Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

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chapter,9 (3)

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 独房ってもっと狭くてひんやりしていて薄暗くてとてもじゃないけど常人が住めるような場所じゃないと思っていた。
 ちゃんと蛍光灯はついているし、窓だってある、寒くはない。机とベッドしかないから、がらんとしていて淋しい雰囲気があるけど、人一人が暮らせない場所ではない。けど。

「賢季」

 豊は彼の名を呼ぶ。彼は、虚ろな双眸を豊に向けるが、何も話さない。

「賢季ってば!」

 こんなことになるなら、翠子になんか会わせなきゃよかった。重要参考人として警察にマークされていた彼が、堂々と車を盗んで一人で逃げ出した時点で、彼を止めればよかったんだ。翠子なんかに会わせたから、彼が。
 賢季が、壊れてしまった。

「……どうして何も言ってくれないの?」
「言いたくないからだろ」
「平井、警部」

 豊の隣に控えていた平井が、賢季の変わり果てた姿を見て、静かに、自分の考えを述べる。

「翠子と会う前まで、彼に異変はなかったんだな」
「だから何度もそう言ってるじゃないですか。賢季と翠子さんを二人きりにするまでは」

 日の出を見る前まで、彼は自然体だった。平井たちを連れて戻ってきたら、彼は眠っていた。そして、パトカーの中で目覚めたとき、彼は、豹変していた……まるで、魔法にかかってしまったかのように、沈み込んだまま、何も語らなくなったのだから。

「催眠術で眠らせたと翠子は言っていたな」
「でも、それだけじゃない気が、する」
「なぜ?」

 躊躇うことなく反論してきた豊に、平井が驚きを隠さずに聞き返す。

「刑事さんも見たでしょ? 季節はずれのラベンダー畑を」

 翠子たちと別れ、上城の案内で車まで戻る途中で見た、淡紫色の風景。
 朝陽に照らされたラベンダーの花穂は、弧を描くようなグラデーションで、優しい風に揺らされるのを心地よさそうにしていた。深紫、藤紫、淡紫、紅紫……もうすぐ冬を迎える山奥で、ラベンダーが静かに花開く。
 初夏が見頃だと言われるラベンダーだが、近年のガーデニングブームの影響もあって、最近では屋外に出していても一年中花を楽しめる品種も出てきているという。知らない人間が見たら、季節を間違えて狂い咲きをしているのではないかと思うような、そんな光景だと、平井は思い返す。
 花穂は香油をとったり、ドライフラワーにしたり、ポプリを作ったりする……特に、ここのラベンダーは耐寒性のある、香りの強い品種が数多く植えられているから、安眠グッズによく使われるのよ、と、大利根雪奈は当然のように言っていたが……

「そういや。上城くんが言ってたな。ラベンダーの香りは集中力を散漫にするって。翠子が香油でも焚いていたんだろう」

 長年海外にいた上城は、母親がアロマテラピーに凝っていたから知っていたのだと言う。ラベンダーはリラックス効果があるが、使い方を誤れば、記憶を混濁させる危険性もあると。
 その話を帰りのパトカーの中で聞いて、豊は自分の記憶が何者かによって掻きまわされていたことを確信した。でも、まだ誰にも言っていない。

「刑事さん」

 豊に改めて声をかけられ、平井が不審そうに顔を下に向ける。視線が、合う。

「なんだ?」

 ……刑事さんになら、言ってもいいかもしれない。

「実は。あたしも、その香りに惑わされていたんです」

 マドカの葬儀に、ラベンダーの線香が使用されていたことを。


   * * *


「翠子の子どもの名前? そんなの知ってどうするのよ? 事件に関係あるの? まぁ、事件に関係があるから聞きにきたのよね?」

 賢季が警察の監視下に置かれたと聞いても、玉貴は「あのバカ」と罵りの言葉を吐き出すだけだった。彼が本当に人を殺してないと信じているからだろうと上城と鈴代は考える。
 現当主である夕起久がいまだ入院をしているので、そのぶんを補うように事業を行っている明起久は、執務室にこもったきり、顔を見せずにいる。一人息子の賢季が警察に連れて行かれたことで、もしかしたら玉貴よりも狼狽しているのかもしれない。
 鈴代と上城は、玉貴が一人でいるのを見計らって、従妹だった翠子について尋ねることにした。近淡海家と離縁させられた彼女のことを、今更問われるとは思わなかったのだろう、玉貴は真剣な眼差しで問い掛けてくる鈴代と上城を見比べ、近くにあった扉を指さす。

「……廊下で話すような話題じゃないわ」

 応接室のソファに座り、向き合う形になった三人は、沈黙を置かずに語りだす。

「それで、さっきの話だけど」
「翠子さんの死んだ娘について知りたいんです」
「何を知りたいの? 知ってどうするの?」
「教える気がないみたいな言い方ですね」

 笑顔で牽制する鈴代を見て、玉貴が溜め息をつく。

「そう思われても仕方ないわね。でも、春咲くんはもう彼女に会ってきたんでしょ?」
「どうしてそれを?」

 上城は玉貴にそのことを話しただろうかと首を傾げる。それを見て、鈴代も恨めしそうに玉貴を見上げる。

「警察から事情は聞いたわ。泉観ちゃんのために賢季の情報で取り引きするなんて、あくどいのね」

 ふふ、と妖艶に笑う姿は、本気で彼を怒っていない証拠だ。上城は全部ばれていたのかと、開き直り、頷く。さきほどの玉貴のように。

「そう思われても仕方ないですね。ですが、俺は彼が本当に罪を犯していないと信じているから、彼を警察に手渡す真似をしたんですよ」
「でしょうね。それか、あの子が望んだか」
「あなたならそう言ってくださると思ってました」

 誰もが綺麗だと言う榛色の双眸を、上目遣いで玉貴に見せ、笑顔になる上城。自然と、相手を楽にさせる空気を纏う彼を、玉貴は正直に評価する。

「お上手ね。そうやっていろいろな場所から情報を引き出すんでしょう?」
「ご想像に任せます」

 見つめあう二人。
 まるで恋人同士のような玉貴と上城の会話を、横で不貞腐れて聞いている鈴代。そんな鈴代を見て、玉貴は更に笑う。

「泉観ちゃんったら、かわいいのね」

 どこが? と困惑する鈴代を見て尚も笑いつづける玉貴。ひととおり笑った彼女は、突然真面目な表情に戻って、さらりと呟く。

「ゆうなぎよ」
「ぃえ」

 鈴代がしゃっくりを無理矢理止めさせたような声をあげる。上城は、玉貴の言おうとしたことを素直に理解する。

「夕凪か」

 そして、鈴代も二人が何を言っているのかに気づき、口を開く。

「夕凪……それが」

 翠子と、夕起久の間にできた、娘の名前。
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