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奏者番としての田沼意知 ~意知は寺社奉行上首の阿部正倫から実に頼りになる弟のようだと、頼られていた~
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意知が奏者番に取り立てられた天明元(1781)年12月の時点で正定は既に今の、奏者番の筆頭たる寺社奉行の地位にあり、
「生半なことでは、うぬのようなどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる輩に奏者番は勤まらぬぞ」
正定はその地位を良いことに、奏者番に取り立てられたばかりの意知に対して、それも芙蓉之間という他の寺社奉行や奏者番、のみならず留守居なども詰めていた謂わば、
「満座の中…」
そこでそのように「ストレート」にぶつけて、意知を侮辱したのであった。
奏者番に取り立てられると、筆頭である寺社奉行から徹底的にしごかれるものである。
「殿様御前風を取り除く…」
それこそが筆頭たる寺社奉行が新任の奏者番をしごく理由…、表向きの理由であり、その実、単なるいじめの類であり、意知も勿論、その「しごき」を受けた一人であった。
意知が奏者番に取り立てられた天明元(1781)年には既に父・意次は老中として、
「今をときめく…」
であり、意知はその謂わば、
「御曹司…」
というわけだが、しかし、だからと言ってそれで筆頭たる寺社奉行が意知に遠慮したかと言うと、決してそんなことはなく、それどころか他の奏者番と同様、筆頭たる寺社奉行から容赦なくしごかれたものであり、父・意次もそれを当然のこととして受け止めた。
だがそれでも正定のこの余りに非礼極まりない仕打ちは「しごき」のレベルを遥かに超えていた。逸脱していたと言っても良いだろう。
それゆえその当時、寺社奉行の中でも筆頭に当たる上首の地位にあった、今の大坂城代の戸田因幡守忠寛も流石に見かね、正定に対してその非礼を窘めたものである。
だが正定はそれに対してそっぽを向いて見せたのだから、全くもって良い度胸である。
当然、忠寛はそのような正定に対して嚇怒したものだが、意知が間に入ってそれを宥めたのであった。
爾来、意知は主に忠寛にしごかれながら、めきめきと奏者番としての実力を身につけた。
寺社奉行は他にもいたものの、しかし、意知が奏者番に取り立てられた天明元(1781)年のそれも12月から忠寛が寺社奉行から大坂城代へと昇進を果たした天明2(1782)年9月10日までのおよそ1年間、寺社奉行であったのはその忠寛と正定の2人の他に、牧野豊前守惟成と阿部備中守正倫、安藤對馬守信明の3人であり、合わせて5人が寺社奉行を勤めていたわけだが、このうち戸田忠寛と牧野惟成を除いた3人は皆、その当時…、天明元(1781)年の時点で30代と意知と同年輩であり、いや、井上正定に至っては意知よりも年下の20代後半であり、そうなると奏者番の指導役はどうしても40代の戸田忠寛と50代の牧野惟成の二人に絞られてしまい、そのうち、牧野惟成は病弱であり、畢竟、忠寛が奏者番の指導役を務めることとなる。
いや、正定などはそれが気に入らず、指導の名の下、それこそ、
「手当たり次第…」
奏者番を怒鳴り散らしては奏者番から完全に軽蔑されていた。
正定は奏者番の筆頭たる寺社奉行としてヒラの奏者番を指導すべき立場ではあるものの、その指導役としての実力では戸田忠寛には遠く及ばず、正定もそのことは誰よりも分かっており、しかしだからと言ってその忠寛との間のその指導役としての実力差はどう足掻いても埋められず、そこで正定は指導の名の下に意知を始めとするヒラの奏者番を怒鳴り散らすことでその憂さを晴らしていたわけだが、哀しい哉、
「負け犬の遠吠え…」
それであるのは明らかであり、意知たちヒラの奏者番は正定から怒鳴られても何の痛痒も感じず、それどころかそのような正定に対してかえって憐憫の情さえ浮かんだ程であった。
正定がそのように、
「指導…」
と称してはその実、ただ単にヒラの奏者番をいびりたいだけに、怒鳴れば怒鳴る程に意知たちヒラの奏者番から同情される、いや、馬鹿にされるという完全な悪循環に陥り、やはり見かねた忠寛や、それに他の寺社奉行からも注意されたようだが、正定が態度を改めることは終ぞなかった。
