆえその表番医師が西之丸の主たる家基の療治に携わるのは自然なことと言えたが、しかし、西之丸には奥医師という当時は家基専属の医師もおり、それゆえまずはその西之丸の奥医師が家基の療治に携わるべきところ、なぜか當定を始めとする奥医師、それも内科の奥医師は家基の「治療チーム」からは除外、いや、排除され、代割って表番医師が、西之丸の奥医師とは言え、全くの畑違いとも言うべき外科の津軽意伯と佐藤祐仙と共に家基の療治に当たったのだ。
いや、津軽意伯にしても佐藤祐仙にしても畑違いであることは誰よりも承知していたので、それゆえ実際には家基の療治は専ら本丸より召出された表番医師が当たり、津軽意伯と佐藤祐仙の二人はただ、
「指を咥えて…」
表番医師の療治を眺めるしか術がなかったというのが実際であった。
そこで西之丸の、それも内科の医師たちはこの事態を打開すべく、今をときめく田沼意次を頼ることにし、そこで意次の信任厚い池原良誠と縁戚関係にある森當定が池原良誠を介して意次に対して内科の奥医師も家基の療治に加われるようにして欲しいと、陳情することに決し、そこで當定は良誠を介してその旨、意次に陳情した次第であった。
そして意次も良誠を介してその陳情を受けるや、直ちに迅速に動いたものである。
即ち、意次は将軍・家治に対して良誠より受けた當定ら内科の総意…、西之丸にて家基に内科医として専属にて仕える奥医師たちがなぜか家基の「治療チーム」から外されているので、何とか「治療チーム」に加えて欲しいとの、その陳情をそのまま伝え、意次はその上で己も同意見であることを付け加えたのであった。
家治も意次の意見を至当であると認め、直ちにその当時、西之丸の老中であった阿部豊後守正允に対して家基に内科医として仕える森當定ら奥医師も家基の「治療チーム」に加えるよう命じたのであった。
実を言えば阿部正允も内心では森當定ら奥医師が家基の「治療チーム」に加われないことに首を傾げていたのだ。
いや、阿部正允ばかりではない。若年寄であった鳥居丹波守忠意と酒井飛騨守忠香にしても同様であった。
だが、何しろ家基の「治療チーム」の編成の権限は御側御用取次の専権事項であり、そうであれば如何に老中と雖もこれを掣肘することは難しかった。いや、はっきり言えば不可能であった。
しかし阿部正允は将軍・家治よりの直々の命という正しく、
「錦の御旗…」
それを手に入れたので、正允はその「錦の御旗」を御側御用取次に掲げて漸くに森當定ら奥医師が家基の「治療チーム」に加わることが出来たのであったが、しかしそれは2月の24日、家基の命日であり、家基が死ぬ数時間前、いや、数十分前のことであった。
あとで阿部正允は御側衆の一人であった大久保志摩守忠翰より家基の「治療チーム」に森當定ら内科系の奥医師を加えなかったのは御側御用取次の一人、小笠原若狭守信喜であったと耳打ちされ、これには正允も驚き、そこで若年寄であった鳥居忠意と酒井忠香とも協議の上、小笠原信喜を糺すことにしたのであった。
だがそれに対して小笠原信喜はと言うと、正反対の答えを寄越したのであった。
即ち、水上興正こそが森當定ら内科系の奥医師を「排除」したのだと、信喜は正允とそれに忠意・忠香の糾問に対して堂々とそうのたもうたものであった。
そこで正允は信喜に対して大久保忠翰の「証言」をぶつけてみたところ、しかし信喜は些かも動ぜず、それどころか冷笑を浮かべる始末であった。
「されば大久保志摩めが偽りにて…、尤も貴公ら…、とりわけ鳥居殿は身共より大久保志摩めが証言を信じたいところでござろうが…」
それこそが信喜が冷笑を浮かべた理由であった。
どういことかと言うと、大久保忠翰は実は鳥居丹波守忠瞭の次男であり、嫡男は外ならぬ忠意その人であり、つまり鳥居忠意と大久保忠翰は実の兄弟であったのだ。
