Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

文字の大きさ
上 下
49 / 57

chapter,9 (4)

しおりを挟む



「やっぱり、僕の思った通りだ」

 平井が外に出て行って、暫くして。取り残された豊の内耳に響いてきたのは、聞き覚えのある彼の声。

「賢季?」

 豊の声が聞こえたのか、賢季がこちらへ向かって歩いてくる。一歩、また一歩。
 ガラス窓の前で、彼の足は止まる。透明なガラスを隔てて、豊と賢季は見つめ合う。
 髭が、伸びているなと、豊は思う。

「ユタカ、何淋しそうな顔してんだよ」

 くぐもった声。
 土曜日の昼に目覚めて以来、一言も口にしていなかった賢季の、乾いた声。

「あ、あんたこそ……」

 唖然とする豊。にやりと笑う賢季。
 ……まさか、今までのって全部演技?

「ずっと黙ったままで!」

 賢季の悪戯っぽい笑みを見た瞬間。ぶちっと、何かが切れたような感覚と共に、豊は叫んでいた。

「あたしが! どんなにあんたのこと心配してたかわかってないだろ! 翠子に会わせるんじゃなかったって後悔しちゃったあたしがバカみたいじゃないの! バカぁ!」

 絶叫。びぃんびぃんとガラス窓を揺らしている。豊の甲高い声。そういう反応をされるとは思っていなかった賢季、慌てて彼女を遮るように叫び返す。

「ユタカおいこらそこでどうして叫ぶっていうか叫ぶな頼むこっちに係員がくるだろ!」
「知らない! 賢季が壊れちゃったんじゃないかって心配してたんだから! ったく心配して損しちゃったじゃない!」
「だぁかぁらぁ文句はあとで聞くから今は黙ってくれ! これ以上厄介ごと増やすな!」

 喉が渇いたなぁと場違いなことを考えながら、賢季は声を張り上げる。豊に張り合うように。彼女の叫び声を終わらせるために。

「だからってだからって! 狸寝入りしてそのまま廃人のふりしてる? あんたが何考えてるかぜんっぜんわけわかんない!」
「やかまし! 文句はあとで聞くって言ってるだろがあぁつ!」

 ぴし。

「……え、ぴし?」

 目の前のガラスに、一本の薄い線が引かれている。絶叫しながらの言い争いで、隔てられていたガラスを消耗させていたらしい。
 豊の方も聞きなれない音に驚いたらしく、きょとんとしている。
 いまだ。
 賢季は力を込めて、拳を入れる。

「ユタカ、避けろ!」

 ハッとした表情の豊。ひとすじのひびに向けて、賢季の拳が飛ぶ。
 擬音で表現するには禍々しい音が、豊の耳を襲う。思わず両耳を塞ぎ、両目をきつく、閉じる。
 豊を現実に却らせたのは、静けさの後に生まれた、小さな物音。
 自分が、ローファーでガラスの破片を踏んだのだと気づいた豊は、おそるおそる瞳を開く。
 ひとすじの、赤。
 ガラスの破片が、掠ったのだろう。ぴりっとした痛みが走る。
 ぬくもり。
 自分ではない、男性の。
 ガラスに腕一本分の穴が空いていた。そしてそこから。血まみれの右腕が、豊の肩を抱いていた。

「これで、罪状に器物損壊が加わるな」
「賢季……」

 肩で息をしている賢季を見て、体力を消耗させてしまったのだと今更のように痛感する豊。

「何しけた顔してるんだい?」

 それでも、賢季は豊に優しい。ガラス窓を素手で突き破るなんて、痛くないわけないのに、どうして笑っていられるのだろう。

「なんで……」

 思いっきり文句を言おうと思っていたのに。
 右腕だけが、豊の傍にいて。
 ぽんっ、といつものように、頭を撫でられて。
 くもの巣みたいになったガラス窓の向こうで、賢季が微笑を浮かべていたから。
 ……これじゃあ、怒れないよ。
 豊は、頬を膨らませて、零れ落ちた涙を無視した。

「ユタカ」

 呼びかけられて、俯いていた顔を、上げる。

「何?」
「そのまま、聞いてろ」

 突き放すように、賢季は口を開く。

「僕の初恋の相手が翠子だった。彼女は三人の赤子を一人で面倒見ていることから、聖母だと崇められていた。僕も、そんな信者の一人だった」

 ひゅぅ、という苦しそうな呼吸音が、しんとした空間に流れる。

「十五年前、紗枝が心中未遂をしたことで、翠子は解雇された。僕は、彼女が被害者だと思っていた……彼女に会って、確認するまでは」

 苦しそうに、賢季は豊に告げていく。

「君を連れてきたのは、間違いだったのかもしれない。僕一人だったらきっと」

 賢季に言われたとおり、素直に黙ったままの豊。

「ここに戻ってくることは、なかっただろうな」

 自嘲するように、賢季が続ける。

「僕は、翠子のしたたかなところに、魅了されていただけなのかもしれない。目の前で、緑子が死んでいたときの方が、自分が人間らしいと思ったくらいだから」

 でも、自分と緑子は恋人同士なんて甘ったるい関係にはなれなかったと。自分に圧力をかけるように、緑子は傍に置かれたのだから。翠子の妹だった彼女に惹かれたのは事実だった……けど、彼女は賢季の後ろにある肩書きだけを必要としていたんだと。