何しろ正定は曽祖父・河内守正岑、祖父・河内守正之、父・大和守正経と、三代続けて寺社奉行を務め、正に寺社奉行の家柄というわけで、正定はさしずめ、井上家の「四代目」の寺社奉行に当たる。
そのような正定であるだけに、他の寺社奉行よりも気負うところがあった。
それはそれで結構なのだが、それが単なる、
「奏者番いびり…」
へと転化したのだから、正定という男もまた、所詮は己の家柄しか頼むべきものがない、経綸など持ち合わせてはいない狭量な男に過ぎなかった。
家柄と言えばもう一つ、井上正定はかつては寺社奉行の上首…、筆頭の地位にあった土岐美濃守定経の婿でもあったのだ。
正定がヒラの奏者番からその筆頭である寺社奉行へと進んだ天明元(1781)年閏5月11日、岳父・定経は大坂城代へと進んだのであった。
大坂城代は京都所司代へと進むための謂わば、
「待機ポスト…」
そのような意味合いの強い「ポスト」であり、更に言うならその京都所司代は老中へと進むための、これまた、
「待機ポスト…」
正しくそれであり、それゆえ大坂城代に就けば、京都所司代を通じて、譜代大名にとっての出世双六の「あがり」と言うべき老中も見えたも同然というわけである。
つまり正定は次期老中とも言うべき岳父を持ったというわけで、それゆえ正定の威勢たるや、或いは鼻息と言うべきか、凄まじいものがあった。
寺社奉行の上首…、筆頭たる土岐定経が大坂城代へと昇進を果たしたのに伴い、寺社奉行上首の地位、もとい「お鉢」は戸田忠寛へと回ってきた。
年齢で言えば牧野惟成の方が上であったものの、しかし、寺社奉行としての「キャリア」は戸田忠寛の方が上であったので、それゆえ忠寛が寺社奉行の上首と定められたのであった。
だがその忠寛に対しても正定は遠慮するところが全くなかった。
それどころか己と同格であると、そのような態度さえ取る始末であった。
確かに寺社奉行同士、同格であると言われればその通りであるが、しかし、相手は仮にもその筆頭たる上首であり、そうであれば敬うべきものであろう。
だが正定にはそのような…、戸田忠寛を敬うようなそんな殊勝な心掛けはやはりと言うべきか、終ぞ見られることはなかった。
己とは同格、いや、それどころか忠寛を格下のように見る有様であり、これには流石に最年長の寺社奉行の牧野惟成も見かね、
「少しくは戸田因幡殿を上首として敬われるべきであろう…」
子のような正定にそう諭したものであったが、しかし、生憎と素直に耳を傾けるような正定ではない。
何しろ正定は上首たる忠寛に対してさえ、同格、いや、格下と見る有様であり、そのような正定にしてみれば、惟成など、
「老いたる駑馬…」
それに過ぎなかった。
いや、実際、正定は己を窘めた惟成に対して、
「老いたる駑馬は黙っておれ…」
そう言い返す始末であり、これには惟成も我が耳を疑った程であり、それから直ぐにそれが決して聞き間違いなどではないと気づくや、怒りの感情が湧き上がったが、しかし、その当時の惟成は既に、怒りの感情を外部に発露させるだけの気力がなく、正定の無礼に対しても黙って耐えるより他になかった。
するとそんな惟成の代わりに怒りの感情を発露、いや、暴発させたのが他ならぬ戸田忠寛であり、忠寛は正定に対して惟成に詫びるよう迫ったものである。
だが、敵もさるもの…、正定はそんな忠寛をも正に、
「ものともせず…」
誰が詫びるものかと、忠寛に対してそう言い放ったものであり、これには忠寛も心底、呆れ果てたるものであった。
この時、忠寛は正定を見限ったと言っても良いであろう。
まともに相手にするだけ時間の無駄…、忠寛は正定をそう見限るや、それよりも…、愚かなる正定を相手にするよりも、奏者番の筆頭たる寺社奉行として、
「奏者番の指導に専心すべし…」
忠寛はそう決意を固めるや、意知たちヒラの奏者番の指導に専心したものであった。
忠寛の指導は中々に厳しかったが、それでも一々、頷けるものばかりであり、つまりは納得のゆく「厳しさ」であったために、意知たち奏者番は皆、この忠寛を心底、敬服したものであり、そこが正定との最大の違いであり、同時に、正定を大いにイラつかせる原因となった。
こうして忠寛の指導は去年、天明2(1782)年の9月まで続いた。
