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羽目之間から意知が詰めている筈の芙蓉之間を覗き込んだ忠休のその目に、意知と土屋健次郎泰直が熱心に話し込む様子が飛び込んでくる。
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さて、こうして6人の新番頭と、それに12人の小普請組支配に5人の留守居番の合わせて23人もの士を適当にあしらった忠休はしかし、そのまま回れ右して執務室である次御用部屋へと戻ることはなく、右折して今度は羽目之間へと足を向けた。
羽目之間は殿中席ではなく、それゆえ今は無人であった。いや、これで例えば式日、それも明日15日…、10月15日に行われる月次御礼ともなると、ここ羽目之間は江戸町奉行や勘定奉行、それに、作事・普請・小普請の三奉行の所謂、「下三奉行」に加えて、遠国奉行や腰物奉行に勘定吟味役、そして奥右筆組頭や奥右筆、表右筆組頭や表右筆らが将軍に拝謁する場、つまりは礼席として使われることになる。
無論、彼らにもそれぞれ殿中席がある。例えば、江戸町奉行や勘定奉行、作事奉行や普請奉行は芙蓉之間、小普請奉行と勘定吟味役は今しがた、忠休が足を踏み入れた中之間といった具合にである。
だが殿中席は繰り返しになるが、あくまで将軍に拝謁するまでの間、待つための場所、謂わば待合所であり、それゆえ殿中席にて将軍に拝謁できるわけではない。
将軍への拝謁の定刻が近づいたならば、彼らは各々の殿中席から礼席へと、例えば江戸町奉行ならばその殿中席である|芙蓉之間から礼席であるここ羽目之間へと移動して、そこで将軍に拝謁するのであった。
その羽目之間からは意知がいる芙蓉之間が見渡せた。
見渡せたと言うのも、ここ羽目之間から芙蓉之間の間には庭があったからだ。
つまり羽目之間から庭を挟んだ向こう側に芙蓉之間があり、庭越しに芙蓉之間の様子が窺えた。
いや、正確には庭の先には竹之間なる部屋に面した入側…、廊下があり、芙蓉之間は更にその廊下の向こう側にあったのだが、やはりその竹之間は元より、竹之間に面した入側…、廊下にしても無人であったので、それゆえここ羽目之間からでも芙蓉之間の様子が良く窺えたのであった。
その芙蓉之間においてはやはりと言うべきか、意知の姿を捉えることができた。
しかも意知は誰かと、それも二人の男と熱心に話し込んでいる様子が窺えた。
忠休ははしたない真似であることは承知の上で、目を凝らして意知と話し込んでいる二人の男の正体を見定めようとした。
古希の忠休には何とも辛いものがあったが、それでも何とか二人の面体を確かめることができた。
「二人とも、奏者番ではない…」
忠休は二人の面体を確かめるなり、まずはそれに気づいた。
古希とは言え、奏者番の顔ぐらいは把握していた。無論、奏者番の筆頭たる寺社奉行の顔も、である。
だが今、意知と熱心に話し込んでいる二人の男はヒラの奏者番でもなければ、勿論、その筆頭たる寺社奉行でもなかった。
だとするならば二人の正体は畢竟、留守居か大目付、江戸町奉行か勘定奉行、作事奉行か普請奉行の何れかに絞られることとなる。何しろ芙蓉之間に詰めることが許されている者と言えば、奏者番を除いては彼らだけであるからだ。
だが二人がそのうちの何れでもないことは明らかであった。忠休は彼らの顔もまた把握しており、それゆえすぐにそうと気づいた。
いや、仮に例え顔を把握しておらずとも、二人の男の年恰好から判断しても、彼らでないことには直ぐに気づくというものであった。
それと言うのも、意知と熱心に話し込んでいる二人の男は明らかに十代であったからだ。そうであれば留守居や大目付である筈がなく、また、実務官僚とも言うべき奉行であるとも考えられなかった。
それでは一体、あの二人の正体は…、忠休は更にはしたなくも、目を凝らした。
するとそのうちの一人の顔に心当たりがあった。
「あれは…、土屋健次郎ではあるまいか…」