「変な関係だろ? 緑子は、僕の未来を必要としていたんだ。地位を確立した僕の妻になるよう近淡海の人間に教育されていたから。だから彼女は僕の要求を拒まなかった、たとえそれが自分の望んでいないことであっても」

 豊の身体が震える。右腕の力が、弱まっている。賢季が、こんなこと言ったら軽蔑されるかもしれないけどと、緑子との本当の関係を小声で囁く。

「一線を越えてはいたけど……恋人同士ではなかった。快楽を分かち合う共犯関係って言った方がしっくりしたかもしれない。彼女は僕が次期財閥当主になれないことを知っていたし、僕は彼女が側仕えをしていてくれることで親族の目をごまかしていたんだから」

 でも、それも緑子が殺されたことで、呆気なく消えてしまった。

「犯人は、僕と緑子の関係を知っていたんだろうな。だから、あえて僕の部屋で緑子を殺した……」
「それは、賢季に濡れ衣を着せるため?」

 豊が、遮るように声をあげる。賢季は薄汚いひび割れたガラス窓の向こうで頭を縦に振る。

「たぶん。だから俺はこうしてここにいるわけだし」
「それは、賢季が車を盗んで逃亡を図ったからでしょう?」

 責めるように、いたたまれない口調で、淋しそうな瞳を向ける豊。

「心配してくれたんだ」
「あったり前でしょ! 翠子に会ってから急に態度が変わるんだもの。何があったんだろうって気になって一晩中眠れなかったんだからっ、責任取りなさいよ!」

 零れ落ちた涙が乾いて、頬に筋ができている。豊はそれに気づかないで、再び涙腺を潤ませている。目の前が、霞む。

「取らないよ」

 賢季の右手が、豊の顔に触れる。頬、鼻、目蓋、首……優しく、生温かい血を流しながら、賢季の右手が豊に触れる。

「もっともっと、僕のこと考えて、永遠に眠れなくなればいい……僕みたいに」
「……え」

 賢季の言葉を反芻して、豊は顔を真っ赤に染める。

「ユタカ」

 肩に、力を込められる。拒もうと思えば拒めたけれど、豊はその温もりを受け入れていた。
 自分もそれを、知らないうちに求めていたと、認知していたから。

「すきだ」

 ひび割れたガラス窓から飛び出した右腕に抱きしめられて、豊は知ってるよと心の中で囁く。
 だって……あたしも。
 洋服に賢季の血がついてしまったかもしれない。それでも構わない。彼が目の前から消えてしまうなんて耐えられない。誰かによって濡れ衣を着せられているのも……耐えられない。だから。

「待ってて」

 この事件の真実がわかったら。あたしは返事をするから。今はまだ。
 何も言わないで彼方の腕に甘えさせて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

舞姫【中編】

友秋
ミステリー
天涯孤独の少女は、夜の歓楽街で二人の男に拾われた。 三人の運命を変えた過去の事故と事件。 そこには、三人を繋ぐ思いもかけない縁(えにし)が隠れていた。 剣崎星児 29歳。故郷を大火の家族も何もかもを失い、夜の街で強く生きてきた。 兵藤保 28歳。星児の幼馴染。同じく、実姉以外の家族を失った。明晰な頭脳を持って星児の抱く野望と復讐の計画をサポートしてきた。 津田みちる 20歳。両親を事故で亡くし孤児となり、夜の街を彷徨っていた16歳の時、星児と保に拾われた。ストリップダンサーとしてのデビューを控える。 桑名麗子 保の姉。星児の彼女で、ストリップ劇場香蘭の元ダンサー。みちるの師匠。 亀岡 みちるの両親が亡くなった事故の事を調べている刑事。 津田(郡司)武 星児と保が追う謎多き男。 切り札にするつもりで拾った少女は、彼らにとっての急所となる。 大人になった少女の背中には、羽根が生える。 与り知らないところで生まれた禍根の渦に三人は巻き込まれていく。 彼らの行く手に待つものは。

