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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

中途覚醒

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「何年生? ここは今も僕の持ち物でね、勝手に入られては困る」

 しかし、その背後から現れた女性が涼しい笑顔で言った。

「先生、いいじゃないですか。その子にも理由を話したら。私も、半年ごとに会えるのが先生だけというのも寂しいですし」

 彼女は渋る相楽(さがら)を静かに押しきり、決して他へは口外しない約束で研究の内容を光晴(みつは)へ大まかに教えた――。

「二回目って言っても緊張しますね」

 相楽は計測機器を見て回るのに熱心で、光晴の話を一切聞いていない。顔の部分が透明なアクリルで出来た大きな棺のような装置は小さな島の小さな病院跡には非常に不似合だったが、相楽の研究が信用に足るものだと光晴は感じている。根拠はその情熱にあった。


 彼が校医として断固たる態度を見せたのは光晴がまだ一年の秋だ。上級生の女子が妊娠した。相手は恐らく校内の男子生徒。狭い島なので噂はどこまで駆け抜けるか分からない。そこで女子生徒の親と男子生徒の親が話し合いをする中、相楽はその場へ強引に立ち入り、子供を産ませてやって欲しいと懇願した。それが二人の意思であると。

 が、それは聞き入れられなかった。中絶したという。その件で全生徒――五十人足らずだが――に釘を刺すような緊迫した全校集会があり、その最後、相楽は学校医としての立場でマイクの前に立った。それがメチャクチャだった。

「私は今、憤りと無力さと悲しみに満ちている! 私は愛する生徒たちの愛する命を守り切れなかった! すまない! 私には力がなかった! 申し訳ない! 投げ捨てられる命などどこにもない! 君たちにも分かって欲しい! セックスは大人だろうと子供だろうとそれだけで愛の証だ! その結晶はどうあっても生まれ出て来るべきものなんだ! 私はこれからも君たちを守りたい! 決して大人の言いなりにならないで欲しい!」

 彼は教頭と生活指導の教師に両脇を抱えられ、熱弁は中断させられた。しかしその時、光晴には清々しいものが感じられた。この人は信用出来ると。


「秋庭君、カプセルのロックを外す。よしと言ったらハンドルを回してくれ」

「はい」

 白いクーリングカプセルの大きなカバーは、SF映画のように自動でプシューとは開かない。手動なのだ。それも一分間ハンドルを回し続けて三十センチしか開かないという果てしない作業。それでもこの研究に少しでも携わっていることが――眠れる彼女の力になっていることが光晴には嬉しかった。

「よし」

 光晴はカプセル横の黒いハンドルを思いきり回し始める。半年ぶりの再会。彼女にとってはあっという間の再会。何を話そう。

 入眠中の四・二度から覚醒温度の二十三度に上昇されたカプセルからは白い冷気も漏れず、ゆっくりと穏やかにカバーが開いてゆく。それが垂直に立った時、

「秋庭君、OKだ。それ以上やるとカバーが折れてしまう」

 相楽の声がする。
 軽く汗をかき、光晴は開いたカバーの反対側へ向かう、高さ一メートルのカプセルの中で、いくつかのチューブと頭部に電極を刺した、何もまとわない美しい彼女の身体が覗き見えた。

 相楽は慎重な手つきでチューブを抜き取ってゆく作業へ入る。乳幼児がミルクを吐いた時のような匂いや、薬品の入れ混じった匂いが立ち込める。人一人分の存在が地下室に増えたような、そんな一瞬だ。

「秋庭君。今から電極に信号を送る。君は彼女が下りるステップを用意してくれ」

 それにも素直に「はい」と答え、彼は部屋の隅っこにある小さな移動式の階段へ向かい、四隅のロックを外してカプセルへとつける。再び車輪へロックをかけて、その下には甲斐甲斐しくスリッパを用意した。

 相楽はカプセルに表示された計器と壁際のモニターをひと眺めしたところで、彼女に呼びかけた。
「夏雪(なゆき)さん、どうです。目は覚めましたか」
 彼の隣で光晴もじっと見ている。明かりのせいで、その顔色に赤みが差しているのかは分からない。
まず彼女の唇が動いた。

「……よく……眠れた感じ……」

 次に瞼が開いた。薄い緑色の明かりの中、軽く目を細める。

「よかった。そのまましばらく横になっていてください。そのまま測定に入ります。秋庭君、しばらく外に出ていて」
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