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奏者番としての田沼意知 ~意知は寺社奉行上首の阿部正倫から実に頼りになる弟のようだと、頼られていた~

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 意知おきとも奏者番そうじゃばんに取り立てられた天明元(1781)年12月の時点で正定まささだすでに今の、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行の地位にあり、

生半なまなかなことでは、うぬのようなどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊とうぞく同然どうぜん下賤げせんなるやから奏者番そうじゃばんつとまらぬぞ」

 正定まささだはその地位を良いことに、奏者番そうじゃばんに取り立てられたばかりの意知おきともに対して、それも芙蓉之間ふようのまという他の寺社奉行や奏者番そうじゃばん、のみならず留守居るすいなどもめていたわば、

満座まんざの中…」

 そこでそのように「ストレート」にぶつけて、意知おきとも侮辱ぶじょくしたのであった。

 奏者番そうじゃばんに取り立てられると、筆頭ひっとうである寺社奉行から徹底的てっていてきにしごかれるものである。

殿様とのさま御前ごぜん風を取り除く…」

 それこそが筆頭ひっとうたる寺社奉行が新任しんにん奏者番そうじゃばんをしごく理由…、表向おもてむきの理由であり、その実、単なるいじめのたぐいであり、意知おきとも勿論もちろん、その「しごき」を受けた一人であった。

 意知おきとも奏者番そうじゃばんに取り立てられた天明元(1781)年にはすでに父・意次おきつぐは老中として、

「今をときめく…」

 であり、意知おきともはそのわば、

御曹司おんぞうし…」

 というわけだが、しかし、だからと言ってそれで筆頭ひっとうたる寺社奉行が意知おきとも遠慮えんりょしたかと言うと、決してそんなことはなく、それどころか他の奏者番そうじゃばん同様どうよう筆頭ひっとうたる寺社奉行から容赦ようしゃなくしごかれたものであり、父・意次おきつぐもそれを当然のこととして受け止めた。

 だがそれでも正定まささだのこのあまりに非礼ひれい極まりない仕打しうちは「しごき」のレベルをはるかにえていた。逸脱いつだつしていたと言っても良いだろう。

 それゆえその当時、寺社奉行の中でも筆頭ひっとうに当たる上首じょうしゅの地位にあった、今の大坂おおざか城代じょうだい戸田とだ因幡守いなばのかみ忠寛ただとお流石さすがに見かね、正定まささだに対してその非礼ひれいたしなめたものである。

 だが正定まささだはそれに対してそっぽを向いて見せたのだから、まったくもって良い度胸どきょうである。

 当然、忠寛ただとおはそのような正定まささだに対して嚇怒かくどしたものだが、意知おきともが間に入ってそれをなだめたのであった。

 爾来じらい意知おきともは主に忠寛ただとおにしごかれながら、めきめきと奏者番そうじゃばんとしての実力を身につけた。

 寺社奉行は他にもいたものの、しかし、意知おきとも奏者番そうじゃばんに取り立てられた天明元(1781)年のそれも12月から忠寛ただとおが寺社奉行から大坂おおざか城代じょうだいへと昇進しょうしんたした天明2(1782)年9月10日までのおよそ1年間、寺社奉行であったのはその忠寛ただとお正定まささだの2人の他に、牧野まきの豊前守ぶぜんのかみ惟成これしげ阿部あべ備中守びっちゅうのかみ正倫まさとも安藤あんどう對馬守つしまのかみ信明のぶあきらの3人であり、合わせて5人が寺社奉行をつとめていたわけだが、このうち戸田とだ忠寛ただとお牧野まきの惟成これしげを除いた3人は皆、その当時…、天明元(1781)年の時点で30代と意知おきとも同年輩どうねんぱいであり、いや、井上いのうえ正定まささだいたっては意知おきともよりも年下とししたの20代後半であり、そうなると奏者番そうじゃばん指導しどう役はどうしても40代の戸田とだ忠寛ただとおと50代の牧野まきの惟成これしげの二人にしぼられてしまい、そのうち、牧野まきの惟成これしげ病弱びょうじゃくであり、畢竟ひっきょう忠寛ただとお奏者番そうじゃばんの指導役を務めることとなる。

