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其の二 濡れ仏
しおりを挟む月のない夜だった。
暗闇の中、ゆらゆらと堀沿いの道を漂うのは提灯の明かり。
その明かりがふつりと消えた。
あわてたのが提灯を目印にあとをつけていた者。
主君の命を受けて極秘裏に江戸市中を捜しまわること百日ばかり。ようやく見つけた目当ての男。ここで見失ってはなるものかと足をはやめる。
けれども近づくうちに、とりこし苦労であったことがわかった。
なんてことはない。相手が道をそれて角を曲がっただけのこと。ちょうど自分の位置からだと見えづらい場所へ入り込んだがゆえのはやとちり。
だが安堵したのも束の間。
自分もその角を曲がろうとしたところで、ぎらり、閃く白刃。
待ち伏せ!
尾行を悟られていたのだ。
ひと息に串刺しにせんと迫る切っ先。鋭い刺突による不意打ち。
とっさに身をよじってどうにかかわせたのは、これまでの人生の大半をかけて磨いてきた剣術の賜物。あまりの熱の入れように周囲からは「おまえは生まれてくる世をまちがえた」と呆れられてもなお続けた研鑽。おかげで頭よりも先に体が勝手に動く。
家中でも指折りの剣客。その腕を見込まれての今回のお務めでもあった。
この一刀をもって相手がおとなしく従う気がさらさらないのは明白。
ゆえにすぐさま己も腰の得物を抜いた。
◇
書物問屋の銀花堂に頼まれていた写本を納入しての帰り道。
難解な医学書を写すのには骨が折れたものの、仕上がりは上々。
応対した若だんなにも褒められ、けっこうな稼ぎとなったもので九坂藤士郎はほくほく顔。
いまのご時世、剣の腕一本でやっていけるほど甘くはない。ましてや門下生のいない貧乏道場ならばなおのこと。
武士は食わねど高楊枝なんぞは、とんだ世迷い言。
働かざる者、食うべからず。それこそが真理。
ゆえに食い扶持を稼ぐために、藤士郎は夜なべしてせっせと写本仕事に精をだし、たまに釣り竿を垂れては高値で引き取ってもらえる鰻(うなぎ)や鯰(なまず)を狙い、ときに風呂屋や料理屋で薪割りをしたり、自宅の裏の竹林にて筍を掘ったりもする。
えっ、仕官先を探さないのかだって?
ははは、いまどきそんな話があるものか。
いやはや、どこの藩もかつかつにて台所は火の車。新たに人を雇う余裕なんてとてもとても。
さて、懐も潤ったことだし、陽気もいい。
たまにはゆっくり散策でもと考えた藤士郎。
自宅兼道場がある坂の前をそのまま通り過ぎる。
近所の知念寺にお参りをし、門前通りにある馴染みの茶屋で看板娘と談笑しつつ一服、あとは足の向くまま気の向くまま、町中をぶらぶら。
そうしてお堀沿いを歩いていたら、前方に人だかり。
がやがや、道が半分ふさがっている。
「いったいなんの騒ぎだい?」
野次馬のひとりに声をかければ「仏さんだとよ。なんでもばっさり殺されて、お堀に浮かんでいたらしい。またぞろ辻斬りかねえ。おぉ、いやだいやだ」
諸方から流れついた食い詰め牢人が辻斬りに身をやつす。
江戸ではとくに珍しい話ではない。
だからさっさと通り過ぎてしまおうとしたのだが……。
「おっ、藤士郎じゃねえか。ちょうどよかった。ちょっとこっちに来てくれ」
背が高いのが災いし、知己に見つかってしまった。
声をかけてきたのは、南町奉行所の定廻り同心をしている近藤左馬之助(こんどうさまのすけ)。健康的に焼けた肌に精悍な顔立ち。がっちりとした岩のような体躯をしており、いかにも屈強な武士然としている。
青白い狐面のひょろ長のっぽ。どこか垂れ柳を連想させる見た目の九坂藤士郎とはおおちがい。
