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かつて倫子や萬壽姫の療治に当たった医師たちは家基の療治に携わった医師で占められており、それを推挙したのは稲葉正明であった

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「しかもその…、家基いえもと療治りょうじせし、いや、見殺みごろしにせし中川なかがわ専庵せんあん義方よしかた遊佐ゆさ卜庵ぼくあん信庭のぶにわ関本せきもと春臺しゅんだい壽熈よしてる、それに千田せんだ玄知げんち温恭あつたか岡井おかい運南うんなん道晟みちあきら、そして山脇やまわき道作どうさく玄陶はるすえ畠山はたけやま隆川りゅうせん常赴つねおきの七名は倫子ともこ萬壽ます療治りょうじにもたずさわっていたのだ…」

 家治は如何いかにも口惜くちおしげにそうげ、意知おきとも驚愕きょうがくさせた。

 倫子ともことは将軍・家治の正室せいしつであり、萬壽ますはその倫子ともこが家治との間になした姫君ひめぎみであった。

 だが倫子ともこ萬壽ますも今はもうい。

 倫子ともこは12年前の明和8(1771)年8月20日に、そして萬壽ますも母・倫子ともこあとうようにそれから2年後の、つまりはちょうど10年前の安永2(1773)年2月20日にそれぞれしゅっした。

 だが二人の死もまた、家基いえもと同様どうよう病死びょうしではなく他殺たさつ、それも毒殺どくさつ可能性かのうせいがあることを家治より示唆しさされたために、意知おきとも驚愕きょうがくしたのであった。

「やはりそれも深谷ふかや盛朝もりとも探索たんさくにて?」

 意次おきつぐが家治にたしかめるようにたずねた。

左様さよう…、されば盛朝もりともがその10人の医師いし経歴けいれきとも過去かこをも調しらべし過程かてい判明はんめいせし事実じじつにて…」

「ちなみにほかの…、峯岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおきと、それに中川なかがわ隆玄りゅうげん瑞照のぶてる片山かたやま宗哲そうてつ玄年はるとしの3人はおそおおくも御台みだい様と姫君ひめぎみ様の療治りょうじには…、いえ、見殺みごろしにはくわわりませなんだので?」

 意知おきともくちはさんだ。

「されば峯岸みねぎし春庵しゅんあん萬壽ます療治りょうじ、いや、見殺みごろしにのみくわわり…、春庵しゅんあんめが番医ばんいてられしは…、いや、最終的さいしゅうてきには決裁けっさいしたわけだが…、安永元(1772)年にて…」

 そうであれば倫子ともこしゅっした、いや、毒殺どくさつされた明和8(1771)年の時点じてんでは峯岸みねぎし春庵しゅんあんいま表番おもてばん医師いしではなかったわけで、そうであればその峯岸みねぎし春庵しゅんあんには倫子ともこ療治りょうじしょうして見殺みごろしにすることは不可能ふかのうというわけであった。

 だが峯岸みねぎし春庵しゅんあんが今の表番おもてばん医師いしてられてから1年後の安永2(1773)年にやはり毒殺どくさつされた萬壽ますひめに対しては療治りょうじしょうして見殺みごろしにくわわったということらしい。

のこ中川なかがわ隆玄りゅうげんめと片山かたやま宗哲そうてつめは…」

 意知おきともは家治にかさねてたずねた。

「されば中川なかがわ隆玄りゅうげんめは安永7(1778)年のとし番医ばんいてたために…」

 それよりも前に毒殺どくさつされた倫子ともこ萬壽ますひめをその中川なかがわ隆玄りゅうげん見殺みごろしにすることは不可能ふかのうということであった。

「また、片山かたやま宗哲そうてつめは倫子ともこ身罷みまかりし前、明和6(1769)年に番医ばんいてしも、なれど、宗哲そうてつめがそく亀太郎かめたろう遊佐ゆさ卜庵ぼくあんめが養女ようじょめとりしはやはり安永7(1778)年のことにて…」

 片山かたやま宗哲そうてつにしても、倫子ともこ萬壽ますひめ毒殺どくさつ、それも一橋ひとつばし治済はるさだの手により毒殺どくさつされた頃にはまだ、一橋ひとつばし治済はるさだとは所縁ゆかりがなかったために、見殺みごろしにはくわわらなかったということらしい。

