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其の三 八百八坂
しおりを挟む戦国乱世も遠い昔。
徳川の世になってから、すでに将軍さまも九つばかりの代替わり。
天下泰平はけっこうながら、よくも悪くもなかだるみ。巷では老中・田沼意次さまの権勢がすごいと、もっぱらの評判となっている今日この頃。
開府以来いろいろあったけど、なんだかんだで繁栄を続けている大江戸八百八町。
日の本中から人、物、銭、その他もろもろ、陸路や海路からこぞって集まり、気がつけば溢れんばかりのごった煮状態になっていた。
でもこれが妙に居心地がいいから、とっても不思議。
「いやはや、一度ここの水に慣れたら、もう他所の土地ではとても暮らせないよ。離れていると無性に恋しくなってたまらねえ」
とは、どこぞの盗賊の頭目が残した言葉。
大勢の手下を従え、大店ばかりを狙っての荒稼ぎ。一万八千両もの大枚をせしめて、まんまと関八州の外へ逃げおおせたというのに、江戸恋しさについ舞い戻ったのが運の尽き。お縄になって獄門送りとされた。
そんな大盗賊をも魅了してやまない江戸だが、当然ながらいいことばかりではない。
とくに暮らしていて辟易させられるのが、なんといっても坂の多さ。
犬も歩けば坂に当たるというぐらい。大小ぴんきり、行く先々にてめったやたらと遭遇するもので、これを揶揄して八百八坂といわれるほど。
そんな八百八坂のうちのひとつ。
近在の者らは「くだん坂」とか「くらやみ坂」なんぞと呼んではいるが、正式な名はない。これをおっちら登った先に、その道場はあった。
掲げられている看板には「伯天流道場」の文字。
門構えはそれなりに立派。でもよくよく見れば全体がちょっと傾いている。おかげで建付けが悪い。門扉はビクともしないもので正門は長らく閉じたまま。
脇にある潜り戸はいちおう使えるけれども、こいつを開けるのにも少しばかりこつがいる。
こう、ちょいと戸そのものをくいと持ち上げて、下の隅っこをつま先でぐいぐいと押しながら、いっきに「どっこいしょ」といった具合に。
しかし毎度毎度これをするのは、たいそうめんどうくさい。
そこで住人は潜り戸を通らず、もっぱら敷地を囲む土塀の崩れたところからひょいと出入りをしている。
◇
濡れ仏なんぞを拝んだせいで、せっかくのいい気分が台無し。
それから立派にお勤めを果たし、世間の役に立っている友人の姿も眩しかった。
「比べて我が身のなんとなさけないことか……」
猫背気味の背をいっそう丸めて、ちょいとへこんだ藤士郎。もう散歩をきりあげて帰ることにする。
えっちらおっちら、坂をのぼると見えてきたのは自宅兼道場。
たとえあばら家でも住み慣れた我が家が一番。
藤士郎は潜り戸のある正門ではなくて、手前にある土塀の裂け目に近づくも、いったんそこで足を止める。首だけをのばし壁の向こうの様子をうかがう。
家主であるのにこそこそしているのは、母志乃の目を気にしてのこと。
朝から元気で働き者の幽霊は、あれでけっこう礼儀作法にやかましい。
うっかり横着しているところを見咎められたら「まぁ」とあきれられ、「藤士郎さん、ちょっとそこにお座りなさい」と正座をさせられ、くどくどお説教がはじまってしまうのだ。
これがまた長いこと長いこと。
はてには嫁の来手もないというのに、「あぁ、はやく孫の顔がみたいわ」とか言い出すからたまらない。
「貧乏神だけではあきたらず、昼間から姑の幽霊がふらふらしている家なんぞに、嫁にきてくれる奇特な者がおりましょうや?」
藤士郎がちくりとすれば「その程度でひるむ嫁なんぞ、こちらから願い下げです」なんぞと無茶を言う。
周囲に人影はなし。
「しめしめ、母上は奥だな。よし、ではいまのうちに」
藤士郎はさっそく壁を潜ろうとするも、そのときことであった。
不意に「かちゃり」と音がした。
とても小さくか細い、ともすれば聞き逃しかねない音。
なのに耳が拾ったのは、響きが刀の鍔鳴りに似ていたせいであろうか。
「はて?」
訝しむ藤士郎。自分ではない。音の出所を探る。それは門前の方から聞こえたような気がした。だからそちらへ顔を向けてみると、開かずの門扉の前でうずくまっている者の姿があった。
藤士郎はあわてて駆け寄り声をかけるも返事はない。まだ年端もいかぬ子どもだ。身なりからしてどこぞの武士の子のようだが、ぐったり気を失っている。
とてもこのままには捨て置けない。藤士郎を子どもを抱きかかえるなり急ぎ家へと運び込む。
「母上、母上、たいへんです! 家の前に子どもが落っこちておりました」
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