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忠休は奏者番の意知が明日、将軍・家治に御目見えを果たす土屋健次郎と土井鐵蔵の指導をする様子を目の当たりにして忌々しく思う。

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 その土屋つちや健次郎けんじろうがもう一人の、やはり健次郎けんじろう同年輩どうねんぱいの、十代の少年と共に意知おきともと何やら熱心ねっしんに話しんでいる…、忠休ただよしはそのさましばらくの間、目をらしてながめていると、ようやくにあることを思い出した。

「そうか…、明日の打ち合わせであったか…」

 明日の打ち合わせとは他でもない、将軍・家治への御目見おめみえの打ち合わせである。

 すなわち、明日の10月15日は定例ていれい月次つきなみ御礼おんれいであり、江戸城につとめる諸役人は元より、在府ざいふ中…、この江戸にいるすべての諸大名とそれに旗本らがそう登城とじょうして将軍・家治に拝謁はいえつし、

主従しゅじゅうきずな…」

 それを改めて再確認する日であったが、その日に合わせて土屋つちや健次郎けんじろうの将軍・家治への御目見おめみえが行われるのであった。

 いや、健次郎けんじろうだけではない。土井どい鐵蔵てつぞう利制としのりもそうであった。

 土井どい鐵蔵てつぞうはやはり雁之間がんのまづめである参州さんしゅう碧海へきかい苅屋かりや藩2万3千石をりょうする城主じょうしゅ大名の土井どい山城守やましろのかみ利徳としなり嫡子ちゃくしである。

 もっとも、鐵蔵てつぞうの場合は健次郎けんじろうとは違い、実父・利徳としなり健在けんざいであり、それゆえ「セオリー」通り、明日の将軍・家治への御目見おめみえをませて成人せいじん嫡子ちゃくしと認められ、そして今年の12月の18日あたりにでも、

従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶ…」

 それにじょされれば来年…、天明4(1784)年の正月より雁之間がんのま詰衆つめしゅう嫡子ちゃくしとして菊之間きくのま本間ほんまに出られるはずであった。

 ともあれ忠休ただよし土井どい鐵蔵てつぞうとは面識めんしきがなかったものの、それでも明日の月次つきなみ御礼おんれいに合わせて土屋つちや健次郎けんじろう土井どい鐵蔵てつぞうの二人が将軍・家治に御目見おめみえをたすことは承知しょうちしていたので、それゆえ意知おきとも熱心ねっしんに話しんでいるもう一人の十代の少年がその土井どい鐵蔵てつぞうであろうと、当たりをつけることが出来できたのであった。

 それと言うのも将軍への御目見おめみえともなると、奏者番そうじゃばん出番でばんであるからだ。何しろ奏者番そうじゃばんは大名の子息しそくが将軍に御目見おめみえする際、子息しそくにその際の殿中でんちゅうにおける儀礼ぎれいといった作法さほう伝授でんじゅするのもその職掌しょくしょうであったからだ。

 健次郎けんじろうにしろ鐵蔵てつぞうにしろいまだ十代…、正確には16に過ぎず、それゆえ遠目とおめからでも二人が緊張きんちょうしている様子ようすが見て取れた。

 二人は意知おきとも熱心ねっしんに話しんでいるように忠休ただよしには見受みうけられたが、そう考えるとおそらくは健次郎けんじろう鐵蔵てつぞうの二人は明日の将軍・家治の御目見おめみえの際における作法さほうについて熱心ねっしん色々いろいろたずね、それに対して意知おきとも奏者番そうじゃばんとして懇切こんせつ丁寧ていねい指導しどうしているのであろう。実際、健次郎けんじろう鐵蔵てつぞう意知おきとも返事へんじに何度もうなず様子ようすがやはり忠休ただよしの目に飛び込んできた。

 いや、忠休ただよしの目に飛び込んできたのはそれだけではなかった。

 忠休ただよしが立つ羽目之間はめのまからは芙蓉之間ふようのまとなりの部屋である雁之間がんのま見渡みわたせ、その雁之間がんのまには鐵蔵てつぞう実父じっぷたる土井どい利徳としなりめており、利徳としなりはそのとなりの部屋である芙蓉之間ふようのまにてそく鐵蔵てつぞう土屋つちや健次郎けんじろうと共に意知おきとも指導しどうを受けているさまを安心した表情でながめており、その様子ようすまでが忠休ただよしの目に飛び込んできたのであった。

 まったくもって忌々いまいましい…、忠休ただよしはそう思わずにはいられなかった。

「どいつもこいつも…、田沼たぬまぐるいの連中ばかりよ…」

 忠休ただよしは顔をしかめさせつつ、そう思った。そしてその「どいつもこいつも…」の中には不敬ふけいにも将軍・家治もふくまれていた。

 今の忠休ただよしには皆が皆、田沼親子、とりわけ意知おきともなしでは生きていけないのではあるまいかと、そのような妄想もうそう…、それは最早もはや被害ひがい妄想もうそう部類ぶるいであった、それにとらわれたほどであった。