ダブルネーム

しまおか
ミステリー
有名人となった藤子の弟が謎の死を遂げ、真相を探る内に事態が急変する! 四十五歳でうつ病により会社を退職した藤子は、五十歳で純文学の新人賞を獲得し白井真琴の筆名で芥山賞まで受賞し、人生が一気に変わる。容姿や珍しい経歴もあり、世間から注目を浴びテレビ出演した際、渡部亮と名乗る男の死についてコメント。それが後に別名義を使っていた弟の雄太と知らされ、騒動に巻き込まれる。さらに本人名義の土地建物を含めた多額の遺産は全て藤子にとの遺書も発見され、いくつもの謎を残して死んだ彼の過去を探り始めた。相続を巡り兄夫婦との確執が産まれる中、かつて雄太の同僚だったと名乗る同性愛者の女性が現れ、警察は事故と処理したが殺されたのではと言い出す。さらに刑事を紹介され裏で捜査すると告げられる。そうして真相を解明しようと動き出した藤子を待っていたのは、予想をはるかに超える事態だった。登場人物のそれぞれにおける人生や、藤子自身の過去を振り返りながら謎を解き明かす、どんでん返しありのミステリー&サスペンス&ヒューマンドラマ。

マクデブルクの半球

ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。 高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。 電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう─── 「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」 自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。

時の呪縛

葉羽
ミステリー
山間の孤立した村にある古びた時計塔。かつてこの村は繁栄していたが、失踪事件が連続して発生したことで、村人たちは恐れを抱き、時計塔は放置されたままとなった。17歳の天才高校生・神藤葉羽は、友人に誘われてこの村を訪れることになる。そこで彼は、幼馴染の望月彩由美と共に、村の秘密に迫ることになる。 葉羽と彩由美は、失踪事件に関する不気味な噂を耳にし、時計塔に隠された真実を解明しようとする。しかし、時計塔の内部には、過去の記憶を呼び起こす仕掛けが待ち受けていた。彼らは、時間が歪み、過去の失踪者たちの幻影に直面する中で、次第に自らの心の奥底に潜む恐怖と向き合わせることになる。 果たして、彼らは村の呪いを解き明かし、失踪事件の真相に辿り着けるのか?そして、彼らの友情と恋心は試される。緊迫感あふれる謎解きと心理的恐怖が交錯する本格推理小説。

白雪姫の接吻

坂水
ミステリー
――香世子。貴女は、本当に白雪姫だった。 二十年ぶりに再会した美しい幼馴染と旧交を温める、主婦である直美。 香世子はなぜこの田舎町に戻ってきたのか。実父と継母が住む白いお城のようなあの邸に。甘美な時間を過ごしながらも直美は不可解に思う。 城から響いた悲鳴、連れ出された一人娘、二十年前に彼女がこの町を出た理由。食い違う原作(オリジナル)と脚本(アレンジ)。そして母から娘へと受け継がれる憧れと呪い。 本当は怖い『白雪姫』のストーリーになぞらえて再演される彼女たちの物語。 全41話。2018年6月下旬まで毎日21:00更新。→全41話から少し延長します。

舞姫【後編】

友秋
ミステリー
天涯孤独の少女は、夜の歓楽街で二人の男に拾われた。 三人の運命を変えた過去の事故と事件。 彼らには思いもかけない縁(えにし)があった。 巨大財閥を起点とする親と子の遺恨が幾多の歯車となる。 誰が幸せを掴むのか。 •剣崎星児 29歳。故郷を大火の家族も何もかもを失い、夜の街で強く生きてきた。 •兵藤保 28歳。星児の幼馴染。同じく、実姉以外の家族を失った。明晰な頭脳を持って星児の抱く野望と復讐の計画をサポートしてきた。 •津田みちる 20歳。両親を事故で亡くし孤児となり、夜の街を彷徨っていた16歳の時、星児と保に拾われ、ストリップダンサーとなる。 •桑名麗子 保の姉。星児の彼女で、ストリップ劇場香蘭の元ダンサー。みちるの師匠。 •津田(郡司)武 星児と保の故郷を残忍な形で消した男。星児と保は復讐の為に追う。

人体実験の被験者に課せられた難問

昆布海胆
ミステリー
とある研究所で開発されたウィルスの人体実験。 それの被験者に問題の成績が低い人間が選ばれることとなった。 俺は問題を解いていく…

ヘリオポリスー九柱の神々ー

soltydog369
ミステリー
古代エジプト 名君オシリスが治めるその国は長らく平和な日々が続いていた——。 しかし「ある事件」によってその均衡は突如崩れた。 突如奪われた王の命。 取り残された兄弟は父の無念を晴らすべく熾烈な争いに身を投じていく。 それぞれの思いが交錯する中、2人が選ぶ未来とは——。 バトル×ミステリー 新感覚叙事詩、2人の復讐劇が幕を開ける。

処理中です...