忠休が思い出した土屋健次郎とは上州新治郡土浦藩9万5千石をも領する雁之間詰の城主大名である土屋健次郎泰直であった。
いや、土屋健次郎は雁之間詰の大名ではあるものの、しかし未だ登城は許されぬ身であった。
それと言うのも、土屋健次郎は未だ、将軍・家治への御目見えを済ませておらず、それゆえに成人と看做されてはいなかったからだ。成人でない者は登城が許されてはいなかった。
それでは何ゆえに、そのような成人でない土屋健次郎が大名、それも土浦藩9万5千石もの太守なのかと言うと、それは養父であった土屋相模守壽直が健次郎を己の養嗣子として将軍・家治に御目見えさせる前に卒してしまったためである。
本来ならば、例えば雁之間詰の大名を例に取るならば、その生前中に実子にしろ養子にしろ、将軍に御目見えさせることで成人嫡子と認められ、そしてその年か、或いは翌年の12月に、それも主に18日に、
「従五位下諸大夫」
それに叙任されることで晴れて次の正月より菊之間の本間に詰めることが許される…、というのが雁之間詰の大名の謂わば、
「セオリー」
と言えた。
だが、土屋壽直の場合、6年前の安永6(1777)年7月19日に17歳で卒してしまったのだ。勿論、実子も残さずに、である。いや、それどころか未だ、室…、妻女さえ迎えてはいなかった。
そこで急遽、壽直の実弟である健次郎泰直に白羽の矢が立ち、健次郎が壽直の養嗣子としてその遺領たる土浦藩9万5千石の相続が認められたのであった。健次郎、10歳の時であった。
いや、それもこれも、壽直・健次郎兄弟の父である土屋能登守篤直が7年前の安永5(1776)年5月20日に45歳で卒してしまったことに原因があった。45歳では夭折には当たらずとも、それでも十分に早死に属するであろう。
この時、篤直には既に16歳になったばかりの壽直と9歳になったばかりの健次郎兄弟の他にも子女がおり、その子らを遺しての早死であった。
そして壽直にしてもまた、実父・篤直が早死した時点、即ち、安永5(1776)年5月20日の時点ではまだ、将軍への…、将軍・家治への御目見えを済ませてはおらず、つまりは未だ成人嫡子と認められていない間での実父の逝去であり、そこでまず2ヶ月後の7月16日に父・篤直の嫡子としてその遺領たる土浦藩9万5千石の相続が認められ、それから更に12日後の28日には将軍・家治への御目見えが叶い、壽直は成人と認められ、その年の12月16日には、
「従五位下諸大夫・相模守」
それに叙され、これで晴れて正式に雁之間詰の大名として認められ、次の年、安永6(1777)年の正月より雁之間に詰め始めたのも束の間、7月19日に17歳で夭折してしまったのだ。初就封…、お国入りもまだだと言うのに、である。
ともあれそのような事情から、健次郎は未だ、成人と認められてはいないにもかかわらず、土浦藩9万5千石の太守であったのだ。
その健次郎を何ゆえに忠休が見知っているのかと言うと、健次郎の実父である篤直と交流があったからだ。
篤直は宝暦10(1760)年正月、29歳の折に譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストである奏者番に取り立てられ、それから9年後の明和6(1769)年10月にはその筆頭である寺社奉行へと進み、その際、篤直は先任…、先輩の寺社奉行は元より、寺社奉行経験者の下へも足を運んでは寺社奉行としての心得などを教授して貰い、その中には忠休も含まれていた。
その時…、明和6(1769)年の時点で忠休は既に若年寄であり、
「幕閣の一人である忠休と近づきになっても損はあるまい…」
そのような下心が篤直にはあったのやも知れず、そこで、
「寺社奉行としての心得を教授してもらう…」
その名目にて、寺社奉行経験者である若年寄の忠休の下へと足を運んだのやも知れぬ。それを裏付けるかのように、篤直は全ての寺社奉行経験者の下へと足を運んだわけではなく、老中首座であった松平武元や同じく老中の松平輝高、松平康福、それに板倉勝清といった現役の幕閣の下へと集中的に足を運んだからだ。
