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chapter,9 (4)
しおりを挟む「やっぱり、僕の思った通りだ」
平井が外に出て行って、暫くして。取り残された豊の内耳に響いてきたのは、聞き覚えのある彼の声。
「賢季?」
豊の声が聞こえたのか、賢季がこちらへ向かって歩いてくる。一歩、また一歩。
ガラス窓の前で、彼の足は止まる。透明なガラスを隔てて、豊と賢季は見つめ合う。
髭が、伸びているなと、豊は思う。
「ユタカ、何淋しそうな顔してんだよ」
くぐもった声。
土曜日の昼に目覚めて以来、一言も口にしていなかった賢季の、乾いた声。
「あ、あんたこそ……」
唖然とする豊。にやりと笑う賢季。
……まさか、今までのって全部演技?
「ずっと黙ったままで!」
賢季の悪戯っぽい笑みを見た瞬間。ぶちっと、何かが切れたような感覚と共に、豊は叫んでいた。
「あたしが! どんなにあんたのこと心配してたかわかってないだろ! 翠子に会わせるんじゃなかったって後悔しちゃったあたしがバカみたいじゃないの! バカぁ!」
絶叫。びぃんびぃんとガラス窓を揺らしている。豊の甲高い声。そういう反応をされるとは思っていなかった賢季、慌てて彼女を遮るように叫び返す。
「ユタカおいこらそこでどうして叫ぶっていうか叫ぶな頼むこっちに係員がくるだろ!」
「知らない! 賢季が壊れちゃったんじゃないかって心配してたんだから! ったく心配して損しちゃったじゃない!」
「だぁかぁらぁ文句はあとで聞くから今は黙ってくれ! これ以上厄介ごと増やすな!」
喉が渇いたなぁと場違いなことを考えながら、賢季は声を張り上げる。豊に張り合うように。彼女の叫び声を終わらせるために。
「だからってだからって! 狸寝入りしてそのまま廃人のふりしてる? あんたが何考えてるかぜんっぜんわけわかんない!」
「やかまし! 文句はあとで聞くって言ってるだろがあぁつ!」
ぴし。
「……え、ぴし?」
目の前のガラスに、一本の薄い線が引かれている。絶叫しながらの言い争いで、隔てられていたガラスを消耗させていたらしい。
豊の方も聞きなれない音に驚いたらしく、きょとんとしている。
いまだ。
賢季は力を込めて、拳を入れる。
「ユタカ、避けろ!」
ハッとした表情の豊。ひとすじのひびに向けて、賢季の拳が飛ぶ。
擬音で表現するには禍々しい音が、豊の耳を襲う。思わず両耳を塞ぎ、両目をきつく、閉じる。
豊を現実に却らせたのは、静けさの後に生まれた、小さな物音。
自分が、ローファーでガラスの破片を踏んだのだと気づいた豊は、おそるおそる瞳を開く。
ひとすじの、赤。
ガラスの破片が、掠ったのだろう。ぴりっとした痛みが走る。
ぬくもり。
自分ではない、男性の。
ガラスに腕一本分の穴が空いていた。そしてそこから。血まみれの右腕が、豊の肩を抱いていた。
「これで、罪状に器物損壊が加わるな」
「賢季……」
肩で息をしている賢季を見て、体力を消耗させてしまったのだと今更のように痛感する豊。
「何しけた顔してるんだい?」
それでも、賢季は豊に優しい。ガラス窓を素手で突き破るなんて、痛くないわけないのに、どうして笑っていられるのだろう。
「なんで……」
思いっきり文句を言おうと思っていたのに。
右腕だけが、豊の傍にいて。
ぽんっ、といつものように、頭を撫でられて。
くもの巣みたいになったガラス窓の向こうで、賢季が微笑を浮かべていたから。
……これじゃあ、怒れないよ。
豊は、頬を膨らませて、零れ落ちた涙を無視した。
「ユタカ」
呼びかけられて、俯いていた顔を、上げる。
「何?」
「そのまま、聞いてろ」
突き放すように、賢季は口を開く。