おそれながら…」

 意知おきともはそう切り出すと、かねてより疑問ぎもんおもっていたことを家治にぶつけた。

上様うえさまは何ゆえに斯様かような…、一橋ひとつばしきょう殿どの所縁ゆかりのありし医師いしおそおおくも大納言だいなごん様やそれに御台みだい様、姫君ひめぎみさま療治りょうじたらせましたので?いや、おそおおくも大納言だいなごんさまにおかせられましては西之丸にしのまるにおわされいたかたなしとしても…」

 ここ本丸ほんまるまぎれもなく将軍・家治の「居城きょじょう」なのだから、そして正室せいしつ倫子ともことそのむすめ萬壽ますひめはその本丸ほんまる大奥おおおくにてらしていたわけだから、家治がそのつもりでおれば一橋ひとつばし家と所縁ゆかりのある医師いし近付ちかづけさせないことが出来できたのではないのか…。

 それこそが意知おきともがかねてよりいていた疑問ぎもんであり、しかしそれは多分たぶんに将軍・家治に対する非難ひなんともられかねず、そのことをぐに、敏感びんかん気付きづいた意次おきつぐそく意知おきともに対して、

くちつつしめっ!」

 そう叱責しっせきびせた。

 するとそれに対して家治は、「かまわぬ…」と意次おきつぐせいしてみせたかと思うと、

意知おきとも疑問ぎもんもっともである。何しろ倫子ともこ萬壽ます、そして家基いえもとをみすみす見殺みごろしにいたしたも同然どうぜんにて…」

 家治が自嘲じちょう気味ぎみにそうみとめたことから意知おきともおおいに恐縮きょうしゅくさせたものである。

滅相めっそうもござりませぬ…」

 意知おきとも平伏へいふくしながらそうおうじた。

「いや、意知おきとももうとおりぞ。がいますこし気をつけておれば倫子ともこ萬壽ますを死なせずにんだやもれぬ。それに家基いえもともな…」

 家治は心底しんそこ忸怩じくじたる面持おももちでそうつぶやいた。

 意次おきつぐはそのような家治の姿すがたたまれなくなり、

左様さよう御身おんみをおめあそばされませぬように…」

 家治をいたわってみせると同時どうじに、相変あいかわらず平伏へいふくしたままの意知おきともをねめつけたものだった。

 ともあれ家治は意次おきつぐ心遣こころづかいに感謝かんしゃすると同時に、その心遣こころづかいにむくいるかのようにまたぐにもと姿すがたもどすと意知おきともあたまげさせた。

「いや、わけになるが、かる一橋ひとつばし所縁ゆかりりし医師いしどもに倫子ともこ萬壽ます療治りょうじたらせたは若年寄わかどしより酒井さかい石見いわみつよ推挙すいきょにて…」

 家治がそうすと、意次おきつぐもその当時とうじ記憶きおくよみがえり、「ああ…」と声を上げた。

 家治がくちにしたとおり、倫子ともこ萬壽ますひめ療治りょうじたらせる医師いし人選じんせんについて、「リーダーシップ」を発揮はっきしたのは若年寄わかどしより酒井さかい石見いわみこと石見守いわみのかみ忠休ただよしであった。

「それなればこの意次おきつぐおぼえておりまする…、されば水野みずの壱岐いきくちはさませずに…」

 水野みずの壱岐いきとは、倫子ともこ薨去こうきょした明和8(1771)年から萬壽ますひめ薨去こうきょした安永2(1773)年にかけて若年寄わかどしよりを、それも筆頭ひっとうたる勝手かってがかりつとめていた壱岐守いきのかみ忠見ただちかのことである。

 ここ江戸城につとめる医師いし所謂いわゆる官医かんい若年寄わかどしより支配下しはいかにあり、それゆえ将軍や、あるいは御台所みだいどころ、そして次期じき将軍や姫君ひめぎみなどが病気びょうきの場合、どの医師いし療治りょうじたらせるか、それをめるのは若年寄わかどしよりであった。

 そしてその若年寄わかどしより筆頭ひっとうであったのが水野みずの壱岐守いきのかみ忠見ただちかであった。

 水野みずの忠見ただちか勝手かってがかり若年寄わかどしよりとして本来ほんらいならば、どの医師いし倫子ともこ萬壽ますひめ療治りょうじたらせるか、その人選じんせんおおいに「リーダーシップ」を発揮はっき出来でき立場たちばにいた。

 ところがそのとき…、倫子ともこ萬壽ますひめたおれたときかぎって言えばそれはまらなかった。

 すなわち、そのとき若年寄わかどしより次席じせき位置いちしていた酒井さかい忠休ただよし水野みずの忠見ただちか格好かっこう倫子ともこ萬壽ますひめ療治りょうじたらせるべき医師いしを決めたのであった。つまりは一橋ひとつばし家と所縁ゆかりのある医師いしえらんだというわけだ。

