2 / 483
其の二 濡れ仏
しおりを挟む月のない夜だった。
暗闇の中、ゆらゆらと堀沿いの道を漂うのは提灯の明かり。
その明かりがふつりと消えた。
あわてたのが提灯を目印にあとをつけていた者。
主君の命を受けて極秘裏に江戸市中を捜しまわること百日ばかり。ようやく見つけた目当ての男。ここで見失ってはなるものかと足をはやめる。
けれども近づくうちに、とりこし苦労であったことがわかった。
なんてことはない。相手が道をそれて角を曲がっただけのこと。ちょうど自分の位置からだと見えづらい場所へ入り込んだがゆえのはやとちり。
だが安堵したのも束の間。
自分もその角を曲がろうとしたところで、ぎらり、閃く白刃。
待ち伏せ!
尾行を悟られていたのだ。
ひと息に串刺しにせんと迫る切っ先。鋭い刺突による不意打ち。
とっさに身をよじってどうにかかわせたのは、これまでの人生の大半をかけて磨いてきた剣術の賜物。あまりの熱の入れように周囲からは「おまえは生まれてくる世をまちがえた」と呆れられてもなお続けた研鑽。おかげで頭よりも先に体が勝手に動く。
家中でも指折りの剣客。その腕を見込まれての今回のお務めでもあった。
この一刀をもって相手がおとなしく従う気がさらさらないのは明白。
ゆえにすぐさま己も腰の得物を抜いた。
◇
書物問屋の銀花堂に頼まれていた写本を納入しての帰り道。
難解な医学書を写すのには骨が折れたものの、仕上がりは上々。
応対した若だんなにも褒められ、けっこうな稼ぎとなったもので九坂藤士郎はほくほく顔。
いまのご時世、剣の腕一本でやっていけるほど甘くはない。ましてや門下生のいない貧乏道場ならばなおのこと。
武士は食わねど高楊枝なんぞは、とんだ世迷い言。
働かざる者、食うべからず。それこそが真理。
ゆえに食い扶持を稼ぐために、藤士郎は夜なべしてせっせと写本仕事に精をだし、たまに釣り竿を垂れては高値で引き取ってもらえる鰻(うなぎ)や鯰(なまず)を狙い、ときに風呂屋や料理屋で薪割りをしたり、自宅の裏の竹林にて筍を掘ったりもする。
えっ、仕官先を探さないのかだって?
ははは、いまどきそんな話があるものか。
いやはや、どこの藩もかつかつにて台所は火の車。新たに人を雇う余裕なんてとてもとても。
さて、懐も潤ったことだし、陽気もいい。
たまにはゆっくり散策でもと考えた藤士郎。
自宅兼道場がある坂の前をそのまま通り過ぎる。
近所の知念寺にお参りをし、門前通りにある馴染みの茶屋で看板娘と談笑しつつ一服、あとは足の向くまま気の向くまま、町中をぶらぶら。
そうしてお堀沿いを歩いていたら、前方に人だかり。
がやがや、道が半分ふさがっている。
「いったいなんの騒ぎだい?」
野次馬のひとりに声をかければ「仏さんだとよ。なんでもばっさり殺されて、お堀に浮かんでいたらしい。またぞろ辻斬りかねえ。おぉ、いやだいやだ」
諸方から流れついた食い詰め牢人が辻斬りに身をやつす。
江戸ではとくに珍しい話ではない。
だからさっさと通り過ぎてしまおうとしたのだが……。
「おっ、藤士郎じゃねえか。ちょうどよかった。ちょっとこっちに来てくれ」
背が高いのが災いし、知己に見つかってしまった。
声をかけてきたのは、南町奉行所の定廻り同心をしている近藤左馬之助(こんどうさまのすけ)。健康的に焼けた肌に精悍な顔立ち。がっちりとした岩のような体躯をしており、いかにも屈強な武士然としている。
青白い狐面のひょろ長のっぽ。どこか垂れ柳を連想させる見た目の九坂藤士郎とはおおちがい。
このふたり、知り合ったのはいまから六年ほど前のこと。
さる幕府の重鎮宅で開かれた御前試合のおりに、顔を合わせて以来のつき合い。
藤士郎、左馬之助、ともに十代半ばのことであった。
