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第3話

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 例のあの女はまだゴミを出してなかった。アパート共同のゴミ捨て場の暗証番号は0128で、この番号は数ヶ月おきに変えられるけれど、その全てをボクは既に把握している。これから変えられる番号のリストを入手しているためだ。女は数日おきにゴミを出す―——大抵の人間と同じように。女の出すゴミの中でも特徴的なのは、青色の清涼飲料水が多いことだ。炭酸の、甘ったるくて、頂が白い山が描かれた青いラベルが貼られている。今はそのゴミもない。

 当たり前だった。今朝探してきたばかりなのだから。今あるのはその残り滓みたいなもので、男の言われた通りその中身を洗い直しているのだが、目ぼしい情報は何もありそうになかった。女の残したレシートを眺め直してみる。

 エノキ、舞茸、350mlビール三缶、煙草、牛乳、ダイエット菓子、ガム、キムチ、大根、水……これを見た限りでは女は一人暮らしっぽくも見えるが、ボクもそこまであの女について詳しいわけではない。だから推測でしかないのだが、女は、……多分、嗜癖体質だ。健康的な暮らしをしているようにも思えなかった。とは言ってもボクごときがそんな事を言える暮らしぶりでもないのだが。今は金が必要だ。今日、明日を生き抜く為の。

 再び黒いゴミ袋の中を漁り直そうとしていると、後ろから声がした。その声はボクに向けられていた。心臓が縮まるような感覚がして、胸に鋭い痛みが走った。

「何してるの? 君」

 その男は、背丈は平均的で、白いロングコートを羽織っていた。秋に入ったとはいえ冷えるにはまだ早く、暑くないのだろうかとボクは思った。そして何より奇妙に映るのは、右肩に小さな何かがちょこんと乗っていて、鼻を小刻みに震わせながら大きな黒い瞳をこちらに向けてきている。何だろう、この取り合わせは。奇妙だ。不思議で不自然だ。それ以外にどう形容したらいいのだろう。

 ボクはその二人に目を奪われたまま、何と返事を返せばいいのか全く分からず、しばしの間呆然としていた。男の方が地面を掘り返すように軽く動かした後、独り言のように呟いた。

「まあ、どうでもい事なんだけどね……」

「……何がどうでもいい事なんです?」

 ボクが問い返すと、代わりに男はコートの右ポケットの辺りに手を差し込むと、何か丸いものを取り出した。遠くてよく見えないけれど、どうやら懐中時計のようだった。陽を受けて鈍色に光っている。

 男はその懐中時計を暫く眺めた後、手首の腕時計の方に目を落とした。そして、徐にボクの方を見遣って、唐突に言った。

「三歩、前へ」

「へ?」

 男が叫ぶ。

「いいから、早く!」

 ボクは何が何だか分からずに、言われた通り自分の歩幅で三歩分、男の方に歩いた。そして、後方で何か重たい音が響くのを聞いた。

「ちっ」

 上の方で悪態と舌打ちが聞こえ、見上げると、アパートの三階の一つの部屋から窓とカーテンが閉められる音が聞こえてきた。ボクは自分が今いたばかりの場所を見やる。

 駐車場に置かれている鼠色のコンクリートブロックだった。一体何キロあるのだろう。黒いゴミ袋の中に埋没して、その衝撃でゴミが散乱してしまっている。ボクが男に言われずに、あのままあの場でゴミ漁りを続けていたら、間違いなく頭が砕かれていた。あの男が三歩前に歩くように言わなかったら、ボクは。

「ねえ、あなたは……」

 そこには誰もおらず、あの珍妙な生き物の姿も見えなかった。最初からそこには誰もいなかったみたいに、辺りは沈黙と静寂に包まれていた。ボクは黒い袋の中に埋没したコンクリートブロックを見つめ、それから何故か自分の服装を見直し、穴の空いた靴を見下ろした。時間が流れていて、靴の隣を小さな蟻が列を成して歩いていた。
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