そして忠翰は鳥居忠瞭の次男というわけで、当然、鳥居家を継ぐことは適わず、そこで五千石もの大身旗本であった大久保伊勢守徃忠の養嗣子として迎えられたのであった。
ともあれ信喜は大久保忠翰の「証言」は鳥居忠意との関係からも信用できないとそう示唆したのであった。
信喜のその示唆に対して誰よりも忠意が憤慨したものだが、しかし、
「鍵を握っている…」
その表現が正に当て嵌まる水上興正がその時には最早亡く…、それも家基が卒した2月24日に興正もまるで家基の後を追うかのように亡くなっていたので、それゆえ忠意が信喜に対して反駁してみせたところで、
「水掛け論…」
そうなってしまう。そのこともまた、忠意はやはり充分に認識しており、そこで忠意は信喜のその「侮辱」に対して唯、憤慨するに止めたのであった。
一方、阿部正允もまた、このままでは「水掛け論」になるだろうと、やはりそう見越すと、もう一人の御側御用取次であった佐野右兵衛尉茂承の「証言」を求めることにし、そこで佐野茂承を召出して糺してみたところ、茂承の「証言」たるや、小笠原信喜の「主張」を裏付けるものであった。
即ち、佐野茂承もまた、森當定ら内科系の奥医師が家基の「治療チーム」に入れなかったのは水上興正の差し金によるものであるとそう「証言」したのであった。
だが信喜と茂承との関係性、それも茂承が信喜を頼りにしていることは正に、
「周知の事実…」
というわけで、信喜と茂承とのその「関係性」から考えて、茂承のその「証言」もまた、到底、信用出来るものではなく、そこで忠意は、
「意趣返し…」
とばかり、そのことを指摘するや、外の御側衆…、ヒラの御側衆からも「証言」を求めることにしたものの、しかし阿部正允がそれを制したのであった。そんなことを認めたところで水掛け論が続くのは避けられないからだ。
仮に大久保忠翰を除いた平御側の面々が忠翰に同調してやはり、家基の「治療チーム」から森當定らを排除したのは小笠原信喜だと証言してみせたところで、それで信喜が自らの非を、即ち我こそが當定ら内科系の奥医師を家基の「治療チーム」から排除したと素直に認めるとは到底、思えなかったからだ。
無論、忠翰を除く平御側が御側御用取次たる信喜に遠慮して、或いは取り入り、信喜に追随する格好で、水上興正こそが當定らを家基の「治療チーム」から排除したとそう証言する可能性もなくはなかったが、しかし、その場合、今度は鳥居忠意が、
「いや、小笠原若狭めこそ森養春院らを排除したのであろう…」
そう譲らずに相違なく、やはり水掛け論が続くというものである。
正允は忠意にその旨、示唆すると、忠意もそこは老練な政治家である。直ぐに引いてみせた。
正允はしかし、それでも忠意の面子を尊重して、信喜が當定ら内科系の奥医師を家基の「治療チーム」から排除した疑いがある旨、将軍・家治に報告すると宣したのであった。
いや、正允とて実を言えば忠意と同様、信喜こそが當定らを家基の「治療チーム》」から排除した張本人であり、且つ、佐野茂承はそれに引きずられているのだろうと確信していたのだ。
だが生憎とその確信を裏付けるだけの確たる証がなかったために、そこで正允としては「疑惑あり」としてその旨、将軍・家治に報告するに留めたのであった。
そうして正允より報告を受けた家治はと言うと、無論、直ちに信喜を詰問したい衝動に駆られはしたものの、しかし、確たる証がないとなれば、例え将軍たる家治が詰問したところで、いや、相手が将軍たる家治なれば尚更に、シラを切るに違いなく、そこで家治はこの件を今の今までその脳裏に深く刻みつけておいたのだ。
それが今になってこのような形でその記憶が甦ることになろうとは。
それまで意次にしろ意知にしろ、當定の死もまた病死だと思い込んでいた。