このふたり、知り合ったのはいまから六年ほど前のこと。
さる幕府の重鎮宅で開かれた御前試合のおりに、顔を合わせて以来のつき合い。
藤士郎、左馬之助、ともに十代半ばのことであった。
友人から大声で呼ばれたもので、しぶしぶ人垣をかきわけ藤士郎は前へと。
たちまち周囲から向けられる好奇の視線。お尻のあたりがむずむずして、どうにも居心地が悪いったらありゃしない。
猫背気味の背をいっそう丸めて縮こまる藤士郎。
「まったく、左馬之助はひどい男だよ。わざわざ呼びつけて、私に死体を拝ませようだなんて。趣味が悪いのにもほどがある」
「ははは、すねるなよ、藤士郎。今度また団子でも奢ってやるから。それよりもおまえに診てもらいたいのは、こいつだ」
戸板の上に寝かされてある濡れ仏。かけられてある筵(むしろ)をめくるなり、あらわとなったのは武士とおもわれる人物。歳の頃は三十から四十ぐらいか。
まず目についたのは刀傷。
左肩から右腰へとかけて斬られている。見事な太刀筋。しかし傷がいささか深過ぎる。鎖骨から胸のあたりの骨ごと、その奥の臓腑を抉っている。
動かない巻き藁や案山子の試し切りじゃあるまいし。ここまでざっくりやる意味がない。
それこそ殺すだけならば、首筋をちょんと切っ先でかすめるだけでこと足りる。これでは斬ったほうの刀も無事ではすむまい。よくて刃こぼれ、最悪、歪むか折れているかも。
傷口の様子をみてから、藤士郎は仏さんの手のひらをたしかめ、続いて全身にざっと目を通す。
「立派な剣だこをたくさんこさえているねえ。それにこの身体……生半可な鍛錬ではこうはなれないよ。この人、相当の遣い手だったんじゃないのかしら。しかしそのわりには肝心の腰の物がどこにも見当たらないような。ひょっとしてお堀に沈んでいるのかも。もしくはけっこうな業物にて下手人に盗まれたとか?」
「相当の遣い手というのはおれも同じ見立てだ。しかしそんな男を正面から斬り伏せているのだから、下手人の腕もかなりのもんだろう。やれやれ、こいつはふん縛るのにたいそう苦労をさせられそうだ。仏さんの腰の物についてはなんともいえん。おれが駆けつけたときにはすでに辺りにはなかったからな。掘をさらえば出てくるかもしれんが。あと身元を示すような品は何も所持しちゃいない。かといって財布は手付かずのままだから、単純な物盗りというわけでもなさそうだし。うーん」
あごを撫でながら考え込む仕草をとる左馬之助。
そのあいだも抜け目なく周囲の野次馬へと目を光らせている。下手人もしくはその一味がどうにも気になって、犯行現場へとのこのこ足を運ぶことが往々にしてあるからだ。
怪しい人物が混じっていないか、それとなく探っているのはさすが。
若くして切れ者と評判の有望株。かつて捕り物での活躍が話題となって瓦版になっただけのことはある。
感心しつつ、検分を終えた藤士郎。筵をかけなおし手を合わせ、南無南無。
「しかし妙な下手人だね。これだけの腕の持ち主なら、刀を痛めるようなへまはしないと思うのだけど」
「たしかになぁ」
「なんていうか、どうにもやってることがちぐはぐだね。とはいえ、この分だと下手人の刀もただじゃあすむまいよ。仏さんの身元を探りがてら、そっちの筋でも追ってみたらどうだい」
「そうだな。ではさっそく手下に当たらせてみよう。うまくいけば仏さんの身元がわかるよりも先に、下手人の目星がつくかもしれんしな」
言うなりてきぱきと差配をはじめる近藤左馬之助。
頼もしい友人の姿に目を細める九坂藤士郎は、邪魔にならぬようにと静かにその場をあとにする。
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