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⑥ 君塚家【玄関】
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二日間降り続いた雨は、三日目にようやく止んだが、分厚い雲は相変わらず空全体を包んでいて、また降り出しそうな状態が続いていた。
早朝、賑やかな声が聞こえてきて、ちょうど部屋を出た俺は玄関の方へ向かった。
「参ったよ。国道の方は崩れちゃって、当分通れそうにないな。ハウスは無事だったから、食べられそうなものを持ってきた」
「いつも助かります。こんな時にまで、ありがとうございます」
藤野の声と、もう一人は初めて聞く声だった。
大きな声量でハッキリとした発音は、聞いているだけで元気が出そうな明るい声だった。
「いいって、佳純とは長い付き合いだし。また持ってくるから……って、あれ? お客さん?」
興味が湧いて少し覗いてみようと思っただけだったのだが、顔を覗かせたら訪問者とバッチリと目が合ってしまった。
「ああ、おはようございます、白奥様。この方は、佳純様のご友人で、地元で農業をされている椎崎様です。毎日野菜を届けてくれていまして、今日もたくさんいただいたところです」
俺が来たことに気がついた藤野が、訪問者を紹介してくれた。
玄関に立っていた椎崎という男は、まるでスポーツ選手のような日に焼けた逞しい体をしていた。
パンパンに張って筋肉が盛り上がった腕で大きな段ボールを抱えていたが、それをゆっくりと下ろして俺のことを見てきた。
「お邪魔してしまいすみません。白奥諒と申します。仕事の関係でこちらに来たのですが、天候が悪くなってしまい、しばらくお世話になっています」
椎崎は精悍な男らしい顔つきをしていて迫力があった。ギロッと睨まれるように見られたら、俺の何か気に障ったのかとちょっと恐くなってしまった。
しかもドカドカと俺に近づいてきて、高い位置から見下ろしてきたので、もっと恐くなった。
怒られそうな勢いだったのに、椎崎は白い歯を見せてニカっと子供のような顔で笑った。
「うわぁ……、男? だよな? 男で綺麗な顔って佳純が一番強烈だったけど、これまた……キレーで可愛い? アンタはまた、違う感じて日本美人って感じだな」
近寄ってきた椎崎は、まるで野菜の品評でもするかのように俺の顔を遠慮なくペタペタと触って、すげーすげーと言ってきた。
「あ……あの……椎崎さん、ちょっと」
「おっとっ、悪いなっ。形の良いものを見るとつい触りたくなるんだ。俺は篤史って名前で、佳純とは幼馴染だ。君塚家の土地を借りて適当に野菜を作ってる。よろしくな可愛い子ちゃん」
椎崎は俺の手を勝手に掴んで、ブンブン振りながら握手をしてきた。こんな距離の近い人に初めて会った俺は、どう対応していいか分からずに完全に固まってしまった。
「篤史っ! このバカ。勝手に諒さんに触れるなんて!」
そこで庭の方から声が聞こえたので見てみると、掃除をしていたのか、着物ではなく動きやすそうなラフな格好の佳純がいた。
長手袋を慌てた様子で外していると思ったら、そのまま勢いよく玄関に向かって走ってきた。
「初対面で何をベタベタ触っているんですか! 失礼にも程があります! ほら、手を離して、諒さん? 大丈夫ですか?」
佳純に怒られて、椎崎はへいへいと言いながら俺の手を離した。
代わりにムッとした顔の佳純が、俺の手を掴んで声をかけてきた。
「だ……大丈夫です。ちょっと、ビックリしちゃって……」
「まったく! 篤史が馴れ馴れしいから、怯えているじゃないですか。諒さん、これは悪い人間ではないですけど、初対面の気遣いというネジが一本外れているんです」
「そーなの。ごめんね、諒ちゃん。ところで、ここにしばらくいるなら、食事に行かない? 良い店知ってるけど」
「アホ! さっさと帰れ。誰でも良いと思ったらすぐに誘うんだから!」
またもや距離感ゼロの勢いに圧倒されて、俺はよけいに反応できなくなって、そんな俺を佳純は庇うように自分の背中に隠した。
「なんだよー、佳純ぃ。お前が一番だって」
