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其の二百七 黒い男
しおりを挟む思い込んだら一直線の魚心は誰にも止められない。
なにせ、絵の道を志すと決めたとたんに、己にまとわりつく渡世のしがらみを振り払ったばかりか、妻子をも捨てた男なのだから。
なのに、その捨てた妻子の身を案じて、ひた走る。
これはいささか、いや、おおいに矛盾を感じる行動ではあるが、それもまた魚心という男なのであろう。
それに人間、そうそう割り切れるものでもない。
吉原を飛び出した魚心が向かったのは、日本橋のとある呉服屋であった。
だが、目当ての店が近づいてくるほどに、駆ける勢いがじょじょに弱まり、ついには止まったばかりか、急に物陰に隠れた。
魚心のそんな動きに怪訝な表情を浮かべつつも、藤士郎もそれに倣う。
彼の視線の先を追えば、そこには店の軒先にて笑顔で客を見送っている、若夫婦らしき姿があった。
「……無事だったか」と魚心がつぶやいた。
どうやら、あれが良縁に恵まれて嫁いだという魚心の娘らしい。
いまのところ凶事に見舞われた様子はなくて、ほっとひと安心するも、藤士郎はすぐにぎょっと目を見張ることになる。
狐侍を驚かせたのは、若夫婦が見送っていた相手である。
いい身形をした、いかにも大店の主人といった風情の、大きな狸の置物のような恰幅のいい男……。
「げっ、あれは……千曲屋!」
かつて河童を巻き込んだ抜け荷騒動があった。
その中心にいたのが千曲屋文左衛門(ちくまやぶんざえもん)、何かと黒い噂がつきまとう札差である。
札差とは、公儀から旗本や御家人らに支給される扶持米を扱う業者。その数は百ほど。
莫大な量の米の運用を任されているがゆえに、産み出される利鞘も桁違い。
そうして得た富を元手に、別の商いに手を広げては更なる利を呼び込んだり、武士相手に高利貸しをしたり。
江戸に数多ある商家。大店と呼ばれるところはいくつもあれども、札差ほど安定して高い利益をあげ続けている稼業はない。
それゆえに方々に顔が利く。それこそ雑草が地下に根をはるように、あちらこちらに伝手を持つ。影響力は絶大だ。江戸の経済を、ひいては日ノ本の経済を牛耳っていると言っても過言ではない。
この千曲屋文左衛門なのだが、背後関係もまた相当にきな臭い。
札差の利のみではなく、抜け荷で得た莫大な富。
それらがいったい何に使われ、どこに流れているのか。
すべては次の将軍の座をめぐる争いへと繋がっている。
ゆえに抜け荷の一件や、それにまつわる殺人事件が露見しても、捜査の手は千曲屋には届かなかった。
権力と金……、ぶ厚い壁に阻まれて、正義が執行されないことに、藤士郎の知己である南町奉行所の定廻り同心をしている近藤左馬之助(こんどうさまのすけ)なんぞは、奥歯を噛み潰さんばかりに、悔しがっていたものである。
そんな黒い男、文左衛門が店に出入りをしている。
江戸でも屈指の札差ゆえに、上客だ。若夫婦がそろってお見送りをしているのは、なんら不思議ではない。
あくまで客としての付き合いなのか、それとも裏に何らかの繋がりがあるのかは、わからないが、願わくは前者であって欲しいと藤士郎は思った。
でなければ、そんなところに嫁いだ魚心の娘の身が危ぶまれるもの。
◇
とりあえず娘の無事を確認した。
魚心が次に向かったのは、別れた女房が後妻におさまっている大店のところ。
その大店というのは呉服屋の高島屋である。
大名家御用達として有名な老舗の名店にて、藤士郎ごとき浪人者にはとんと縁がない場所だ。
そんな大店中の大店の店主から、見初められて後妻に迎え入れられるだなんて、魚心の元女房殿ってば、なにげにすごい女人なのかもしれない。
藤士郎が、ついそんな感想を零せば、魚心はにやにやして「そうだろう、そうだろう」と、我が手柄のように喜んだ。
う~ん、やっぱり、この人はいろいろとずれているようである。
でもって、そんな高島屋なのだが、ちょっと忙しなく人の出入りがあって、店先がざわついていた。
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