何と、それより先月…、天明2(1782)年8月20日に大坂城代であった…、正定の「拠り所」とでも呼ぶべき岳父の土岐定経が京都所司代、そして老中を目前にして55歳で任地の大坂にて没してしまったのだ。
そして皮肉なことに、定経の後任の大坂城代に任じられたのが他ならぬ戸田忠寛、その人であり、それが9月10日のことであった。
さて、寺社奉行上首の戸田忠寛が大坂城代へと進んだのに伴い、上首の「お鉢」は今度こそ、最年長の牧野惟成に回ってきたものの、しかし、温厚が取り柄だけの惟成に果たして寺社奉行の筆頭として上首が務まるものか、甚だ疑問ではあった。何しろ、倅のような正定からやりこめられた、
「前科…」
があったからだ。のみならず、正定に対して言い返すことすら出来なかった惟成に果たして、寺社奉行上首が務まるものかと、他の寺社奉行は元より、ヒラの奏者番にしてもそう思った程であった。
だがそんな不安も杞憂であった。それと言うのもそんな温厚が唯一の取り柄と言っても過言ではない惟成をもう一人の寺社奉行である阿部正倫が良く補佐したからであった。
阿部正倫にしてもまた、惟成から見れば倅のような存在であり、奏者番に任じられたのも惟成の方が正倫よりも早かったものの、しかし、その筆頭である寺社奉行に就いたのは両者、同時であった。
即ち、惟成と正倫は共に、安永6(1777)年9月15日に寺社奉行に取り立てられたのであった。惟成と正倫は寺社奉行としては所謂、
「同期の桜…」
であったのだ。
尤も、正倫の場合、その当時は未だ32、さしずめ「蕾」のような存在であり、ゆえに正式に寺社奉行として取り立てられたわけではなく、「見習い」として取り立てられたのであった。
その「見習い」寺社奉行の正倫を良く援けたのが他ならぬ惟成であり、正倫は惟成の援けもあってか、何とか「見習い」期間を過ごすことが出来、それから2年後の安永8(1779)年4月23日より晴れて本役、つまりは「見習い」が取れて、正式に寺社奉行と認められたのであった。
そのような経緯があったので、今度は己が牧野殿を援ける番と、正倫は上首となった惟成を良く支え、それゆえ惟成も大過なく、寺社奉行の筆頭として上首を勤め上げることが出来たのであった。
尤も、惟成が寺社奉行の筆頭として大過なく、上首を勤め上げられた最大の理由たるや、
「正定が大人しくなったから…」
それに尽きるであろう。
即ち、それまで正定が寺社奉行として傍若無人に振舞っていられたのもひとえに、次期京都所司代、次期老中とも言うべき存在の岳父にして、大坂城代の土岐定経がいればこそ、であった。
だがその定経が京都所司代、そして老中を目前にして亡くなったために、正定にしてみれば正に、
「拠り所を喪った…」
それも同然であり、それゆえ正定もこれまでのように傍若無人に振舞うことは許されまいと、そうと悟ったようで大人しくなった次第である。
正定という男はどこまでも権門頼みの、実に情けない男でもあった。これで相変わらず傍若無人に振舞っていたならば、それはそれで見上げた気骨であったが、生憎、正定にはそのような気骨は微塵も窺えず、それが証拠に今も意知の熱心な指導に対して実に忌々しそうな表情を浮かべるのが精一杯という有様、情けなさであった。
それとは正反対なのが正倫であり、正倫は寺社奉行の上首として意知の指導を実に満足気な表情で眺めていた。意知を頼もしそうにも見ていた。
今年、天明3(1783)年の7月23日に寺社奉行の上首であった惟成が56にて病没したために、それゆえ今度は正倫が惟成に代わって上首の地位に就いたのであった。
その正倫は奏者番である意知を実に頼もしく思っており、いや、思うだけでなく実際に頼りにしていた。それもひとえに意知が奏者番として実に優秀であったからだ。
今回、将軍・家治への御目見えを果たす土屋健次郎と土井鐵蔵の両名の指導を意知が担っているのもひとえに、正倫が意知に対して両名への指導を命じたからに他ならない。
いや、命じたというよりは頼むと言った方が正確かも知れない。正倫は意知と年が近く…、意知が35歳であるのに対して、正倫はそれより3歳年上の38歳と、正倫にしてもれば意知は弟のような存在であり、それも、
「実に頼りになる弟…」
