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第一部・眠れる夏のスノーフレーク

半年ぶりの食事

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 相楽が車を止めたのは本当に辺鄙な店構えの定食屋だった。しかも休憩中。彼は構わず引き戸を開ける。

「おい! 三人だ! 何か食わせてくれ!」

 シンと静まり返った土間の店内に、心拍数十回程度の間があって返事が響いた。

「お前か! 今休憩中いうて書いとるじゃろ!」

「だから来たんだ! ゆっくり食えると思って。夏雪なゆきさん、心配しなくていいですよ。僕の実家ですから。味は保証します」

 それから何度かの大声でのやり取りのあと、ようやくでテーブルに着いた。

「大したもんは出来んで」

 無愛想な老年の店主がぼやく。

「いいよ、三人前適当で。なんか汁ものがあれば。彼女には量少なめで」

 汁もの言うてものう――ブツブツと相楽の父は戻ってゆく。

「夏雪さん、前回は外が寒いと言ってましたが、今回はどうです」

「平気ですよ。動いたら暑いくらい。次は真冬に起きてみたいわ」

 言うと、長い髪を後ろでまとめた。

「ええ。クーリング時間の調整もかねて、そういうこともやってみようと思っています。それはあとで相談しましょう」

「あと――」

 彼女はおかしそうに笑い、

「次は二十七歳の誕生日のあとなので、またケーキを用意しててください」

 それには相楽も苦笑いで頷いた。

「ほれ。お前ボサーッとしとらんで、もう一枚取りに来いや」

 両手に角盆を抱えて料理が置かれた。瀬戸内の小魚の刺身と小イワシの南蛮漬け。味噌汁は鯛の脂と香りが漂う、まさに漁師メシだった。

「あんたら、こっちは休憩中なんじゃけ文句言いんさんなよ」

 そう言うとふて腐れて戻ってゆく。この島に住むと誰もがそうなってゆく。人は好いのだ。

 相楽の心配をよそに夏雪は黙々と食べ続ける。

「夏雪さん。ゆっくりでいいんですよ」

「それが、どんどんお箸が進むんです。やっぱり人は点滴だけで生きていけないんですね」

「食欲と栄養摂取は別のものですからね。ものを見て、ものを噛み、香りを楽しみ、味わい、飲み込んで胃を満たす。食べるという行為は様々な身体への刺激をもたらすんです」

 それはそうと、光晴みつはは恐縮したままだ。ただ箸を動かすだけだ。いわゆる大人の会話にはついてゆけない。学校生活の話などしようものなら、一笑に付されるか愛想笑いだけで終わりだと思った。どちらにしろ笑われると。

 しばらくして、食事は静かに終わった。


「じゃあ戻りましょうか。夏雪さん、落ち着いたら再測定しましょう。秋庭君はどうする。もう暗いしここから帰るかい」

「あの、自転車を置いてるので」

「ああ、そうだった。おいオヤジ! 三万円置いてくからな!」

 病院――もしくは研究所に戻り、光晴は後ろ髪をひかれる思いで夏雪に別れを告げた。

「ミツハ君、明日も来てくれるの?」

「はい。学校終わったらすぐに」

「学校の話、教えてね」

 その言葉だけに満足して、彼は自転車へまたがった。半年間待ち侘びた不思議な再会。相楽がいつも並べる難しい言葉は分からない。その代わり、彼が彼女を大切にしていることは分かっている。

(今回のデートはいつだろう。土曜日辺りだろうか)

 デート。病院近辺の岬をひと回りするだけの、彼女と過ごすあっという間の語らい。それを光晴は密かにデートと名づけた。それだけで甘酸っぱい、胸の奥から照れ臭さが込み上げてくる言葉だったが、それ以上に嬉しいという単純な気持ちが勝った。相楽との難しい会話から一時離れ、素の彼女と触れ合える最高の時間だった。同級生――それどころかこの島の誰も知らない秘密を分かち合っている特別な関係。そのことが高校三年生の光晴には充分な出来事なのだ――――。


 木造民家を抜ける暗い坂道を下り、カバンを肩に帰りつくと午後八時半だった。

「ただいまあ」

「あんた、えらい遅いんじゃね」

 こんな時間に洗濯機を回しながら呆れる母に光晴は、

「うん。美術部の校内展に向けて指導中」

 今は幽霊部員だが、そういうことにしておいた。

「夕ご飯は顧問の相楽先生におごってもらったからいい」

 部屋に戻るとパルサーの画像データを出し、半年前の夏雪の写真を眺める。

(全然、変わってないや)

 半年ごとに一週間の覚醒。相楽の教えてくれた肉体年齢で考えれば、彼女の二週間が自分の一年間。彼女の一か月が自分の二年間。春と秋とを九回越え、彼女が四カ月ほど覚醒している間に、僕は彼女と同じ歳になってしまうのだと、それを考えると光晴はなぜか胸がざわついた。

(今回はどんな写真を撮らせてもらおう。自撮りとか、いいのかな)

 そんな空想に耽っていると、着信があった。見れば後輩の大迫おおさこ季李きいだ。

「どうしたの。珍しい」

 思い当たることもないので普通に出てみたが、

『どうしたって、三年生は最後の校内展なんですよ? 秋庭先輩、去年から全然出なくなって。あ、言っておきますけど私、今年から部長ですからね、部長。秋庭先輩って新入部員に挨拶もまだですし、明日は絶対に四時ですよ。出てくださいね』

 話は一方的に終わった。つまらない言い訳が真を呼んだのかも知れない。

 明日はあきらめるか、と布団に転がれば、また彼女のことを考え始めてしまう。
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