「気色悪いことを言わないでください! 野菜はありがたく頂戴します。ではどうぞお帰りを」
佳純は椎崎の背中をぐいぐい押して玄関から押し出した。椎崎はやめて、ひどいーと言いながら楽しそうに笑っていた。
幼馴染と言っていたが、この光景だけ見たらすぐに二人の仲の良さが分かってしまった。
しかも、椎崎は大きな手で佳純の頭をさりげなく撫でていた。ごく自然に慣れた様子だったので、これが普段から行われている行為であることは一目瞭然だった。
それを見たら胸がチクンと痛んでしまった。
アルファとオメガは番関係にもなれるし、一般的には相性が一番いいと言われている。
しかし佳純は、玲香がアルファであると知っていても、玲香と結婚することを望んでいた。
今はバース性にこだわりがない人が多いという。
つまり、アルファとオメガだけではなく、アルファ同士であったり、ベータだったり、性に縛られることなく、自由に恋愛を楽しむ世の中になっている。
つまり、俺がオメガであることは、ほとんどプラスではない。
しかもビジネスで考えたら、面倒な相手になることは間違いない。
椎崎がただの幼馴染だとしても、二人はすごくお似合いに見えてしまった。
俺は完璧な余所者で、ここには相応しくない存在に思えて仕方がなかった。
「諒ちゃんー。俺、ここにはよく顔を出すから、次は自慢の野菜を持ってくるよ。食べてねー」
暗くなっていくこっちの気持ちとは正反対のカラッとした明るい声で、椎崎は俺の名前を呼んで手を振ってきた。
彼は佳純の友人なので悪く思われないように笑顔を作って頭を下げた。
地面を見ながらやはりそうだと胸を押さえた。
佳純という、同じ人間とは思えないくらい美しくて魅力のある人に、俺はすでに翻弄され始めている。
ビジネスだと言って、圧倒的に不利な結婚条件を自ら宣言してまで佳純との縁を繋げたいのは、家と家だけの問題ではない。
まだ出会ったばかりなのに、吸い寄せられるように全身で惹かれているのが分かる。
恋なんてろくにしたことがなかったのに、これはきっとそうに違いないと思うところまできている気がした。
佳純の笑顔に触れたい。
目を閉じるとそんな思いが溢れてきて、慌てて手で顔を覆った。
「あれっ、なんか甘い匂いがする」
玄関に横付けしていた軽トラに乗り込もうとした椎崎が、鼻をクンクン鳴らしながら周りを見渡していた。
雨上がりの花の匂いか何かだろうと思っていたが、サッと動いたのは佳純だった。
椎崎を運転席に押し込んで、早く行けとバンバンドアを叩いたので、椎崎は仕方ないなという顔で発車して、なだらかな坂道をゆっくり降りていった。
俺はその光景をのんびり眺めていたのだが、小走りで戻ってきた佳純に腕を掴まれた。
「……ああ、やっぱりそうだ。篤史は嗅覚が犬並みにいいので先に気がついたみたいですね」
「え?」
「とにかく、部屋に戻りましょう」
なんの話だろうと思っていたが、腕を掴まれた状態でズルズルと引っ張られて、客室まで連れ戻されることになった。
玄関にいた秘書の藤野にはしばらく近寄らないようにと声をかけて、廊下を進んで客室に入ると佳純はガチャリと内鍵を掛けた
「藤野はベータなので、まだ気がつかないと思いますが、近くに来たら私にも分かりました。諒さん、発情期に入ったのではないですか?」
「えっ……まさか、だって……つい先月終わって……」
今まで周期が乱れたことなどない。
朝の分の抑制剤も飲んでいるから、そんなはずはないと思った。
だが、佳純に指摘されたら、というか佳純が近くにいると意識すると、どんどん体の熱が上がってくるのを感じた。
「う……嘘、どうして……」
「遺伝子的に相性のいいアルファが近くにいると、周期とは別に発情してしまうというのを聞いたことがあります。可能性としては私か、篤史もアルファですからどちらかだと思います」
「す……すみません、俺………ご迷惑を……。今すぐ、発情期用の強めの抑制剤を飲むので……」
すでに体の芯から焼けるような熱を感じる。呼吸も荒くなってきて吐く息も熱を持ち始めた。
自分の鞄を開けた俺は、中から緊急用の箱を取り出した。
普段飲んでいるゾーンワンは軽いものなので、それより強いゾーンファイブという、発情期に飲むように処方された薬を取り出した。
「すみません、おそらく、一日か二日は意識が朦朧としてしまいますが、そこを過ぎれば良くなるので」
枕元に置いていた水のペットボトルを手に取って、薬を開けようとしていたら、その手をぱっと止められてしまった。
「待ってください。体に合わない薬を飲んで、諒さんが苦しんでいるところを見たくありません」
「で……でも」
こんな時まで優しさを発揮しなくてもいい。
辛いには辛いが、それも慣れてしまったし、今はそれしか方法がないのだ。
「君塚さん。だんだん……意識がぼやけて……理性が保てなくなります。貴方がここにいたら……」
「無理に薬を飲むより、医師から勧められた方法を試してみるのはどうですか? ここにはアルファの私がいるのですから」
「えっ………」
「ご提案いただいたビジネスとして婚姻関係を結ぶというものですが、やはり私にはそれは無理です」
こんな状況で佳純は俺のビジネスプロポーズを断ってきた。何とか気を確かにして保っている状態なのに、ガックリときて床に崩れ落ちた。
「どうして……今……」
「違うんです! そうじゃなくて、私にはビジネスとしての関係が無理ということで……、つまり、ちゃんと夫婦になりたいということなんです」
佳純は床に崩れた俺の横に膝をついてきて、手を握ってしっかりと目を合わせてきた。
「玲香さんのことがあるのに、こんなに早く心変わりなのかと言われてしまうかもしれませんが、正直言いますと、諒さんに惹かれています」
「えっ」
「最初は見た目が記憶の中の玲香さんが育ったようにそっくりだったから、気になっているだけだと思いました。でも……貴方の笑顔を見る度に胸がくすぐられて、辛い顔をしていたら私も苦しくなります。今朝はやっぱりこんな話はやめましょうと、貴方が言ってくるところを夢に見て、嫌だと手を伸ばして飛び起きました。ここで貴方の手を離したら後悔する、そうとしか思えないのです」
解放されたいと暴れ出した発情の熱。
理性と本能の狭間で、俺は感情的になってポロポロと泣いてしまった。
「諒さん! 大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「……うれし……、……から……」
「え………?」
「同じ気持ち……だから、嬉しくて……」
「諒さん……」
お互い芽生えたばかりの気持ちなのに、いきなり扉を開けるのが正解だとは思えない。
発情期の自分はひどく乱れて自分でも恐ろしいものだとしか思えなかった。
自分を見せることに葛藤があったが、そんな思いも徐々に支配していく熱に溶かされて消えていった。
オメガの催淫フェロモンは、アルファを強制的に発情させる。
佳純は俺の頬に手を伸ばしてきて、ゆっくりと撫でてきたが、その手は小刻みに震えていた。
彼の中で何かを堪えるように震えているのだとしたら、それを俺が解放してあげたかった。
見つめ合ったまま、頬にある佳純の手の上に、自分の手を重ねた。
ぱかりと口を開けてから舌を伸ばして、口元に添えられていた佳純の親指をぺろりと舐めた。
「………!!」
佳純の手がびくりと揺れて、息を吸い込んだのが分かった。
そして、はーはーと荒い息をし始めた佳純の胸が上下しているのが見えた。
欲しい
欲しい
アルファの匂いがする
欲しい
この男が
欲しい
「はやく……俺を食べて」
いつも何をするにも、たおやかで美しい人。
そんな人が別人のように強い力で俺の腕を掴んだ。
黄色みがかった薄茶色の瞳の奥が真っ赤に燃え上がったように見えた。
熱情に揺れる視界に、チラリと覗いた佳純の口の中に、キラリと光る尖った歯が見えた。
まるで獣のようだ。
そして大きく開いた瞳孔に映った俺は、佳純を欲して熱に浮かされた顔をしていた。
次の瞬間、覆いかぶさってきた佳純が俺の唇に喰らいついてきた。
わずかな恐怖すら感じない。
唇の感触と舌ごと飲み込まれるような快感。
これが欲しかったのだと手を伸ばした俺は、佳純の頭にしがみついた。
もっと、もっとだと、獣と化した欲望ごと抱きしめた。
□□□
早朝、賑やかな声が聞こえてきて、ちょうど部屋を出た俺は玄関の方へ向かった。
「参ったよ。国道の方は崩れちゃって、当分通れそうにないな。ハウスは無事だったから、食べられそうなものを持ってきた」
「いつも助かります。こんな時にまで、ありがとうございます」
藤野の声と、もう一人は初めて聞く声だった。
大きな声量でハッキリとした発音は、聞いているだけで元気が出そうな明るい声だった。
「いいって、佳純とは長い付き合いだし。また持ってくるから……って、あれ? お客さん?」
興味が湧いて少し覗いてみようと思っただけだったのだが、顔を覗かせたら訪問者とバッチリと目が合ってしまった。
「ああ、おはようございます、白奥様。この方は、佳純様のご友人で、地元で農業をされている椎崎様です。毎日野菜を届けてくれていまして、今日もたくさんいただいたところです」
俺が来たことに気がついた藤野が、訪問者を紹介してくれた。
玄関に立っていた椎崎という男は、まるでスポーツ選手のような日に焼けた逞しい体をしていた。
パンパンに張って筋肉が盛り上がった腕で大きな段ボールを抱えていたが、それをゆっくりと下ろして俺のことを見てきた。
「お邪魔してしまいすみません。白奥諒と申します。仕事の関係でこちらに来たのですが、天候が悪くなってしまい、しばらくお世話になっています」
椎崎は精悍な男らしい顔つきをしていて迫力があった。ギロッと睨まれるように見られたら、俺の何か気に障ったのかとちょっと恐くなってしまった。
しかもドカドカと俺に近づいてきて、高い位置から見下ろしてきたので、もっと恐くなった。
怒られそうな勢いだったのに、椎崎は白い歯を見せてニカっと子供のような顔で笑った。
「うわぁ……、男? だよな? 男で綺麗な顔って佳純が一番強烈だったけど、これまた……キレーで可愛い? アンタはまた、違う感じて日本美人って感じだな」
近寄ってきた椎崎は、まるで野菜の品評でもするかのように俺の顔を遠慮なくペタペタと触って、すげーすげーと言ってきた。
「あ……あの……椎崎さん、ちょっと」
「おっとっ、悪いなっ。形の良いものを見るとつい触りたくなるんだ。俺は篤史って名前で、佳純とは幼馴染だ。君塚家の土地を借りて適当に野菜を作ってる。よろしくな可愛い子ちゃん」
椎崎は俺の手を勝手に掴んで、ブンブン振りながら握手をしてきた。こんな距離の近い人に初めて会った俺は、どう対応していいか分からずに完全に固まってしまった。
「篤史っ! このバカ。勝手に諒さんに触れるなんて!」
そこで庭の方から声が聞こえたので見てみると、掃除をしていたのか、着物ではなく動きやすそうなラフな格好の佳純がいた。
長手袋を慌てた様子で外していると思ったら、そのまま勢いよく玄関に向かって走ってきた。
「初対面で何をベタベタ触っているんですか! 失礼にも程があります! ほら、手を離して、諒さん? 大丈夫ですか?」
佳純に怒られて、椎崎はへいへいと言いながら俺の手を離した。
代わりにムッとした顔の佳純が、俺の手を掴んで声をかけてきた。
「だ……大丈夫です。ちょっと、ビックリしちゃって……」
「まったく! 篤史が馴れ馴れしいから、怯えているじゃないですか。諒さん、これは悪い人間ではないですけど、初対面の気遣いというネジが一本外れているんです」
「そーなの。ごめんね、諒ちゃん。ところで、ここにしばらくいるなら、食事に行かない? 良い店知ってるけど」
「アホ! さっさと帰れ。誰でも良いと思ったらすぐに誘うんだから!」
またもや距離感ゼロの勢いに圧倒されて、俺はよけいに反応できなくなって、そんな俺を佳純は庇うように自分の背中に隠した。
「なんだよー、佳純ぃ。お前が一番だって」
「気色悪いことを言わないでください! 野菜はありがたく頂戴します。ではどうぞお帰りを」
佳純は椎崎の背中をぐいぐい押して玄関から押し出した。椎崎はやめて、ひどいーと言いながら楽しそうに笑っていた。
幼馴染と言っていたが、この光景だけ見たらすぐに二人の仲の良さが分かってしまった。
しかも、椎崎は大きな手で佳純の頭をさりげなく撫でていた。ごく自然に慣れた様子だったので、これが普段から行われている行為であることは一目瞭然だった。
それを見たら胸がチクンと痛んでしまった。
アルファとオメガは番関係にもなれるし、一般的には相性が一番いいと言われている。
しかし佳純は、玲香がアルファであると知っていても、玲香と結婚することを望んでいた。
今はバース性にこだわりがない人が多いという。
つまり、アルファとオメガだけではなく、アルファ同士であったり、ベータだったり、性に縛られることなく、自由に恋愛を楽しむ世の中になっている。
つまり、俺がオメガであることは、ほとんどプラスではない。
しかもビジネスで考えたら、面倒な相手になることは間違いない。
椎崎がただの幼馴染だとしても、二人はすごくお似合いに見えてしまった。
俺は完璧な余所者で、ここには相応しくない存在に思えて仕方がなかった。
「諒ちゃんー。俺、ここにはよく顔を出すから、次は自慢の野菜を持ってくるよ。食べてねー」
暗くなっていくこっちの気持ちとは正反対のカラッとした明るい声で、椎崎は俺の名前を呼んで手を振ってきた。
彼は佳純の友人なので悪く思われないように笑顔を作って頭を下げた。
地面を見ながらやはりそうだと胸を押さえた。
佳純という、同じ人間とは思えないくらい美しくて魅力のある人に、俺はすでに翻弄され始めている。
ビジネスだと言って、圧倒的に不利な結婚条件を自ら宣言してまで佳純との縁を繋げたいのは、家と家だけの問題ではない。
まだ出会ったばかりなのに、吸い寄せられるように全身で惹かれているのが分かる。
恋なんてろくにしたことがなかったのに、これはきっとそうに違いないと思うところまできている気がした。
佳純の笑顔に触れたい。
目を閉じるとそんな思いが溢れてきて、慌てて手で顔を覆った。
「あれっ、なんか甘い匂いがする」
玄関に横付けしていた軽トラに乗り込もうとした椎崎が、鼻をクンクン鳴らしながら周りを見渡していた。
雨上がりの花の匂いか何かだろうと思っていたが、サッと動いたのは佳純だった。
椎崎を運転席に押し込んで、早く行けとバンバンドアを叩いたので、椎崎は仕方ないなという顔で発車して、なだらかな坂道をゆっくり降りていった。
俺はその光景をのんびり眺めていたのだが、小走りで戻ってきた佳純に腕を掴まれた。
「……ああ、やっぱりそうだ。篤史は嗅覚が犬並みにいいので先に気がついたみたいですね」
「え?」
「とにかく、部屋に戻りましょう」
なんの話だろうと思っていたが、腕を掴まれた状態でズルズルと引っ張られて、客室まで連れ戻されることになった。
玄関にいた秘書の藤野にはしばらく近寄らないようにと声をかけて、廊下を進んで客室に入ると佳純はガチャリと内鍵を掛けた
「藤野はベータなので、まだ気がつかないと思いますが、近くに来たら私にも分かりました。諒さん、発情期に入ったのではないですか?」
「えっ……まさか、だって……つい先月終わって……」
今まで周期が乱れたことなどない。
朝の分の抑制剤も飲んでいるから、そんなはずはないと思った。
だが、佳純に指摘されたら、というか佳純が近くにいると意識すると、どんどん体の熱が上がってくるのを感じた。
「う……嘘、どうして……」
「遺伝子的に相性のいいアルファが近くにいると、周期とは別に発情してしまうというのを聞いたことがあります。可能性としては私か、篤史もアルファですからどちらかだと思います」
「す……すみません、俺………ご迷惑を……。今すぐ、発情期用の強めの抑制剤を飲むので……」
すでに体の芯から焼けるような熱を感じる。呼吸も荒くなってきて吐く息も熱を持ち始めた。
自分の鞄を開けた俺は、中から緊急用の箱を取り出した。
普段飲んでいるゾーンワンは軽いものなので、それより強いゾーンファイブという、発情期に飲むように処方された薬を取り出した。
「すみません、おそらく、一日か二日は意識が朦朧としてしまいますが、そこを過ぎれば良くなるので」
枕元に置いていた水のペットボトルを手に取って、薬を開けようとしていたら、その手をぱっと止められてしまった。