 いや、正定まささだなどはそれが気に入らず、指導しどうの名のもと、それこそ、

「手当たり次第しだい…」

 奏者番そうじゃばん怒鳴どならしては奏者番そうじゃばんから完全に軽蔑けいべつされていた。

 正定まささだ奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行としてヒラの奏者番そうじゃばん指導しどうすべき立場ではあるものの、その指導役としての実力では戸田とだ忠寛ただとおには遠くおよばず、正定まささだもそのことは誰よりも分かっており、しかしだからと言ってその忠寛ただとおとの間のその指導役としての実力差はどう足掻あがいてもめられず、そこで正定まささだ指導しどうの名のもと意知おきともを始めとするヒラの奏者番そうじゃばん怒鳴どならすことでそのさをらしていたわけだが、かなしいかな

いぬ遠吠とおぼえ…」

 それであるのはあきらかであり、意知おきともたちヒラの奏者番そうじゃばん正定まささだから怒鳴どなられても何の痛痒つうようも感じず、それどころかそのような正定まささだに対してかえって憐憫れんびんの情さえかんだほどであった。

 正定まささだがそのように、

指導しどう…」

 としょうしてはその実、ただ単にヒラの奏者番そうじゃばんをいびりたいだけに、怒鳴どなれば怒鳴どなほど意知おきともたちヒラの奏者番そうじゃばんから同情される、いや、馬鹿にされるという完全な悪循環におちいり、やはり見かねた忠寛ただとおや、それに他の寺社奉行からも注意されたようだが、正定まささだが態度を改めることはついぞなかった。

 何しろ正定まささだ曽祖父そうそふ河内守かわちのかみ正岑まさみね祖父そふ河内守かわちのかみ正之まさゆき、父・大和守やまとのかみ正経まさつねと、三代続けて寺社奉行をつとめ、まさに寺社奉行の家柄いえがらというわけで、正定まささだはさしずめ、井上家の「四代目」の寺社奉行に当たる。

 そのような正定まささだであるだけに、他の寺社奉行よりも気負きおうところがあった。

 それはそれで結構けっこうなのだが、それが単なる、

奏者番そうじゃばんいびり…」

 へと転化てんかしたのだから、正定まささだという男もまた、所詮しょせんは己の家柄いえがらしかたのむべきものがない、経綸けいりんなど持ち合わせてはいない狭量きょうりょうな男に過ぎなかった。

 家柄いえがらと言えばもう一つ、井上いのうえ正定まささだはかつては寺社奉行の上首じょうしゅ…、筆頭ひっとうの地位にあった土岐とき美濃守みののかみ定経さだつね婿むこでもあったのだ。

 正定まささだがヒラの奏者番そうじゃばんからその筆頭ひっとうである寺社奉行へと進んだ天明元(1781)年閏5月11日、岳父がくふ定経さだつね大坂おおざか城代じょうだいへと進んだのであった。

 大坂おおざか城代じょうだい京都きょうと所司代しょしだいへと進むためのわば、

待機たいきポスト…」

 そのような意味合いの強い「ポスト」であり、さらに言うならその京都きょうと所司代しょしだいは老中へと進むための、これまた、

待機たいきポスト…」

 まさしくそれであり、それゆえ大坂おおざか城代じょうだいけば、京都きょうと所司代しょしだいを通じて、譜代ふだい大名にとっての出世双六すごろくの「あがり」と言うべき老中も見えたも同然どうぜんというわけである。

 つまり正定まささだは次期老中とも言うべき岳父がくふを持ったというわけで、それゆえ正定まささだ威勢いせいたるや、あるいは鼻息はないきと言うべきか、すさまじいものがあった。

 寺社奉行の上首じょうしゅ…、筆頭ひっとうたる土岐とき定経さだつね大坂おおざか城代じょうだいへと昇進しょうしんたしたのにともない、寺社奉行上首じょうしゅの地位、もとい「おはち」は戸田とだ忠寛ただとおへと回ってきた。

 年齢で言えば牧野まきの惟成これしげの方が上であったものの、しかし、寺社奉行としての「キャリア」は戸田とだ忠寛ただとおの方が上であったので、それゆえ忠寛ただとおが寺社奉行の上首じょうしゅと定められたのであった。

 だがその忠寛ただとおに対しても正定まささだ遠慮えんりょするところがまったくなかった。

 それどころか己と同格どうかくであると、そのような態度さえ取る始末しまつであった。

 確かに寺社奉行同士、同格どうかくであると言われればその通りであるが、しかし、相手あいては仮にもその筆頭ひっとうたる上首じょうしゅであり、そうであればうやまうべきものであろう。

 だが正定まささだにはそのような…、戸田とだ忠寛ただとおうやまうようなそんな殊勝しゅしょう心掛こころがけはやはりと言うべきか、ついぞ見られることはなかった。

 己とは同格どうかく、いや、それどころか忠寛ただとお格下かくしたのように見る有様ありさまであり、これには流石さすがに最年長の寺社奉行の牧野まきの惟成これしげも見かね、