だが家治の話を聞いた今、意次も意知も當定の死が単なる病死ではないように思えてならなかった。
いや、はっきり言えば當定もまた、吉田桃源院善正・元策善之親子同様、治済の手にかかったとしか思えなかった。
「森養春院は確か、還暦を過ぎておりましたな…」
意次は當定の行年を思い出そうとした。
すると家治が「65ぞ」と即答した。
65…、この頃の平均壽命と言えなくもなかったが、しかし、天壽を全うしたとは言えないだろう。
「やはり…、森養春院もまた、遅効性の毒物の発見に努めましたることが一橋卿殿に悟られたとか?」
森當定もまた、縁者の中に一橋治済に所縁の者があり、その者から治済へと當定のことが…、當定が遅効性の毒物の発見に努めていることが伝わり、そして治済の手にかかったのか…、意知はそう尋ねたのであった。
それに対して家治も意知のその問いの意味するところを察するや、しかし頭を振って、「考えられぬ」とこれまた即答した。
「真でござりまするか?」
意知は家治の言葉が嘘だとは思えなかったものの、しかし俄かには信じ難く、それゆえ思わず聞き返した。
「真ぞ。されば石寺伊織は己が岳父の當定には吉田桃源院の二の舞を踏ませてはならぬと、當定に遅効性の毒物の発見を依頼するに際して、一橋家との所縁を尋ねたそうな…」
「斯かることを…、一橋家との所縁を尋ねましたからには勿論、遅効性の毒物の発見につきましてもその真意にきて…、つまりは一橋卿殿が遅効性の毒物をもってして、畏れ多くも大納言様を害し奉りし疑のあることを伝えましたので?石寺伊織は森養春院にそのことを…」
意知は恐る恐るそう尋ねた。
すると家治は不快気な表情を浮かべたかと思うと、
「疑ではのうて事実ぞ」
即座に意知の「言い間違い」を訂正したものである。
家治はそれから、「無論その通りぞ」と意知の問いかけを首肯した。
「それに対して森養春院はそれを否定されましたので?」
意知は続けてそう尋ねた。
「左様。それで伊織も岳父の當定に依頼することに致したそうな…」
「森養春院は如何に?左様なる大事、如何に婿からの依頼とは申せ、尻込み致したのではござりますまいか?」
意次がずっと疑問に思っていたことを口にした。
「無論、尻込みは致したであろうぞ…、いや、余は當定ではないゆえに、當定のその時の真情までは…、その正確なるところまでは分からぬが、なれどそれが自然と申すものであろうぞ…」
家治の言葉に意次も意知も同時に、「御意…」と口を揃えた。
「なれどそうだとしてもだ、當定は…、いや、當定もと申すべきであろうな…、當定もまた、家基が死に疑念を抱いていたようなのだ…」
これには意次も意知も驚かされた。
「と仰せられますると、森養春院もまた、畏れ多くも大納言様が御薨去につきまして、それた単なる御病死ではないのではとの疑を抱いておりましたので?」
意知は確かめるように尋ねた。
「左様…、いや、流石に毒殺されたとまでは思わなんだようだが、なれど家基が最期を看取ることが出来ず…、それどころか療治に携わることすら許されず、それゆえに家基が死に、いや、発病そのものに疑念を抱いていたそうな…」
家治の言葉で意次はそうであったと思い出した。
と言うのも意次は家基が生死の境を彷徨っていた頃、池原良誠を介して森當定より家基の療治に加われるよう将軍・家治に取り成して欲しいとの陳情を受け、|そのことを思い出したのであった。
そしてその陳情だが、當定一人だけの陳情に非ずして、西之丸の奥医師、それも本道、つまりは内科の奥医師の総意であったのだ。
それと言うのも西之丸の奥医師の中でも家基の療治に携わることが出来たのは外科の津軽意伯健壽と佐藤祐仙天信の二人だけで、後は本丸の表番医師が家基の療治に携わった。
