狐侍こんこんちき

月芝

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其の三百五十八 お誘い

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 外からでは真っ暗に見えていた隧道だが、いざ足を踏み入れてみると薄暗いながらも、歩くのに不自由はしなかった。
 いまは通りがかる者もなく、しぃんと静まり返っている。
 内部の岩肌はごつごつしている。細かいおうとつは杭と槌でこつこつ削った跡だろう。
 道はなだらかな、それこそ意識せねば気づかぬ程度の下り坂になっている。
 ひんやりした空気、壁にぺたりぺたりと手をつき頼りにしつつ、ゆっくりと進んでいく。
 すると不意にのばした手が空を切ったもので、藤士郎は「おっと」
 軽くつんのめった。よくよく見てみれば、そこの壁だけ他より少し深く窪んでいる。削ったというよりも、欠けたようになっている。掘り進めるうちに、岩が割れたのかもしれない。

 隧道も半ばを過ぎた頃――
 前方より漂ってくる香りがぷぅんといっそう濃くなった。
 目を凝らして見てみれば人影がある。輪郭からして女のようだが、ここからでは顔まではわからない。
 けれども藤士郎はそこで足を止めて、声をかけた。

「貴女だね、川に落ちた私を助けてくれたのは? 私は貴女を斬りたくない。どうか黙って行かせちゃくれないだろうか」

 本心だ。どのような思惑があったにせよ、命の恩人を手にかけたくない。
 するとわずかな沈黙の後に返事があった。

「……行かせてあげてもいい」

 だから藤士郎は喜んだのだが、それも束の間のこと。
 立ち塞がっている女は続けてとんでもないことを口にする。

「ただし、貴方が……九坂さまが残ってくれるのなら」

 意味がわからず藤士郎が目をしばたたかせていると、不意に女が「ふふふ」と笑う。
 女は言った。

「貴方が欲しい。欲しくて欲しくてたまらないのよ」

 次々と襲いかかってくる朧一家の刺客たち。
 これに対して一歩も引かず、子どもを守りつつ孤軍奮闘し、いくつもの死線を潜り抜けてきた。

「鵜月、土竜、八名、五郎、蝸牛、鰐、ついにはあの紅夜佗まで……」

 一見すると飄々としており、お堀沿いに生えている垂れ柳みたいで頼りなさげな風貌なのに、こと戦いが始まったとたんに豹変する。
 ひとたび腰の小太刀を抜けば、たちまち鮮血が飛び散り、戦場を朱に染める。
 昨今の武士が忘れてしまった熱が、苛烈さが、そこにはあった。
 その勇ましい姿に、すっかり目を奪われ惚れこんでしまった。
 女は己の想いの丈をつらつら吐き出す。
 それはまるで恋に浮かれる乙女のようであった。
 だがしかし、銅鑼も言っていたではないか。

『道成寺の蛇淫も真っ青』と。

 その意味は次に女が発した言葉で判明した。

「だから、ねえ。九坂さま。私と、この麻霧といっしょに逝っておくれよ」

 甘えるように言われたのは、よもやの相対死に――心中のお誘いにて、藤士郎はぞぞぞと総毛立つ。
 惚れたはれたまでは藤士郎にも理解できる。
 自分は経験がないが、世間にはひと目惚れというのもあるのだろう。
 ままならぬ恋路にて、互いの手首を紐で結んでは、大川に身を投げる男女も、江戸ではちらほらいる。御上はこれを禁じているけれども後を絶たない。
 さりとて、この誘いは藤士郎の理解の範疇を越えていた。
 引き抜きでもなければ、手を引けと脅すのでもなく、また「いっしょに逃げて」と懇願するでもない。
 けっして世迷言でも戯言でもない。
 麻霧が真剣なのは、ひしひしと伝わってくる妖気にて明白である。

「私だけを見て、私だけの声を聞いて、私だけに触れて、私だけを感じて……」

 私だけ私だけとつぶやく麻霧、鬼気迫る雰囲気がみるみる膨れ上がっていく。
 このままでは埒が明かない。
 というか、とてもではないが付き合いきれない。
 だから藤士郎は麻霧に当て身でも喰らわせて、さっさと先へ進もうとした。
 だがしかし、近づこうとしたところで、ずっと隧道内に漂っていた甘い香りがさらに濃くなった。それとともに舌先や鼻孔の奥に異変が生じ藤士郎は「うん?」
 ぴりっとした山椒を舐めたような……。
 痺れるとまではいかぬが、微細な刺激がある。

「?」

 訝しむ藤士郎がその時目にしたのは、麻霧の手にて広げられている扇の姿である。
 左右の手にひとつずつ、ふたつの扇を持っては、まるでこちらを扇ぐかのような仕草にて、揺らしている。
 その姿は、寝苦しい夏の夜に、愛しい男へと風を送っているかのよう。
 柔らかな風に乗り、早春の蝋梅にも似た匂いがより強く漂ってくる。

 互いの顔がわかるほどの距離となる。
 近づこうとする藤士郎を麻霧はじっと見つめていた。
 その瞳はぬらりと濡れており情念が浮かび、表情はとてもうれしげである。
 逢瀬を待ちわびる女の顔だ。
 そんな麻霧が不意にふたつの扇をぱちりと閉じた。
 風が止んだ。
 二人の間には甘い香りが満ち充ちている。
 にこりと微笑む麻霧が、右手をかざす。手にしている閉じた扇を、もう片方へと向かって振り下ろすつもりのようなのだが……。

 麻霧の口元からちろりとのぞく舌が赤かった。
 それを目にした瞬間、藤士郎はきびすを返していた。
 理屈じゃない。直感が告げている。
 いますぐその場から離れろと。
 そんな藤士郎の背後から追い縋ってきたのは、麻霧の声。

「駄目よ、逃がさない」

 直後のこと、かちりと音がして、薄暗がりの中に火花が散ったとおもったら、隧道内がたちまち炎に包まれた。
 あれは早春の蝋梅の香りなんぞではなかったのだ。
 特殊な香油、それもうっとりするほど甘い香りの裏で、死の炎獄へと誘う……。


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