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第一部・眠れる夏のスノーフレーク
片岡夏雪
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夏雪は絶えず形の変わるエアマットの上で小さく波に揺れる。微かなマッサージ機のような動きだ。
「先生、外はどんなふうです?」
カプセルの中から見える相楽は白衣の襟を曲げたまま答える。
「サクラの季節が終わって、よく晴れてますよ」
「あら。花の頃だけがサクラの季節でもないですよ。私は濃く色づいた夏のサクラの葉が好きです。いい感じの木漏れ日で」
気を抜くとまた眠りに落ちそうな気分の中、相楽が叩くキーボードの音が楽器のように響く。だとすれば、とてつもなく早いテンポのタンゴかジャイブだ。
「では、上から起こしてください。ゆっくり」
彼女は両腕を背中に回し、白い両胸を揺らして起き上がる。
「大丈夫そうですか」
軽く頭を振った彼女へ、相楽が訊ねる。
「ええ。軽く記憶を戻しているところです。起きられます」
両足からカプセルを下りた彼女に、相楽がローブを渡す。足元はフワフワと浮いているようだ。
「前回のワンピース、あります?」
「ええ、レントゲン室の中に」
ワンピースは地下室の明かりの中、薄緑色に見えた。下着もつけずにそれへ着替えると、彼女は相楽に手を引かれて階段を上がる。
「ミツハ君、ちょっと背が伸びた?」
彼女は診察室で小さな丸椅子に座り、所作なさげに立っている光晴へと笑いかけた。彼は困ったように照れるだけで答えられない。クリーム色の柔らかそうなワンピースが五月の空に似合いそうだと思った。そこへファイルを手にした相楽が戻る。
「検査は概ね良好。夏雪さん、自覚出来る違和感は?」
彼女はゆっくりとドアの方へ首を動かし、
「お腹が空いたかしら。さっきのケーキから何も食べてないですもの」
さっき、というのは半年前のことだ。
「分かりました。運動機能の確認も含めて外へ出ましょう。車を動かすから、秋庭君は彼女を連れて表まで」
「はい」
彼は今日いちばんの力を込めて答えた。
ゆっくりと廊下を歩き、光晴は彼女に何かあればすぐに支えられるようごく近くを伴って歩いた。
「五月――寒いのかしら」
「いえ、表はすごくいい天気で暖かいですよ」
「そう」
光晴はガラス戸を押し開けると、彼女が通れるように横へ動いた。
「ありがと。紳士なのね」
彼はまた照れる。思えば夏雪の顔をまともに見れたことはないと。見ることが出来るのはじっと眠っている彼女の寝顔だけ。目を開けて話して動いている彼女というものが、とても新鮮なのだ。
「海がきれい。それにいい風」
「最近、ずっと晴れてますから」
「この冬は雪は降ったの?」
「いえ。もうここ数年降ってないですしね」
そう、と彼女は目を伏せる。
間の持たない五分が過ぎた頃、相楽の車が病院の裏手からやって来た。今にも壊れそうなエンジン音だ。その音は光晴の学校でも有名だ。
「おい秋庭君。やっとエンジンがかかった。彼女を後ろへ」
光晴はドアを開け、とことん彼女へ尽くす。それが今の喜びなのだ。これからたった一週間だけ生を堪能する彼女への奉仕だけ出来さえすればよかった。
「夏雪さん、何が食べたいですか」
相楽は神経質な顔で運転していた。舗装された二車線の、緩やかなカーブの多い下り坂だ。
「食べたいもの――汁ものが食べたいわ。あら汁」
「じゃあ海辺の漁師メシが食べられる食堂でも行きましょう。ただ、まだ急激には食べないでくださいよ。胃腸の機能は追って正常化しますから」
「先生、外はどんなふうです?」
カプセルの中から見える相楽は白衣の襟を曲げたまま答える。
「サクラの季節が終わって、よく晴れてますよ」
「あら。花の頃だけがサクラの季節でもないですよ。私は濃く色づいた夏のサクラの葉が好きです。いい感じの木漏れ日で」
気を抜くとまた眠りに落ちそうな気分の中、相楽が叩くキーボードの音が楽器のように響く。だとすれば、とてつもなく早いテンポのタンゴかジャイブだ。
「では、上から起こしてください。ゆっくり」
彼女は両腕を背中に回し、白い両胸を揺らして起き上がる。
「大丈夫そうですか」
軽く頭を振った彼女へ、相楽が訊ねる。
「ええ。軽く記憶を戻しているところです。起きられます」
両足からカプセルを下りた彼女に、相楽がローブを渡す。足元はフワフワと浮いているようだ。
「前回のワンピース、あります?」
「ええ、レントゲン室の中に」
ワンピースは地下室の明かりの中、薄緑色に見えた。下着もつけずにそれへ着替えると、彼女は相楽に手を引かれて階段を上がる。
「ミツハ君、ちょっと背が伸びた?」
彼女は診察室で小さな丸椅子に座り、所作なさげに立っている光晴へと笑いかけた。彼は困ったように照れるだけで答えられない。クリーム色の柔らかそうなワンピースが五月の空に似合いそうだと思った。そこへファイルを手にした相楽が戻る。
「検査は概ね良好。夏雪さん、自覚出来る違和感は?」
彼女はゆっくりとドアの方へ首を動かし、
「お腹が空いたかしら。さっきのケーキから何も食べてないですもの」
さっき、というのは半年前のことだ。
「分かりました。運動機能の確認も含めて外へ出ましょう。車を動かすから、秋庭君は彼女を連れて表まで」
「はい」
彼は今日いちばんの力を込めて答えた。
ゆっくりと廊下を歩き、光晴は彼女に何かあればすぐに支えられるようごく近くを伴って歩いた。
「五月――寒いのかしら」
「いえ、表はすごくいい天気で暖かいですよ」
「そう」
光晴はガラス戸を押し開けると、彼女が通れるように横へ動いた。
「ありがと。紳士なのね」
彼はまた照れる。思えば夏雪の顔をまともに見れたことはないと。見ることが出来るのはじっと眠っている彼女の寝顔だけ。目を開けて話して動いている彼女というものが、とても新鮮なのだ。
「海がきれい。それにいい風」
「最近、ずっと晴れてますから」
「この冬は雪は降ったの?」
「いえ。もうここ数年降ってないですしね」
そう、と彼女は目を伏せる。
間の持たない五分が過ぎた頃、相楽の車が病院の裏手からやって来た。今にも壊れそうなエンジン音だ。その音は光晴の学校でも有名だ。
「おい秋庭君。やっとエンジンがかかった。彼女を後ろへ」
光晴はドアを開け、とことん彼女へ尽くす。それが今の喜びなのだ。これからたった一週間だけ生を堪能する彼女への奉仕だけ出来さえすればよかった。
「夏雪さん、何が食べたいですか」
相楽は神経質な顔で運転していた。舗装された二車線の、緩やかなカーブの多い下り坂だ。
「食べたいもの――汁ものが食べたいわ。あら汁」
「じゃあ海辺の漁師メシが食べられる食堂でも行きましょう。ただ、まだ急激には食べないでくださいよ。胃腸の機能は追って正常化しますから」
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