いや、表番医師は西之丸の医師としての顔も持ち合わせているので、それゆえその表番医師が西之丸の主たる家基の療治に携わるのは自然なことと言えたが、しかし、西之丸には奥医師という当時は家基専属の医師もおり、それゆえまずはその西之丸の奥医師が家基の療治に携わるべきところ、なぜか當定を始めとする奥医師、それも内科の奥医師は家基の「治療チーム」からは除外、いや、排除され、代割って表番医師が、西之丸の奥医師とは言え、全くの畑違いとも言うべき外科の津軽意伯と佐藤祐仙と共に家基の療治に当たったのだ。
いや、津軽意伯にしても佐藤祐仙にしても畑違いであることは誰よりも承知していたので、それゆえ実際には家基の療治は専ら本丸より召出された表番医師が当たり、津軽意伯と佐藤祐仙の二人はただ、
「指を咥えて…」
表番医師の療治を眺めるしか術がなかったというのが実際であった。
そこで西之丸の、それも内科の医師たちはこの事態を打開すべく、今をときめく田沼意次を頼ることにし、そこで意次の信任厚い池原良誠と縁戚関係にある森當定が池原良誠を介して意次に対して内科の奥医師も家基の療治に加われるようにして欲しいと、陳情することに決し、そこで當定は良誠を介してその旨、意次に陳情した次第であった。
そして意次も良誠を介してその陳情を受けるや、直ちに迅速に動いたものである。
即ち、意次は将軍・家治に対して良誠より受けた當定ら内科の総意…、西之丸にて家基に内科医として専属にて仕える奥医師たちがなぜか家基の「治療チーム」から外されているので、何とか「治療チーム」に加えて欲しいとの、その陳情をそのまま伝え、意次はその上で己も同意見であることを付け加えたのであった。
家治も意次の意見を至当であると認め、直ちにその当時、西之丸の老中であった阿部豊後守正允に対して家基に内科医として仕える森當定ら奥医師も家基の「治療チーム」に加えるよう命じたのであった。
実を言えば阿部正允も内心では森當定ら奥医師が家基の「治療チーム」に加われないことに首を傾げていたのだ。
いや、阿部正允ばかりではない。若年寄であった鳥居丹波守忠意と酒井飛騨守忠香にしても同様であった。
だが、何しろ家基の「治療チーム」の編成の権限は御側御用取次の専権事項であり、そうであれば如何に老中と雖もこれを掣肘することは難しかった。いや、はっきり言えば不可能であった。
しかし阿部正允は将軍・家治よりの直々の命という正しく、
「錦の御旗…」
それを手に入れたので、正允はその「錦の御旗」を御側御用取次に掲げて漸くに森當定ら奥医師が家基の「治療チーム」に加わることが出来たのであったが、しかしそれは2月の24日、家基の命日であり、家基が死ぬ数時間前、いや、数十分前のことであった。
あとで阿部正允は御側衆の一人であった大久保志摩守忠翰より家基の「治療チーム」に森當定ら内科系の奥医師を加えなかったのは御側御用取次の一人、小笠原若狭守信喜であったと耳打ちされ、これには正允も驚き、そこで若年寄であった鳥居忠意と酒井忠香とも協議の上、小笠原信喜を糺すことにしたのであった。
だがそれに対して小笠原信喜はと言うと、正反対の答えを寄越したのであった。
即ち、水上興正こそが森當定ら内科系の奥医師を「排除」したのだと、信喜は正允とそれに忠意・忠香の糾問に対して堂々とそうのたもうたものであった。
そこで正允は信喜に対して大久保忠翰の「証言」をぶつけてみたところ、しかし信喜は些かも動ぜず、それどころか冷笑を浮かべる始末であった。
「されば大久保志摩めが偽りにて…、尤も貴公ら…、とりわけ鳥居殿は身共より大久保志摩めが証言を信じたいところでござろうが…」
それこそが信喜が冷笑を浮かべた理由であった。
どういことかと言うと、大久保忠翰は実は鳥居丹波守忠瞭の次男であり、嫡男は外ならぬ忠意その人であり、つまり鳥居忠意と大久保忠翰は実の兄弟であったのだ。