「少しくは戸田とだ因幡いなば殿を上首じょうしゅとしてうやまわれるべきであろう…」

 子のような正定まささだにそうさとしたものであったが、しかし、生憎あいにく素直すなおに耳をかたむけるような正定まささだではない。

 何しろ正定まささだ上首じょうしゅたる忠寛ただとおに対してさえ、同格どうかく、いや、格下かくしたと見る有様ありさまであり、そのような正定まささだにしてみれば、惟成これしげなど、

いたる駑馬どば…」

 それにぎなかった。

 いや、実際、正定まささだは己をたしなめた惟成これしげに対して、

いたる駑馬どばは黙っておれ…」

 そう言い返す始末しまつであり、これには惟成これしげも我が耳を疑ったほどであり、それからぐにそれが決して聞き間違いなどではないと気づくや、怒りの感情がき上がったが、しかし、その当時の惟成これしげすでに、怒りの感情を外部に発露はつろさせるだけの気力きりょくがなく、正定まささだ無礼ぶれいに対してもだまってえるより他になかった。

 するとそんな惟成これしげの代わりに怒りの感情を発露はつろ、いや、暴発ぼうはつさせたのが他ならぬ戸田とだ忠寛ただとおであり、忠寛ただとお正定まささだに対して惟成これしげびるようせまったものである。

 だが、敵もさるもの…、正定まささだはそんな忠寛ただとおをもまさに、

「ものともせず…」

 誰がびるものかと、忠寛ただとおに対してそう言いはなったものであり、これには忠寛ただとお心底しんそこあきてたるものであった。

 この時、忠寛ただとお正定まささだ見限みかぎったと言っても良いであろう。

 まともに相手にするだけ時間の無駄むだ…、忠寛ただとお正定まささだをそう見限みかぎるや、それよりも…、おろかなる正定まささだ相手あいてにするよりも、奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社奉行として、

奏者番そうじゃばん指導しどう専心せんしんすべし…」

 忠寛ただとおはそう決意をかためるや、意知おきともたちヒラの奏者番そうじゃばん指導しどう専心せんしんしたものであった。

 忠寛ただとお指導しどう中々なかなかきびしかったが、それでも一々いちいちうなずけるものばかりであり、つまりは納得なっとくのゆく「厳しさ」であったために、意知おきともたち奏者番そうじゃばんは皆、この忠寛ただとお心底しんそこ敬服けいふくしたものであり、そこが正定まささだとの最大さいだいの違いであり、同時に、正定まささだを大いにイラつかせる原因もととなった。

 こうして忠寛ただとお指導しどうは去年、天明2(1782)年の9月まで続いた。

 何と、それより先月…、天明2(1782)年8月20日に大坂おおざか城代じょうだいであった…、正定まささだの「どころ」とでも呼ぶべき岳父がくふ土岐とき定経さだつねが京都所司代、そして老中を目前もくぜんにして55歳で任地にんち大坂おおざかにてぼっしてしまったのだ。

 そして皮肉ひにくなことに、定経さだつね後任こうにん大坂おおざか城代じょうだいにんじられたのが他ならぬ戸田とだ忠寛ただとお、その人であり、それが9月10日のことであった。

 さて、寺社奉行上首じょうしゅ戸田とだ忠寛ただとお大坂おおざか城代じょうだいへと進んだのにともない、上首じょうしゅの「おはち」は今度こそ、最年長の牧野まきの惟成これしげに回ってきたものの、しかし、温厚おんこうだけの惟成これしげたして寺社奉行の筆頭ひっとうとして上首じょうしゅつとまるものか、はなはだ疑問ではあった。何しろ、せがれのような正定まささだからやりこめられた、

前科ぜんか…」

 があったからだ。のみならず、正定まささだに対して言い返すことすら出来なかった惟成これしげたして、寺社奉行上首じょうしゅつとまるものかと、他の寺社奉行は元より、ヒラの奏者番そうじゃばんにしてもそう思ったほどであった。

 だがそんな不安も杞憂きゆうであった。それと言うのもそんな温厚おんこう唯一ゆいいつと言っても過言かごんではない惟成これしげをもう一人の寺社奉行である阿部あべ正倫まさともが良く補佐ほさしたからであった。

 阿部あべ正倫まさともにしてもまた、惟成これしげから見ればせがれのような存在そんざいであり、奏者番そうじゃばんにんじられたのも惟成これしげの方が正倫まさともよりも早かったものの、しかし、その筆頭ひっとうである寺社奉行にいたのは両者、同時であった。