ともあれそのような事情から忠休は篤直と交流するようになり、互いの屋敷を行き来するようにもなった。
その際、忠休はまだ幼子であった壽直・健次郎兄弟の挨拶を受けたことがあり、それゆえ忠休は健次郎の顔を覚えていたのだ。
羽目之間は殿中席ではなく、それゆえ今は無人であった。いや、これで例えば式日、それも明日15日…、10月15日に行われる月次御礼ともなると、ここ羽目之間は江戸町奉行や勘定奉行、それに、作事・普請・小普請の三奉行の所謂、「下三奉行」に加えて、遠国奉行や腰物奉行に勘定吟味役、そして奥右筆組頭や奥右筆、表右筆組頭や表右筆らが将軍に拝謁する場、つまりは礼席として使われることになる。
無論、彼らにもそれぞれ殿中席がある。例えば、江戸町奉行や勘定奉行、作事奉行や普請奉行は芙蓉之間、小普請奉行と勘定吟味役は今しがた、忠休が足を踏み入れた中之間といった具合にである。
だが殿中席は繰り返しになるが、あくまで将軍に拝謁するまでの間、待つための場所、謂わば待合所であり、それゆえ殿中席にて将軍に拝謁できるわけではない。
将軍への拝謁の定刻が近づいたならば、彼らは各々の殿中席から礼席へと、例えば江戸町奉行ならばその殿中席である|芙蓉之間から礼席であるここ羽目之間へと移動して、そこで将軍に拝謁するのであった。
その羽目之間からは意知がいる芙蓉之間が見渡せた。
見渡せたと言うのも、ここ羽目之間から芙蓉之間の間には庭があったからだ。
つまり羽目之間から庭を挟んだ向こう側に芙蓉之間があり、庭越しに芙蓉之間の様子が窺えた。
いや、正確には庭の先には竹之間なる部屋に面した入側…、廊下があり、芙蓉之間は更にその廊下の向こう側にあったのだが、やはりその竹之間は元より、竹之間に面した入側…、廊下にしても無人であったので、それゆえここ羽目之間からでも芙蓉之間の様子が良く窺えたのであった。
その芙蓉之間においてはやはりと言うべきか、意知の姿を捉えることができた。
しかも意知は誰かと、それも二人の男と熱心に話し込んでいる様子が窺えた。
忠休ははしたない真似であることは承知の上で、目を凝らして意知と話し込んでいる二人の男の正体を見定めようとした。
古希の忠休には何とも辛いものがあったが、それでも何とか二人の面体を確かめることができた。
「二人とも、奏者番ではない…」
忠休は二人の面体を確かめるなり、まずはそれに気づいた。
古希とは言え、奏者番の顔ぐらいは把握していた。無論、奏者番の筆頭たる寺社奉行の顔も、である。
だが今、意知と熱心に話し込んでいる二人の男はヒラの奏者番でもなければ、勿論、その筆頭たる寺社奉行でもなかった。
だとするならば二人の正体は畢竟、留守居か大目付、江戸町奉行か勘定奉行、作事奉行か普請奉行の何れかに絞られることとなる。何しろ芙蓉之間に詰めることが許されている者と言えば、奏者番を除いては彼らだけであるからだ。
だが二人がそのうちの何れでもないことは明らかであった。忠休は彼らの顔もまた把握しており、それゆえすぐにそうと気づいた。
いや、仮に例え顔を把握しておらずとも、二人の男の年恰好から判断しても、彼らでないことには直ぐに気づくというものであった。
それと言うのも、意知と熱心に話し込んでいる二人の男は明らかに十代であったからだ。そうであれば留守居や大目付である筈がなく、また、実務官僚とも言うべき奉行であるとも考えられなかった。
それでは一体、あの二人の正体は…、忠休は更にはしたなくも、目を凝らした。
するとそのうちの一人の顔に心当たりがあった。
「あれは…、土屋健次郎ではあるまいか…」
忠休が思い出した土屋健次郎とは上州新治郡土浦藩9万5千石をも領する雁之間詰の城主大名である土屋健次郎泰直であった。
いや、土屋健次郎は雁之間詰の大名ではあるものの、しかし未だ登城は許されぬ身であった。
それと言うのも、土屋健次郎は未だ、将軍・家治への御目見えを済ませておらず、それゆえに成人と看做されてはいなかったからだ。成人でない者は登城が許されてはいなかった。
