モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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4章「臆病だね、君は」

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 興味本位で尋ねると、ユイ先輩は顎に指を添えて虚空を見つめた。
 それからわずかに「んん」と唸り、ゆらゆらと視線を泳がせる。

「……そう言われると、明確に考えたことないかも。なんとなく避けがち。たぶん、鉛筆で生命力を表現するのはあまり向いてないんだよ」

「ああ、なるほど。感覚的なものだけどわかる気がします。瑞々しさというか、こう内から湧き上がってくる命の煌めきみたいなものですね」

「うん。あくまで形取っただけのスケッチみたいなのはべつなんだけど、俺が描くと、過不足になるというか……どこかで描いちゃいけないかなって思ってる」

 先輩は思案気に「たぶんね」と独り言のようにつぶやく。

「描いちゃいけない……?」

 どういう意味だろう。
 さすがに汲み取れなくて繰り返した私に、ユイ先輩は少し困ったような顔をした。
 視線を三点ほど空中で動かしながら、「ええと」と頬を掻く。

「そもそも、俺が色を使わずに絵を描くのは、俺自身がそう見えてるからでさ」

「見えてる……色がない、てことですか?」

「こういう色って認識はしてるよ。それを写実的に描き起こすのは容易いし、たぶんできるんだけど、それは俺の描きたい絵じゃないし。まあ、昔は──幼い頃は、俺も色を持った絵を描いてたんだけどね」

 え、と。私は思わず瞠目して立ち止まった。
 ユイ先輩が色のある絵を描いていたことがあるなんて、聞いたことがない。少なくとも五年前、先輩が中一だった頃には、すでにモノクロ絵を描いていたはずだ。
 つまりそれ以前、ということだろうか。

「──……俺ね。中学に上がる前に、母を亡くしたんだ」

「……っ」

 ユイ先輩は立ち止まった私の手を引いて、歩くよう促しながら続ける。
 ちょうど深海魚エリアに到達したところだった。
 海の奥深く、人の手が及ばない場所で生きている海洋生物たちに配慮してか、いっそう照明が暗い。それがなおのこと、ユイ先輩の発言を縁取って動揺を誘う。

「それから、色味のある絵を描けなくなった。なにひとつ」

「……お母さまの、ショックですか?」

「どうなんだろう。正直よくわからないけど……うん。でも、そうなのかもね」

 ユイ先輩は、ふっと自嘲気味に息を吐いて、水槽に目を遣る。

「うちは家系的に好きなことをできる雰囲気ではなくて。父も、長男も、いまだにいい顔はしてないんだ。そんななか、母は俺が絵を描くことを唯一応援してくれていた人だったから。肯定してくれる人がいなくなったのは、大きいかな」

 たしか春永家は、由緒正しい華道のお家元だと聞いたことがある。
 ユイ先輩が華道をやっているところは一度も見たことがないし、花を生けているイメージもないけれど、そうか。裏側では、そんな家の問題を抱えていたのか。

「まあ、だからね。今の俺って、ただのでき損ないなんだよ」

「っ、そんなこと」

「あるよ。モノクロ画家、なんて言われてるけど、実際はそうじゃない。俺の世界は黒でも白でもなく、いつも灰色で。それしか描けないだけだから」

 淡々と言葉を紡ぐ先輩は、不思議なほど落ち着き払っているように見えた。
 悲しい話なのに、こちらにまったくそう感じさせない。それはきっと、先輩自身がその悲しさを自覚していないからだ、と私はひそやかに息を呑む。

「でもね、俺はこの灰色の世界、わりと嫌いじゃないんだ」

 自分の前髪をちょんと指先で摘んで、ユイ先輩は肩をすくめた。

「この髪も、本当はずっとこの色にしたかった。俺の見えている世界に、俺自身が浮かないように。まあ、中学のときは頭髪制限があって染められなかったんだけど」

 そのとき、ちらりと視界に飛び込んできたチョウチンアンコウ。ぎょろりとした目と視線がかち合って、思わずビクッとしてしまう。 
 私と手を繋ぎながらも一歩ほど前を歩く先輩には、幸いにも気づかれていないようだった。美しい緩急を描く横顔からは、むしろなんの感情も読み取れない。

「実際、そうして廻る世界が俺には嵌まるんだと思う。俺が画家として評価されるようになったのって、皮肉にもモノクロの世界を描き始めてからだし」

「っ……」

「それまでは、少し上手い程度で誰からも意識されなかったのに。本当、この世って結構むごいよね。ときどき、馬鹿らしく思えるよ」

 脳裏に、一枚の絵が過ぎる。
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