友人から大声で呼ばれたもので、しぶしぶ人垣をかきわけ藤士郎は前へと。
たちまち周囲から向けられる好奇の視線。お尻のあたりがむずむずして、どうにも居心地が悪いったらありゃしない。
猫背気味の背をいっそう丸めて縮こまる藤士郎。
「まったく、左馬之助はひどい男だよ。わざわざ呼びつけて、私に死体を拝ませようだなんて。趣味が悪いのにもほどがある」
「ははは、すねるなよ、藤士郎。今度また団子でも奢ってやるから。それよりもおまえに診てもらいたいのは、こいつだ」
戸板の上に寝かされてある濡れ仏。かけられてある筵(むしろ)をめくるなり、あらわとなったのは武士とおもわれる人物。歳の頃は三十から四十ぐらいか。
まず目についたのは刀傷。
左肩から右腰へとかけて斬られている。見事な太刀筋。しかし傷がいささか深過ぎる。鎖骨から胸のあたりの骨ごと、その奥の臓腑を抉っている。
動かない巻き藁や案山子の試し切りじゃあるまいし。ここまでざっくりやる意味がない。
それこそ殺すだけならば、首筋をちょんと切っ先でかすめるだけでこと足りる。これでは斬ったほうの刀も無事ではすむまい。よくて刃こぼれ、最悪、歪むか折れているかも。
傷口の様子をみてから、藤士郎は仏さんの手のひらをたしかめ、続いて全身にざっと目を通す。
「立派な剣だこをたくさんこさえているねえ。それにこの身体……生半可な鍛錬ではこうはなれないよ。この人、相当の遣い手だったんじゃないのかしら。しかしそのわりには肝心の腰の物がどこにも見当たらないような。ひょっとしてお堀に沈んでいるのかも。もしくはけっこうな業物にて下手人に盗まれたとか?」
「相当の遣い手というのはおれも同じ見立てだ。しかしそんな男を正面から斬り伏せているのだから、下手人の腕もかなりのもんだろう。やれやれ、こいつはふん縛るのにたいそう苦労をさせられそうだ。仏さんの腰の物についてはなんともいえん。おれが駆けつけたときにはすでに辺りにはなかったからな。掘をさらえば出てくるかもしれんが。あと身元を示すような品は何も所持しちゃいない。かといって財布は手付かずのままだから、単純な物盗りというわけでもなさそうだし。うーん」
あごを撫でながら考え込む仕草をとる左馬之助。
そのあいだも抜け目なく周囲の野次馬へと目を光らせている。下手人もしくはその一味がどうにも気になって、犯行現場へとのこのこ足を運ぶことが往々にしてあるからだ。
怪しい人物が混じっていないか、それとなく探っているのはさすが。
若くして切れ者と評判の有望株。かつて捕り物での活躍が話題となって瓦版になっただけのことはある。
感心しつつ、検分を終えた藤士郎。筵をかけなおし手を合わせ、南無南無。
「しかし妙な下手人だね。これだけの腕の持ち主なら、刀を痛めるようなへまはしないと思うのだけど」
「たしかになぁ」
「なんていうか、どうにもやってることがちぐはぐだね。とはいえ、この分だと下手人の刀もただじゃあすむまいよ。仏さんの身元を探りがてら、そっちの筋でも追ってみたらどうだい」
「そうだな。ではさっそく手下に当たらせてみよう。うまくいけば仏さんの身元がわかるよりも先に、下手人の目星がつくかもしれんしな」
言うなりてきぱきと差配をはじめる近藤左馬之助。
頼もしい友人の姿に目を細める九坂藤士郎は、邪魔にならぬようにと静かにその場をあとにする。
1
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
柳鼓の塩小町 江戸深川のしょうけら退治
月芝
歴史・時代
花のお江戸は本所深川、その隅っこにある柳鼓長屋。
なんでも奥にある柳を蹴飛ばせばポンっと鳴くらしい。
そんな長屋の差配の孫娘お七。
なんの因果か、お七は産まれながらに怪異の類にめっぽう強かった。