「僕の初恋の相手が翠子だった。彼女は三人の赤子を一人で面倒見ていることから、聖母だと崇められていた。僕も、そんな信者の一人だった」
ひゅぅ、という苦しそうな呼吸音が、しんとした空間に流れる。
「十五年前、紗枝が心中未遂をしたことで、翠子は解雇された。僕は、彼女が被害者だと思っていた……彼女に会って、確認するまでは」
苦しそうに、賢季は豊に告げていく。
「君を連れてきたのは、間違いだったのかもしれない。僕一人だったらきっと」
賢季に言われたとおり、素直に黙ったままの豊。
「ここに戻ってくることは、なかっただろうな」
自嘲するように、賢季が続ける。
「僕は、翠子のしたたかなところに、魅了されていただけなのかもしれない。目の前で、緑子が死んでいたときの方が、自分が人間らしいと思ったくらいだから」
でも、自分と緑子は恋人同士なんて甘ったるい関係にはなれなかったと。自分に圧力をかけるように、緑子は傍に置かれたのだから。翠子の妹だった彼女に惹かれたのは事実だった……けど、彼女は賢季の後ろにある肩書きだけを必要としていたんだと。
「変な関係だろ? 緑子は、僕の未来を必要としていたんだ。地位を確立した僕の妻になるよう近淡海の人間に教育されていたから。だから彼女は僕の要求を拒まなかった、たとえそれが自分の望んでいないことであっても」
豊の身体が震える。右腕の力が、弱まっている。賢季が、こんなこと言ったら軽蔑されるかもしれないけどと、緑子との本当の関係を小声で囁く。
「一線を越えてはいたけど……恋人同士ではなかった。快楽を分かち合う共犯関係って言った方がしっくりしたかもしれない。彼女は僕が次期財閥当主になれないことを知っていたし、僕は彼女が側仕えをしていてくれることで親族の目をごまかしていたんだから」
でも、それも緑子が殺されたことで、呆気なく消えてしまった。
「犯人は、僕と緑子の関係を知っていたんだろうな。だから、あえて僕の部屋で緑子を殺した……」
「それは、賢季に濡れ衣を着せるため?」
豊が、遮るように声をあげる。賢季は薄汚いひび割れたガラス窓の向こうで頭を縦に振る。
「たぶん。だから俺はこうしてここにいるわけだし」
「それは、賢季が車を盗んで逃亡を図ったからでしょう?」
責めるように、いたたまれない口調で、淋しそうな瞳を向ける豊。
「心配してくれたんだ」
「あったり前でしょ! 翠子に会ってから急に態度が変わるんだもの。何があったんだろうって気になって一晩中眠れなかったんだからっ、責任取りなさいよ!」
零れ落ちた涙が乾いて、頬に筋ができている。豊はそれに気づかないで、再び涙腺を潤ませている。目の前が、霞む。
「取らないよ」
賢季の右手が、豊の顔に触れる。頬、鼻、目蓋、首……優しく、生温かい血を流しながら、賢季の右手が豊に触れる。
「もっともっと、僕のこと考えて、永遠に眠れなくなればいい……僕みたいに」
「……え」
賢季の言葉を反芻して、豊は顔を真っ赤に染める。
「ユタカ」
肩に、力を込められる。拒もうと思えば拒めたけれど、豊はその温もりを受け入れていた。
自分もそれを、知らないうちに求めていたと、認知していたから。
「すきだ」
ひび割れたガラス窓から飛び出した右腕に抱きしめられて、豊は知ってるよと心の中で囁く。
だって……あたしも。
洋服に賢季の血がついてしまったかもしれない。それでも構わない。彼が目の前から消えてしまうなんて耐えられない。誰かによって濡れ衣を着せられているのも……耐えられない。だから。
「待ってて」
この事件の真実がわかったら。あたしは返事をするから。今はまだ。
何も言わないで彼方の腕に甘えさせて。
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