そのような存在として見ており、意知もこの正倫を寺社奉行の上首として敬いつつも、兄のようにも慕っており、それゆえ正倫と意知は二人だけの時は実に「フランク」な関係でもあったのだ。
そのような間柄ゆえ、正倫が「弟」の意知に二人の指導を頼むのも至極、当然のことと言えた。
「生半なことでは、うぬのようなどこぞの馬の骨とも分からぬ、盗賊も同然の下賤なる輩に奏者番は勤まらぬぞ」
正定はその地位を良いことに、奏者番に取り立てられたばかりの意知に対して、それも芙蓉之間という他の寺社奉行や奏者番、のみならず留守居なども詰めていた謂わば、
「満座の中…」
そこでそのように「ストレート」にぶつけて、意知を侮辱したのであった。
奏者番に取り立てられると、筆頭である寺社奉行から徹底的にしごかれるものである。
「殿様御前風を取り除く…」
それこそが筆頭たる寺社奉行が新任の奏者番をしごく理由…、表向きの理由であり、その実、単なるいじめの類であり、意知も勿論、その「しごき」を受けた一人であった。
意知が奏者番に取り立てられた天明元(1781)年には既に父・意次は老中として、
「今をときめく…」
であり、意知はその謂わば、
「御曹司…」
というわけだが、しかし、だからと言ってそれで筆頭たる寺社奉行が意知に遠慮したかと言うと、決してそんなことはなく、それどころか他の奏者番と同様、筆頭たる寺社奉行から容赦なくしごかれたものであり、父・意次もそれを当然のこととして受け止めた。
だがそれでも正定のこの余りに非礼極まりない仕打ちは「しごき」のレベルを遥かに超えていた。逸脱していたと言っても良いだろう。
それゆえその当時、寺社奉行の中でも筆頭に当たる上首の地位にあった、今の大坂城代の戸田因幡守忠寛も流石に見かね、正定に対してその非礼を窘めたものである。
だが正定はそれに対してそっぽを向いて見せたのだから、全くもって良い度胸である。
当然、忠寛はそのような正定に対して嚇怒したものだが、意知が間に入ってそれを宥めたのであった。
爾来、意知は主に忠寛にしごかれながら、めきめきと奏者番としての実力を身につけた。
寺社奉行は他にもいたものの、しかし、意知が奏者番に取り立てられた天明元(1781)年のそれも12月から忠寛が寺社奉行から大坂城代へと昇進を果たした天明2(1782)年9月10日までのおよそ1年間、寺社奉行であったのはその忠寛と正定の2人の他に、牧野豊前守惟成と阿部備中守正倫、安藤對馬守信明の3人であり、合わせて5人が寺社奉行を勤めていたわけだが、このうち戸田忠寛と牧野惟成を除いた3人は皆、その当時…、天明元(1781)年の時点で30代と意知と同年輩であり、いや、井上正定に至っては意知よりも年下の20代後半であり、そうなると奏者番の指導役はどうしても40代の戸田忠寛と50代の牧野惟成の二人に絞られてしまい、そのうち、牧野惟成は病弱であり、畢竟、忠寛が奏者番の指導役を務めることとなる。
いや、正定などはそれが気に入らず、指導の名の下、それこそ、
「手当たり次第…」
奏者番を怒鳴り散らしては奏者番から完全に軽蔑されていた。
正定は奏者番の筆頭たる寺社奉行としてヒラの奏者番を指導すべき立場ではあるものの、その指導役としての実力では戸田忠寛には遠く及ばず、正定もそのことは誰よりも分かっており、しかしだからと言ってその忠寛との間のその指導役としての実力差はどう足掻いても埋められず、そこで正定は指導の名の下に意知を始めとするヒラの奏者番を怒鳴り散らすことでその憂さを晴らしていたわけだが、哀しい哉、
「負け犬の遠吠え…」
それであるのは明らかであり、意知たちヒラの奏者番は正定から怒鳴られても何の痛痒も感じず、それどころかそのような正定に対してかえって憐憫の情さえ浮かんだ程であった。
正定がそのように、
「指導…」
と称してはその実、ただ単にヒラの奏者番をいびりたいだけに、怒鳴れば怒鳴る程に意知たちヒラの奏者番から同情される、いや、馬鹿にされるという完全な悪循環に陥り、やはり見かねた忠寛や、それに他の寺社奉行からも注意されたようだが、正定が態度を改めることは終ぞなかった。
何しろ正定は曽祖父・河内守正岑、祖父・河内守正之、父・大和守正経と、三代続けて寺社奉行を務め、正に寺社奉行の家柄というわけで、正定はさしずめ、井上家の「四代目」の寺社奉行に当たる。
そのような正定であるだけに、他の寺社奉行よりも気負うところがあった。