 いや、田沼親子にすっかり取り込まれた将軍・家治やそれに幕閣ばっかく諸侯しょこう仕方しかたないにしても、せめて土屋つちや健次郎けんじろうだけは田沼親子に、とりわけ意知おきともに、

「取りまれないでいてくれ…」

 忠休ただよしはそう思わずにはいられなかった。だが現実は忠休ただよしのその願望がんぼうとは裏腹うらはらに、健次郎けんじろうはすっかり意知おきともに取り込まれている様子ようすであった。少なくとも忠休ただよしの目にはそううつった。

 いや、実際には忠休ただよし推察すいさつ通り、健次郎けんじろうはあくまで明日の月次つきなみ御礼おんれいに合わせての将軍・家治への御目見おめみえの際の作法さほうなどについて、同じく御目見おめみえをたすこととなる土井どい鐵蔵てつぞうと共に、

「最終チェック…」

 それをしていたに過ぎず、それが気に入らないと言うのならば忠休ただよし意知おきともわって健次郎けんじろう指導しどうしてやればむ話であったが、しかし生憎あいにくと、奏者番そうじゃばんの職をはなれてからはや30年以上がつ今の忠休ただよしにはそのようなことは、

「望むべくもない…」

 というものであり、それ以前に忠休ただよしはそのような発想はっそうすらなかった。あくまで悪いのは田沼親子、それも意知おきともであり、己は悪くない、というわけだ。

「いや…、松平まつだいら和泉いずみは何をしておるのだ…」

 忠休ただよし健次郎けんじろうを見ているうちに、松平まつだいら和泉いずみこと和泉守いずみのかみ乗完のりさだのことを思い出した。

 それと言うのも、健次郎けんじろう松平まつだいら乗完のりさだの長女と婚約こんやく中であった。

 つまり乗完のりさだ健次郎けんじろうの将来の岳父がくふと言うわけで、その乗完のりさだもまた、奏者番そうじゃばんとして芙蓉之間ふようのまめているはずであった。

 そうであれば本来ほんらい、将来の岳父がくふとも言うべき乗完のりさだこそが健次郎けんじろう指導しどうすべきところ、実際にはそのような様子ようす見受みうけられなかった。

和泉いずみは一体…」

 忠休ただよしが視線を彷徨さまよわせるや、何とお目当ての人物であるその乗完のりさだ意知おきとも真後まうしろにひかえては、意知おきとも健次郎けんじろう鐵蔵てつぞうの二人を指導しどうするさまをただながめているだけであった。

「何ゆえ、そなたが健次郎けんじろう指導しどうしてやらんのだっ!」

 忠休ただよしは心の中でそう絶叫ぜっきょうした。

 何しろ奏者番そうじゃばんとしての「キャリア」で言えば、いや、奏者番そうじゃばんとしての「キャリア」のみならずその家柄いえがらにしても松平まつだいら乗完のりさだの方が、

圧倒的あっとうてきに…」

 上であった。成程なるほど、その通りであれば忠休ただよし絶叫ぜっきょうしたくなるのも、

「無理もない…」

 というものであったが、しかし実際には家柄いえがらかくとして、奏者番そうじゃばんとしての「キャリア」で言うならば、乗完のりさだ意知おきともにそれほどの違いはない。

 ただ乗完のりさだの方が意知おきともよりも早くに奏者番そうじゃばんに取り立てられ、それも乗完のりさだが2年前の天明元(1781)年4月21日に奏者番そうじゃばんに取り立てられてから8ヵ月後の12月15日に意知おきとも奏者番そうじゃばんに取り立てられたので、つまり「キャリア」と言ってもその差はわずか8ヶ月にしか過ぎず、1年にも満たなかった。

 しかも何より、奏者番そうじゃばんとしての実力において意知おきともの方が乗完のりさだよりも、

圧倒的あっとうてきに…」

 上回っていたのだ。そうであれば意知おきとも指導しどう役をになうのが当然と言うものであり、そのことは井上いのうえ河内守かわちのかみ正定まささだでさえ認めるところであった。いや、正確には認めざるを得ないと言うべきであろう。

 それは他でもない、井上いのうえ正定まささだ奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行であるのだが、その寺社奉行の中でもとりわけ、

「田沼嫌い…」

 で有名であった。毛嫌けぎらいしていたと言っても過言かごんではなく、奏者番そうじゃばんに取り立てられたばかりの意知おきともに対してその家柄いえがらひくさをあげつらったほどである。
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