「そのことで水野みずの壱岐いきおおいに憤慨ふんがいしておりました…」

 意次おきつぐがそのときのことをおもしてそう口にすると家治もうなずいた。

 若年寄わかどしより筆頭ひっとうはあくまで水野みずの忠見ただちかである。そうであれば次席じせきぎなかった酒井さかい忠休ただよしがその水野みずの忠見ただちかくと言っても限界げんかいがあっただろう。

 だが酒井さかい忠休ただよしには強力きょうりょく味方みかたがいたのだ。だれあろう、御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらであった。

 御側御用取次おそばごようとりつぎ中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんとして、老中以上の力を発揮はっきし、何より大奥おおおく仕切しき年寄としよりつね内談ないだんおよぶために、それゆえその大奥おおおくにてらしていた倫子ともこ萬壽ますひめ療治りょうじたらせるべき医師いし人選じんせんについて、御側御用取次おそばごようとりつぎ意見いけんが大いにものを言う。

 酒井さかい忠休ただよしはその御側御用取次おそばごようとりつぎである稲葉いなば正明まさあきらわば、

「タッグをんで…」

 勝手かってがかり若年寄わかどしよりであった水野みずの忠見ただちか格好かっこう倫子ともこ萬壽ますひめ療治りょうじたらせるべき医師いしめたのであった。

 それに対して水野みずの忠見ただちかはと言うと、倫子ともこ療治りょうじたらせるべき医師いし人選じんせんについては、つまりは明和8(1771)年の8月のときには酒井さかい忠休ただよしかおててだまってがったそうだが、それから2年後の安永2(1773)年、2月にも今度こんど萬壽ますひめ療治りょうじたらせるべき医師いし人選じんせんについて、またしても酒井さかい忠休ただよし水野みずの忠見ただちか格好かっこうにて、倫子ともこ療治りょうじたった医師いしくわえて、そこにあらたに峯岸みねぎし春庵しゅんあんをもくわえようとしたので、水野みずの忠見ただちか若年寄わかどしより筆頭ひっとうたるおのれないがしろにする酒井さかい忠休ただよしのこの行動こうどうには流石さすが我慢がまんがならず、そこでかえしに出たのであった。

 すなわち、水野みずの忠見ただちか同族どうぞくにして、相役あいやく…、同僚どうりょうであった水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただともきついたのであった。

 水野みずの忠友ただとも若年寄わかどしよりの中でも一番いちばん新任しんにんであり、それゆえ若年寄わかどしより末席まっせき位置いちしていた。

 しかし忠友ただとも中奥なかおく兼帯けんたい若年寄わかどしよりとして、中奥なかおくにて将軍・家治に近侍きんじしていた。つまりは表向おもてむき役人やくにんではありながら、中奥なかおく出入でいりすることがゆるされていたのだ。

 そこで忠友ただともおのれ立場たちばおな意次おきつぐ相談そうだんちかけることにした。

 それと言うのもこのとき…、安永2(1773)年の時点じてん意次おきつぐもまた、中奥なかおく兼帯けんたいの老中であり、意次おきつぐ水野みずの忠友ただともとも中奥なかおく兼帯けんたいとして…、表向おもてむき役人やくにんでありながら、将軍・家治に近侍きんじする者同士どうししたしくっていたからだ。

 こうして水野みずの忠友ただとも意次おきつぐ同族どうぞく水野みずの忠見ただちかわせた上で、忠見ただちかより意次おきつぐへと相談そうだんを持ちかけさせたのであった。

 そのおり水野みずの忠見ただちか憤慨ふんがいしながら意次おきつぐ相談そうだんしたもので、それに対して意次おきつぐはと言うと、倫子ともこ療治りょうじたるべき医師いし人選じんせんについてそのようなうごめきがあったのかと、その事にはじめて気づかされ仰天ぎょうてんさせられたものだった。

 そして意次おきつぐとしてはこのままくことは出来できぬと、そこでまずはもう一人ひとり御側御用取次おそばごようとりつぎであった白須しらす甲斐守かいのかみ政賢まさかたを使うことを思いついた。