徳を積んだお坊さまや、修験者らが加持祈祷をして追い払うようなモノどもを相手にし、
「えいや」と塩を投げるだけで悪霊退散。
ゆえについたあだ名が柳鼓の塩小町。
ひと癖もふた癖もある長屋の住人たちと塩小町が織りなす、ちょっと不思議で愉快なお江戸奇譚。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

ふたりの旅路
三矢由巳
歴史・時代
第三章開始しました。以下は第一章のあらすじです。
志緒(しお)のいいなずけ駒井幸之助は文武両道に秀でた明るく心優しい青年だった。祝言を三カ月後に控え幸之助が急死した。幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた志緒と駒井家の人々。一周忌の後、家の存続のため駒井家は遠縁の山中家から源治郎を養子に迎えることに。志緒は源治郎と幸之助の妹佐江が結婚すると思っていたが、駒井家の人々は志緒に嫁に来て欲しいと言う。
無口で何を考えているかわからない源治郎との結婚に不安を感じる志緒。果たしてふたりの運命は……。

御様御用、白雪
月芝
歴史・時代
江戸は天保の末、武士の世が黄昏へとさしかかる頃。
首切り役人の家に生まれた女がたどる数奇な運命。
人の首を刎ねることにとり憑かれた山部一族。
それは剣の道にあらず。
剣術にあらず。
しいていえば、料理人が魚の頭を落とすのと同じ。
まな板の鯉が、刑場の罪人にかわっただけのこと。
脈々と受け継がれた狂気の血と技。
その結実として生を受けた女は、人として生きることを知らずに、
ただひと振りの刃となり、斬ることだけを強いられる。
斬って、斬って、斬って。
ただ斬り続けたその先に、女はいったい何を見るのか。
幕末の動乱の時代を生きた女の一代記。
そこに綺羅星のごとく散っていった維新の英雄英傑たちはいない。
あったのは斬る者と斬られる者。
ただそれだけ。

野槌は村を包囲する
川獺右端
歴史・時代
朱矢の村外れ、地蔵堂の向こうの野原に、妖怪野槌が大量発生した。
村人が何人も食われ、庄屋は村一番の怠け者の吉四六を城下へ送り、妖怪退治のお侍様方に退治に来て貰うように要請するのだが。

高槻鈍牛
月芝
歴史・時代
群雄割拠がひしめき合う戦国乱世の時代。
表舞台の主役が武士ならば、裏舞台の主役は忍びたち。
数多の戦いの果てに、多くの命が露と消えていく。
そんな世にあって、いちおうは忍びということになっているけれども、実力はまるでない集団がいた。
あまりのへっぽこぶりにて、誰にも相手にされなかったがゆえに、
荒海のごとく乱れる世にあって、わりとのんびりと過ごしてこれたのは運ゆえか、それとも……。
京から西国へと通じる玄関口。
高槻という地の片隅にて、こっそり住んでいた芝生一族。
あるとき、酒に酔った頭領が部下に命じたのは、とんでもないこと!
「信長の首をとってこい」
酒の上での戯言。
なのにこれを真に受けた青年。
とりあえず天下人のお膝元である安土へと旅立つ。
ざんばら髪にて六尺を超える若者の名は芝生仁胡。
何をするにも他の人より一拍ほど間があくもので、ついたあだ名が鈍牛。
気はやさしくて力持ち。
真面目な性格にて、頭領の面目を考えての行動。
いちおう行くだけ行ったけれども駄目だったという体を装う予定。
しかしそうは問屋が卸さなかった。
各地の忍び集団から選りすぐりの化け物らが送り込まれ、魔都と化しつつある安土の地。
そんな場所にのこのこと乗り込んでしまった鈍牛。
なんの因果か星の巡りか、次々と難事に巻き込まれるはめに!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる