四角い世界に赤を塗る

朝顔

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⑭ 包み込んで

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 トントンとノックの音が響いて、ロランは手を止めた。
 気がつけば夜が朝になって、昼が夜になっていた。
 絵の具で真っ黒になった自分の手を見て、ロランはふぅと息を吐いた。
 ずっと忘れていた感覚、匂い、全てが愛おしく思えた。

「失礼します。昨晩も夕食をお召しにならなかったと聞きました。集中されるのは結構ですが、食事を抜くと、体に障りますよ」

 返事をしなかったので、ルーラーがドアを開けて、勝手に部屋の中に入ってきた。
 ワゴンを押して、自ら料理を運んできてくれたようだ。

「ありがとうございます。筆が進んで、あと少しと思いながら、時間が過ぎてしまいました」

 ロランは自室のアトリエにあるキャンバスの前に座っていた。
 ずっと布を被せていたままだったものを取り払って、久々に描き始めたのは、ダーレンと絵の話をしてからだった。
 とっくに失ったと思っていた情熱が、まだ心に残っていたことに気がついたら、すぐにでも絵が描きたくなった。
 そこから食事を抜くくらい集中して三日三晩描き続けた。
 顔を見せないと会いにくるのに、その間、不思議とダーレンの訪問はなかった。

「これは……素晴らしい……、当家の庭園ですか?」

「ええそうです。ガゼボの形が独特なので、すごく惹かれまして……」

 ロランの背後にやって来たルーラーは、キャンバスの中を覗き込んだ。
 ホルヴェイン家別邸の庭園は、レッスン室からよく見えて、授業をしながら、ロランはその美しさに目を奪われていた。
 絵を描こうと思った時に、頭に思い浮かんだのは、その光景だった。

「当家の庭園は先先代が、愛する妻のために作ったもので、その時から手入れを欠かさず、修復を重ねながら、今も当時の姿を損なうことなく保っております」

「そうなんですね。私は初めて見た時、陸にいながらまるで海の中にいるような気持ちに……」

 ガタンと音がして見ると、ルーラーが机の上に載せていた画材を床に落としていた。
 いつも冷静なルーラーが珍しく動揺したように、膝を折って拾い集め出したので、ロランも散らばった画材を一緒に拾った。

「失礼しました。この庭園についてそこまで理解していただけたのは、初めてでしたので……」

「え?」

「この庭園は、故郷を題材に作られています。ホルヴェイン家は人魚の血を強く引く一族。人魚はもともと海で暮らしていましたが、足を得て、陸に上がって暮らすようになりました。故郷、すなわち、海をこの庭園は表現しているのです」

 なんとなく印象で語っていたが、そう言われると、ガゼボは貝の形をイメージして作られたのだと気がついた。
 自分が選んだ絵の深い意味を知ることができて、ロランは嬉しくなった。

「やはり……あなたは……」

「え?」

「いえ、邪魔をしては申し訳ないので、私はこれで失礼します。そうだ、この絵が完成したら、公募展に出品してはいかがですか?」

「いやぁ……そこまでは考えていないです。そもそも、私の名前を出したら、どこも受け付けてはくれないですから」

 そうですかと言って、ルーラーは残念そうに食事を置いて部屋を出て行った。
 彼としては、務める邸の自慢の庭園が宣伝できる良い機会だと思ったのかもしれない。
 どこも受け付けてくれないのは、断り文句ではなく、本当の話だ。
 芸術を愛する我が国では、展覧会はもっとも重要なものとされていて、身分関係なく、全ての人が美を愛でることのできる機会だ。
 有名な公募展は、毎年決まった時期に開催されるが、その参加条件は大変厳しいものだ。
 まず名のある工房に勤めていて、師事する者の推薦が必要となる。
 もしくは、誰もが知っている仕事に関わったなどの、実績が必要となる。
 何より、仕事を放棄して、師匠に尻拭いをさせて、その上、自分の作品だと主張して、師匠の顔に泥を塗ったとされているロランは、美術界に背を向けられている状態と言っていい。
 ガッシュは今でも現役で、大きな仕事をしていると聞くので、ロランの作品を扱ってくれる展覧会などあるはずがない。

 長期間ちゃんと作品を描いていなかったが、まだ途中の段階で自分でも頷いてしまうくらい、描きたいものが描けていると思った。
 確かに、他の人にも見てもらえたら嬉しいがそんな場所など……。
 そう思った時、いつだったかミリアムが言っていた展覧会の話を思い出した。
 ラムスト王子が主催で、条件なく、誰でも参加できると聞いた。
 もしこのまま、上手く描くことができたなら、淡い夢を抱いてもいいかもしれない。
 もう二度と、見ることはないと思っていた夢を……

 ロランは緊張を飛ばすように息を吐いた後、よし、と呟いた後、また筆を持ってキャンバスに向かった。

 
 
 
 たくさんの人が行き交う大通りを歩いていると、ダーレンは興味津々で辺りを見回して、あれは何と声をかけてきた。

「菓子店です。季節の果物を使っていて、人気らしいですよ。ダーレン様は甘いものはお好きですか?」

「うんっ! 好き!」

「では、帰りに買って帰りましょう」

 ロランはダーレンと二人で歩いているわけではない。
 前後にルーラーが用意した護衛騎士が三名ずつ付いている。
 店内は狭くて、屈強な男性六人を従えて店内に入ったら、誰一人身動きが取れなくなってしまう。
 今すぐ食べたいと、駄々をこねられるかと思ったが、ダーレンは嬉しそうに分かったと言ってくれた。
 ロランと一緒に買い物に行きたいとダーレンが言い出した時、さすがにルーラーに止められるかと思ったのに、それはあっさりと許可された。
 もちろん、護衛が同行することが条件だったが、ずいぶんと信頼されたなと思った。
 勘の良さそうなルーラーが、二人の関係の変化に気がついていないわけがない。
 それなのに、何も責めず、何か聞かれることすらないので、逆に心配になってしまうくらいだ。
 主人の意思が優先させるのかもしれないが、ダーレンの身の回りのことは、ルーラーが全て取り決めていると聞いていた。
 どこにいても、ロランにくっ付いてくるダーレンを見て、邸の使用人は好奇の視線を送ってくるくらいだ。
 一人で歩いていると、ロランを見て、メイド達がコソコソと何か話している姿も見かけるようになった。
 ここまで浸透していて、反応がない。
 咎められないのも、それはそれで居心地が悪いものがあった。
 そして、二人の外出をあっさり許可したのも、また不可解であった。

「ロランー、あっちに行ってみよう」

 ダーレンはロランの手を引いて歩き出した。
 ダーレンは立派な男性に見えるので、男同士で手を繋いでいると、目立ってしまう。
 すれ違った女性がダーレンを見て頬を染めたが、ロランと繋がれた手を見たら、残念そうな顔で視線を逸らした。
 それを見たら申し訳ない気持ちになった。
 ダーレンは公爵家の令息だ。
 今は争いに巻き込まれていて、立場は危ういものだが、本来ならたくさんの令嬢に囲まれて、花の季節を謳歌しているはずだ。
 それなに、隣にいるのが見窄らしい貧相な男だというのは、騙している立場ながら可哀想に思えてしまった。

「ダーレン様……、やっぱり手は……」

「ロラン!」

 考え込んでいたから、前から歩いて来た体格のいい男性に気が付かなかった。
 危うくぶつかりそうになるところを、ダーレンに手を引かれて、なんとか事なきを得た。
 しかし、街中でダーレンの胸に倒れ込むような形になり、もっと迷惑をかけてしまった。

「し、失礼しましたっっ」

 焦ったロランは離れようとしたが、逆にぎゅっと強く抱きしめられて、髪を撫でられてしまった。

「大丈夫だよ。ロランはとっても軽い。体も髪も羽みたいにふわふわだ」

「ダーレン様、こんな往来で……いけません」

「どうして? こんなに好きなのに、触れちゃいけないの?」

「なっ……」

 純粋すぎるからか、ダーレンの愛情表現は真っ直ぐだ。
 ガッシュは男好きだと知られていたくせに、人前で触れるなんてことは絶対にしなかった。
 プライドが高く、バカにされるのを嫌っていたので、外で話しかけようとした時は、近寄るなとも言われた。
 だから人目を気にすることもなく、包み込んでくるダーレンの愛情に胸がトクンと揺れた。

「ここは、人目が多すぎます。こういうことは、二人きりの時に、もっとゆっくりと……」

 大人の自分がしっかりしなければいけない。
 ダーレンの胸に軽く触れて、指でトントンと叩いてみると、ダーレンは少し頬を赤くして、分かったと言って放してくれた。
 しかし、注目を集めてしまったので、急いでその場を離れることにした。

「向こうの通りに行きましょう。絵の具の専門店があります」

 そう言って、ダーレンの背中をさりげなく押して、その場から離れることに成功した。
 通りを変えたら少し人通りが少なくなって、視線が気にならなくなった。
 
 
 予定通り、店を回って画材を購入して、お土産用のケーキも手に入れた。
 あとは馬車に乗って、のんびり帰るだけだと思ったところで、ふと近くにある建物が目に入った。

「……ここはランプロイド」

 ランプロイドは、雰囲気のある落ち着いた老舗のカフェで、ロランはよく知っていた。
 なぜなら、工房にいた時に、店内に飾る絵の仕事を手がけたからだ。
 ロランが単独でやっていた仕事のほとんどは、あのガッシュとの騒動で、実はお気に入りだったロランのために、ガッシュが描いていたものだとされてしまった。
 ロランが何日も寝ないで制作しているところを、工房にいた他の者も見ていたはずだが、誰一人擁護してくれる人はいなかった。
 ガッシュに逆らえばみんな創作者としての命は消えてしまう。
 こうして、ロランの実績はガッシュのものとして塗り替えられていた。

 自分が描いたものではないとされてしまった作品だが、思い入れがないわけではない。
 店に入ると真正面に、ロランが描いた絵があるはずだ。
 それは、お茶を飲みながら楽しそうに語らい合う人々の絵で、店が華やかに明るくなったと、当時のオーナーは大喜びで、ありがとうと言ってくれた。
 騒動があってからどうなったかは知らないが、きっとまだそこにあるはずだ。
 少しでも、あの頃の自分を感じたい。
 淡い期待に胸を膨らませて店内が見える位置に立っていると、ちょうどドアが開いてお客さんが出て来た。

「あ…………」

 開いたドアから店内の様子がよく見えた。
 ロランの絵があった場所に飾られていたのは、全く別の絵だった。
 ロランが残したはずの作品は跡形もなく消えていた。
 おそらく騒動があって、縁起が悪いという話にでもなり、今は売られたか、捨てられてしまったかもしれない。

 何もかも消えてしまった。

 悔しさが足元から込み上げてきた。
 怒りと悲しみ
 今まで何度もロランを襲ってきた思いが、まだまだ終わらないとロランの心臓を握りつぶしてきた。
 ロランは握った拳を震わせて、唇を噛んで目をつぶった。

 「……ロラン? 大丈夫? とっても悲しそう……」

 ダーレンがロランの握り込んだ手に触れてきた。
 足がガタガタと揺れて、心臓まで凍りそうになっていたが、ダーレンのふわりとした温もりを感じて、ロランはハッと目を開いた。

「大丈夫だよ、ロラン。僕が側にいるから。君のことを悲しませるものは、僕が全部壊してあげる」

 そう言ってダーレンは、倒れそうになっていたロランを抱きしめた。
 ダーレンの子供らしい残酷な物言いが、今は涙が出るくらい温かく感じる。
 溢れた涙がダーレンの胸を濡らしていたが、ロランはもう人目など気にならなかった。
 ダーレンにしがみついて、子供のように声を上げて泣き続けた。
 

 
 
 
 
(続)
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