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第3章 大切なもの

天使の寝顔②

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「あのさ」

 帰路の最中、俺は言わなければならない事を切り出した。
 いつもの田圃道。やや肌寒い秋の風がもう満ちていて、冬が近いことを知らせてくれる。

「昨日のことなんだけど」
「昨日?」

 彼女は首をかしげていた。
 この様子から鑑みるに、純哉も愛梨も話していないらしい。

「昨日あの後、純哉達に呼び出されてアイビス行ったんだけどさ」
「うん」
「3人で話してたら、そこに玲華が来て⋯⋯」

 彼女の名前を出しつつ、表情を確認する。
 視線の先は道路を見ており、下を向いているので、表情はうかがい知れない。

「で、なんか勝手にそこで玲華が自己紹介し始めて、なんとなく流れであの2人も玲華と知り合いになった」
「⋯⋯そっか」

 やっぱり予想通り、凛は眉を寄せて、困ったように笑っていた。
 こうして彼女はこっそりと我慢を溜め続けているのだろうか。

「なんとなくどんな状況だったかは想像つくけどさ。どうしてそれを話したの?」
「後で知ったら嫌だろうな、と思って」
「まあ、それは確かに嫌かも」

 凛は、こつ、とつま先で小さな石を蹴った。

「怒った?」
「怒らないよ。玲華の性格知ってるから」

 やっぱり彼女は諦めたように困ったような笑顔をしていて、胸が痛む。こんな顔をさせたくないのに。それでも、言わないよりは言った方が良い。

「玲華が誰と知り合ってどうなったかなんて、私がどうこう言える問題じゃないし」

 凛は大人だった。大人だからこそ、きっと愛梨の言うように、不満を我慢し続けているのかもしれない。

「あ。でも、翔くんが玲華に見惚れてたなら、怒るかも」

 少し悪戯っぽい表情を作って、笑いかけてくる。
 からかうような意図もあるが、気持ちが暗くなっている事を隠しているようにも見える。どっちか全然わからなかった。
 やっぱり、女優の本心を見抜くのはそう簡単ではない。
 
「⋯⋯そんなわけないだろ」

 俺には、そう言うしかない。見惚れてないし、見惚れないし。

「私には?」
「は?」
「私にも、見惚れない?」

 そこにはからかうような笑みがあったけど、それは何んとなく本心なんだろうな、と気付けた。

「⋯⋯今日、うつらうつらしてたところも、寝顔も、真剣に台本を読んでた時も、ずっと見惚れてたよ」

 事実を言ってみた。彼女の無防備な寝顔をずっと見ていたいと思っていた。それは間違いない。

「できれば最後のところ以外は見惚れないでほしかったかも」

 言って、凛は可笑しそうに笑っていた。きっと、これも本心の笑顔だ。いや、そうだと思いたかった。

「玲華もさ、きっと寂しいんだと思うよ」

 傾いて山に隠れようとする夕日を眺めて、凛はぽつりと言った。

「周りは大人ばっかりで、ずっと気持ち張ってて⋯⋯ほんとは同世代の人と話したいし、もっと遊びたいんだと思う。今の玲華ほど忙しくはなかったけど、私も気持ちはわかるから」

 凛はコンクリートではなく、なぜかあぜ道を歩いていた。彼女のローファーに乾いた泥が少しついてしまっている。

「でもさ、玲華をそんな環境に戻しちゃったのは私だから。私の代役を引き受けたせいで⋯⋯私が無責任な辞め方しちゃったせいで、玲華はここにいるから」

 蹴りやすそうな小さな石を見つけて、つま先でコンコン蹴る。そのしぐさは、どこか拗ねている子供のようだった。

「だから、仮に私が今嫌な気持ちになったとしても、全部私の責任。自業自得ってやつ?」

 あはは、とまた困ったような笑顔を見せる。
 彼女のこの表情は、そんなに嫌いではない。俺や純哉がバカをやっているのを見て『しょうがないなぁ』と言っている感じがして、普段なら好きな表情のひとつだ。
 でも、今は⋯⋯この話題のときにその表情をされると、痛々しく見えてしまう。その笑顔の裏に哀愁さを感じてしまうから。
 俺が玲華と付き合っていたという過去が、彼女をこんな気持ちにさせてしまっている。もちろん、その過去がなければ、凛も俺を知ることはなかっただろうし、それがなければ、きっと夏休みの終わりにあの場所で俺と話そうとも思わなかったはずだ。
 結局、俺と玲華の過去ありきでないと、凛との今は有り得なかった。
 そうでないと⋯⋯俺達は、同じものを共有できなかったのだから。同じものを目指し、同じように破れ、同じように心を折られた⋯⋯その、お互い最も恥ずべき箇所を、理解し合えなかった。だから、玲華の存在は必要不可欠なのだ。
 因果で無情な世界だ、と思う。
 加えて、9月のRIN引退劇だ。RINの代わりという形で後任を引き継いだのが、REIKA。
 彼女は永遠に玲華から逃げられない。自責の念に刈られながらも、ずっとこうやって笑って、自分の本心を誤魔化すしかないのだ。
 そんな彼女の表情が見たくなくて、思わず肩を抱き寄せた。
 驚いてこちらを見上げて、一瞬身を強張らせる凛。そのまま、彼女の唇を奪った。

「んっ」

 最初は驚いていたが、強張っていた体が少しずつ脱力してくる。
 少しだけ長い口づけをしてから、身を離した。

「⋯⋯こーら。道の真ん中だよ?」

 少し怒ったように言っているが、頬は赤く染めていた。

「誰もいないから大丈夫」

 周囲を見渡しても、トラクターを運転しているおじいさんが遠くにいるだけで、学生は誰もいなかった。誰にも見られていない。

「そういう問題じゃないでしょっ」

 でも、彼女は笑っていた。いつもの笑顔。自分を誤魔化していない笑顔。
 そっちのほうが好きだった。
 凛には自分を誤魔化していてほしくなかった。

「⋯⋯ありがと」

 小さな声で、凛がそう言っていた。
 もしかしたら、意図に気付かれたのかもしれない。
 でも、敢えて聞かなかったことした。
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