そして忠翰は鳥居忠瞭の次男というわけで、当然、鳥居家を継ぐことは適わず、そこで五千石もの大身旗本であった大久保伊勢守徃忠の養嗣子として迎えられたのであった。
ともあれ信喜は大久保忠翰の「証言」は鳥居忠意との関係からも信用できないとそう示唆したのであった。
信喜のその示唆に対して誰よりも忠意が憤慨したものだが、しかし、
「鍵を握っている…」
その表現が正に当て嵌まる水上興正がその時には最早亡く…、それも家基が卒した2月24日に興正もまるで家基の後を追うかのように亡くなっていたので、それゆえ忠意が信喜に対して反駁してみせたところで、
「水掛け論…」
そうなってしまう。そのこともまた、忠意はやはり充分に認識しており、そこで忠意は信喜のその「侮辱」に対して唯、憤慨するに止めたのであった。
一方、阿部正允もまた、このままでは「水掛け論」になるだろうと、やはりそう見越すと、もう一人の御側御用取次であった佐野右兵衛尉茂承の「証言」を求めることにし、そこで佐野茂承を召出して糺してみたところ、茂承の「証言」たるや、小笠原信喜の「主張」を裏付けるものであった。
即ち、佐野茂承もまた、森當定ら内科系の奥医師が家基の「治療チーム」に入れなかったのは水上興正の差し金によるものであるとそう「証言」したのであった。
だが信喜と茂承との関係性、それも茂承が信喜を頼りにしていることは正に、
「周知の事実…」
というわけで、信喜と茂承とのその「関係性」から考えて、茂承のその「証言」もまた、到底、信用出来るものではなく、そこで忠意は、
「意趣返し…」
とばかり、そのことを指摘するや、外の御側衆…、ヒラの御側衆からも「証言」を求めることにしたものの、しかし阿部正允がそれを制したのであった。そんなことを認めたところで水掛け論が続くのは避けられないからだ。
仮に大久保忠翰を除いた平御側の面々が忠翰に同調してやはり、家基の「治療チーム」から森當定らを排除したのは小笠原信喜だと証言してみせたところで、それで信喜が自らの非を、即ち我こそが當定ら内科系の奥医師を家基の「治療チーム」から排除したと素直に認めるとは到底、思えなかったからだ。
無論、忠翰を除く平御側が御側御用取次たる信喜に遠慮して、或いは取り入り、信喜に追随する格好で、水上興正こそが當定らを家基の「治療チーム」から排除したとそう証言する可能性もなくはなかったが、しかし、その場合、今度は鳥居忠意が、
「いや、小笠原若狭めこそ森養春院らを排除したのであろう…」
そう譲らずに相違なく、やはり水掛け論が続くというものである。
正允は忠意にその旨、示唆すると、忠意もそこは老練な政治家である。直ぐに引いてみせた。
正允はしかし、それでも忠意の面子を尊重して、信喜が當定ら内科系の奥医師を家基の「治療チーム」から排除した疑いがある旨、将軍・家治に報告すると宣したのであった。
いや、正允とて実を言えば忠意と同様、信喜こそが當定らを家基の「治療チーム》」から排除した張本人であり、且つ、佐野茂承はそれに引きずられているのだろうと確信していたのだ。
だが生憎とその確信を裏付けるだけの確たる証がなかったために、そこで正允としては「疑惑あり」としてその旨、将軍・家治に報告するに留めたのであった。
そうして正允より報告を受けた家治はと言うと、無論、直ちに信喜を詰問したい衝動に駆られはしたものの、しかし、確たる証がないとなれば、例え将軍たる家治が詰問したところで、いや、相手が将軍たる家治なれば尚更に、シラを切るに違いなく、そこで家治はこの件を今の今までその脳裏に深く刻みつけておいたのだ。
それが今になってこのような形でその記憶が甦ることになろうとは。
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