「待ってください。体に合わない薬を飲んで、諒さんが苦しんでいるところを見たくありません」
「で……でも」
こんな時まで優しさを発揮しなくてもいい。
辛いには辛いが、それも慣れてしまったし、今はそれしか方法がないのだ。
「君塚さん。だんだん……意識がぼやけて……理性が保てなくなります。貴方がここにいたら……」
「無理に薬を飲むより、医師から勧められた方法を試してみるのはどうですか? ここにはアルファの私がいるのですから」
「えっ………」
「ご提案いただいたビジネスとして婚姻関係を結ぶというものですが、やはり私にはそれは無理です」
こんな状況で佳純は俺のビジネスプロポーズを断ってきた。何とか気を確かにして保っている状態なのに、ガックリときて床に崩れ落ちた。
「どうして……今……」
「違うんです! そうじゃなくて、私にはビジネスとしての関係が無理ということで……、つまり、ちゃんと夫婦になりたいということなんです」
佳純は床に崩れた俺の横に膝をついてきて、手を握ってしっかりと目を合わせてきた。
「玲香さんのことがあるのに、こんなに早く心変わりなのかと言われてしまうかもしれませんが、正直言いますと、諒さんに惹かれています」
「えっ」
「最初は見た目が記憶の中の玲香さんが育ったようにそっくりだったから、気になっているだけだと思いました。でも……貴方の笑顔を見る度に胸がくすぐられて、辛い顔をしていたら私も苦しくなります。今朝はやっぱりこんな話はやめましょうと、貴方が言ってくるところを夢に見て、嫌だと手を伸ばして飛び起きました。ここで貴方の手を離したら後悔する、そうとしか思えないのです」
解放されたいと暴れ出した発情の熱。
理性と本能の狭間で、俺は感情的になってポロポロと泣いてしまった。
「諒さん! 大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「……うれし……、……から……」
「え………?」
「同じ気持ち……だから、嬉しくて……」
「諒さん……」
お互い芽生えたばかりの気持ちなのに、いきなり扉を開けるのが正解だとは思えない。
発情期の自分はひどく乱れて自分でも恐ろしいものだとしか思えなかった。
自分を見せることに葛藤があったが、そんな思いも徐々に支配していく熱に溶かされて消えていった。
オメガの催淫フェロモンは、アルファを強制的に発情させる。
佳純は俺の頬に手を伸ばしてきて、ゆっくりと撫でてきたが、その手は小刻みに震えていた。
彼の中で何かを堪えるように震えているのだとしたら、それを俺が解放してあげたかった。
見つめ合ったまま、頬にある佳純の手の上に、自分の手を重ねた。
ぱかりと口を開けてから舌を伸ばして、口元に添えられていた佳純の親指をぺろりと舐めた。
「………!!」
佳純の手がびくりと揺れて、息を吸い込んだのが分かった。
そして、はーはーと荒い息をし始めた佳純の胸が上下しているのが見えた。
欲しい
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アルファの匂いがする
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この男が
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「はやく……俺を食べて」
いつも何をするにも、たおやかで美しい人。
そんな人が別人のように強い力で俺の腕を掴んだ。
黄色みがかった薄茶色の瞳の奥が真っ赤に燃え上がったように見えた。
熱情に揺れる視界に、チラリと覗いた佳純の口の中に、キラリと光る尖った歯が見えた。
まるで獣のようだ。
そして大きく開いた瞳孔に映った俺は、佳純を欲して熱に浮かされた顔をしていた。
次の瞬間、覆いかぶさってきた佳純が俺の唇に喰らいついてきた。
わずかな恐怖すら感じない。
唇の感触と舌ごと飲み込まれるような快感。
これが欲しかったのだと手を伸ばした俺は、佳純の頭にしがみついた。
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