それでは何ゆえに、そのような成人でない土屋健次郎が大名、それも土浦藩9万5千石もの太守なのかと言うと、それは養父であった土屋相模守壽直が健次郎を己の養嗣子として将軍・家治に御目見えさせる前に卒してしまったためである。
本来ならば、例えば雁之間詰の大名を例に取るならば、その生前中に実子にしろ養子にしろ、将軍に御目見えさせることで成人嫡子と認められ、そしてその年か、或いは翌年の12月に、それも主に18日に、
「従五位下諸大夫」
それに叙任されることで晴れて次の正月より菊之間の本間に詰めることが許される…、というのが雁之間詰の大名の謂わば、
「セオリー」
と言えた。
だが、土屋壽直の場合、6年前の安永6(1777)年7月19日に17歳で卒してしまったのだ。勿論、実子も残さずに、である。いや、それどころか未だ、室…、妻女さえ迎えてはいなかった。
そこで急遽、壽直の実弟である健次郎泰直に白羽の矢が立ち、健次郎が壽直の養嗣子としてその遺領たる土浦藩9万5千石の相続が認められたのであった。健次郎、10歳の時であった。
いや、それもこれも、壽直・健次郎兄弟の父である土屋能登守篤直が7年前の安永5(1776)年5月20日に45歳で卒してしまったことに原因があった。45歳では夭折には当たらずとも、それでも十分に早死に属するであろう。
この時、篤直には既に16歳になったばかりの壽直と9歳になったばかりの健次郎兄弟の他にも子女がおり、その子らを遺しての早死であった。
そして壽直にしてもまた、実父・篤直が早死した時点、即ち、安永5(1776)年5月20日の時点ではまだ、将軍への…、将軍・家治への御目見えを済ませてはおらず、つまりは未だ成人嫡子と認められていない間での実父の逝去であり、そこでまず2ヶ月後の7月16日に父・篤直の嫡子としてその遺領たる土浦藩9万5千石の相続が認められ、それから更に12日後の28日には将軍・家治への御目見えが叶い、壽直は成人と認められ、その年の12月16日には、
「従五位下諸大夫・相模守」
それに叙され、これで晴れて正式に雁之間詰の大名として認められ、次の年、安永6(1777)年の正月より雁之間に詰め始めたのも束の間、7月19日に17歳で夭折してしまったのだ。初就封…、お国入りもまだだと言うのに、である。
ともあれそのような事情から、健次郎は未だ、成人と認められてはいないにもかかわらず、土浦藩9万5千石の太守であったのだ。
その健次郎を何ゆえに忠休が見知っているのかと言うと、健次郎の実父である篤直と交流があったからだ。
篤直は宝暦10(1760)年正月、29歳の折に譜代大名にとっての出世の登竜門的ポストである奏者番に取り立てられ、それから9年後の明和6(1769)年10月にはその筆頭である寺社奉行へと進み、その際、篤直は先任…、先輩の寺社奉行は元より、寺社奉行経験者の下へも足を運んでは寺社奉行としての心得などを教授して貰い、その中には忠休も含まれていた。
その時…、明和6(1769)年の時点で忠休は既に若年寄であり、
「幕閣の一人である忠休と近づきになっても損はあるまい…」
そのような下心が篤直にはあったのやも知れず、そこで、
「寺社奉行としての心得を教授してもらう…」
その名目にて、寺社奉行経験者である若年寄の忠休の下へと足を運んだのやも知れぬ。それを裏付けるかのように、篤直は全ての寺社奉行経験者の下へと足を運んだわけではなく、老中首座であった松平武元や同じく老中の松平輝高、松平康福、それに板倉勝清といった現役の幕閣の下へと集中的に足を運んだからだ。
ともあれそのような事情から忠休は篤直と交流するようになり、互いの屋敷を行き来するようにもなった。
その際、忠休はまだ幼子であった壽直・健次郎兄弟の挨拶を受けたことがあり、それゆえ忠休は健次郎の顔を覚えていたのだ。
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