それはそれで結構なのだが、それが単なる、
「奏者番いびり…」
へと転化したのだから、正定という男もまた、所詮は己の家柄しか頼むべきものがない、経綸など持ち合わせてはいない狭量な男に過ぎなかった。
家柄と言えばもう一つ、井上正定はかつては寺社奉行の上首…、筆頭の地位にあった土岐美濃守定経の婿でもあったのだ。
正定がヒラの奏者番からその筆頭である寺社奉行へと進んだ天明元(1781)年閏5月11日、岳父・定経は大坂城代へと進んだのであった。
大坂城代は京都所司代へと進むための謂わば、
「待機ポスト…」
そのような意味合いの強い「ポスト」であり、更に言うならその京都所司代は老中へと進むための、これまた、
「待機ポスト…」
正しくそれであり、それゆえ大坂城代に就けば、京都所司代を通じて、譜代大名にとっての出世双六の「あがり」と言うべき老中も見えたも同然というわけである。
つまり正定は次期老中とも言うべき岳父を持ったというわけで、それゆえ正定の威勢たるや、或いは鼻息と言うべきか、凄まじいものがあった。
寺社奉行の上首…、筆頭たる土岐定経が大坂城代へと昇進を果たしたのに伴い、寺社奉行上首の地位、もとい「お鉢」は戸田忠寛へと回ってきた。
年齢で言えば牧野惟成の方が上であったものの、しかし、寺社奉行としての「キャリア」は戸田忠寛の方が上であったので、それゆえ忠寛が寺社奉行の上首と定められたのであった。
だがその忠寛に対しても正定は遠慮するところが全くなかった。
それどころか己と同格であると、そのような態度さえ取る始末であった。
確かに寺社奉行同士、同格であると言われればその通りであるが、しかし、相手は仮にもその筆頭たる上首であり、そうであれば敬うべきものであろう。
だが正定にはそのような…、戸田忠寛を敬うようなそんな殊勝な心掛けはやはりと言うべきか、終ぞ見られることはなかった。
己とは同格、いや、それどころか忠寛を格下のように見る有様であり、これには流石に最年長の寺社奉行の牧野惟成も見かね、
「少しくは戸田因幡殿を上首として敬われるべきであろう…」
子のような正定にそう諭したものであったが、しかし、生憎と素直に耳を傾けるような正定ではない。
何しろ正定は上首たる忠寛に対してさえ、同格、いや、格下と見る有様であり、そのような正定にしてみれば、惟成など、
「老いたる駑馬…」
それに過ぎなかった。
いや、実際、正定は己を窘めた惟成に対して、
「老いたる駑馬は黙っておれ…」
そう言い返す始末であり、これには惟成も我が耳を疑った程であり、それから直ぐにそれが決して聞き間違いなどではないと気づくや、怒りの感情が湧き上がったが、しかし、その当時の惟成は既に、怒りの感情を外部に発露させるだけの気力がなく、正定の無礼に対しても黙って耐えるより他になかった。
するとそんな惟成の代わりに怒りの感情を発露、いや、暴発させたのが他ならぬ戸田忠寛であり、忠寛は正定に対して惟成に詫びるよう迫ったものである。
だが、敵もさるもの…、正定はそんな忠寛をも正に、
「ものともせず…」
誰が詫びるものかと、忠寛に対してそう言い放ったものであり、これには忠寛も心底、呆れ果てたるものであった。
この時、忠寛は正定を見限ったと言っても良いであろう。
まともに相手にするだけ時間の無駄…、忠寛は正定をそう見限るや、それよりも…、愚かなる正定を相手にするよりも、奏者番の筆頭たる寺社奉行として、
「奏者番の指導に専心すべし…」
忠寛はそう決意を固めるや、意知たちヒラの奏者番の指導に専心したものであった。
忠寛の指導は中々に厳しかったが、それでも一々、頷けるものばかりであり、つまりは納得のゆく「厳しさ」であったために、意知たち奏者番は皆、この忠寛を心底、敬服したものであり、そこが正定との最大の違いであり、同時に、正定を大いにイラつかせる原因となった。
こうして忠寛の指導は去年、天明2(1782)年の9月まで続いた。
何と、それより先月…、天明2(1782)年8月20日に大坂城代であった…、正定の「拠り所」とでも呼ぶべき岳父の土岐定経が京都所司代、そして老中を目前にして55歳で任地の大坂にて没してしまったのだ。
そして皮肉なことに、定経の後任の大坂城代に任じられたのが他ならぬ戸田忠寛、その人であり、それが9月10日のことであった。