 すなわち、惟成これしげ正倫まさともは共に、安永6(1777)年9月15日に寺社奉行に取り立てられたのであった。惟成これしげ正倫まさともは寺社奉行としては所謂いわゆる

同期どうきさくら…」

 であったのだ。

 もっとも、正倫まさともの場合、その当時はいまだ32、さしずめ「つぼみ」のような存在そんざいであり、ゆえに正式に寺社奉行として取り立てられたわけではなく、「見習みならい」として取り立てられたのであった。

 その「見習みならい」寺社奉行の正倫まさともを良くたすけたのが他ならぬ惟成これしげであり、正倫まさとも惟成これしげたすけもあってか、何とか「見習みならい」期間を過ごすことが出来でき、それから2年後の安永8(1779)年4月23日より晴れて本役ほんやく、つまりは「見習みならい」が取れて、正式に寺社奉行と認められたのであった。

 そのような経緯けいいがあったので、今度は己が牧野まきの殿をたすける番と、正倫まさとも上首じょうしゅとなった惟成これしげを良く支え、それゆえ惟成これしげ大過たいかなく、寺社奉行の筆頭ひっとうとして上首じょうしゅつとげることが出来たのであった。

 もっとも、惟成これしげが寺社奉行の筆頭ひっとうとして大過たいかなく、上首じょうしゅつとげられた最大の理由たるや、

正定まささだ大人おとなしくなったから…」

 それにきるであろう。

 すなわち、それまで正定まささだが寺社奉行として傍若無人ぼうじゃくぶじん振舞ふるまっていられたのもひとえに、次期京都きょうと所司代しょしだい、次期老中とも言うべき存在そんざい岳父がくふにして、大坂おおざか城代じょうだい土岐とき定経さだつねがいればこそ、であった。

 だがその定経さだつね京都きょうと所司代しょしだい、そして老中を目前もくぜんにしてくなったために、正定まささだにしてみればまさに、

どころうしなった…」

 それも同然どうぜんであり、それゆえ正定まささだもこれまでのように傍若無人ぼうじゃくぶじん振舞ふるまうことは許されまいと、そうとさとったようで大人おとなしくなった次第しだいである。

 正定まささだという男はどこまでも権門けんもんだのみの、実に情けない男でもあった。これで相変あいかわらず傍若無人ぼうじゃくぶじん振舞ふるまっていたならば、それはそれで見上げた気骨きこつであったが、生憎あいにく正定まささだにはそのような気骨きこつ微塵みじんうかがえず、それが証拠しょうこに今も意知おきともの熱心な指導しどうに対して実に忌々いまいましそうな表情をかべるのが精一杯せいいっぱいという有様ありさまなさけなさであった。

 それとは正反対なのが正倫まさともであり、正倫まさともは寺社奉行の上首じょうしゅとして意知おきともの指導を実に満足まんぞくな表情でながめていた。意知おきともたのもしそうにも見ていた。

 今年、天明3(1783)年の7月23日に寺社奉行の上首じょうしゅであった惟成これしげが56にて病没びょうぼつしたために、それゆえ今度は正倫まさとも惟成これしげわって上首じょうしゅの地位にいたのであった。

 その正倫まさとも奏者番そうじゃばんである意知おきともを実にたのもしく思っており、いや、思うだけでなく実際にたよりにしていた。それもひとえに意知おきとも奏者番そうじゃばんとして実に優秀であったからだ。

 今回、将軍・家治への御目見おめみえを果たす土屋つちや健次郎けんじろう土井どい鐵蔵てつぞう両名りょうめい指導しどう意知おきともになっているのもひとえに、正倫まさとも意知おきともに対して両名への指導しどうを命じたからに他ならない。

 いや、命じたというよりは頼むと言った方が正確かも知れない。正倫まさとも意知おきともと年が近く…、意知おきともが35歳であるのに対して、正倫まさともはそれより3歳年上の38歳と、正倫まさともにしてもれば意知おきともは弟のような存在そんざいであり、それも、

「実にたよりになる弟…」

 そのような存在そんざいとして見ており、意知おきとももこの正倫まさともを寺社奉行の上首じょうしゅとしてうやまいつつも、兄のようにもしたっており、それゆえ正倫まさとも意知おきともは二人だけの時は実に「フランク」な関係でもあったのだ。

 そのような間柄あいだがらゆえ、正倫まさともが「弟」の意知おきともに二人の指導しどうたのむのも至極しごく当然とうぜんのことと言えた。
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