 意次おきつぐ白須しらす政賢まさかたに対して、水野みずの忠見ただちかより聞いた話をそのままつたえたのであった。

 すると白須しらす政賢まさかた意次おきつぐ期待きたいしたとおりの反応はんのうしめしてくれた。

 すなわち、白須しらす政賢まさかた稲葉いなば正明まさあきらに対して不快感ふかいかんいてくれたのであった。

 水野みずの忠見ただちか酒井さかい忠休ただよしかれたのと同様どうように、白須しらす政賢まさかたもまた、稲葉いなば正明まさあきらかれたようなもので、それを今の今まで気づかなかったことが余計よけい稲葉いなば正明まさあきらに対する不快感ふかいかん倍加ばいかさせたのであった。

 こうして意次おきつぐ白須しらす政賢まさかたむことに成功せいこうすると、二人で手分てわけして平御側ひらおそばをもむことにしたのだ。

 ちなみにその当時とうじ平御側ひらおそばの「メンバー」であるが、

小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし

巨勢こせ伊豆守いずのかみ至忠ゆきただ

水野みずの山城守やましろのかみ忠徹ただみち

津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆき

 以上の4名であり、このうち小笠原おがさわら信喜のぶよし稲葉いなば正明まさあきらまさに、

「ズブズブ…」

 その関係かんけいにあったのは周知しゅうち事実じじつ公知こうちといっても良く、そこで意次おきつぐ白須しらす政賢まさかた小笠原おがさわら信喜のぶよしのぞく3人の平御側ひらおそば照準しょうじゅんわせたのであった。

 そのわば、

工作こうさく…」

 その過程かてい意次おきつぐ小姓組こしょうぐみ番頭ばんがしらかく御側御用取次おそばごようとりつぎ見習みならいであった横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとしおなじく小姓組こしょうぐみ番頭ばんがしらかく御側おそばしゅう見習みならいであった松平まつだいら因幡守いなばのかみ康眞やすまさをもむことを思いつき、こうして意次おきつぐ白須しらす政賢まさかたともかれらをむと、勢揃せいぞろいして将軍・家治の御前ごぜんへとおもむいては、萬壽ますひめ療治りょうじたるべき医師いしについては奥医師おくいし一任いちにんすべきと陳情ちんじょうしたのであった。

 これにおどろいたのは言うまでもなく稲葉いなば正明まさあきらであった。稲葉いなば正明まさあきらとしては何としてでもかえしをはかりたいところであったが、しかし、小笠原おがさわら信喜のぶよしのぞ平御側ひらおそばみな意次おきつぐまれたとあっては、その上、御側御用取次おそばごようとりつぎ見習みならい横田よこた準松のりとし御側衆おそばしゅう見習みならい松平まつだいら康眞やすまさまでがまれたとあっては、

万事休ばんじきゅうす…」

 かに思えた。

 だがそれでも稲葉いなば正明まさあきら最後さいご手段しゅだんた。

 稲葉いなば正明まさあきらは何と、萬壽ますひめづき老女ろうじょかついだのであった。

 すなわち、当時とうじ萬壽ますひめ老女ろうじょとしてつかえていた梅岡うめおか味方みかたにつけて中央ちゅうおう突破とっぱはかろうとしたのであった。

 結局けっきょく、将軍たる家治は奥医師おくいしと、そして正明まさあきら推挙すいきょした医師いし双方そうほう萬壽ますひめ療治りょうじたらせることにしたのであった。わば、

なかった…」

 そのようなものであった。

「だがそれは間違まちがいであったやもれぬな…」

 家治は意次おきつぐ意知おきともに、とりわけ意知おきともに対して当時とうじ事情じじょう…、愛妻あいさい倫子ともこ愛娘まなむすめ萬壽ますひめ療治りょうじたるべき医師いし人選じんせんについての事情じじょうかたえるとしみじみとした口調くちょうでそうつぶやいた。

 それに対して意知おきともはそんな家治をはげますべく、

左様さようにおされませぬように…」

 そう口にしようとして、しかし、あわててくちつぐんだ。そのような月並つきなみなはげましをくちにしたところで何の意味いみもない、いや、それどころか家治の受けた心のきずしおむことにもなりかねないからだ。

 それと言うのも、気にするなということは、それはそのまま、

倫子ともこ萬壽ますひめいのちすくえなかった…」

 その冷厳れいげんとも言うべき事実じじつを家治にけることになり、つ家治にそうられるおそれがあったからだ。すくなくとも意知おきともが家治の立場たちばであったならばそうるであろう。それゆえ意知おきとも月並つきなみなはげましをくちにすることはひかえたのであった。海千山千うみせんやませんの父・意次おきつぐくらべると人の気持きもちというものにはうと意知おきとももその程度ていど想像力そうぞうりょくはあった。

 ともあれ意知おきともだまって家治にうにとどめた。
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