さて、寺社奉行上首の戸田忠寛が大坂城代へと進んだのに伴い、上首の「お鉢」は今度こそ、最年長の牧野惟成に回ってきたものの、しかし、温厚が取り柄だけの惟成に果たして寺社奉行の筆頭として上首が務まるものか、甚だ疑問ではあった。何しろ、倅のような正定からやりこめられた、
「前科…」
があったからだ。のみならず、正定に対して言い返すことすら出来なかった惟成に果たして、寺社奉行上首が務まるものかと、他の寺社奉行は元より、ヒラの奏者番にしてもそう思った程であった。
だがそんな不安も杞憂であった。それと言うのもそんな温厚が唯一の取り柄と言っても過言ではない惟成をもう一人の寺社奉行である阿部正倫が良く補佐したからであった。
阿部正倫にしてもまた、惟成から見れば倅のような存在であり、奏者番に任じられたのも惟成の方が正倫よりも早かったものの、しかし、その筆頭である寺社奉行に就いたのは両者、同時であった。
即ち、惟成と正倫は共に、安永6(1777)年9月15日に寺社奉行に取り立てられたのであった。惟成と正倫は寺社奉行としては所謂、
「同期の桜…」
であったのだ。
尤も、正倫の場合、その当時は未だ32、さしずめ「蕾」のような存在であり、ゆえに正式に寺社奉行として取り立てられたわけではなく、「見習い」として取り立てられたのであった。
その「見習い」寺社奉行の正倫を良く援けたのが他ならぬ惟成であり、正倫は惟成の援けもあってか、何とか「見習い」期間を過ごすことが出来、それから2年後の安永8(1779)年4月23日より晴れて本役、つまりは「見習い」が取れて、正式に寺社奉行と認められたのであった。
そのような経緯があったので、今度は己が牧野殿を援ける番と、正倫は上首となった惟成を良く支え、それゆえ惟成も大過なく、寺社奉行の筆頭として上首を勤め上げることが出来たのであった。
尤も、惟成が寺社奉行の筆頭として大過なく、上首を勤め上げられた最大の理由たるや、
「正定が大人しくなったから…」
それに尽きるであろう。
即ち、それまで正定が寺社奉行として傍若無人に振舞っていられたのもひとえに、次期京都所司代、次期老中とも言うべき存在の岳父にして、大坂城代の土岐定経がいればこそ、であった。
だがその定経が京都所司代、そして老中を目前にして亡くなったために、正定にしてみれば正に、
「拠り所を喪った…」
それも同然であり、それゆえ正定もこれまでのように傍若無人に振舞うことは許されまいと、そうと悟ったようで大人しくなった次第である。
正定という男はどこまでも権門頼みの、実に情けない男でもあった。これで相変わらず傍若無人に振舞っていたならば、それはそれで見上げた気骨であったが、生憎、正定にはそのような気骨は微塵も窺えず、それが証拠に今も意知の熱心な指導に対して実に忌々しそうな表情を浮かべるのが精一杯という有様、情けなさであった。
それとは正反対なのが正倫であり、正倫は寺社奉行の上首として意知の指導を実に満足気な表情で眺めていた。意知を頼もしそうにも見ていた。
今年、天明3(1783)年の7月23日に寺社奉行の上首であった惟成が56にて病没したために、それゆえ今度は正倫が惟成に代わって上首の地位に就いたのであった。
その正倫は奏者番である意知を実に頼もしく思っており、いや、思うだけでなく実際に頼りにしていた。それもひとえに意知が奏者番として実に優秀であったからだ。
今回、将軍・家治への御目見えを果たす土屋健次郎と土井鐵蔵の両名の指導を意知が担っているのもひとえに、正倫が意知に対して両名への指導を命じたからに他ならない。
いや、命じたというよりは頼むと言った方が正確かも知れない。正倫は意知と年が近く…、意知が35歳であるのに対して、正倫はそれより3歳年上の38歳と、正倫にしてもれば意知は弟のような存在であり、それも、
「実に頼りになる弟…」
そのような存在として見ており、意知もこの正倫を寺社奉行の上首として敬いつつも、兄のようにも慕っており、それゆえ正倫と意知は二人だけの時は実に「フランク」な関係でもあったのだ。
そのような間柄ゆえ、正倫が「弟」の意知に二人の指導を頼むのも至極、当然のことと言えた。
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